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私の西域紀行10

时间: 2019-05-23    进入日语论坛
核心提示:十 于国はどこか 八月二十四日(前章の続き)。「どうやら砂嵐は収まったようですね」 と、同行者の一人は言った。私たちは十
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 十 于国はどこか
 
 八月二十四日(前章の続き)。
「どうやら砂嵐は収まったようですね」
 と、同行者の一人は言った。私たちは十分ほど大きな遺跡を歩き廻った。カメラを持って来ていなかったので、中国側のカメラマンに、遺跡の全貌が窺える角度からの撮影を依頼した。城壁の土壇のようなものも、そこらに散らばっている陶片も、カメラに収めて貰った。
 案内してくれている人が、また古銭をひろった。古いものかと訊くと、
「唐の粛宗の頃のものですね」
 と、おっしゃる。于《うてん》独特の模様を持った土器の欠片もあると言って、それを私のために探してくれようとしたが、この方は、そう簡単には出て来なかった。
 ジープで広い遺跡内を走る。遺跡の入口に近いところに、やや形を遺している建物の残骸があった。と言っても、大きな土の固まりにすぎないが、ジープから降り、そこに上り、部屋らしいものの中に入ってみる。煙突の穴と思われるものがある。
「明らかに後世のものですね。城壁の崩れたものなどを使っています」
 案内してくれている人は言う。
「家ですか」
「さあ、家かどうか判りませんが、人は住んでいたようですね」
 それから、
「帰りますか、また砂嵐です」
 なるほど遠くの、白玉河の上流の方に、煙幕でも張ったように、再び砂が巻き上がり始めている。
 帰路に就く。さっきの小さい集落の中の一軒の土屋の前でジープを停める。前庭様のところに絨毯が敷かれ、お茶の支度がしてある。ナン(麭)をちぎって食べ、西瓜のご馳走になる。そのうちに大勢の人が集って来る。老いも若きも、邪気のない、何とも言えずいい顔をしている。みんな、わたしたちを取り巻いて坐る。地面に腰を降ろして、立て膝をしているのもあれば、両脚を抱えているのもいる。何を話すのでもないが、みんなにこにこしている。
 遺跡を案内してくれた人が、ここで自分の身分と姓名を、私のノートに記してくれる。名前は殷盛、和田《ホータン》師範学校の先生である。四十歳ぐらいであろうか。傍から、同行者の一人が説明してくれる。
「この人以外に、この遺跡を案内できる人は居ません。あいにくよそに行っていたんですが、今日、帰って来てくれましてね」
 通訳を通しての話なので、はっきりしないが、殷盛氏は、私たちを案内するために、どこからか呼び返されたものらしい。
 殷盛氏に、二、三質問する。いま見て来たところがいかなる遺跡か、私見でもいいから聞かせてくれと言う。
「スタインは于の故城をヨートカンとしていますが、黄文弼は于の故城の可能性は、ここの方が強いとしています。もう一つ、ホータン(和田)から四二キロの地点に、アクスビル(阿克蘇匹勒)という遺跡がありますが、ここは城壁の一部しか遺っていませんし、ここより大分小さくなります。黄文弼は一九二八年と、一九五八年の二回に亘ってここを調査し、その時の見解は彼の“塔里木《タリム》盆地考古記”に収められています。またウルムチの博物館で編成した調査隊も、一応ここを調査しています。その調査隊には、現在ウルムチ(烏魯木斉)の博物館副館長のポストにある李遇春氏も加わっております。李氏にお会いになったら、参考になることをお聞きになれるのではないですか」
 殷盛氏の答は慎重である。国家文物管理局の結論が出るまでは、何もはっきりしたことは言えないといった態度である。が、これは殷盛氏ばかりでなく、この地区の古いものに関係している人たち全部の態度であると思われた。
