五月七日、午後五時四十分、列車は酒泉駅に到着、昨夜半来、十八時間に亘って河西回廊地帯を走り続けて来た蘭新(蘭州─新疆地区・ウルムチ)鉄道と別れて、酒泉駅に下車する。これで河西回廊の列車の旅は、全く終わったわけである。
しかし連《きれん》山脈と馬《ばそう》山山系(龍首山、合黎山、馬山等の山々)の間に挟まれた甘粛省の細長い盆地が、これで終ってしまったというわけではない。河西回廊は更に西方に延び、安西、敦煌というオアシス都市を営んでいるのである。列車による河西回廊の旅は終って、酒泉からはジープの旅になる。
酒泉駅附近には人家はなく、町に向う舗装道路が一本真直ぐに、田野の中を走っているだけである。駅から県城までは一二キロ。
快晴、陽はまだ高い。街路樹のポプラはさほど大きくはないが、緑が鮮やかで美しい。道の両側には半沙漠、半耕地の地帯が拡がり、路傍に羊群が次々に現れる。時折、四頭の驢馬がひいている荷車を追い越したり、それと擦れ違ったりする。この地方は驢馬四頭が車をひくことになっているのかも知れない。
町に近づくにつれ、街路樹は大きくなり、左右に耕地が拡がり、あちこちに農家が見えて来る。やがて町に入る。閑散とした集落である。今夜の泊りである酒泉地区招待所に入る前に、酒泉工芸美術廠というところを参観する。酒泉の古い工芸品として知られている夜光杯を造っている工場である。二階建ての民家の階上階下が工場になっていて、そこらにざらにある町工場の感じである。小さい構えで、何となくほっとする。大きい工場であったら、夜光杯のイメージは壊れてしまう。夜光杯については何の知識も持っていないが、「唐詩選」に収められている夜光杯の詩は有名で、いつかそれの、“葡萄の美酒 夜光の杯”とか、“古来征戦 幾人かかえる”とかいった詩句が心に刻まれている。別離と、征戦と、それから異郷の酒宴にふさわしい葡萄酒と、それを満たす夜光の杯。
こんどこの旅に出る前に、東京で二、三の人から“酒泉に行くと夜光杯で酒がのめますね”と、そんな言葉をかけられている。この稿を綴るに当って、「唐詩選」をひもといてみると、作者は王翰《おうかん》、題は“涼州詞”、「国訳漢文大成」の訳を借りると、次のようになる。
葡萄の美酒 夜光の杯
飲まんと欲すれば琵琶 馬上に催す
酔うて沙場に臥す 君笑うこと莫《な》かれ
古来征戦 幾人か回《かえ》る
葡萄酒を夜光杯で飲もうとしたら、馬上で誰かが弾く琵琶の音が聞えて来た。興にのって杯を傾けるほどに、酩酊《めいてい》して、沙漠の上に臥してしまった。この酔態を笑うことなかれ。古来征戦の人、幾人本国に生還しているであろうか。わが身のまだ恙《つつが》なきを思えば、どうして酒を飲まずにいられようか。──異域に於ける出征武将の心情が、哀切な調子で歌い上げられている。
工場を参観したあとで、工場の責任者が夜光杯について説明してくれる。──伝承によると、夜光杯は西周時代より造られ、二千年の歴史を持っている。西周時代は玉石杯と呼ばれていたが、王翰が詩で夜光杯という呼び方をし、それが有名になって以来、夜光杯という名が一般に行われるようになった。現在、材料の石は、一部を連山脈から、他の一部を四川省の北部寧省、新疆ウイグル自治区のホータン(和田)地区などから採っている。
夜光杯を見せて貰う。本来は白、黄、黒、の三種の玉杯があるが、あいにく目下、黒いのしかないという。古書に“盃はこれ白玉の精、光明夜照す”という讃辞があるそうであるが、どうみてもそれほど大袈裟なものではない。いくら美しいと言っても、要するに石の盃であるに過ぎない。しかし異域趣味が一世を風靡した唐代には、この盃も充分妖しく、美しく、これを満たす、この地方で産する葡萄酒もまた、異国の酒として充分妖しく、美しく見えたことであろうと思われる。
「唐詩選」には辺境における酒宴を歌った詩が多いが、そこに葡萄酒と夜光杯を配してみると、詩の心は生き生きとして来る。たとえば“酒泉大守席上酔後作”というのがある。
酒泉大守能《よ》く剣舞す
高堂酒を設けて 夜鼓を撃つ
胡茄《こか》一曲 人の腸を断つ
坐客相看て 涙雨の如し
