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私の西域紀行14

时间: 2019-05-23    进入日语论坛
核心提示:十四 幻の海 五月八日(前章の続き)、酒泉から安西に向う途中、玉門鎮という古い小集落でゆっくり休憩、四時十分、玉門鎮を出
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 十四 幻の海
 
 五月八日(前章の続き)、酒泉から安西に向う途中、玉門鎮という古い小集落でゆっくり休憩、四時十分、玉門鎮を出発する。集落の入口にある化物のような大きなポプラの竝木を脱ける。ポプラの枝も、葉も一方に靡いている。風のためにこうなったのだという。
 道はすぐゴビに入る。安西まで一五〇キロ、二時間半のドライブの予定。ゴビに出ても暫くはポプラ竝木が続くが、やがてポプラは姿を消す。
 五時、一望ゴビの海の中を走っている。左右共に全く山影はない。もちろん一本の木もなく、僅かに駱駝草が生えているだけである。遠くに竜巻が見えている。
 玉門鎮より五〇キロの地に橋湾城という城の址がある。道から四、五百メートル入ったところに、半分砂に埋まった城壁のみ見えている。城壁を遠望している限りでは、なかなか恰好のいい城である。造られただけで使われたことのない城で、清の幻の城と言われている。これを造った人物は、これを造ることによって私腹を肥やしたとかで、死罪に問われ、城はゴビの中に放置されて、今は城壁だけになってしまっているのである。
 くるまを降りて、休憩、遠くから幻の城を眺めている。無用の長物には違いないが、一つぐらいこのような城址があってもいいと思う。人が住んだこともなく、いかなる歴史も持たない城址である。
 再び出発、幻の城をあとにする。ゴビは次第に沙漠化してくる。間もなく土壌は大きく波立ち始める。まるで沙漠の波濤である。見渡す限り、土と砂の波が沙漠を埋めている。ヤルダン地帯である。
 沙漠のただ中に置かれてある線路を越す。線路に沿って、線路を風から守るための木柵が続いている。中国では、風の強いところを老風口と言うが、この地帯は特に安西の老風口として知られているという。沙漠を埋める土と砂の波濤は、風が永年にわたって造り上げたもので、“風蝕によって造られた硬い粘土の波立っている地帯”とでも言う他はない。ヤルダン地帯のことを、往古の西域紀行では“龍堆”とか“白龍堆”とか記している。土龍地帯とでもいう意味であろうか。これは専らロブ湖周辺の沙漠の様相を説明する時使われており、敦煌以東に、このような地帯があろうとは思われなかった。いずれにしても、このふしぎな風景は、風の制作である。
 辺塞詩人、岑参《しんしん》の詩の一節に“兵を魚海に洗えば、雲、陣を迎え、馬を龍堆に秣《まぐさか》えば、月、営を照らす”(高木正一氏「唐詩選」)というのがある。一日の戦闘が終って、兵器を湖で洗っていると、兵団を迎えるように雲が湧き起り、ヤルダン地帯で馬にまぐさを与えていると、月が軍営を照している。──悽愴《せいそう》な第一線の出征部隊の情景を謳った詩である。この詩の舞台がどこか知らないが、ヤルダン地帯の荒涼さを、これほどよく生かした詩は他にないだろうと思う。
 道は右手にゆるく曲ってゆく。しかし、右に曲ろうと、左に曲ろうと、たいしたことはない。沙漠のまっただ中である。老風口地帯はいったんなくなるが、やがてまた再びこの世ならぬ風景は展開し、そして消える。
 
