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私の西域紀行11

时间: 2019-05-23    进入日语论坛
核心提示:十一  敦煌への思い 五十二年八月訪ねた新疆ウイグル自治区の紀行を、前回まで、十回にわたって綴って来たが、この旅のあと、
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 十一  敦煌への思い
 
 五十二年八月訪ねた新疆ウイグル自治区の紀行を、前回まで、十回にわたって綴って来たが、この旅のあと、五十三年五月から六月にかけて、思いがけず敦煌の地に足を踏み入れる好機が到来した。こんどもまた招かれての中国の旅であった。
 
 松岡譲の「敦煌物語」が一冊の形をとって出版されたのは、昭和十八年の初めであった。それまでに、敦煌に関する研究書や翻訳、紀行の類は、ある程度読んでいたが、敦煌というところに、実際に足を踏み入れてみたいと思ったのは、「敦煌物語」によってであったかも知れない。
「敦煌物語」を読んで十四、五年経って、私は「敦煌」という小説を書いている。松岡譲が「敦煌物語」を書いたのは、おそらく、そこに惹かれながら、結局のところはそこに行くことができないという想いからではなかったかと思うが、私の場合も、全く同じことである。先ずめったなことでは、敦煌などというところには、足を踏み入れることはできない、そんな諦めの気持と、次第に強くなっている敦煌への関心が、私に小説「敦煌」の筆を執らせたのである。
 それから、いつか二十年の歳月が経過している。この二十年の間も、敦煌というところに行けるものなら行ってみたいと思い、思いして来たのであるが、その念願を思いがけず、こんど果すことになったのである。
 東京を発ったのは五月二日、一行は私と妻。それに日中文化交流協会の横川健氏に同行して頂いた。北京で三泊、その間に、若干の敦煌行きの準備を調えた。北京で、やはり敦煌を訪ねられる清水正夫氏御夫妻、福沢賢一氏等とお会いし、こんどの旅をごいっしょにすることになった。
 また昨年、新疆ウイグル自治区の旅で案内役を受持って頂いた孫平化氏が、こんどの旅にも同行して下さることになり、中国人民対外友好協会の工作員で、以前から親しい呉従勇氏も付添って下さることに決定。楽しい敦煌行きになりそうである。
 
 五月五日(五十三年)、快晴。十二時二十分に北京飯店を出、アカシヤ、ポプラ、楊樹などの街路樹の緑が美しい中を空港に向う。
 一時三十分、離陸、イリューシン18型、七〇人乗り。蘭州まで一三七一キロ、予定飛行時間は二時間四十分。
 三時、太原上空。ずっと沙漠か荒蕪地が続き、その中に時折、砂丘か砂の山が見えている。蘭州が近くなると、灰色の丘陵地帯が拡がり、丘の段々畑も深々と砂をかぶっている。
 四時、蘭州空港に着く。この空港は初めてではない。昨年八月、新疆ウイグル自治区の旅を終って北京へ帰る途中、機が蘭州廻りだったので、この空港で一時間ほど過している。広い空港で、空港の建物の背後に、小さい砂の団子山が幾つか置かれてあるが、他の三方には全く山影を見ない。空港には、省革命委員会外事処責任者、煥三氏等三氏が出迎えて下さっている。
 二十度。町まで七四キロ、一時間半のドライブである。時差一時間、しかし、甘粛省の旅の間、ずっと北京時間を採用するというので、時計はそのままにしておく。
 くるまに乗ると、煥三氏は、
「蘭州の一番いい季節は七月から九月まで、果物が多いです。今は風の強い時期で、今日は珍しく風がなくて、静かですが、いつもはたいへんです」
 とおっしゃる。いかにたいへんか見当つかないが、昨年の新疆地区の旅で、トルファン(吐魯番)、ホータン(和田)といったところで、風の洗礼を受けているので、たいして驚かないだろうと思う。
 空港を出ると、すぐ荒蕪地のドライブになる。ところどころに耕地が挟まれていて、小麦の青い色が眼にしみる。やがて低い丘陵地帯が拡がって来、その中を割って、舗装道路が走っている。
「この地帯は水がないので、灌漑できません。目下、用水路を作ることは作っていますが」
 と、氏。蘭州は甘粛省の中でも一番の旱魃地区であるが、現在は特に旱魃がひどい由。
 樹木の一本もない丘陵地帯が続く。ところどころに貧弱なポプラの街路樹があるが、すぐなくなる。人家というものは全くない。
「植林は難しいです。一本植え、枯れ、また植えるということの繰り返しです。大体、この辺はアルカリ性土壌で、土を運んで来ては土質を改良しています。土を運び、水を運び、なかなかたいへんです。水は五〇キロ離れたところから持って来ています。僅かでも耕地があるのは、その努力の結晶です」
 くるまの窓から見る限りでは、その努力の結晶もごく僅かである。大部分が荒蕪地のまま放置されている。
 やがて、赤味を帯びた丘陵の裾のドライブとなる。農家もあるが、土塀の囲いだけ見えて、家はその中に匿れている。風のためなのであろう。アルカリ性土壌は白く見えている。丘の土は紅土《こうど》といって、ひどく堅いという。赤い丘陵は、そう言われてみると、ひどく堅そうに見える。
 そのうちに、異様な大浸蝕地帯が拡がって来る。到るところ、地殻は割れ、大塹壕でも張り廻らしたように、割目は、縦横にどこまでも続いている。ヤルダンというのは、こういう地帯なのであろうか。この世ならぬ眺めであるが、その地殻の割目のような中に、人家が見えていたりする。こういうところに住んでいたら、さぞ荒涼たる明け暮れであろうと思う。
 ふいに、くるまは黄河を渡る。黄河を渡ったとたん、様相は一変して、こんどは大工業地帯が拡がって来る。くるまは、いきなり町に入る。道は広くなり、トラック、バス、自動車の往来も多く、自転車も多い。立派とは言えないが、街路樹も竝んでいる。
 大ヤルダン地帯から、工業地区への変り方は鮮やかとでも言う他はない。大工業地区に続いて、労務者の住宅地区が続き、それから再び、くるまは町を脱け、大きな丘の連なりに沿って、その裾を走り出す。
 そのうちに、また丘陵地帯が拡がってくる。しかし、ところどころに挟まっている耕地も広くなって来、そのうちに、何となく町らしいところに入る。しかし、一軒の商店もなく、両側には工場か、倉庫様の建物が竝んでいて、全く人通りはない。
 こうしたドライブが暫く続いて、漸くにして、くるまは、こんどこそ間違いなく蘭州の町に入り、町中の革命委員会の招待所でもあり、ホテル(友誼飯店)でもある建物の中に入ってゆく。堂々たる構えのホテルである。
 