酒泉の長官として辺境に配せられている人が、同じように辺境に過している客を迎えての宴席の歌なのである。胡人の芦の笛は哀しく響き、主人も客も心打たれて、涙は雨のようであったというが、これは必ずしも大袈裟な表現とは言えないであろう。当時の辺境の酒宴に於ては、客であれ、主人であれ、遠い家郷を偲《しの》ぶ思いは、自然に涙となって、頬を伝い流れて已《や》まなかったことであろう。そして、こうした宴席の雰囲気を造り上げる上に、葡萄酒と夜光杯も大きい役割を占めていたに違いないと思うのである。
夜光杯の工場を出ると、工場の前はたいへんな人だかりである。道いっぱいに、ぎっしり人が詰まっている。私たちを見ようとする人たちである。それもその筈、酒泉の町に足を踏み入れた日本人は、かぞえるほどしかないに違いないのである。
群集に包まれた中で、くるまに乗る。時計を見ると、北京時間の七時。一時間半の時差があるので、ここはまだ陽が当っている。暗くなるのは、おそらく九時頃であろう。
ビルが少い静かな町である。ゴビ(戈壁)の中にできた古い歴史の町で、高い建物がないので、何とも言えずのびやかでいい。くるまの窓から、路地、路地を覗いてゆく。どの路地にも白壁の土屋が、しっとりとした感触で竝んでいる。以前は、この町を城壁が取り巻いていたというが、その頃はどんなに落着いたいい町であったろうと思う。中国には、私が知っているだけでも、古い歴史の翳りをもった、落着いた町が幾つかあるが、酒泉の町は、それにゴビの町、河西回廊の町としての特殊な性格を加えている。現在は辺境の町とは言えないが、西域史に登場する辺境の町としての翳りは、やはり現在も、他の形で持っているようである。
やがて行手に三層の鼓楼が見えて来る。鼓楼は十字街のまん中に設けられてあるので、くるまはそれに向って近づいて行く。そして鼓楼をぐるりと廻って、そこから程遠からぬ招待所に向う。くるまは間もなく、両側を白壁の塀で包まれた静かな路地を通って、招待所の門に突き当り、その中に入って行く。幾棟かの二階建ての建物が、広い敷地の中に置かれてある。宿舎、食堂、それぞれ別棟である。
部屋に落着くと、すぐ係の人が洗面器にお湯を汲んで来てくれる。それで顔を洗い、手足を洗う。そしてそのお湯は、庭の埃り押えに、戸外に撤きに行く。今日からは風呂も、シャワーもない。それほど水の貴重な地帯に入ったのである。
部屋で休憩をとったあと、別棟の広間で、地区革命委員会の人から、酒泉地区の概要について話を聞く。
──酒泉地区は八つの県よりなっており、人口は七〇万、八県のうち五県は農業県、三県は牧畜県。牧畜県の一つはカザフ族、他の二つの県は蒙古族が大部分を占めている。
──少数民族は蒙古族、カザフ族、回族、併せて約三万。
──この地区の冬の気温は、平均零下二十八度。最も寒い時は、零下三十五度になる。
──いま私たちが居る酒泉県は人口二五万。酒泉の町は五万。もとはこの町は鼓楼を中心に城壁が囲んでいたが、現在は全部なくなっている。明日行く酒泉公園への途中に西門があり、その附近は回族の居住地区であったが、現在はその西門もなくなっている。
やがて、宿舎のまわりに、夕闇が立ちこめて来る。別棟の宴会場で、地区革命委員会主催の、私たちの歓迎の宴が開かれる。地区革命委員会副主任・李棟氏、県革命委員会副主任・劉延緒氏等が出席、なかなか和やかな宴席の空気である。葡萄酒を、夜光杯でご馳走になる。
宴がはねて、宿舎にかえる時、夜空にちりばめられている星の高さに驚く。ひどく高いところで、星が光っている感じである。夜光杯で酌んだ葡萄酒には、西域の町・酒泉は感じなかったが、夜空を仰いでいると、何がなし、ああここは粛州であり、酒泉であると思う。小説「敦煌」で取り扱っている舞台に、今初めて自分の足で立っているという思いを持つ。
五月八日、八時に朝食、粟粥《あわがゆ》が出る。朝食後、招待所の広い庭を歩く。裏庭に大きな沙棗の木がある。河西回廊の列車の旅で、沙棗の木をたくさん見ているが、近寄って見るのは初めてである。宿舎の人の話では、春に黄色の小さい花をつけるが、家中が薫ると言われるほど、匂いが高いそうである。招待所には枝の垂れている楊が多い。正面玄関前の庭にも、何本か固まって植っている。日本の柳に似ている。
