しかし、これから伝える話がヒントになって、実は本書の執筆を思いついた。つまり相撲の話が、この企画の引き金になったといっていい。
私は先ごろ、東京・杉並区成田東3丁目にある二子山部屋を訪れた。二子山親方(元横綱若乃花幹士・当時花籠部屋)から「あなたは身長1メートル79、体重105キロしかなかったのに、なぜ上手投げがあれほど決まったのか」、その極意を取材するためである。
以下、二子山親方の話をまとめ、物語風に書くと次のようになる。
昭和28年初場所2日目、当時24歳10カ月、西前頭3枚目の若乃花(ただし、この時点では若ノ花)は、東横綱千代の山雅信(出羽海部屋)と顔を合わせた。立ち合い右四つから10数秒間、押し合いがあったのち、若乃花の相撲人生にとって忘れられないできごとが起きた。
若乃花は自分でも意識しないうち、右下手で千代の山の上体をゆり起こした次の瞬間、右足を思い切り引くと左上手からひねりつぶすような投げを打った。すると身長1メートル90、体重122キロの千代の山がマゲに砂をつけて横転していた。
「勝った瞬間、右からの起こし、足の引きぐあい、上手のひねりざま、上手投げのコツはこれなんだ、と、尾てい骨から脳天に向かって、ずしーんと電流みたいにしびれるものがあったな」(二子山親方)
二子山親方の話はホラばなしではない。ここにその証明材料がある。
千代の山に勝ってから4日後の6日目。若乃花は西横綱東富士謹一(高砂部屋)とぶつかると、“上手投げ開眼”した彼は、身長1メートル79、体重178キロの東富士を、こんどは右上手投げで投げとばした。その体重73キロ差の相手を右上手投げで横転させた。
翌7日目、若乃花は西大関吉葉山潤之輔(高島部屋)をまたまた右上手投げで土俵下に落とすと、8日目、西張出横綱羽黒山政司(立浪部屋)を右上手投げで、背中いっぱいに砂をつけた。
かくて若乃花はこの場所が終わってみたら8勝7敗。しかも3横綱1大関を上手投げでやっつけていた。
若乃花は昭和37年夏場所直前の5月1日、現役引退したのだが、彼が“上手投げ開眼”してから現役引退までの勝ち星は474勝(170敗)。その474勝のうち、上手投げによる勝ちは88勝。なんと相撲協会発表のきまり手70手中、上手投げの勝率18・6%であった。
「男の半生を振り返るとね。あのとき、あの男に勝った、あの一番がおれの人生を変えたなあ——というのがあるんだ。私の相撲を変えたのは千代の山関だったなあ」(二子山親方)