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私の西域紀行18

时间: 2019-05-23    进入日语论坛
核心提示:十八 莫高窟 五月十三日、今日は敦煌滞在の最後の日である。午前中は月牙泉と呼ばれている鳴沙山の麓の泉を見物し、午後は莫高
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 十八 莫高窟
 
 五月十三日、今日は敦煌滞在の最後の日である。午前中は月牙泉と呼ばれている鳴沙山の麓の泉を見物し、午後は莫高窟に行って、見遺してある千仏洞のすべてを見る予定。
 九時に招待所を出発。昨日の玉門関、陽関行きのお蔭で、さすがに躰全体に疲労が感じられる。
 町を出ると、鳴沙山に向ってのびているポプラの竝木道をドライブする。ぐんぐん鳴沙山に近付いて行く。初めのうちは鳴沙山が前方に見えていたが、やがて右手になり、再び前方になる。近寄って見る鳴沙山は幾つかの砂山の重なりである。たくさんの砂山が重なり合って、三〇キロの長い台地を造っているのである。運転手君の話だと、月牙泉はすぐ前に見えている砂山の背後に位置しているという。
 やがて、鳴沙山の麓の楊家橋人民公社鳴沙山生産大隊地区に入る。招待所を出てから十五分しか経っていない。全くの砂の地帯である。砂を治める仕事で大きな効果をあげている大隊だというが、閑散とした小さい集落である。
 ジープから降りて、折重なっている砂山の一つの裾を廻って行く。砂山と砂山の間に緑の小麦畑があり、その畦道《あぜみち》を歩いて行く。路傍に沙棗《すななつめ》の木が多く、黄色の小さい花を咲かせている。香の強い花である。
 風が寒い。昨夜招待所の庭で見た半月が暈《かさ》をかぶっていたが、この辺では月が暈をかぶると、風が強いというそうである。今日一日、風が吹くのかも知れない。
 一キロほど歩いて、一つの砂山の背後に出る。美しい水を湛えた池があった。月牙泉の“月牙”は三日月の意味だそうだが、なるほどその名の如く三日月形の池である。三千年来、水の涸れたことのない泉と言われているのは、まあいいとして、周囲の砂山や砂丘の砂で埋まってしまわないのが不思議である。
 ──この辺りの砂は、風が吹くと、下から上へと、つまり高処へ高処へと移動します。そのために砂丘もなくならないし、また砂丘に包まれた月牙泉のような泉も、砂に埋まることはありません。
 案内役の公社の青年は言う。足もとの砂を手にすくってみる。細かい粒子の砂である。
 ──強い風が吹くと、この砂が鳴るんです。だから鳴沙山という名がついています。
 その風に鳴る砂の音を聞いてみたいと思う。鳴沙山を構成している砂山や砂丘が、あちこちで鳴り出したら、さぞ凄いことだろう。
 泉を廻って行く。西側の奥に湧口がある。ほんのひと握りほどの小さい池である。ぐるりと廻っても十分とはかからないだろう。
 泉の畔りに廟の跡がある。文革前は娘々神の廟が十幾つあったが、文革の時、妖教《ようきよう》のレッテルを貼られ、ために建物は焼かれ、僧の一人は投身して自殺したという。そうした悲劇の場所でもあるが、昔からここには毎年四月八日のお釈迦さまの日に市が立ち、今日に及んでいるという。つまりこの地方では、莫高窟の千仏洞前と、ここの二カ所に、四月八日の市が立つのである。莫高窟の市もすばらしいと思うが、砂丘に包まれたこの小さい三日月形の泉の畔りの市の賑わいも、想像すると、目の覚めるような思いを持つ。
 
 月牙泉を辞し、敦煌の町に戻り、町から南西三キロの敦煌故城に向う。宿舎の招待所からそう遠くない地点である。故城といっても、城壁の崩れた欠片が南北に竝んでいる田野の大きい拡がりであるに過ぎない。
 この田野の拡がりの下に二つの敦煌の城市が眠っている。一つは漢の武帝が紀元前一一一年に、対匈奴戦の最前線基地として営んだ二千年前の敦煌であり、もう一つはその武帝の敦煌が五世紀の初めの西涼と北涼との合戦に於ける水攻作戦のために完全に壊されたあと、次期に営まれた敦煌である。この方の敦煌は北魏、西魏、北周、隋、唐と続いて行き、東西文化交流の、あるいは東西貿易の一大中継地として異常な繁栄を見せた敦煌である。
 二つの敦煌がどのような重なり方をして眠っているか知らないが、とにかくこの地帯に二つの敦煌は眠っているのである。
 現在田野の一画に竝んでいる城壁の欠片は、唐を中心にして繁栄した二期の敦煌のものである。私は小説「敦煌」で、この二期の敦煌、十一世紀の敦煌を書いている。私が書いた寺院も、官庁街も、下町も、往来も、路地も、その歴史と共に、みな田野の下に眠っているのである。
 それにしても、この二期の長く繁栄した敦煌は、いついかなる理由で廃墟になってしまったのであろうか。正確なこの城市の滅亡の記述は遺されていない。
 二つの古い敦煌が眠っている田野を、三十分程歩き、いったん招待所に帰って休憩、二時二十分に、再び莫高窟に向って出発。
 