 六時、辺りは全くの沙漠である。陽はまだ高い。沙漠の果てに海面のようなものが、細長い帯として見えている。蜃気楼《しんきろう》である。中国では海市蜃楼とか、麦気とか言っている。工作員のGさんは“日本で言う逃げ水です”と説明してくれる。
 そう言われてみると、先刻から度々、幻の遠い海面を見ている。
 左手には遠い山なみが続いているが、右手には山影全くなく、ここにも幻の海が見えている。正面行手の幻の海の方は、対岸に山を持っている。山の緑が帯のように置かれている。運転手君の話では、その幻の海の対岸の緑の中に、幻でない、本ものの安西の町は匿されているという。
 しかし、その緑はなかなか近寄って来ない。二十分ぐらいかかったであろうか。緑に向ってのドライブの果てに、漸く道に街路樹が現れ始める。初めは見るからに繊弱なポプラであるが、次第に逞《たくま》しくなってゆく。しかし、それも切れたり、続いたり、そうしたことの果てに、もの凄いポプラ竝木に変ってゆく。玉門鎮の集落の入口でお目にかかった、あの化物のようなポプラである。
 安西の町に近い所で、道は二つにわかれる。まっすぐに行くと、新疆地区のハミ(哈密)に向う。ハミまでは三六〇キロ。左に曲ると、安西、敦煌に向う。敦煌までは一二二キロである。私たちはここで蘭新自動車道路と別れて、敦煌への道をとる。これからは安敦道路のドライブとなる。
 正面遠くに緑がある。そこに安西の町が匿されている。いつか幻の海はなくなり、くるまはそのほん物の緑の中に入って行く。
 やがて左手に、古い城壁の欠片が見えてくる。今の安西の町に移る前の、古い安西の町の城壁だという。古い町は水が深くて、人が住みにくくなったので、製粉工場だけを残し、それ以外は全部引越してしまった。東と北の城壁の一部はそのままになっているが、他はみな壊してしまったという。従って、町の引越しは、そう遠い昔のことではない。
 その城壁から一キロのところに、今の安西の町は営まれている。先刻から続いている凄いポプラの竝木を通って、清潔な新開地といった感じの安西の町に入って行く。町の入口に招待所がある。今夜の宿泊所である。
 ここも幾つかの別棟の平屋が、広い敷地内に竝んでいて、食堂も別棟になっている。便所は敷地の一番隅に設けられてあり、ひどく遠い。ここでも洗面器に入れられたお湯が運ばれて来、それで顔と手足を洗う。
 
 夕食の時の同席者の話では、今日は午後風が強かったが、四時頃ぴたりとやんだという。丁度風の収まった頃、私たちは老風口に入ったことになる。風が強いと、あのヤルダン地帯では、くるまは走ることができないということであった。
 その同じ夕食の卓で、ここに移る前の古い安西の町はいつ頃造られたものであるかを訊ねてみた。が、正確な答は得られなかった。
 ──この地区が瓜州と呼ばれた時代、町がどこにあったか、それを知りたいんです。
 すると、同席している一人が、
 ──ここから西方一〇キロのところに、瓜州人民公社がありますが、そこは国民党時代には瓜州郷と呼ばれていたところです。そこに古い遺跡があります。遺っているのは城壁だけですが、あるいはそこかも知れませんね。明朝までに調べておきます。
 と言った。私にとっては、たいへん有難いことであった。小説「敦煌」で取り扱っている十一世紀の瓜州が、今遺っていよう筈はないが、その位置だけでも、知ることができるなら知りたかった。
 
 五月九日、六時起床。外に出ると風はつめたい。こんどの旅で経験した一番寒い朝である。九時に宿舎を出るという通知があって、瓜州人民公社の遺跡が、昔の瓜州の城址であるかどうか、はっきり判らぬが、とにかく、そこへ案内しようという。
 九時出発。ポプラの通りを行く。風が強い。そのためか人一人通っていない。案内役を受持っている人が、
 ──西風はさほどでもないが、東風だと一日中吹き荒れます。今日はあいにく東風ですな。
 と、おっしゃる。
 ──なにしろ、関外の三絶の一つにあげられている安西の風ですからね。
 半ば自慢げな言い方である。
 間もなく、一望のゴビの原に出る。そのゴビを脱け、ひよひよしたポプラの植っている道を行く。水のきれいな小川を渡ると、やがて小さい集落がある。瓜州人民公社である。左手に、予想していたより大きい遺跡が見えている。安西の招待所より十分か、十五分の距離である。ポプラの間から城壁が見えている。
 くるまはその城壁に沿って廻ってゆく。左に折れ、また左に折れ、遺跡に突き当る。くるまを降りたところが、遺跡の内部への入口になっている。もちろん、そこだけ城壁が欠けて、自然の入口になっているのである。
 堂々たる大きな遺跡である。周囲三キロ、ほぼ長方形をなしており、それをぐるりと、半壊の城壁が囲んでいる。北側の城壁の一部は上部まで残っている。内部は荒蕪地になっており、土壌が粘土なので草も生えていない。耕地にもならなければ、放牧地にもならない。ところどころ白くなっているが、その辺りはアルカリ地帯なのであろう。
 その広い荒蕪地のまん中を、東西に道が一本走っている。くるまや驢馬が通る道なのであろう。遺跡の中に立つと、ごうごうと風が鳴っている。この遺跡がいかなる遺跡か、正確に知ることができなかった。瓜州城の跡であるかも知れなかったし、そうでないかも知れなかった。しかし、今の安西の何代か前の安西の町が営まれたところであるということだけは、先ず間違いないことのように思われた。
 