 蘭州の町は白塔山の裾を流れている黄河に沿った細長い町である。海抜一四七〇メートル、泰山と同じくらいの高さだそうである。気候は河北省とほぼ同じで、夏は北京ほど暑くなく、冬は北京ほど寒くない。ただ乾燥は強い。
 甘粛省は、大体日本と同じ広さ。そこに一八〇〇万の人間が住んでいる。蘭州の人口は一〇〇万、工場地帯の郊外を併せると、二一三万にふくれ上がる。中国西北地区の大工業都市である。一九四九年に解放され、第一次五カ年計画によって、つまり五三年から大工場が建てられ、精油化学工場、石油機械工場が、新しい国造りの上に大きい役割を持っている。
 そうしたことは充分承知した上でのことだが、私などが長く持っていた蘭州という町のイメージは、現在の蘭州とは、かなり大きく違っている。ここは漢時代に金城県として現れ、武帝時代には霍去病《かくきよへい》もこの地に駐屯している。隋《ずい》の時代に蘭州と改められ、唐の時代も蘭州と呼ばれ、シルクロードの要衝であった。シルクロードは長安(今の西安)から、天水を経て、この蘭州に入り、連《きれん》山脈を烏鞘嶺《うしようれい》で越えて、河西回廊の武威《ぶい》、張掖《ちようえき》、酒泉、安西、敦煌へと繋がって行く。中国からの絹も蘭州を経由しており、七世紀の玄奘三蔵もまた、蘭州を通過している。
 が、こうした歴史の町としての蘭州のイメージを、現在の大工業都市蘭州のどこからか貰おうとすることは無理なようである。金城時代の蘭州は、一説には現在の化学工場地帯に位置していたとされているが、確かなことは判っていない。もしそうであったとしても、それはそれで、さっぱりしたものである。霍去病とて、不快には思わないだろう。
 夜は、甘粛省革命委員会の招宴。
 
