ウルムチ(烏魯木斉)について記さなければならぬことはたくさんあるが、こんどの新疆ウイグル自治区の旅では、ウルムチが拠点になっており、伊寧(イーニン)、トルファン(吐魯番)、ホータン(和田)、どこを訪ねても、その都度ウルムチに帰って来ることになっているので、ウルムチに関する報告は急がないで後廻しにしておく方がよさそうである。
八月十七日、イリ(伊犁)地区の中心都邑で、国境の町である伊寧に向う日である。鞄は一個、身軽な旅装にする。迎賓館の部屋は、こんどの旅行中借り放しにできるということなので、他の荷物は全部部屋に遺しておくことにする。
七時五十分に迎賓館を出て、空港に向う。太陽がのぼりかけている。ウルムチ時間では五時五十分であるから、陽ののぼる時刻なのである。昨夜半、小雨があったためか、多少涼しくなっている。しかし、訊いてみると、早朝なのに二十七度、空気が乾燥しているので涼しく感じられるのであろう。
九時離陸。予定飛行時間は一時間十五分。ウルムチから伊寧にバスで行くと二日かかり、自動車を使っても一日では行けないそうである。どこかで天山の支脈を越えなければならないが、その点、飛行機は有難い。
離陸と同時に、機は大耕地の上に出る。ポプラに囲まれた田圃《たんぼ》が何十枚も竝んでおり、ポプラの列は、耕地を縫っている刺繍糸のように見える。やがて、そのみごとな大耕地の向うに漠地が次第に拡がって来る。暫くの間、半沙漠半耕地地帯が続く。集落点々、かなり大きな集落も見えている。耕地が荒蕪地にばら撒かれているのを機上から見ると、緑の短冊が褐色の渋紙の上に、べたべた貼りつけられているかのように見える。やがて、そうした地帯を大きく取り巻くように砂丘があちこちに現れて来、本格的な沙漠地帯になる。しかし、その沙漠地帯にも、ところどころに緑の短冊が見える。ああ、沙漠に緑の短冊を貼る人たちよ、そんな感慨を持つ。沙漠と人間が死闘を繰り返しているのが、上から見ると、はっきり判る。
今日は、この前の北京─ウルムチ間とは異って、機は大体、半沙漠半耕地の上を飛んでいる。九時三十分、かなり大きい湖が現れて来るが、ガスのために景観は不分明、白い雲がしきりに流れている。九時五十分、いつか大沙漠となるが、水溜りの大きいようなのが幾つかあり、その縁には必ず緑の小集落が見えている。自然と人間との闘いは到るところに行われているのである。
十時に、左手の窓から、すぐそこに雪を頂いた山脈の連なりが見えてくる。天山山脈指呼のうちにある感じで、壮大な景観と言う他ない。この辺りの沙漠は大きく罅《ひび》割れていて、いろいろな模様を見せている。蹄《ひづめ》型の紋様もあれば、樹枝状の紋様もある。
やがて反対側の窓からも、前方遠くに雪の山脈が見えてくる。天山の支脈なのであろう。機は次第にその山脈に近付いて行き、その前山の一つを越え始める。赤褐色の岩山で、同じような山が幾つも重なり合っている。山肌には多少樹木が生えており、渓谷となると、すっかり樹木で埋まっている。雨に恵まれているイリ地区に入ったのであろう。山野は多少その趣を変えている。
こうした山塊地帯の上を、機は飛び続ける。渓谷に点々と集落のあるのが見える。遊牧民の定着地であろうか。そしてその附近に放牧地らしいところも見えている。そのうちに山塊は次第に低くなり、漸くにして、長く続いた山塊地帯が終ると、イリ大平野が現れてくる。集落はたっぷりと緑に包まれ、見渡す限りの大耕地が拡がっている。
