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私の西域紀行15

时间: 2019-05-23    进入日语论坛
核心提示:十五 大きく盛んな町──敦煌 五月十日、昨夜は敦煌文物研究所長の常書鴻、李承仙の御夫妻が招待所まで訪ねて来られ、食卓を一
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 十五 大きく盛んな町──敦煌
 
 五月十日、昨夜は敦煌文物研究所長の常書鴻、李承仙の御夫妻が招待所まで訪ねて来られ、食卓を一緒に囲んだが、そのあと部屋に帰ると、すぐ寝台に入り、朝六時まで熟睡する。さすがに疲れていたのである。
 朝食まで、招待所の庭を歩く。今日から四日間、ここに滞在するが、千仏洞通いが主な仕事になる。それにしても、敦煌に来るのは、やはり大変だったと思う。蘭州、酒泉、安西にそれぞれ一泊、別に列車で一夜を過しているので、北京を発ってから五日目に敦煌に入っている。やはり敦煌は都から遠いところだと思う。おまけに酒泉─安西─敦煌はジープの旅で、まる二日間、沙漠とゴビのドライブである。そう簡単には来られないところである。
 現在、敦煌は往時のように国境の町でも、辺境の町でもない。甘粛省の西には更に、日本の四倍半の広さを持つ新疆ウイグル自治区(往古の西域)が置かれている。国境までは遙かに遠い。しかし、西域史に出て来る辺境の町という敦煌の印象は、そのまま今でも生きていると言えそうである。
 朝食には棗《なつめ》の入った粟粥が出る。中国には八回来ているが、棗の入った粟粥にお目にかかったのは今度の旅が初めてである。
 八時、ジープで招待所を出る。千仏洞の窟内の寒さが見当つかないので、私も妻も防寒のための帽子、スウェーター、手袋などを、ジープの中に持ち込む。
 招待所を出ると、すぐ閑散とした土屋の町に入る。曇天。駱駝が荷車をひいている。人口九万というが、そういう町には見えない。さわやかな風の通るのびやかな田園都市である。町の中に畑があったり、耕地がはさまっていたりする。町の中心部でも自動車は殆ど見掛けず、自転車もさほど多くない。驢馬がひく車には荷物が載せられてあるより、人が乗っていることの方が多い。
 正面に鳴沙山が見えると思っているうちに、すぐそれは右手になる。あっという間に町中を脱けて、田圃に出る。鳴沙山はこの辺りからは、山というより長い丘の連なりに見える。
 その鳴沙山を右手に見ながら、田圃の中の道をまっすぐに走って行く。土色の土屋が多く、白壁の家は少い。やがて右に直角に曲って、三危山の方に延びている道に入る。敦煌千仏洞に向う道である。向きは変えたが、こんども鳴沙山は右手に見えている。道は鳴沙山を大きく廻っているのである。その右手の鳴沙山と、正面の三危山の、それぞれの尻尾が相迫っているように見えるところを目指して、くるまは進んで行く。三危山は黒く、鳴沙山は黄色。
 道は二つの山の間に入って行く。いつか鳴沙山は低い砂山になっている。前方にひと握りほどのオアシスの緑が見える。濃い緑の絵具を一尺ほど、さっと掃いたようだ。
 
