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私の西域紀行06

时间: 2019-05-23    进入日语论坛
核心提示:六 交河故城の落日 八月二十一日(前章の続き)、昼食後、葡萄棚の下でアプリーズ(阿不力孜)・トルファン県革命委員会副主任
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 六 交河故城の落日
 
 八月二十一日(前章の続き)、昼食後、葡萄棚の下でアプリーズ(阿不力孜)・トルファン県革命委員会副主任から、トルファン(吐魯番)県の概況について説明を聞く。卓の上には西瓜、葡萄、ハミ瓜などが出る。やたらに渇きを覚えるので、どれにも手が出る。葡萄と瓜を食べたあと、すぐ熱いお茶を飲むと下痢するからと、注意される。
 前回で記したように、トルファン盆地は四方山に囲まれ、南に傾き、南部低地は海面下一四七メートル、盆地の高処に位置するトルファンの町でも、海面とほぼ同じ高さである。トルファン県の年間降雨量は一六・六ミリ、年間水分蒸発量三〇〇〇ミリという異常な乾燥地帯で、中国で最も暑いところとされている。火州の異名も、こうしたところから生れている。午後二時の現在、戸外は四十四度、室内は三十三度である。どこを訪ねるにしても、今日は多少暑さの衰える四時頃から、行動を開始することにする。
 トルファン地区は気温高く、降雨量は少いが、その気温は農作物、園芸物の生長に適している。問題は水であるが、幸いに天山の雪解けの水のしみ込んだ地下水量は豊富で、カールジン(坎児井)の水は絶えることなく、年中湧いているし、この他に天山の雪解けの水を、直接、運河、用水路によって引いて使うこともできる。革命前は乾燥と水不足で苦しんでいたが、解放後は水利工事が重視され、七つの用水路、六〇〇余りのポンプ井戸、八つのダムが造られている。そのために灌漑面積は倍になっているという。水が農業の命脈であることを、トルファン県はよく証明していると言える。
 この地区には、もう一つ厄介なことがある。台風なみの大風が、毎年三十数回、吹き荒れるというから、これまた相当なものである。特に風の強い、この盆地のトッスン県は風庫と呼ばれているくらいである。この大風による被害を防ぐには、防風林を造ることしかない。現在トルファン県の防風林の長さは一三〇〇キロに達している。こうした地区に、人間が生きるということは、なかなかたいへんである。風雨時順の日本では想像できないことである。
 しかし、このトルファン盆地にも紀元前から人間が住みついている。天山東部のオアシス地帯であるということと、交通の要衝であるということで、往古から少数民族の定着地帯として知られていたのである。
 トルファン地区が、中国の史書(漢書・西域伝)に現れるのは、この地区を支配していた車師《しやし》前部という国としてである。当時、漢の初期には天山南部、タクラマカン周辺の地にはいわゆる“西域三十六国”があり、車師前部はその一つであり、交河城を都としていた。国と言っても、ごく初期段階のものであったに違いなく、少数民族の、多少まとまった定着地として考えた方がよさそうである。
 それはともかくとして、車師前部の地は、当時強大な勢力を持っていた北方の遊牧民匈奴が西域に南下する門戸に当っており、漢が西域経営に乗り出すや、当然なこととして、ここは両勢力争奪の地とならざるを得なかった。漢の西域経営が進むと、車師国はその勢力下に置かれ、西域都護府が設けられ、戊己校尉《ぼきこうい》が高昌壁に置かれた。
 しかし、これも短い時期のことで、紀元前後には車師は全く匈奴に制圧され、ために漢は西域を放棄せざるを得なかった。この漢末の頃は、“西域三十六国”は分裂して、五十余国になっている。
 その後、後漢は西域に進出し、再び匈奴と車師の地を争っている。班超《はんちよう》、その子班勇《はんゆう》が、その生涯を流沙の中に埋めた時期である。