八時半に招待所を出発。ジープ五台、マイクロバス一台。中国側の大勢の人に付合って頂いて、申しわけない気持である。今日は安西に向うが、その前に酒泉公園に立ち寄り、それから酒泉を隔たる三五キロの嘉峪関《かよくかん》を訪ね、そのあと玉門鎮で昼食を摂る予定だという。
鼓楼のある十字路で停車、鼓楼をカメラに収める。いつ頃のものか知らないが、この鼓楼が酒泉を特殊な美しい町にしていることは否めないと思う。案内の人の説明によると、この鼓楼の基礎は、千五百年前の東晋の頃築かれているというから、それから推すと、現在の酒泉の町は、千五百年前の古い町とほぼ同じ地域に造られていると見ていいのかも知れない。
いずれにせよ、漢の武帝によって、この地区が対匈奴戦の前進基地として営まれてから、酒泉は敦煌や安西と竝んで、河西回廊西部の要衝として、西域史の重要な舞台となっている。この町の独特な静かなたたずまいは、そうした大きい歴史の翳りと無縁ではないであろう。
鼓楼をぐるりと廻って、十字路を左の方にとる。ポプラの竝木のある静かな通りで、道に沿って、所々に土屋が竝んでいる。
五、六分のドライブで、東の城外に位置する酒泉公園に入る。あまり人工の手の加わっていないさっぱりした公園である。大きな葡萄棚の下が道になっており、そこを脱けると、今を盛りと咲いているライラックの紫の花が、美しく眼に入って来る。ここでは桃の花が散ったところだというから、北京や東京より一カ月ほどおくれていることになる。
この公園のある場所は、すばらしい泉があるという意味で、昔は金泉と呼ばれていたという。現在でも、ここには実際に美しい水を湛《たた》えた池があり、湧口は石で方形に畳まれてあって、それを見物できるようになっている。
酒泉というこの古い歴史の町の名は、一説では、この泉の水が酒のように美味いので、そうしたところから名付けられたものだとされている。更にまた、その昔、この地区を転戦した漢の武将・霍去病《かくきよへい》の労をねぎらって、武帝は酒を贈ったが、若い武将はその酒を泉の水で割って、部下の兵たちと分けて飲んだという故事があり、酒泉という名は、そこから生れているとも言われている。
それはさて措き、昔からずっと続いて、今も、ここに豊かな水が湧き出しているということは、酒泉がすばらしいオアシスに営まれた町であることを、何よりも雄弁に物語っているものだと言えよう。
酒泉の町を外れると、すぐ北大河が横たわっている。連山脈より流れ出す大河であるが、今は水が涸れて、大乾河道になっている。夏、冬は水が溢れ、春はなくなるというから、上流に造られているダムのためであろうと思われる。
嘉峪関をめざして、三十分ほどのドライブが始まる。ポプラの街路樹を持った舗装道路が、坦々と走っている。間もなく、道の両側はゴビになる。今更に酒泉が全くのゴビの中の町以外の何ものでもないことを思い知らされる。
やがて街路樹のポプラもなくなり、道は正真正銘のゴビの海の道となる。が、暫くすると、右側のゴビの中に鉄工場の建物が見えてくる。と、こんどは左側のゴビの中にも、セメント工場が現れる。五八年以前は、この辺は一望のゴビの拡がりで、工場などは思いも寄らなかったという。セメント工場の煉瓦の住宅も竝んでいる。
やがて十字路。右に行くと嘉峪関市に到るが、くるまは真直ぐに進む。小さいオアシスがあり、そこに工場地帯が置かれ、労務者の住宅が建ち竝んでいる。ゴビの海の中の住宅群である。工場地区を、駱駝が荷車をひいて通っている。
行手、右の方に嘉峪関の城楼が見えてくる。くるまはそれに吸い込まれるように近付いて行く。やがて舗装道路を右に折れ、城楼を目指す。道はその方に折れ曲って行く。
嘉峪関址は想像していたより何倍も大きい大遺構であった。復原工事が行われたためか、真新しい巨大な城廓に近付いて行く思いである。くるまを城楼の前で停めて、そこの入口から、大城壁で囲まれた、その内部に入って行く。
嘉峪関は明の洪武五年(一三七二年)に、西北辺境の軍事基地として《せき》が造られたのが始まりで、その後一五三九年に城壁、羅城《らじよう》、烽火台が造られ、一五六六年には二つの城楼、四つの角楼、二つの敵楼(歩哨楼)が完成し、今日見る嘉峪関の結構はでき上がっている。明代の万里の長城の最西端として知られ、長くシルクロードの要衝として栄えたことは、ここからの出土品の数々が明らかにしている。