 くるまはやがて、その緑の中に入って行く。左手の三危山も、右手の鳴沙山も、ごく近くなっている。右手に視線を投げると、緑の樹木を透かせて、鳴沙山の断崖に彫られている石窟群が見えている。
 オアシスの中を少し走り、直角に右へ曲って千仏洞に通じている道に入る。そして大きい乾河(大泉河)に架かっている橋を渡ると、そこに莫高窟《ばくこうくつ》と書いた額が掲げられてある門がある。それをくぐると、敦煌文物研究所賓館前の広場である。ここでくるまから降りる。その広場から、正面の砂山の断崖に掘られている石窟を、指呼の間に望むことができる。
 右手の研究所賓館に入り、当てがわれた部屋に荷物を置き、身支度して、広い応接室に行く。常書鴻御夫妻の姿が見えている。
 一休みして、常書鴻氏の案内で千仏洞に向う。
「正しくは敦煌莫高窟千仏洞と呼ぶべきでしょうか。莫高窟の“莫”は、もとは“漠”でした。沙漠の高いところという意味なのでしょう。現在ここは“敦煌県莫高窟”、唐時代には“敦煌県漠高郷”となっています」
 常書鴻氏はおっしゃる。
「現在、ここには研究所員と、その家族一〇〇人が住んでいます。そこらに畑がありますが、研究所の家族の者が作っているもので、ここには農家はありません」
「一〇〇人の集落なんですね」
 私が言うと、
「そうです。今は賑やかです。私が初めてここに来た時は、──一九四三年のことですが、道士一人、ラマ僧二人、それに私と、全部で四人でした。もちろん電気も水道もなかった」
 氏は言って、笑った。きれいな笑いである。その当時の話を聞きたいが、あとのことにする。
 千仏洞の前の通りには、大きい白楊の木がたくさん植っている。白楊の大樹である。それ以外に附近にはポプラ、楡、楊などの大木もあり、胡桃《くるみ》の木もある。また林檎畑、葡萄畑などもある。白楊の葉は、白樺の葉に似ていて、葉裏が美しい。大風が吹くと、枝葉がぶつかり合って、大きい音がする。鬼が手を叩く音も、かくあろうかと思われるということで、白楊は鬼搏掌という別名を持っているそうである。
 常書鴻氏の案内で二六三窟を皮切りに、二五七、二五九、二五四、二四八、二四九、二八五、二八八、二九〇、四二八の十窟を見せて頂き、研究所賓館で昼食、部屋に戻って二時半まで休憩。
 千仏洞見物はなかなか楽しい。常書鴻氏の案内で石窟に入ったり、石窟から出たり、一窟から一窟へと移って行く気持は爽やかで、のびやかである。贅沢なものがいっぱい詰まっている窟から、また別の贅沢なものが詰まっている窟に移ってゆく。楽しい作業である。石窟から歩廊に出ると、陽が当っており、風が渡り、遠くに見えている三危山の眺望も倦きない。
 カメラを撮るのが面倒臭くなる。よほどのものにぶつからぬ限り、カメラは構えないことにする。何となく経廻っている方が楽しい。それにメモだけはとらなければならない。
 
 休憩の時間に、千仏洞のある一画を散歩する。ここから一五キロの地点に大泉という泉があり、その水が流れて来て、ここのオアシスを造っているという。特に千仏洞のある一画はいい。千仏洞が造られたのは、ここがのどかで、いい所であるからであろう。白楊などの樹木の他に、散歩している足許には薬草もたくさん生えている。タマリスク(紅柳)の赤い花、馬蘭《ばらん》の小さい紫の花、その他甘草《かんぞう》、苦豆子、々《ちいちい》草などが、足許の叢《くさむら》を作っている。
 午後は、やはり常書鴻氏の案内で、四四五、四四四、三三一、四二七、四二四、四二〇、四一九、四〇九、三九〇の九窟を参観する。
 千仏洞は、どの窟も、正面奥の須弥壇《しゆみだん》の上に塑像《そぞう》が竝び、四囲の壁面は壁画で埋められている。中には龕《がん》が造られ、そこに塑像が収められたり、須弥壇が中央に置かれてある場合もあるが、ごく稀である。
 塑像の方は大体正面に置かれてあるので、入口からの光線に頼ることもできるし、懐中電燈によっても、比較的簡単にその像を捉えることができるが、壁画の方はそうは行かない。壁面という壁面は、ライトなしでは、そこに何が描かれてあるか判らない。従って常書鴻氏が懐中電燈の光を当てて、説明して下さるところを覗き込んだり、カメラに収めたりする以外仕方ない。
 五時半に参観を打ち切って、千仏洞の下の道を歩く。道に木の影が映っていて美しい。落日近い陽は千仏洞の上にある。間もなく陽はかげるだろう。静かな、贅沢な、いい疲れと歩行である。
 
 敦煌の町に帰り、招待所に入る。ここもまた洗面器いっぱいのお湯が運ばれてくる。水が貴重なのである。顔を洗い、手足を洗う。宿舎の前に水道があるが、時間給水で、いつでも水が出るとは限らない。蘭州に帰るまでは、バスとも、シャワーとも無縁な生活である。
 夕食後、昼間のメモの整理をし、あとはマオタイを飲みながら、窓外の暗い闇に視線を投げている。妻が、敦煌に来て、敦煌の土を踏み、千仏洞に行って、石窟に入り、塑像の仏さまと壁画の前に立ったのだから、さぞ満足でしょうと言う。確かに満足であるに違いない。いま、確かに自分は敦煌に居ると、そういう思いを確かめてみる。
 