十時二十五分、夏草の茂っている伊寧空港に着陸。空港の出迎えには漢族、回族、ウイグル、カザフ、いろいろな民族の人が混じっている。すぐイリ地区革命委員会の招待所に向う。カナセという青い花、林檎《りんご》の実、涼しい風、白壁の土屋、ポプラの竝木、そうした郊外を走って、すぐ町中に入る。伊寧は静かで、のびやかな町である。空港から十分ほどで招待所に着く。
招待所の一室で、革命委員会の人たちとスケジュウルの打合せ。卓の上には葡萄、蟠桃《ばんとう》、水蜜、小さい林檎、それに紙タバコが出されている。夏の軽井沢の爽やかさである。十七度。
この町は海抜八〇〇メートル、年間降雨量三五〇─五〇〇ミリ、人口は都市周辺部をも併せて一八万。
伊寧はイリ地区の中心都邑であるが、イリ地区は北、東、南の三方を天山山脈に囲まれて、大きな盆地を形成しており、イリ河が盆地を流れ、その灌漑によって、土地は農業、牧畜に適しているが、未開墾地が多い。
イリ地区はソ連国境まで八〇─九〇キロ、一番近いところは十何キロ、従って伊寧は文字通りの中国の西辺、国境の町である。
イリ地区の人口は一三〇万、ウイグル、カザフが多く、この地域ではウイグル、カザフ、漢族の言葉が使われ、宗教は回教のほかに、仏教、ラマ教、ギリシャ正教も行われている。
この地帯は天山山脈の北麓に拡がっている盆地なので、歴史的に見ると、時代、時代によって、匈奴《きようど》、烏孫《うそん》、悦般《えつぱん》など北方遊牧民の根拠地になっており、突厥《とつけつ》時代、モンゴル帝国時代、共に都城が築かれていた。唐朝の弓月城、モンゴル時代のアルマリクなどは、現在の伊寧の前身ではないかと見られている。いずれにせよ、伊寧は天山北路の大集落であり、曾てはジュンガル盆地と西トルキスタン方面とを結ぶ軍事上の要地でもあり、商業都市でもあったのである。
招待所に於て与えられた部屋は、宮川寅雄氏と同室であるが、内部は三室に分れていて、なかなか贅沢に造られている。まん中の一室を挟んで、それぞれ一室ずつ使わせて貰うことにする。打合せのあと昼食、料理はどれにも羊の肉が入っているが、少しも苦にならない。
四時三十分、招待所を出て、製靴工場と絨毯工場の参観に出掛ける。伊寧の町はウルムチの町よりずっと小さいが、しかし近代的な感じである。おそらく最近一応町の近代化ができたのであろうと思われる。表通りは清潔できれいである。裏町に入ると、やはり白壁の土屋が竝んで、雑然としているが、ウルムチと異るところは、くるまを停めると、路傍の大人も、子供も、みな拍手してくれることである。歓迎の仕方はごく自然である。それだけ外国人を見る機会が少いのであろう。
ウルムチの街路樹は殆どポプラだけと言ってよく、たまにベラという木が混じっているが、伊寧に於てはポプラと、楡《にれ》に似た木が半々である。楡に似た木は、楡ではなくて、桑と楡の合の子だという。だからこの木は楊観楡と名付けられているそうである。楡に似た楊というわけである。ポプラの方は、ウルムチで見た例の上にどこまでも真直ぐにのびる新疆特産のポプラ、新疆楊である。
朝は爽やかであったが、日中はかなり暑い。やはり三十度前後になっているだろうと思われる。
製靴工場は主任、副主任共にウイグル族、働いている人は三二一人、そのうち二六四人をウイグル、ウズベク等五少数民族が占めている。言うまでもないが、少数民族に必要な靴の製造に当っており、製品はなかなかしゃれたものである。
絨毯工場の方は、一五〇人ほど、ここは全員を五つの少数民族に属する人たちが占めており、スカーフ、絨毯などが造られ、模様の美しさにも眼を見張るが、値段の廉《やす》さに驚く。大きな絨毯が日本の金に換算すると一万円ほどである。