「これから南方数キロの地点に大きな寺の遺址があります。玄奘 三蔵《げんじようさんぞう》の“大唐西域記”に記されている賛摩寺とよく符合しています。また“漢書・西域伝”に、于国には西城と東城があると記されています。西城はこのセスビル(什斯比爾)、東城はアクスビルかも知れませんね。唐書には西山城というのが出て来ますが、それはこのセスビルと見るとぴったりするようですね」
 これが殷盛氏の、現在発表できる“私見”のぎりぎりのところであるかのように思われた。
 私たちが休憩した集落、赤旗人民公社の第二農場は、沙漠を開墾して造ったところで、現在インアワティ村と名付けられているという。インアワティというのは“新しく繁栄している村”という意味だそうである。
 そのインアワティ村を辞して、沙漠の中に入って行く。沙漠のテラスから、砂丘の裾に当る上のテラスヘと、ジープは上って行く。砂丘の大斜面には定規を当てて引いたような直線が、大きな碁盤の目を造り上げている。風のいたずらだという。信じられぬ気持である。
 
 宿舎に帰って、夕食の卓で、みなから、“おめでとう”を浴びせられる。未公開、未発掘の古于国遺跡に立つことができたのだから、乾盃してもいいことかも知れないと思う。
「それにしても、われわれは心掛けが悪かった。揃いも揃って、他ならぬホータンに来て、寝込むというてはありませんよ」
 司馬太郎氏は、いかにもおかしそうに笑っている。
「井上氏が帰って来たら、癒っちゃったんだから、これまた奇妙なことだ」
 そんな声も聞える。と言って、みながみな寝込んでしまったわけではなかった。中島健蔵、團伊玖磨両氏は黒玉河と水力発電所参観に出掛けている。その参観を休んで宿舎に居たら、セスビルが舞い込んで来たというわけである。
 夜、宿舎の庭で民族舞踊を見せて貰う。それが終ってから、部屋に帰って、ひとりでウィスキーを飲む。窓外の闇に眼を当てながら、どうにかタクラマカン沙漠の一画に入り、于故城の一つに立つことができたという思いを持つ。
 
 八月二十五日、八時、招待所を出る。昨夜の予定が変更になり、九時発の機でウルムチに向うことになったためである。
 空港はひえびえとしている。空港には「深掲狼批“四人組”簒党奪権的滔天罪行」と染めぬいた大きな布が掲げられてある。アントノフ24、四六人乗り。離陸して二十分ほどすると、白黒両玉河の合流したホータン河が見えてくる。もつれにもつれた白い糸の束のようである。
 十時二十分、アクス(阿克蘇)着、待合室にて休憩。山影全くなく、羊の群れが動いている空港には、静かな初秋の陽が散っている。機は一機も見えない。接待の白瓜美味し。ここは新疆の江南と言われているところで、水に恵まれ、農作物も豊穣《ほうじよう》である。その替り、古い遺跡はない。
 東山魁夷氏と待合室の前を歩く。ひまわりの畑が美しい。その向う遠くに見えている小さいモスクのような建物、その傍の土塀様なものの欠片、──なかなかのびやかな空港周辺の風景である。ホータンから来た者の眼には、植物や農作物の緑が、水にでも洗われたように鮮やかに、美しく見える。待合室で私たちの接待に当っているウイグル娘は、もう日本では見られぬはにかみと可憐さを持っている。
 三十分の休憩終って、十時五十分、離陸。すぐタクラマカン沙漠の上に出る。植物のあらゆる葉の葉脈が捺されているようでもあり、世界中のあらゆるモスクの柱頭の紋様が捺されているようでもある。そんな砂の拡がりの上を、機は飛んで行く。ところどころに、乾河道が置かれている。大きな糸束がもつれているように見える。そうした地帯を、道が一本まっすぐに、長く走っている。道としか思えない。
 機は大断崖をなしている山岳の裾を飛んでいる感じである。この前のウルムチ─アクスの時とは異って、いつまでも天山は現れて来ない。天山山系に沿って、タクラマカン沙漠の北辺を、西から東へと飛んでいるのである。
 オアシスの上に出る。大耕地が拡がり、集落が点々と見えている。大河が見えて来る。一集落全部すっぽりと収められてしまいそうな川幅である。おそらくタリム河であろう。この地帯、大きな用水池が多く、どれも湖のように見えている。