 漢の武帝が河西四郡(武威、張掖、酒泉、敦煌)を設けたのは、紀元前一一一年のことである。敦煌という名が史上に出るのは、この時が初めてだ。それ以前の河西の地、つまりこんど私が列車とジープで通過して来た河西回廊一帯の地は、漠族の他に大月氏《だいげつし》、小月氏《しようげつし》、羌《きよう》族、匈奴なぞが入り混じって住んでいた地帯であったが、次第に匈奴が強勢になり、他の少数民族を追って、この地帯を制圧し、漢の王朝に対する一大敵対勢力になっていた。
 この河西の地の情勢を一変させたのは漢の武帝である。武帝は衛青、霍去病《かくきよへい》の名将をして匈奴を討たしめ、それを遠く西北方に奔らせるや、この地帯を漢の勢力下に置いたのである。そして西域経営と対匈奴作戦の前線基地として、河西四郡を設けた。河西四郡の中では、敦煌が一番西端に位置しているので、文字通りの最前線基地なのである。
 敦煌という名は立派である。敦は“大きい”、煌は“盛ん”という意味で、敦煌は大きく盛んな町ということになる。匈奴の根拠地であった集落が、もともとこのような立派な名前を持っていよう筈はない。武帝はここを最前線基地とするに当って、その名を卜《ぼく》して、大きく盛んな町・敦煌と名付けたのであろう。
 二千年前の敦煌は純然たる軍事基地であった。大兵団が駐留し、そのために新たに商店も立ち竝んで、殷賑《いんしん》を極めたことであろう。西北の沙漠の中に玉門関、陽関という国境の関門が造られたのもこの時期で、国境線は敦煌から西方、八、九十キロの地点に引かれ、それに烽燧台《ほうすいだい》が五キロ、一〇キロの間隔で竝んで、一旦緩急の時のために備えられた。
 が、時が移って、漢の西域経営が進み、西域に都護府が置かれるようになると、敦煌は軍事基地である許りでなく、東西交渉の基地として新たな性格を帯びて来る。東に、あるいは西に向う旅行者はみなここを通過し、町には店舗と旅宿が軒を竝べ、バザールも賑わい、駱駝のパーク場もあちこちに設けられていたことであろう。あらゆる西方の文化が、ここから入っている。仏教も例外ではない。
 この漢代の大きく盛んな町・敦煌は、その後決して平穏な道を歩いたわけではなかった。変転する歴史の波は容赦《ようしや》なく覆いかぶさり、この地から漢の勢力は追われ、漢時代の敦煌の町は地上から姿を消している。五世紀の西涼と北涼との合戦の時、敦煌の町は完全に破壊され、廃墟となり、やがて地下に埋まったと推定されている。
 が、時代が下ると、再び新しい敦煌は生れている。北魏、西魏、北周、隋、唐と、時代は変って行くが、唐代には漢代に劣らぬ大きく盛んな町・敦煌が殷盛を極めている。もはや単なる軍事基地ではない。東西文化交流の、あるいは東西貿易の一大中継地として繁栄している。おそらく敦煌の最全盛時代であり、朝、昼、夜と、一日に三回市が立ったのも、この頃のことであろう。
 それからまたこの時期に、敦煌は新たに仏教都市としての性格を併せ持つようになる。敦煌の郊外の沙漠の中に初めて石窟が掘られたのは四世紀の中頃のこととされているが、時代が下って唐代になると、莫高窟は有名になっている。石窟の開鑿《かいさく》も最も盛んな時期を迎え、参拝者、巡礼者はあとを絶たなかった筈である。町には寺院も多く、この地に留まる僧侶も多かったであろう。仏師も、画師も多く、そしてその工房も、町のあちこちに設けられていたことであろう。
 しかし、この唐代を中心とする大きく盛んな町・敦煌もまた、その後変転する歴史の波をかぶり、この地帯の支配者も、吐蕃、漢の地方豪族、西夏、元、明、清と変わって行く。そしていつかこの敦煌の町は消え、土に埋まり、清代、一八世紀初めに、こんど私たちの入った今日の敦煌の町は造られている。いつ、いかなる理由で、それまでの長い歴史を持った敦煌は棄てられ、新しい今の敦煌が造られたのであろうか。
 今の敦煌はもはや大きく盛んな町とは言えない。軍事都市でも、貿易の中継地でも、宗教都市でもない。と言って、辺境の町でもない。爽やかな風の通る、沙漠に囲まれたのびやかな田園都市である。
 すべてが変った中で、ただ一つ変らないものがあるとすれば、それは莫高窟千仏洞であろうか。史書によれば、盛時は一千の石窟を算えたというが、常書鴻氏の話では、現在は四百九十二窟が整理されているという。まだたくさんの石窟が砂の中に埋まっているのかも知れない。そういう変化はあるが、莫高窟は美術の宝庫として今や世界的に有名である。整理された石窟の中に収められている塑像は三千点、全壁画を横に竝べると、四五キロに及ぶという。いずれも、四世紀から十四世紀まで、約一千年に亘って開鑿されたもので、自然の乾燥度がこれを守って、今日に到っているのである。
 マオタイを飲みながら、視線を投げている窓外の闇は深いが、いくら深くても、不思議はない思いである。往古の敦煌の町はなくなり、曾てこの地区に住んでいた多くの民族も、今は影も形もなくなっている。匈奴、羌族、ウイグル、鮮卑《せんぴ》、モンゴル、西夏、みなその時期、時期の歴史の波と共に、すっかり姿を消してしまっている。歴史というもの、歳月というものは怖ろしい力を持っているものだと思う。
 