夜、宿舎の招待所の広間で、革命委員会主任の謝高忠氏主催の歓迎宴会が開かれ、それに出席、宴会終了後、イリ劇院に於けるイリ地区文工団の公演に招かれたが、私と宮川氏は欠席して、その時間を、やがて数日後に訪れることになっているトルファン地区のいくつかの遺跡の下調べに当てることにする。
一時、就寝。夜は涼しいので眠りは安らかである。
八月十八日、今日は中ソ国境近くの山中にあるセリム湖行きの日である。湖畔の遊牧民の生活を参観するのが目的であるが、北京で何回もセリム湖という湖の美しさについて聞かされているので、どのようなところか関心がないわけではない。
九時、招待所を出発。町の街路樹の根もとには水路が造られてあり、たっぷりと水が流されている。イリ河の支流のハシ河のダムから引いている水であるという。イリ河の方は盆地の低地を流れているので、このような水の使い方はできないそうである。
気持よく空は晴れ渡っている。町の一画を横切って、すぐ郊外に出る。セリム湖は海抜二二〇〇メートル、伊寧は六四二メートル、多少寒くなるかも知れないので、スウェーターを用意してある。伊寧から西北へ一二〇キロ、四時間ほどのドライブになる。
相変らずポプラの竝木、驢馬《ろば》の荷車、労務者を満載したトラック、牧草を満載した牛車、──そうした道を行く。初め前方に見えていた低い丘の連なりは、やがて右手に廻り、更に背後になる。その頃から大平原のドライブになる。一望のトウモロコシ畑が拡がっている。路傍には時折羊の群れ、豊かそうな人民公社、用水路、低い煉瓦の家。──中国とは思われぬ北欧風の風景である。
九時四十分、右手遠くに丘の連なりが見え、丘の肌は銀灰色、その裾に同色の集落が置かれている。丘はおそらく牧草地で、今は陽光の加減で銀灰色に見えているが、牧草地独特のやわらかい象の肌のような色を呈していることであろうと思う。丘も、それを載せている平原も牧草地なのであろう。実際に平原のその辺りには、羊の群れがあちこちに見えている。
九時五十分、国境の境界地帯に入る。多少高低ある地盤になり、駱駝草《らくだそう》が生え始める。境界地帯といった緊張したものは感じられず、ただひたすらのびやかな、荒蕪地の拡がりである。
やがて、くるまは舗装道路から逸れて、直角に左手に曲る。つまり今まで見て来た左手の大平原の中に入って行く。イリ将軍府の遺跡を見るためである。イリ将軍府というのは、清朝がこの地帯のジュンガル部の勢力を掃蕩《そうとう》したあと、天山南北両路に分駐する軍営を統轄するために置いた新疆の最高軍政長官の居た役所である。間もなく前方に門のような奇妙な建物が道を塞《ふさ》いでいるのを見る。近寄ってみると鼓楼《ころう》で、道はこの建物の両側を廻って、先きに延びている。
この建物はイリ条約のあと、一八九七年に建てられたもので、県城の中心部に位置し、イリ将軍が来た時、それをいち早く城内に報せる役割を持っていたという。ここが県城の中心部ということになると、この鼓楼の周辺一帯は城内ということになるが、城の建物は何もなくなっており、遠くに城壁の欠片が一つ、二つ、遺っているのを見るだけである。その城壁の欠片から推してみると、かなり大きい城の構えである。ここから南五キロのところをイリ河が流れているという。
鼓楼には四方に入口があり、その一つから入ると、隅の方に上に登る階段がついている。階段は旋回式につけられてあって、暗い中を注意して二十一段上ると、鼓楼の外側につけられてある回廊風のテラスに出られるようになっている。テラスには一面に石が敷きつめられているが、半分ほどは失くなっている。柱ももとは朱色に塗られてあって美しかったろうと思われるが、今は殆ど剥《は》げ落ちてしまっている。テラスから見ると、周囲は大平原である。東側に低い丘があるだけで、あとは一望の大平原の拡がりである。