 高昌壁はその後、高昌城と称せられ、以後漢人が多く入り込み、中国の出先機関としての役割を受持つようになる。更に北涼《ほくりよう》滅亡後は、その残党がここに拠り、これと争った車師国は滅亡の悲運に見舞われ、初めてここに、高昌国が史上に登場して、高昌城を都とする。四五〇年のことである。この頃から、曾て西域に散らばっていた五十余国は叙々に合併し、やがて六つの大国となる。高昌、焉耆《えんき》、亀《きじ》、疏勒《そろく》、于《うてん》、善《ぜんぜん》、これである。こうなると、もう単なる定着地とは言えない。立派に国として体制を調えている。
 この西域六国の中で、高昌国だけは多少肌合を異にしている。他の五国は少数民族の建てた国であるが、高昌国は漢人が建てた国で、住民はイラン系であったと思われるが、官制、風俗共に中国風で、宛《さなが》ら中国の植民地の観を呈している。出土した人形などから見ると、住民の風俗などなかなかしゃれたものである。が、この植民地は次第に本国と対立するようになり、六四〇年に、ついに唐は高昌国を滅し、西州という名に改め、この地の中国支配は、ウイグルが西遷《せいせん》して、大量流入して来る九世紀中葉まで続く。
 以後、この地はウイグリスタンの中心部をなし、十四世紀中期以後は東チャガタイ・ハン(察合台汗)国に属し、元代には和州、火州、喀喇和卓、喀喇火卓(共にカラ・ホージョ)などと呼ばれ、この時期に初めてトルファンという城邑の名が現れてくる。
 その後、トルファンの支配者は全ウイグリスタンを統《す》べるに到り、十八世紀に入ると、明との間にハミ(哈密)を争ったり、清とジュンガル部との抗争の場となったりしている。
 こうみて来ると、トルファン盆地の歴史は古く、しかも波瀾に富んだものである。西域史の何分の一かは、ここを舞台として展開されている。現在、トルファン県には、交河故城、高昌故城の二つの大遺跡がある。異常な乾燥度のお蔭で、全くの土の城市であった二つの西域史の欠片は、干何百年か前の姿を、今日に伝えているのである。
 
 宿舎であるトルファン県招待所を四時三十分に出発、五星人民公社に立ち寄り、そのあと交河故城を訪ねることにする。
 古い土屋地区を行く。簡易舗装なので、砂塵が烈しく舞い上がっている。土屋の壁は切れないで、何軒も続いている。土屋地帯が切れると、綿畑、高梁畑が置かれ、それを風よけのポプラが取り囲んでいる。依然として風は強く、砂埃りが舞い上がっている。
 田圃の中に蘇公塔と呼ばれている塔が見えてくる。塔の高さは四四メートル、塔《せんとう》(煉瓦塔)である。二百年前に造られたもので、塔の裾にモスクも建っている。沙漠の中の回教寺院である。塔は周囲の丘の色と全く同じで、塔に刻まれている模様は、ウイグル族伝統のものである。
 清朝の初期に、宗教を統一するに当って功績があったイミンという人物を、清朝はトルファン王に据えた。イミンは八十何歳まで生き、王位を子ソレマンに譲った。ソレマンは民族統一に大きい役割を果している人物であるが、この塔はソレマンが、父イミンのために建てたものである。塔の傍の立札では、蘇公塔というもとの名を廃し、額敏塔という新しい名を使っている。
 再び土屋地帯を行く。寝台を戸外に出している家が多い。寝台は前庭の木蔭や葡萄棚の下に置かれている。ところどころに小川が流れている。天山の水なので、手でも入れたいほどきれいである。
 町中に墓地がある。煉瓦色の墓標や、小さい家型の墓が、多少異様な感じで眼に映る。年々歳々、人々はこの町で生き、そして死んで行くのである。
 表通りに出る。道が広く、左右の建物が役所風になっているだけで、相変らず砂埃りの通りであることに変りはない。やがて下町に入る。大人や子供が、やたらに群がっている。例の色とりどりの女のスカーフが、風でひらひらしている。自転車も多く、驢馬も多い。
 風の町、埃りの町、ゴビの町、天山の町、沙漠の町、白い土屋の町、裸体、裸足の子供の町、驢馬の町。ビル街も、田圃も入り混じっている町。トルファン県の人口は一四万八〇〇〇と言うが、トルファンの町の人口はその何分の一ぐらいであろうか。