 五月十一日、七時起床。食堂で、同行の孫平化氏に、漢代、唐代の二つの敦煌の址に立たせて貰うことと、それから若し出来るなら、玉門関、陽関の址に立たせて貰いたいということを申し出る。できるだけご希望にそうように取りはからってみましょうと、氏は言われる。
「でも、そうなると、そのために一日をさかなければならない。千仏洞の参観が、一日少なくなりますね」
 と、氏は、おっしゃる。
「千仏洞の方は千仏洞の方で、これから三日で廻るところを二日で廻ってしまいましょう」
 私が言うと、
「超スピードになりますね。歩廊から落ちないようにしないと」と、氏。
「大丈夫です。あれだけの仏さまが、みな守って下さるでしょう」と、私。
 玉門関、陽関行きの希望が容れられるかどうか判らないが、容れられるものとして、千仏洞の方は、今日一日で、二十窟から三十窟ほど見せて貰おうと思う。しかし、これもそれが、可能であるかどうか、判らない。
 八時半、招待所を出発。快晴。きのうと同じように、千仏洞まで二五キロ、三十分の気持よいドライブである。
 今日もまた、常書鴻氏に案内して頂く。
 二九六、三〇二、三〇五、三一九、三二〇、三二一、三二二、三二三、三二八、三二九、三三二、三三五、十二、九、三、四五、四八一の十七窟で、昼食の休憩。
 午後は、十六、十七、五七、六一、七九、八五、九六、九八、二二〇、二一七、一〇三、一九四、一九六の十三窟。
 今日は全部で三十窟を見たことになる。カメラは妻に任せ、専らメモに専念する。五時に莫高窟を出、賓館の応接室で、常書鴻氏が入れて下さるコーヒーを戴く。さすがに疲れているので、東京以来初めてのむコーヒーの味が胃の腑にしみ渡って行く。
「今日は石窟から石窟への強行軍でしたから、他のものは何も眼に入らなかったでしょう」
 と、常書鴻氏。
「それでも、千仏洞の歩廊の砂の上に小さい虫がたくさん居るのを見ましたよ」
 と、私が言うと、
「ああ、あの小さい黒い虫ですか、あれは水がなくても生きられる虫で、ゴビ灘の虫です。難しい名ですが──」
 と言って、ノートに“屎爬牛”と書いて下さる。意味はわからないが、小さい体に似合わない大きな名前である。
 賓館を辞して賓館前の広場に出る。今日一日大活躍した石窟が掘り込まれてある鳴沙山の断崖の方に眼を向ける。石窟の上部はすっかり砂で覆われている。
「あの千仏洞の上の砂は全部吹き上げられたものです。二月頃は、あの砂が滝のように落ちて来ます」
 誰かが説明してくれる。さもあろうと思う。細かい粒子の、メリケン粉のような砂が、千仏洞の前の道を埋めている。石窟前の歩廊にも、その砂が敷かれている。
「毎年、四月八日には千仏洞前の水路の走っている疎林のところに、大勢の人が集って、歌を歌ったり、胡弓を弾いたりして大騒ぎです。屋台の店もたくさん出ます」
 こんどは常書鴻氏がおっしゃる。お釈迦さんの日に市が立つのである。おそらく昔から続いて、今日に到っているのであろう。その日のことを想像すると、莫高窟は多少異ったものとして、眼に浮かんで来る。世界的な美術の宝庫とは別に、生きた信仰の場として、全く別の息づき方をしている。
 六時に莫高窟を出発、帰途に就く。常書鴻氏も同車される。行手に海を見る。波しぶきも見える。もちろん蜃気楼の海である。海に突き刺さるように、どこまでも真直ぐに、くるまは走って行く。海は近づいて来る。波立ち、騒いでいるのが見える。と、一瞬、それはオアシスの緑に変る。ポプラに、畑に変る。
 オアシス直前で左に曲る。駱駝二頭の荷車、驢馬四頭の、驢馬三頭の荷車が動いている。主なき驢馬も車をひいている。
 落日近い陽は、前面右手の耕地の上にある。左手の鳴沙山は、陽の当っている面と、陽の当らぬ面と、すっかり色彩を変えている。薄墨色と、淡い黄色のだんだらの砂の山である。
 ドライブ三十分、敦煌の町に入る。
 夜、孫平化氏来室。明日一日を、玉門関行きにさくという。陽関は無理であるが、玉門関一つなら行けるという。すぐには言葉は出ない。急に辺りが明るくふくらんで来る思いである。
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