写真は道路から撮すのは構わないが、鼓楼の建物に入ってからは禁止されている。国境地帯であるからであろう。清時代に四人の将軍がここに配されている。当時はウルムチまで将軍の管轄下にあったのであるから、将軍はたいへんな勢力を持っていたわけである。清末の政治家で対外強硬主義者であった林則徐《りんそくじよ》の左遷の地でもある。
自動車は再び舗装道路に戻って、一路セリム湖を目指す。右手遠くに天山支脈の雪の山が見え出す。大平原は殆どトウモロコシ畑で埋められている。麦畑もあるが、麦は七月中旬の刈入れの由。正面の雪の山脈を眺めながらのドライブは快適である。時々、路傍に現れてくる農家の庭のひまわりの黄が眼にしみるように美しく感じられる。
突然、道は降りとなり、やがてまた上るが、その瞬間に通り過ぎた低地に、天山を背景にした美しい村があった。ポプラ、ひまわり、静かな土屋のたたずまい、一瞬眼に入り、忽ちにして消えたが、その明け暮れが羨しく思われるような小集落であった。
雪の天山支脈は前方をすっかり塞ぐほど長く連なっている。頂きは全部雪で覆われている。ところどころにホップの畑がある。濃い緑の畑である。国境に近いためか、軍のトラックの往来頻りである。
清河人民公社という大きな集落で、道は直角に右に曲る。ここからソ連国境まで十何キロの由。道はやたらに折れ曲り始める。いつか雪の天山支脈はすっかり左手に廻っている。
十一時、前方から左手にかけて、ぐるりと天山山脈に取り囲まれている。ここまで来ると、ひと口に天山山脈と言っても、幾つかの山系の重なり合いであるのが判る。依然として大平原は美しく、ゆるやかな地盤の波立ち、トウモロコシ畑、集落点々、ポプラの葉のきらめき、駱駝草、白い土屋。前の山脈が近付いてくる。左手の雪をかぶった一番遠い山はソ連領。
十一時十分、周辺は牧草地帯になってくる。やがてくるまは前の山に突き当り、その渓谷に入って行く。この渓谷は果子溝と称《よ》ばれているという。自然の果物がみのる渓谷という意味らしい。この谷間《たにあい》に入ると、周囲の様相は一変する。くるまは渓流に沿った山裾の道を走って行く。前方には岩山が幾つも重なっている。落石の多い地帯が続く。やがて谷は広くなり、流れは美しく陽に輝いている。河原には大きな落石がごろごろしている。
時々、流れの近くに小集落があるのが見える。道はアップ・ダウン烈しくなり、岩山の岩は赤くなる。
十一時三十分、道は流れの右になる。谷は広くなったり、狭くなったり、ずっと落石地帯が続いている。果子溝に入ってから一木なき岩山が多いが、しかし、山全体が樹木で覆われている山もないわけではない。樹木は申し合せたように雲杉と呼ばれている木ばかりである。雲杉の山、雲杉の谷が岩山地帯のところどころに置かれている。雲杉は新疆松とも言われるという。
道は曲りくねっている。流れの岸には楊樹、雲杉、白樺などがあり、時々、路傍に包《パオ》を見掛ける。テント型の包であるところから、そこに定住しているものでないことが判る。どこかへの移動の途中、一夜を明かすために包を張ったのであろう。包の廻りには必ず二、三人の子供が立っている。
くるまは相変らず岩山の裾を折れ曲りながら走り続けている。白い土屋と馬二頭、包と犬、大落石、驢馬と子供二人、そんな点景を背後に飛ばしながら走り続ける。