 やがて、大集落が現れて来る。クチャ(庫車)である。クチャの集落を過ぎると、大沙漠となり、その上に、たくさんの乾河道が縞模様を作っている。席を左側に移すが、こちらも大漠地、いっこうに天山は見えない。機はいつ、どこで天山を越えるのであろうか。
 が、やがて、機が天山山系に沿って飛んでいるのが判る。左手遠くに、天山の二つの前山らしいものの連なりが真赤に見えて来る。血のような赤さである。そのうちに徐々に、天山はその巨大な姿を現し始める。十一時四十五分である。いよう! と声をかけてやりたいようである。機はゆっくりと、しかし確実に、その上に入って行く。いよいよ天山越えである。
 雪の稜角、あちらからも、こちらからも現れて来る。無数の岩の固まりは、それぞれに不機嫌である。二つの大きな谷を隔てて、その向うから新しい雪の山脈が現れて来る。美しい。まさに世界の屋根である。世界の屋根と言う他はない。何百何干という山塊と、その稜角。その上を雲が流れている。
 山塊群、少しずつ低くなって来る。やがて、パインプルック草原が見えて来る。工作員の誰かが教えてくれる。天山の山懐ろの中にある草原である。無数の岩の稜角に縁どられている泥沼のように見える。泥沼と見えているところが草原なのであろうか。また新しい雪の山系が現れて来る。結局のところ、山脈と山脈との間に仕舞われている草原なのである。
 機はまた、雪の山脈の上を飛び始める。前の烈しさはなくなるが、暫く雪の山脈の上を飛び、やがて新しい漠地の上に出、そしてまた新しい雪の山脈を迎える。次々に新しい雪山が現れて来る。そうした上を、悠々と白い雲が流れている。雪か、雲か、ちょっと判別に苦しむ場合もある。山塊群の中に、まんまるい翡翠《ひすい》の湖がはめ込まれている。おそらく誰もその岸に立つことのない湖であろう。雲はしきりに湧き、しきりに流れている。
 十二時三十分、漸く山脈を越えたらしく、山岳の大斜面が見え始めたと思うと、機は着陸の態勢をとり、大耕地の短冊地帯に入って行く。短冊は茶、緑、黄、灰色、薄紫、白、黒、色とりどりである。いずれも人間が沙漠から闘い取ったものである。
 ウルムチの町、見えて来る。ウルムチは全くの天山山系の裾の町なのである。
 やがて、着陸、何回目かのウルムチ入りである。
 
 午後、こちらの希望で李遇春、郭平梁両氏に宿舎のウルムチ迎賓館までご足労願って、ホータン地区を中心とした南疆における考古発掘・調査の状況について説明を聞く。主として李遇春氏が話され、側面から郭平梁氏がそれを補った。
 ──解放前のホータン地区の考古学調査は殆ど外国人の手で行われた。特にヘディンとスタインの名があらわれている。日本人も、橘、渡辺、堀などの大谷探検隊のメンバーが来た。ロシアからも大勢来ている。中国では黄文弼一人である。清朝時代は、中国人があの地方で調査することは難しかった。政府は外国人には便宜を与えたが、中国人の場合は無視した。黄文弼は調査の結果を発表できなかった。発表したのは新中国になってからで、「塔里木《タリム》盆地考古記」がそれであり、別に彼は「吐魯番《トルフアン》考古記」をも持っている。
 ──新中国になってから事情は変った。新疆ホータン地区を含む考古学調査も行われ、考古学関係の工作員、少数民族の研究員も養成され、ホータン地区各県に、そういう人たちが配されている。殆どウイグル人で、古文物、遺跡の保護、管理に当っている。平生は農地整理、工場建設と竝行して、その保護、管理を行っている。
 ──往古からホータンはシルクロード、西域南道の中心地区である。東の民豊県(ニヤ)から西の皮山県まで、シルクロードに沿っている。このホータン地区全部に亘って、五三年、五八年、五九年の三回、考古学調査は行われている。五八年の時は、中国考古学のエキスパート史樹青がニヤを発掘した。この調査報告は六〇年と六二年の「文物」に発表されている。