遺跡のあるところは海抜一七〇〇メートル。城壁の高さは一一・七メートル。城楼の一周は七三三メートル、城楼の面積は三万三五〇〇平方メートル。建造物は驚くべきほど細かい計算に基づいて造られているという。
敵楼に登って、関外に長く延びている長城の城壁をカメラに収める。それにしても、この関所がいかなる形で、いかなる活動をしていたか、無人の関址に立っている限りでは、その盛時を瞼に描くことは難しい。静かな陽光が降っている歩廊を、ゆっくりと歩いて行く。耳をすませても、何の物音も聞えない。気の遠くなるような静けさである。
嘉峪関を出て、再びゴビのドライブが始まる。右手に蘭新鉄道の線路が見えてくる。道はそれに平行して走り、やがて線路を横切って線路の右手に出、またそれに平行して走る。左手に連山脈が見えている。山容雄大である。連山脈の最も美しく見えるところかも知れぬ。それに対い合うようにして、右手にも山脈が現れている。この方もかなり大きい山脈で、二つの山脈の間にゴビの海が拡がっているのである。まさに河西回廊である。
道は降りになり、かなり長い坂を降り切ったところに農場がある。そこを通過して、くるまは新しいゴビの中に入って行く。道は、またゆるい降りになる。右手の山脈は山塊を重ねたような異様な山容を見せ、山塊は煙草のヤニのような黒さで覆われている。
やがてくるまは、突然赤土地帯に入る。道の両側も赤い。そこを過ぎると、駱駝草地帯になる。やがて、右手路傍の低い丘に烽火台の址が置かれているのを見る。何個かの土塊が、かなりの範囲に点々と散らばっている。停車して、その一画に立ってみる。つわもの共の夢の跡であるが、いかなる感懐も湧き起って来ない。歴史も、歳月もすっかり風化して、ゴビの海の中に呑み込まれようとしている。
再びドライブ始まる。清泉人民公社を通過する。小さいオアシスに営まれているごく小さい集落である。附近に白く塩の噴き出している地帯が拡がっている。
地盤は多少波立って来、道は丘陵地帯を上ったり、降ったり、折れ曲ったりする。また蘭新線の鉄道線路が近くに見えて来る。よくしたもので、そこをいつか列車が通るということで、多少の親近感を覚える。
道はまた大きく降り、大きく曲る。ゴビのただ中に、農家が一軒建っている。人が住んでいるか、住んでいないか判らない。左手遠くには、依然として大きい山容を見せて、連山脈が置かれてあり、右手にも次々に山塊が重なって現れ、それぞれの稜線が長く続いている。
大駱駝草地帯に入る。路傍には白く塩が噴き出している。久々で道にポプラの街路樹が置かれ始める。ポプラは大きく、みごとであるが、種類が違うのか、風に揺れ靡いているところは、幾らか妖怪めいて異様である。いつか、車外は風が強くなっている。
妖怪めいたポプラの竝木に導かれるようにして、道は玉門鎮のオアシスの中に入って行く。緑地帯に入っても、異様なポプラだけが繁っており、その中にひっそりと、土屋の集落が匿されている。化物ポプラの集落である。くるまはその集落の中に入って行き、傍に古い城壁の欠片のある静かな招待所に入る。二時である。
昼食を摂り、あとはそれぞれ割り当てられた部屋に入って、休息することにする。戸外の方が気持がいいので、椅子を中庭に出して、ひなたぼっこする。同行者の誰も同じようなことをしている。
ここ玉門鎮は蘭州から敦煌までの間では一番高く、従って大体涼しいところとされ、盛夏の一番暑い時でも三十一度ぐらい。しかし、冬の寒さは厳しく、零下三十度に達することは珍しくないという。冬は降雪があるが、風が強いので、一寸以上積ることはなく、住民は石炭を焚いて暖をとる。
この玉門鎮というところは人口六〇〇〇の古い小集落。ここから七〇キロほど離れたところに玉門市というのがあるが、この方は油田のある工業都市で、人口二〇万の新興の町である。
化物ポプラの集落での休憩は、何とも言えずのんびりしていて楽しい。どこかで、ごうごうと音がしている。風の音かも知れないが、集落の中は、ポプラに守られて静かである。殊に招待所の中庭は静かだ。煙草をくわえて、椅子にもたれ、河西回廊西部の、雲ひとつない青い空を眺めている。