 ごうごうと風の鳴っている遺跡をあとに、一路敦煌を目指す。敦煌までは一二一キロ。
 安敦街道を走り統ける。ゴビの果てに幻の海が見えている。対岸まで見える。次第に、それに近付いて行くと、何となく海に近いところを走っているような感じになるから、ふしぎである。道がゆるくカーブし、幻の海を左手にして走るようになると、海沿いの低い丘でも走っている気持になる。遠い山は藍色、海は青、丘は茶色、陽は真上である。現実と幻の入り混じったいいドライブである。
 前方に山脈が現れて来る。その山沿いに走る。前方の山は連《きれん》山脈の支脈であるという。一木一草のない山である。右手には山影なく、ゴビが拡がっている。
 連山脈の支脈は、いつか丘の連なりになってしまう。そしてそれが消えると、新しい山の連なりが登場して来る。陽の光のためか、今日のゴビは白く見えている。緑というもののない地帯が続く。人間の生活の臭いは全くない。
 白いゴビ、左手の岩山の連なり、他に何もない安敦街道である。いかんともなし難い、全く同じ風景が続く。道、ゆるく曲り、また曲る。岩山が近付いてくる。路傍に烽火台がある。
 道、岩山の裾を走る。一見すると、粘土とコンクリートをこね合せたような異様な山である。安西の人たちは、この山を南魔山と呼んでいるという。なるほど、ほかに呼びようはないと思う。魔ものの山である。
 右手には依然としてゴビが拡がっている。しかし、南魔山のあたりから、ゴビというより沙漠に近いものになる。久しぶりで人間に会う。駱駝に乗った老人二人が、右手の沙漠の中を東に向っている。
 南魔山の丘の連なりの向うに、もう一つ同じような山の連なりが見えて来る。運転手君に訊くと、二つの山はつながっていて、同じ山であるという。南魔山が二つ重なっているのである。多少奇妙なことであるが、南魔山である以上、そのくらいのことはあって然るべきかも知れない。
 沙漠のまっただ中に、烽火台が現れて来る。大きな烽火台で、その附近に、建物の基壇らしいものが散らばっている。
 いずれにしても、敦煌というところはたいへんなところにあると思う。いまくるまで走っているところを、駱駝で行くとなると、やはり生命がけの行程であると言わざるを得ない。
 
 やがて、遠くに緑の線が見えて来る。敦煌は、その緑の中に仕舞われてあるという。
 右手に三危山、正面に鳴沙山が見えて来る。どちらも敦煌関係の書物には、必ず登場して来る山である。三危山は連山脈の成れの果てというか、その末端部の岩山であり、鳴沙山は、遠望している限りでは、稜線のなだらかな砂の山の連なりである。
 三危山と鳴沙山が、互いにその体を近づけた、その谷間《たにあい》に、敦煌千仏洞は営まれてあるのである。その千仏洞のある地帯を遠く左手に見ながら、くるまは緑の地帯に入って行く。急に街路樹のポプラが多くなり、道の両側に耕地が拡がり始める。小麦畑(春蒔)も点々と置かれている。
 くるまは農村地帯に入る。ゆたかそうな集落である。緑がふんだんに置かれ始める、大オアシスである。
 町に入る。田園都市の感じである。町の中に耕地も取り入れられてあるし、畑も、あちこちにばら撒かれている。
 間もなく、宿舎の招待所に入る。ここもまた広い敷地内に、幾棟かの宿舎が竝んでいる。宿舎の前の水道の水で顔を洗う。
 割り当てられた部屋に入ると、ここでもまた、寝台の上に仰向けにひっくり返る。そして三十分眠ってから、持参のブランデーを嘗《な》める。漸くにして敦煌に来ることができたということで、多少の感慨がないわけではない。
 別棟の会議室で、敦煌県革命委員会主任・文玉西氏から、現在の敦煌県について、その概要を話して頂く。
 ──敦煌県は河西回廊の最西端。南は連山脈に囲まれている。他の言い方をすると、砂の山と、ゴビ灘に囲まれている。海抜一一〇〇メートル。
 ──乾燥地。雨量は少く、二九・四ミリ。蒸発量二四〇〇ミリ。平均温度一〇・五度。
 ──漢族は九万二〇〇〇余、回族は七六〇、他に少数の蒙古族、チベット族。
 ──大部分が農業に従事している。連山脈の水の恩恵によって、小麦、綿が生産される。綿の生産量は五一八万斤。
 ──解放前には“水が多くなった時はゴビ灘に溢れ、水が少くなると、水は油より貴くなった”という歌が唱われた。全くその通りであったが、今は一滴の水も無駄にしないようにして、水の問題を解決している。
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