十一時五十分、四辺の岩山は次第に草を着け始める。草は青さを失っていて、象の肌のような色をしている。十二時、道は少し上りになる。川を右手にしたり、左手にしたりしながら、次第に流れより高くなって行く。この頃から、道は山を巻き出す。谷は次第に深くなり、流れはずっと下の方になる、そのうちに道は、いつか対岸の岩山の頂きの高さになっている。やがて、道は隣りの山に移り、こんどはその中腹を巻き始め、ぐんぐん高処に上って行く。海抜一七〇〇メートルのところで休憩。
再びくるまは山の中腹を巻いて上って行く。高処へ、高処へと攀《よ》じ登って行く感じである。そして峠らしいところに達すると同時に、向う側に置かれてあるセリム湖の大きい湖面の一部が眼に人って来る。あっと声をたてたいほどの突然の出現の仕方である。
くるまは峠を降り始める。峠を降りて行くというより、湖畔の大放牧地に吸い込まれて行く感じである。包、点々、放牧の馬の群れも、遠く、近くに置かれている。方々に牧場の人たちが二、三十人ずつ集まっていて、拍手でくるまを迎えてくれる。そうした牧場地帯を過ぎて、くるまはなお暫く湖畔を走り続けて、湖畔の牧場としては一番奥にあるという果子溝牧場に向う。
何とも言えず気持のいい湖畔のドライブである。湖は周囲七〇キロ、深いところは八〇メートル、アルカリ性が強いため、魚は棲まず、飲料にもならぬが、湖面の美しさは格別である。広い湖面には濃紺の線条が何本も走っている。この線条は、時刻によって消えたり、現れたりするという。
対岸には頂きに雪を載せた幾つかの山が重なって見えており、その上に純白の雲が浮かんでいる。くるまの走っているところは、ゆるやかな斜面をなしていて、大放牧地を造っている。牧草は七月が一番青いそうであるが、八月の今は枯れかかって、青さを失っており、ここでは既に霜が降り始めているという。
セリム湖畔は四月から九月までの夏の放牧場で、十三の少数民族のすべてがここを使っている。私たちが訪ねようとしている果子溝牧場はカザフ族の牧場であるが、そこに着くまでに、充分湖畔の風光に堪能《たんのう》する。私の場合は、今までにこのように明るく爽やかな風光の中に身を置いたことはないと思う。何日も居たら倦《あ》きるかも知れないが、今ここを訪ねた許りの私には、放牧の馬の群れ、羊の群れ、湖畔を埋める大放牧場、点々と小さく見えている白い包、青い湖面、湖面の濃紺の線条、湖岸の雲杉の林、対岸の雪の山、白い雲、すべてが八月の陽光の下に光り輝いて見えた。
湖畔の広大な放牧地には、いろいろな名前を持った牧場が散らばっている筈であるが、別に境界の柵も見られないので、旅行者の私たちの眼には、単なる大放牧地の拡がりとしか見えぬ。
私たちは湖畔をドライブして、放牧地の一番奥にあるカザフ族の果子溝牧場を訪ね、そこに張ってある五つの包の中の一つに迎え入れられた。農工の場合は人民公社という称び方が使われているが、牧畜の場合は公社とは言わず、牧場という言葉が使われている。果子溝公社とは言わず、果子溝牧場と言っている。
ここは集団所有制の牧場で、カザフ、モンゴル、ウイグル、回族、キルギス、漢族の六民族、三八〇〇の人が働いていて、四万頭の羊、馬、牛を放牧しているというが、私たちが迎え入れられた包のある地点からは、さぞ壮《さか》んな眺めであろうと思われるその放牧の実況は眼にすることができない。遠く左手の湖畔に夥《おびただ》しい数の羊の群れが、小さい石でもばら撒いたように見えているだけである。羊の群れは、遠くからでは、その動きが判らないので、小さい石がばら撒かれているように固定して見える。
四万頭の羊、馬、牛の他に、この牧場は八〇〇〇畝の農地を持っていて、そこで飼料を作っているという。
