浦上伸介は、早起きして『ニュー宇和島ホテル』をチェックアウト。朝食は宇和島駅で買った六百二十円の闘牛弁当で済ませ、九時二十六分着のL特急�いしづち6号�で、松山へ引き返してきた。
松山も宇和島同様よく晴れていたが、日差しはすでに秋のものだった。しのぎ易いのは、風が出ているせいでもあろうか。
浦上はタクシーを飛ばして、松山港に近い南署へ入った。
設置された直後の捜査本部への出入りなんてものは、記者クラブ所属の新聞記者でなければ、まず、絶対に不可能だが、いまは立場が違う。
一階の受付に『週刊広場』特派記者の名刺を差し出すと、三階の捜査本部に直通電話がかけられ、すぐに、矢島部長刑事のごっつい顔が、小走りに、左手奥の階段を下りてきた。
三階の大会議室では、朝の捜査会議が終わったところだった。
浦上はいったん、その捜査本部に通されたが、
「ここでは落ち着かないだろう」
という署長の指示で、一階の署長室へ移った。
署長室へは刑事課長が同行し、矢島部長刑事と、矢島とコンビを組む若い刑事も後につづいた。
部屋の正面に、瀬戸内海の大きい風景写真が飾られてあった。
四人は中央の応接セットに、腰を下ろした。低いテーブルを挟んで、浦上の前のソファには刑事課長と矢島が座り、若い刑事は浦上の横で、記録を取るための、ボールペンを持った。
殺風景な取調室でこそないが、調書を取られているのと同じことだった。浦上は嫌な気がしたけれど、仕様がない。
女子職員がお茶を運んできたところで、矢島部長刑事が質問の口火を切った。
「最初にもう一度尋ねるが、あんたは本当に、高橋美津枝さんという被害者を知らないのかね」
昨日とは違って、物腰が柔らかくなっているのは、淡路警部が仲に立ってくれたせいだろう。
矢島は横浜へ出張した捜査員の、『伊東建設』での昨夜の聞き込み結果を、先に言った。
「何ですって? ぼくはそんな建設会社など電話をかけたこともなければ、聞いたこともありません」
浦上は強く否定して、一点を見た。本当にその電話の男は「浦上」と名乗り、週刊誌と言ったのか。
「電話を受けた女子社員が、うそをついているとは思えません」
と、矢島はつづけた。
「まったく関係のない同僚が、そんなことでうそをつく必要もないでしょう」
「すると、男の声で電話があったのも事実で、男が浦上とこたえたのも事実ですか」
浦上は顔を上げた。
男は、一度渋ってから「浦上」の名前を口に出したというが、言い渋ったのは、計算してのことだったろう。
素直にこたえるよりも、一度言いよどむほうが印象付けられるし、「浦上」にリアリティーを与えることにもなる。
もう間違いない。
「昨日、突然指紋など採られたときは、まだしも、一方にまさかという気持ちがありました。しかし、これは明らかに罠ですね。だれかが、意図的に、ぼくを殺人犯に仕立てようとしているのに違いありません」
と、浦上が語気を強めると、
「昨夜、宇和島でも言いましたが、それはあんたを信用すればの話です」
矢島はそう言いかけてことばを切り、
「あんたを信用するためには、犯人を指摘してもらわなければならないでしょうな」
と、浦上を見た。
「そう、これほど手が込んだことをする相手なら、必ず、心当たりがあるはずです」
と、刑事課長もことばを重ねた。
浦上にしたって、事態を客観視すれば、そいつがだれなのか、見当がつかなければおかしいと考える。だが、どうしても、思い浮かばないのだ。
浦上は、またある一点を見詰めた。
人間、三十二年も生きていれば、自分ではそれと気付かないままに、人の恨みを買っていることもあるだろう。
しかし、だったら直接仕返ししてきたらどうなのか。
刑事課長の言ではないが、なぜ、これほど手が込んだことをするのか。浦上は、自分の中でそうつぶやきかけて、ふと気付いた。
(これは、こっちの取材スケジュールに犯行を合わせることだけが、目的だったのかもしれないぞ)
浦上の、脳裏をかすめたのが、それだった。ともあれ別人が実行犯として逮捕されてしまえば、真犯人《ほんぼし》は安泰である。
真犯人《ほんぼし》の意図がそこにあり、怨恨とか復讐などの線が皆無だったとしたら、これは、浦上に心当たりがないのは当然だ。
そして、事実がそのとおりなら、動機などの面で確たるつながりを持たない一人のXを抽出するのは、容易なことではないだろう。
ルポライターという職業上、浦上は数多くの人間に接している。交換した名刺だって、千枚ではきかないはずだ。
浦上がその思い付きを口にし、
「もしかしたら、ぼくは交通事故に遇ったようなものかもしれません」
と、刑事課長と矢島に目を向けると、
「浦上さん、あんた、松山にお知り合いはいませんか」
と、矢島が口調を改めた。
矢島が遠回しに触れたのは、千舟町のスーパーで、凶器となる特価品のベルトを買った男のことだった。
「ぼくと同じくらいの背格好で、四十前後。高級なスーツを着ている男ですか」
浦上は矢島の質問をオウム返しにつぶやいて、首をひねった。
そんな男に心当たりなどないし、第一、松山に知人は一人もいない。
「その高級スーツの男を、捜査本部でマークしているのですか」
「いまのところは、何とも言えません。いずれ、淡路警部には連絡することになるでしょう。その折、警部から聞いていただきましょうか」
と、これは刑事課長がこたえた。
そして、
「飽くまでも任意ですがね」
と、断わられた上ではあるが、浦上は身上を調査された。
これまた、拒否するわけにはいかなかった。浦上は、一つ一つ質問にこたえた。
「ほう、すると浦上さん、あんたは結婚もしていなければ、親兄弟もいない。失礼だが、天涯孤独、ということですか」
刑事課長は、若い刑事が書き出したメモを確認して、声を低くした。
質疑はさらにつづき、浦上も取材帳を手にして質問をぶつけてみたが、目下のところ、ポイントは、二人のOLによって目撃されたブルゾンの男に尽きるようである。
(ぼくの質疑にこれだけ時間をかけるようでは、捜査は進展していないな)
それが、浦上のルポライターとしての実感だった。
「浦上さん、これからどうします? 城下町の取材は中止されたそうですから、いったん東京へ帰りますか」
「そうなるでしょうね」
「分かりました。では、いつでも連絡がつくよう、所在をはっきりさせておいてください」
刑事課長は、その点を強く注意した。それが、浦上を拘束しない条件でもあった。