 ──五九年の時は私(李遇春氏)も参加した。新疆ウイグル自治区博物館で編成した博物館主催の調査であった。まず民豊県から北へ一五〇キロの地点にある古城を調べた。漢時代の精絶、今から二千年前の遺跡ということになる。今は沙漠のただ中にあるが、往古はオアシスに位置していた筈で、沙漠の中にはなかった。四キロと五キロの大きい遺跡で、断続的に居住区があった。人家の木の柱、壁もあった。家には庭があり、垣根のあともあった。葡萄棚もあり、葡萄の根も発見された。家屋を十戸発掘、整理した。この遺跡には城壁はなく、居住点の集っているところもあれば、疎らなところもあった。発掘は人家集中地区を選んで行われた。これに関する報告は「考古」六一年・第三号に、中間報告の形でなされてある。
 ──その中の大きい家は貴族の家で、住居の他に客間もあり、客間からは木簡(手紙)が発見された。木簡を二つ併せて、綴じて、紐でくくり、泥で封をし、封の上に印が二つ捺してあった。表には宛名の名前が認められてあった。ということは、主人はこの手紙を認めただけで、ここを去っているのである。木簡は保護するために開けないで、ウルムチの博物館に保存されている。この家には壁ぬけ煙突(壁炉)もあった。これとは反対に、貧乏人の家もあった。ひと部屋しかなく、その半分には牛糞が詰まっており、奥の半分に人は住んでいたのである。貧富の差は甚しかった。
 ──城の中には仏塔があった。また城外二キロの地点に古墳地区があった。そこで夫婦合葬の墓を発見した。タテ穴はなく、ただ土中に木の柩《ひつぎ》が埋められてあった。死者はミイラになっていた。女は二重の服を着ており、一つは袍で、袖口は小さかった。その上にガウンを纒い、その袖は短かった。いずれも絹織物である。そして下はスカート、スカートの下にズボンを穿いていた。男は錦織の上衣を纒い、下は綿布のズボンであるが、膝から下の部分は絹で刺繍があった。発見された時は、すべてが真新しかった。
 ──女の方は頭の部分に、籐で作られた化粧箱が置かれてあった。その中には、鏡、白粉、糸、絹織物の生地などが入っていた。また足許には木製の茶椀、盆、陶器の甕《かめ》などが置かれてあった。
 ──男の死体は棺の大部分を占めており、男女共顔は真綿で処理されてあったが、女の方の顔の部分は四重の真綿で包まれていた。男の死体を包んでいた布と同じ布の欠片が化粧箱の中に入っていた。これから推して、男が先きに死に、女は夫の死体を始末し、その上で死んだのであろう。それからまた男の顔は安らかであるのに、女の顔には不自然さが感じられた。女は自ら進んで夫に殉じたか、あるいは殉じさせられたか、それはともかくとして、漢族の当時の風習は少数民族の中にも入っていたのである。これについては六〇年の「文物」に発表してある。
 ──民豊県では、更に二つの古城が発見された。一つはまるい城砦で、門は一つ。これは完全な形で遺っており、屋根まで砂に埋もれていた。その屋根に上ると、城内を見渡すことができた。唐時代の城砦のようであるが、確かなことは判らない。アントクエツ(安得悦)と命名している。
 ──更にこのまるい城砦から四〇キロの地点に、もう一つの城砦があった。城砦の一部が遺っているだけであるが、その城内には高い仏塔があった。土台だけでも一〇メートル、その上の部分は失われていた。漢、魏《ぎ》の頃のものか。シャーエンタク(夏言塔克)と名付けている。
 ──于田県(ケリヤ)の北の沙漠の中にも古城がある。四角で二、三キロ四方。城壁はないが、住居の木の柱と壁が遺っている。ここのことは「塔里木盆地考古記」にも記されている。
 ──于田県の西の策勒県(チラ)の県境の沙漠の中にも古城がある。スタインのダンダーン・ウイリックなるところであるらしいが、調査してみても、それらしいものは発見できなかった。ダンダーン・ウイリックを探すために、于田県から策勒県まで行ったが、砂嵐が強く、駱駝の足あとはすぐ消え、特に帰途は難渋した。黄文弼も一九二七年に調査したが、ついに発見できなかった。一体、スタインのダンダーン・ウイリックはどこに埋まっているのであろうか。ウイリックはウイグル語で、家のたくさんあるところという意味であるが、“ダンダーン”の方は意味不明。
 ──策勒県には、大城がなく、大寺があった。ウイグル語ではダムコ、漢語では達磨溝と書く。