包は、外観はさほど大きくはないが、内部はらくに二〇人の人を収められる広さを持っている。一面に絨毯が敷きつめられてあり、その上に布を敷いて食卓替りにし、料理や食器が竝べられ、客はそれを取り巻いて座を占めるようになっている。この包はこの牧場の接待所であるという。磚茶《たんちや》、何種類かのナン(麭)、バター、蜂蜜、西瓜、ハミ瓜、葡萄、そんなものが出されている。
霍城《かくじよう》県の革命委員会主任、牧場副主任といった人々が接待に当ってくれる。お茶をご馳走になったあと、大がかりな歓迎の催しものを見物するために、包を出て、くるまで、かなり離れた湖畔の一画に案内される。草原の上に敷物を敷いて、見物席が作られてある。私たちはそこに腰を降ろす。
とたんに警報が鳴り響き、それと同時に砂丘の蔭から民兵が出動してくるのが見える。その時はもう空にも異変が起っている。信号弾が打ち上げられ、空のあちこちに風船がばら撒かれている。どこかにひそんでいる射撃部隊によって、風船は一つ一つ撃ち落されてゆく。あちこちで地雷が爆発し、湖の中でも水雷の爆発によって、水煙りが高く上がっている。砲声が殷々《いんいん》ととどろく中を、風船は何回も空にばら撒かれ、それが一つ一つ撃ち落されてゆく。落下傘部隊を撃滅する訓練が行われているのである。のびやかな戦闘訓練でもあり、戦闘訓練ショーでもある。煙草を喫みながら、のんびりと湖畔に展開されているひどく明るいドラマを見物させて貰う。
これが終ると、こんどは、これもどこからともなく少年少女兵が現れて来て、私たちの前に一列に竝び、草原の中に伏し、射撃の手竝みを見せてくれる。あっという間に、遠いところに設けられてある標的のすべてが倒されてしまう。少年少女の中で、一番幼いのは六、七歳であろうか。私たちには区別できないが、カザフ、ウイグル、漢、回の四民族の子供たちであるという。
次はカザフ族の競馬。湖畔の平坦なところに一一〇〇メートルの円形馬場が造られてあり、二〇頭の出走馬が、それを五周する。馬場はもちろん仮に造ったもので、出走馬には老人も乗っていれば、娘さんも、内儀さんも乗っている。まさに湖畔の草競馬である。私たちを歓迎する催物ではあるが、それはそれとして、彼等は彼等で、底抜けに騒ぎ、楽しんでいる恰好である。
最後に、娘が若者を追い駈ける馬術競技が抜露される。一組の男女がスタート・ラインに竝ぶ。合図によって、男が先きに駈け出す。すると、すぐ女がそれを追う。女は片手で手綱をとり、片手で大きく頭上に鞭《むち》を振り廻している。男の方は相手を振りきって逃げればいいが、そうでないと女に追いつかれ、背後から鞭打たれ、帽子を飛ばされる破目になる。
これも見ていて楽しい。大抵女に追いつかれ、男の帽子は宙に舞い上がる。若い男女の求愛の馬術競技であろうが、これもまたセリム湖の広い湖面を背景にして見ていると、底抜けに明るくて、のびやかである。東山魁夷氏と私は、馬に乗せて貰う。大勢の男女がたかってくる。そうした男女の頭越しに、湖面が一層青く、一層広く見えている
歓迎競技を見終って、先刻の包に帰って、昼食をご馳走になる。最初に馬乳酒(カミイス)が出る。少々酸っぱいが、肉の脂肪を消すというので、ビール替りに飲む。酸っぱいビールと思えばいい。器は茶碗である。次にシャシリク(カワップ)が出る。この方はさすがに美味い。ピラフは人参が少し入っているだけで、肉は入っていない。他の料理の肉を自分で散らして、それを手で撮《つま》んで食べる。
カザフ族では、大切な客を迎えた時は、三、四カ月の羊を一匹殺して、まる焼にする。そしてその首の部分を客のところに持ってくる。客は耳のところを少々食べる。私たちの場合も、まさにそのようにしてくれたが、耳を撮むのだけは許して貰った。この儀式が終ると、ナレン(うどん)が出る。このうどんは、一匹の羊を煮たスープで味付けしたもので、これもまた手で撮んで食べる。