 やがて見渡す限り青々とした畑の中に入って行く。畑の青さは、トルファンで見た一番美しい色である。そうした田圃地帯を、やはり今までと同じように埃りを浴びて行く。風がごうごうと鳴っている。畑を囲んでいる防風林はポプラである。
 点々と農家が散らばっている。煉瓦建ての家であるが、それを白く塗っているのもあれば、煉瓦をむき出しにしているのもある。農家周辺の畑の農作物の緑だけが美しく眼にしみるが、ただこれだけのことで、この地域では、農業に従事している人たちが、一番仕合せそうに思われる。
 やがて、五星人民公社の一画に入ってゆく。防風林の中に絨毯を敷いて、わたしたちを迎える席が造られてある,席の傍を水が流れている。ここでも、ごうごうと風が鳴り、防風林のポプラがざわざわと揺れ動いている。西瓜が次々に運ばれて来る。大体一人一個ぐらいの割合である。公社の人が話しているが、その大部分は風に攫《さらわ》われてゆく。
 ──この五星人民公社は二三大隊、一〇三の生産隊、所属人員は三万三〇〇〇、主な生産物は小麦、高梁、綿、葡萄。
 ──以前はこの地区には砂丘が何百とあった。風が吹く度に砂が飛んで来た。七つの村が砂のために壊滅したこともあった。風と砂の被害を受けて、作物は一年間に三回も、四回も植え直さなければならなかった。
 ──現在は、二〇〇の砂丘をなくして、植林している。運河も造り、もともとあったカールジンも整備し、新たにポンプ井戸も掘った。
 公社の人は大きな声で話しているが、相変らずその声を、風がどこかに運んで行ってしまう。あまり西瓜には馴染みない私であるが、いくらでも食べられるから不思議である。誰も、彼も、水でも飲むようなつもりで、西瓜を食べているのである。
 
 五星人民公社を辞し、トルファンの町から一一キロの地点にある交河故城遺跡に向う。
 街路樹の背の低いポプラの白い葉裏が、風にゆらいで、花のように見える。こうしたポプラに気付いたのは、この時が初めてである。案内してくれる土地の人の話では、新疆楊と言って、新疆本来のものであるそうである。ウルムチ(烏魯木斉)、イリ(伊犁)地区でさんざんお目にかかった、あのどこまでも高く伸びるポプラは、穿天楊と言って、外来種であると言う。穿天楊のあのすくすくした姿もいいが、新疆楊もまた、何とも言えず美しい。花が揺れ動いている感じである。土屋の集落に入ると、土屋と土屋の間の路地で、埃りを浴びながら、子供たちが手を振っている。女の子は着飾っている感じであるのに、男の子の方は例外なく、裸体、裸足である。女の子と、男の子が竝んで、手を振っているのを見ると、奇異な思いに打たれる。
 路傍の溝には、きれいな水がふんだんに流れ、ところどころ道路上に溢《あふ》れたりしているが、砂埃りの方は、自分は自分だというように、あちこちで舞い上がっている。
 いつか、一望の青の耕地に入る。段落のある地盤で、点々と砂丘が置かれている。暫くすると、耕地のすべてが荒蕪地に変り、まるで砂嵐のように、風があちこちで砂を巻き上げている。
 くるまは大きな砂丘の裾《すそ》に沿って行く。砂丘の傍に水が流れている。不整形な流れで、水がどこからか湧き出しているらしいが、ちょっと見当がつかない。
 砂丘の裾をはなれると、くるまは水溜りのような川に沿って、よちよち進んで行く。川の中と、その周辺に、タマリスクの株が多い。右手には大きい砂丘の連なりが見えている。
 やがて、また前方に荒蕪地が拡がって来る。落日近い太陽が真赤に見えている。くるまは右手に廻り、大砂丘と大砂丘の間に入って行く。この辺りから道はなくなる。磧《かわら》でくるまを棄て、いっしょについて来たジープに乗り替え、二つの砂丘の間に入って行く。砂丘は、近づいてみると、ところどころに岩の肌を露出している。
 正面遠くに、遺跡様のものが見えて来る。荒涼とした地帯である。城砦《じようさい》と見えたが、近寄って行くと、そうではなく、岩山の自然の制作である。大揺れに揺れる凄いドライブになり、とうとう川の流れの中に入って行く。暫くすると、同じ流れの中で、子供をのせた驢馬がやって来て、それと擦れ違う。どうやら流れは、この地域の人たちが使う道になっているらしく思われる。