 ──ホータン地区には、以上のほかに二つの古城がある。一つは洛浦県の県城から一〇キロ、白玉河の東南岸、アクスビル(阿克蘇匹勒)と呼ばれている遺跡である。城壁の一部は遺っているが、その他は全部砂の中に埋まっている。そこで蒐《あつ》めたものは漢代の古銭、唐時代の金製品、陶器、石器。未発掘なので、すべて砂の中に埋まっているわけだが、この城は相当長い間、生き続けていたものと推定される。アクスビルはウイグル語で、“白い壁”を意味している。
 ──今のホータン県から東南二五キロの地点にセスビル(什斯比爾)という大遺跡がある。セスビルは三重の壁の意。白玉河の西岸にある大遺跡で、未公開、未発掘遺跡であるが、漢代の于城の可能性は、非常に高い。
 ──ホータン県には、もう一つ遺跡がある。ヨートカという。ウイグル語ではヨートカン。ホータン県の西方、北寄り、二〇キロ足らずのところ。そこから西へ行くと皮山県になるが、そこにザンクェイというところがあって、古城遺跡が一つある。スタインが于国の城としたところである。
 李遇春氏の話は、私にはたいへん面白かったが、氏もまたセスビルという大きな遺跡については、その発言は非常に慎重で、于国王城の遺跡である可能性が極めて高いと言うのに留まった。いずれにせよ、近い将来、中国考古学界、史学界の総力を結集しての発掘調査が行われるであろうが、その日が早く来ることが待たれる。
 
 八月二十六日、十時に迎賓館を出発、海抜二〇〇〇メートルの山懐ろに匿されている美しい湖・天池に向う。
 すっかり馴染み深くなっているウルムチの町を横切る。路地、路地の間から砂丘の欠片のようなものが望まれる。イリ(伊犁)、トルファン(吐魯番)、ホータンに較べると、さすがに人が多く、服装も都会的である。ホータンで見たようなウイグル本来の服装は殆ど見られない。トラック、自転車、共に多く、人々の動きも烈しい。回教都市独特の雑踏の町ではあるが、その中に都会的なものが感じられる。初めてここに来た時は、沙漠に取り巻かれた土屋の、回教徒の町としての雑踏だけが眼についたが、よくしたもので、トルファン、ホータンを経巡ってきた眼には、少からず都会的なものが感じられる。
 新市街の十字路で停車。町をカメラに収める。人道、車道、整然と作られてあって、道幅も広い。みごとなポプラの街路樹の根もとには、ゆたかな水量の水路が奔っている。ポプラの葉は黄ばみ始め、新疆地区には早い秋が来ようとしている。
 再びくるまに乗る。市街地を少し走ると、やがて道は、ポプラに縁どられた一本道になり、それによって漠地に送り出されて行く。トラックの往来が烈しい。沙漠への入口が工場地帯になっているためである。
 工場地帯を過ぎると、大荒蕪地が拡がってくる。段落のある地盤で、それが丘陵地帯に変ってくる。道は次々に現れてくる丘を割って行く。漸くトラック少く、快適なドライブとなる。十時である。
 暫くすると再び大丘陵地帯になり、前方、左右に無数の丘陵が置かれている。この旅では、方々でこの世ならぬ風景にお目にかかっているが、ここもまた異様な丘で埋められた奇妙な地帯である。
 長い丘陵地帯が終ると、こんどは大原野、駱駝草点々。右手には長い山の稜線が続いている。道路工事のため道から逸れて漠地に入る。砂塵舞い上がり、砂が滝のように降って来る。やはり紛れもなく沙漠なのである。
 十一時二十分、漸くにして大オアシス耕地地帯に入る。右手遠くに山影重なっている。高梁畑は黄ばみ、ここにもまた秋は来ようとしている。くるま、右手の山脈を目指す。前方に山が重なって見えている。その山のどれか一つに登って行くのであろう。やがて、山に突き当り、道は山と山の間に分け入って行く、十一時三十分である。
 山間部に入る。前方の山の頂きに雪が見えている。のどかな農村地帯のドライブとなり、やがてくるまは渓谷に入って行く。前方には雪の山、右手には渓流、磧《かわら》には楡。谷は深く水は美しい。
 十二時、流れ左手になり、道は上りになる。流れは次第に細くなる。前のくるまの砂塵烈しい中を、道は山の斜面を巻き始める。