 五月六日、市内見物のために、九時三十分に友誼飯店を出る。門を出ると、トラックの往来、騒然たるものがある。まさに工業都市である。土屋の町に、大小のビルが竝んでいる。路地を覗くと、古い土屋の家竝みが見える。
 町中には大きな丘がある。壊しかけているのか、自然に壊れたのか判らないが、半ば崩れていて、そこに人家が危っかしく建っていたりする。町の近代化が行われている最中らしく、到るところ工事場の感じである。日本より春は遅いらしく、街路樹の緑はまだ浅い。
 五泉山に向う。蘭州は五泉山と白塔山という二つの山に挟まれた町で、黄河が市のまん中より少し北を流れている。五泉山に行く途中、市内西関(旧西門地域)に古い蘭州の城壁の欠片があるというので、それを見せて貰う。張掖路の十字路のところに、なるほど城壁様のものが遺っている。もう一つ、南関にもあるというので、そこへも行く。こちらは酒泉路というのに沿っている。が、いずれも、いつの時代のものかは判らないという。ただ、こうしたもののある地域が、蘭州のオールド・タウンであることだけは判る。
 目指す五泉山は灰色の山の重なりとして、町の中心地区から、すぐ、そこに見えている。白壁の土屋の通りを山に向って行く。山に近寄ると、麓の坂道を上ったり、下ったりして、やがて五泉山公園に着く。ここが蘭州の町のただ一つの観光、散策の場所であるらしい。背後の山には一木一草もないが、麓の公園には楡と楊樹が多く、辺りには柳絮《りゆうじよ》が雪のように飛んでいる。
 山の斜面に道教、仏教、儒教の廟《びよう》がたくさん建てられている。十数群の建物があるという。言い伝えでは、漢の時代に最初の仏教寺院が建てられ、その後歴代にわたって、いろいろな寺院が建てられたという。もちろん、そうした古いものは今はなくなっており、現在遺っているのは明・清時代のものばかりである。
 山をじぐざぐに登って行く。高処に明後期の三教祠というのがある。仏、道、儒、三教の祠《ほこら》である。二、三の明時代の寺を見る。他に金時代、千二百年前のものだという鐘がある。高さ三メートル、直径二メートル、重さ五トン。合金。銘文に“仏神悦び、鬼が愁う”とある。
 他に泉を見る。そもそも五泉山という名は五つの泉があるところから来ているという。甘露泉、掬月泉、模子泉、蒙泉、恵泉。いろいろな名の泉がある。公園の事務所の人に訊いてみる。恵泉は人民に恩恵を施す泉。蒙泉は、お茶のうまいことで知られている四川省蒙山の泉。模子泉は子供をさぐる泉。“模”は触れるという意味で、泉の中に手を入れ、石に触ったら男子が生れ、瓦に触ったら女子が生れるという。
 五泉山から、蘭州市を俯瞰《ふかん》する。町を挟んで、向うに白塔山の山脈が見えている。白塔山は連山脈の支脈である。五泉山は麓は別にして、全山殆ど樹木のない山である。建物で飾る以外仕方なく、次々に廟が建てられて行ったのであろう。
 
 五泉山公園を辞し、白塔山の下を流れている黄河を見に行く。蘭州市を横切る。蘭州の町は、どこへ行っても、古いものと、新しいものが入り混じっている。古い蘭州に、工業都市の蘭州が入っている。ビルと白壁の土屋が、雑然として同居している。
 新しくできた大通りを行く。自動車通り、自転車通り、人道と、それぞれ街路樹で区切られた整然とした美しい道路であるが、しかし、路傍のところどころには、まだ土屋が嵌《は》め込まれている。
 浜河路を行く。黄河の畔《ほと》りなので、浜河路の名がつけられているのであろう。五泉山から望んだ白塔山下の黄河河畔で、くるまを降りる。
 黄河は黄濁し、水は多少渦巻いている。風が吹くと、流れはもっと濁るという。風が土を運んで来るからであろう。最近上流に大きいダムができたので、流れはこれでもきれいになったそうである。
 対岸の白塔山は、砂と土をかぶっている岩山で、一木一草のない山の連なりである。一番手前に見えている山の頂きに、白い塔が一つ見えている。慈恩寺白塔と呼ばれ、明末一四五〇年の建立《こんりゆう》。七層八面、高さ二一メートル。
 市内見物から帰ると、革命委員会の人たちによって、私の誕生日の祝宴が張られる。宴席はホテルの食堂。外国で五月六日の誕生日を迎えたのは初めてではないが、お祝いして貰うのは初めてである。
 普通の料理のほかに、長寿と、長寿ギョウザ、“寿”と書かれたデコレーション・ケーキ。
 三時から博物館参観、武威出土のものの多いのが眼につく。
 
 この日夜半、ホテルを出て、停車場に向う。上海発、ウルムチ(烏魯木斉)行の列車で、酒泉に向うためである。列車は上海を五日午前七時五十五分発、蘭州には七日午前一時着。二時間延着である。終点のウルムチまでは、上海を出てから四日三晩、八十数時間かかる。昨年の新疆地区の旅の折、トルファン─ウルムチの広いゴビのただ中で、この列車をカメラに収めている。
 蘭州から煥三氏、甘粛省人民医院の医師、田兆英女史等四氏が一行に加わって下さる。
 酒泉までは十八時間、三八〇〇メートルの烏鞘嶺を越えて、河西回廊に入ってゆく。こんどの旅に於て、私にとっては大切なコースである。烏鞘嶺あたりで夜が明けると思うので、それまで熟睡しておきたいと思う。
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