料理は大体に於て、手で撮んで食べる場合が多いが、しかし、現在は必ずしも手で撮まなければならないことはない。主人側も、客が箸を使えば、自分たちも箸を使い、客が手で撮めば、自分たちも手で撮むことにしているという。こうした宴席に出るのは男だけで、女は専ら料理方である。
料理をご馳走になりながら、いろいろな話を聞く。
この果子溝牧場は春夏秋冬で移動する。春と秋は山を降り、セリム湖畔を離れ、伊寧附近に包を張る。冬は伊寧附近が雪が深くなるので、いったんここに来て、その上で対岸の山の向うの雪の少いところに移動する。この場合、家族の者はトラックを使うので、一日か二日で移動できるが、家畜の方は大体十五日を必要とする。移動の場合の包の取り片付けも、反対に建てる時も、大体二時間ぐらい見ておけばいい。
包の壁の役目をしている羊毛布(キギズイ)は大体百年ぐらい保《も》つが、包の外側をすっぽり覆っているテントの方は五十年の生命である。羊毛布の造り方は、羊毛を敷いておいて、熱湯をかけ、その上にローラーをかける。すると、羊毛は固くなって、羊毛布ができ上がるという。
このセリム湖畔に包を張っている夏の間は、子供たちは峠附近にある小学校に通う。
勝手もとで料理方を受持っている一人の女性の家の収入を訊いてみる。七十歳の老母、夫、妻、十四歳を頭に五人の子供、──八人家族であるが、この家の一カ月の収入は九十五元、日本の金で一万三千五百円程である。三六〇頭の羊を受持っているが、別に個人の財産として羊六頭、乳牛四頭を持っている。
この美しいセリム湖を取り巻く山には、熊、豹、狼、鹿、羚羊《かもしか》などが棲んでいる。
こうした話を聞いているうちに三時半になる。湖面一面、青いインキで掃いたようになっており、対岸の山脈は薄藍色、こちら側の草地は薄緑、雲は依然として真綿の白さである。そのうちに包の外が騒がしくなる。包から出てみると、湖畔の一画で、音楽会と舞踊会が開かれている。私たちを歓迎する意味で開かれたものと思われるが、牧場の若い男女はすっかり夢中になって、歌ったり、踊ったりしている。それを、いつ集って来たのか、子供や大人たちが取り巻いて、これもまた歌ったり、手拍子をとったりしている。どうやら果子溝牧場はこの日、牧場を挙げて仕事を休んで、“音楽と体育の日”に切り替えてしまったようである。
包の中では、夕食の支度が始まっている。時計を見ると、いつか六時半になっている。ここの時計では四時半、漸くにして陽が西に傾いた感じである。湖面には青い線条が一本だけになって対岸に沿って奔《はし》っている。陽光はまだ強い。包から陽が輝いている湖面が見えている。落日と共に気温は落ちて、ひえるというが、それにはまだ多少の時間がある。今日の暖かさは特別で、昨日も一昨日も、日中でも寒かったそうである。私たちはそれぞれ寒さに対する備えをして来たが、それは全く不用だったということになる。
夕食が調えられたが、誰も料理の方に手を出す者はない。みんな一日の歓をつくした思いで、黙々として、西瓜の種を絨毯の上に落している。
七時半、包を出て、出発。帰途は三時間。その夜、伊寧の宿所に於て、寝台に入ると、セリム湖の湖面が瞼に浮かんで来、そしてあの湖面も、湖畔も、今頃はすっかり夜の闇に包まれているのかと思うと、異様な気がする。地球上で最も静かな一画は、セリム湖畔ではないかといった思いに打たれる。羊も眠り、馬も、牛も眠り、湖を取り巻く山々の熊も、狼も、鹿も、羚羊もみな眠っていることであろうと思う。