 やがて、登りつめたところで、目指す天池が眼に入って来る。四方を山に包まれた湖で、しんとしたたたずまいである。湖畔を少し走って行って、湖岸の休憩場に入る。湖畔には樅《もみ》の大樹多く、周囲の岩山の斜面を埋めている木も樅である。
 美しいと言えば美しいが、三時間の時間を持て余す。ひどく寒いと聞いて、その準備をして来たが、少しも寒くない。天池は西王母《せいおうぼ》の風呂場、ここから少し降ったところにある小天池は足の洗い場であると言われているという。
 ひどく疲れて、夕方、ウルムチに帰る。夜は、孫平化氏から中国共産党第十一次全国大会について話を聞く。
 
 八月二十七日、午前はウルムチ市紅山商場を参観し、午後は二時四十分に、長くお世話になった迎賓館を出発。新疆地区のスケジュウル全く終って、今日は北京に帰る日である。
 風があるので、街路樹のポプラが揺れている。ウルムチは昨日は三十三度、今日は三十二度、この数日は三十二、三度、多少異常な暑さだという。町に出ると、体は汗ばんでくる。それにしても、トルファンはやはり暑かったと思う。トルファンは平均四十四度、最高五十三度というが、その平均の四十四度を経験したのである。
 嬰児《えいじ》を抱いている女のなんと多いことか。耳輪も、大抵の娘の耳にぶら下がっている。沙漠の国に来て、なるほど耳輪というものは美しいものだと思う。女はここでは大抵白いシャツ、純潔な感じである。髪は断髪が多く、少女は二つ分けのお下げにし、リボンをつけている。服装はスカートか、ズボン、簡素でいい。民族服は殆ど見られない。
 商店街(回城)に入ると、老人が多くなる。みな髯を生やしている。それにしても、買物を網の中に入れて、それをぶら下げて歩いている女の多いのが眼につく。流行かも知れない。そうした中を驢馬のひく荷車がゆっくり動いている。
 漢城に入る。ポプラ、楡の竝木が美しい。いよいよウルムチともお別れである。砂丘の欠片よ、ひまわりよ、驢馬よ、丘の色と同じ色の土屋よ、白壁よ、子供を大勢くるまに乗せた母親よ、瓜を抱えた男よ、フェルトの靴よ、荒壁の崩れた家よ、白壁のはげ落ちた家よ、戸口に腰かけている老人たちよ、街路樹の下にくるま座になって憩っている一家よ、ポプラの黄ばみよ。
 
 空港に着く。トライデント、一一二人乗り。蘭州を経て、北京へ。蘭州まで一七二五キロ、二時間五分の予定。
 四時半離陸。すぐ左手に雪の天山。大沙漠の波立ち、宛《さなが》らひだの多いスカートを何百枚もひろげ竝べたようである。
 すぐ天山に平行して飛びながら、その支脈の一つを越える。離陸してから、まだ五分とは経っていない。機内の座席の下に、ハミ瓜がごろごろしている。乗客が持ち込んだものである。
 五時四十五分、依然として左に雪の天山を見ながら、天山北路の上を飛んでいる。
 六時十五分、大沙漠の上。沙灘《さたん》とでもいうのか、沙漠には無数の砂の波が置かれている。波が寄せているに似ている。右手の山脈、次第に低く、遠くなって行く。ここで天山と別れる。やがて丘陵地帯になり、そこを越えると、大オアシス地帯、また山岳地帯、山脈の尾根を二つか三つ越すと、やがて大耕地、蘭州である。
 六時三十分、蘭州着。大沙漠の一隅の空港である。三方は全く山影なし。休憩一時間、食堂にて夕飯、窓から見える月は十四日。明日が満月である。
 
 七時四十五分、離陸、舞い上がると、すぐ丘陵地帯。こんどは岩の波である。同じような形の岩山が、無数に押し寄せている。ここもまた、ちょっとしたカッパドキヤ高原である。その上に十四日の月が出ている。大断層も横たわっている。どこまでも異様な丘陵地帯は続く。敦煌もまた、このようなところにあるのであろうか。
 刻一刻、地殻の上は暗くなりつつある。夜が来たのである。地殻を休ませるために、夜はやって来たのだ。空は清く、明るいが、それに反して、地上はすべての形を失って、黒一色になろうとしている。
 十分後に、空もまた、暗くなる。烈しい雷光がひらめく、雷光は短い間隔で、機外の闇を引き裂いている。
 九時二十分、北京着。二十七度。
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