 難行十分、こんどは本当の遺跡が眼に入って来る。交河故城である。予想していたより大きな城市の遺跡である。南門より入り、ジープは大通りらしいところを走って行く。文字通り死の町のドライブである。バビロンなみの大きさで、何の跡か、大小の土の欠片が柱の如く、壁の如く、竝び立っている。
 大きな寺院跡だと言われているところに到って、ジープより降りる。かなり大きい寺院跡である。一応整備、復原しかけてあるらしく、台地が低くなったり、高くなったりしている。そこを二段ほど登って、奥に行くと、拝殿址らしい壁面が立っており、その龕跡《がんせき》と思われる高処に、壊れた仏像が載っている。首を欠いた坐像である。
 そこから出て、附近の大塹壕地帯を歩き廻る。裏通りの跡らしいところも歩く。同じような通りが、何本も交叉している。
 最後に、川が下を流れている断崖を覗く。交河故城という名が示しているように、この城はもともと、二本の川に挟まれた中洲に造られた城である。中洲ではあるが、地盤は高くなって丘状を為している。従って、城壁を持たない城として知られ、城門も、南北二門を持つのみとされている。崖下の川はすでに涸れていると言われているので、現在そこを満たしている水は、どこからか湧き出しているものと思われる。
 広い遺跡の中の、奥まった一隅に立っているだけに過ぎないが、土塁、土柱、土壁が、累々と屍をさらしている。ここに住んだ人たちは、時代時代で変っていた筈である。イラン系の少数民族の時も、漢族の時も、そしてまたウイグル族の時もあった。あるいは一時的ではあるが、匈奴、突厥などの、北方の遊牧民の時代もあったに違いない。ここを本格的に掘ったら何が出て来るであろうか、と思う。紀元前一世紀から十四世紀まで生き続け、そして廃城になって、今日に到った城市である。
 
 帰途に着く。同じ道を、同じジープで帰る。大きな砂丘が落日で、赤く染まっている。振り返ってみると、遺跡もまた赤い。川の流れの中を降り、その他に三回、小川を渡る。
 ジープを棄て、くるまに乗り替える地点まで来て、後の組を待って、そこらをぶらぶらしている。時計を見ると、九時十五分。現地時刻では七時十五分である。暮色蒼然として、半月が平原の上に出ている。乾河道に立って、平原の方、つまり城址と反対の方を見ると、平原は海のように見える。陽はすでに落ちているが、点在する大小の砂丘、岩山の肌は、まだほんのりと赤い。風は涼しい。
 招待所に戻り、夕食をすませたあと、葡萄棚の下で開かれる民族舞踊と歌の会に招かれる。私たちの他に一〇〇人ぐらいのウイグルの男女が席を占めている。県の文芸工作隊の人たちの出演、三〇人のうち二人が漢族、他はみなウイグルの男女である。演しものは政治色の濃いものばかりであるが、それを達者に、しかし厭味なくやっている。團伊玖磨氏の話では、楽器も少数民族らしい面白いものであるし、その演奏もなかなか垢ぬけたものだということである。
 演芸が終って、部屋に引き揚げる。多少疲れたのか、眠くならないので、夜半まで起きている。暑熱の国であるが、夜は気持よい。
 ベッドに入っても、今日見た交河城址が眼に浮かんで来る。一九二八年にこの地を調査した中国の考古学者黄文弼の手記に依ると、彼がこの遺跡を訪ねた時は、遺跡の中に多くの人たちが住んでいたという。おそらく長い歳月に亘って、附近の農民たちの住居になっていたのであろうと思われる。それにしても、あの荒涼たる遺跡に於ける明け暮れはどのようなものであったろうか、と思う。
 それからまた、同じ黄文弼の手記に依ると、住民たちは交河城址を「雅爾和図」と呼んでおり、「雅爾」は突厥語で“崖岸”「和図」は蒙古語で“城”を意味するそうである。二つを合せると崖城となる。まさに崖城であると言う他ない。それにしても、突厥語と蒙古語を併せた呼称が、周辺の農民たちの間で用いられていたということは面白いと思う。この城址の持った複雑な歴史が生み出したものと言っていいであろう。
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