 この日も常書鴻氏を煩《わずら》わして、一一二、一三〇、一五八、一五九、一五六、一七二の諸窟を見せて頂く。これで予定していた千仏洞の参観は全く終る。
 すぐ常書鴻氏のお宅に、一昨日足を捻挫された夫人のお見舞に伺う。質素ないいお住居である。夫人とお二人の合作である「胡旋舞」の模写を頂戴する。
 胡旋舞というのは胡族(少数民族)の踊り子が楽器を背に負い、それを弾きながら踊る舞踊で、唐代には都長安で、この踊りが非常に流行したらしく、白居易《はくきよい》によって、
──胡旋女 胡旋女
心は絃に応じ手は鼓に応ず
絃鼓一声 雙袖挙り
廻雪飄々 転蓬のごとく舞う
左旋右転 疲るるを知らず
………
 と詠われている。楽器を弾きながらよほど早く旋回する踊りのようである。しかし、胡旋舞なる踊りがいかなるものか、その具体的資料となるものは、敦煌千仏洞の壁画以外にはないそうである。私は「楊貴妃伝」という小説で、安禄山《あんろくざん》にこの踊りを踊らせているので、幾つかの窟で、胡旋舞なるものを眼に収めることができたのは、たいへん有難かった。
 常書鴻御夫妻から頂いたものは、中唐の一一二窟のもので、伎楽《ぎがく》の一団の中から胡旋女だけが取り出されて写されている。有難い頂きものである。
 常書鴻氏邸を辞して、研究所に赴き、そこで古文書類を見せて貰い、七時半に研究所を辞す。明早朝、敦煌を発って帰路に就く私たちの見送りのため、常書鴻氏も今夜招待所に泊られるという。氏と同じジープで招待所に向う。美しい夕暮である。
 
 招待所に帰り、少量の湯で、顔と手足を洗う。夕食後、常書鴻氏に部屋に来て頂き、千仏洞の塑像、壁画について、いろいろのことを質問する。その間に、氏は淡々とご自分のことも話される。
 ──一九二七年から一九三六年まで油彩画家としてフランスに留学していました。一九三五年に、ギメ博物館で、ペリオが敦煌から持ち帰ってきたものの展示を見た時は驚きました。こんなすばらしいものが自分の国にあるとは、初めは信じられませんでした。敦煌については全く無知だった。殊に唐のものに打たれた。人物、馬など生き生きとしていた。東洋の絵は西洋の絵より、すばらしいと思った。これが、私の敦煌への病みつきの始まりでした。
 ──一九三六年、北京に戻りました。妻はフランス人で、彫刻の研究家でした。私は敦煌行きの決心をし、妻を説得しようとしましたが、妻はパリに帰りたがり、敦煌行きに応じませんでした。
 ──一九四三年、妻子を北京に遺し、一人で敦煌を訪れました。蘭州から安西まで、トラックで一カ月かかり、安西から駱駝で、敦煌まで、三日二晩を要しました。
 ──当時、莫高窟は生活するのにたいへんなところでした。道教の道士一人、ラマ教の僧二人、それに私と、全部で四人でした。もちろん電気も水道もなかった。タマリスク(紅柳)の枝を箸にして使いました。最初の一年は大変でした。新聞広告で使用人を求めたが、だれも来なかった。しかし、敦煌研究の重要性は全身で感じていました。外国でたくさんの博物館を見ましたが、ここの千仏洞という博物館が、一番すばらしく思われました。
 ──生活の準備を調え、妻子を迎えました。男の子は十三歳、女の子は八歳でした。妻は初めは悦んでいたようでしたが、突然、子供たちを置いて出て行き、再び帰って来ませんでした。
 ──女の子は教育ができなかったので、十四歳から十六歳まで、石窟で絵を描かせました。男の子の方は縁あって、アメリカ人が預ってくれました。
 ──現在の妻の李承仙は、私が教えた学生でした。私の立場に同情し、私の仕事を手伝ってくれました。
 ──一九六二年から一九六六年まで、周総理の支持で、千仏洞の修復が行われました。四人組の時代は、養豚をやらせられていました。現在でも、莫高窟の生活は便利とは言えません。それでも自家用発電をしており、研究所には一〇〇人もの所員がおり、昔のことを考えれば、我慢しなければならぬでしょう。
 ──いつか七十五歳になりました。深夜目覚めると、風に乗って、鳴沙山の向う側の麓を夜通し旅して行く駱駝の首の鈴の音が聞えて来、九六窟の九層の風鐸《ふうたく》の鳴るのに耳をすませます。
 
 常書鴻氏がご自分の部屋に引き揚げて行かれてから、今日のメモの整理をし、あとはぼんやりしている。全く慌しい敦煌見学だったと思う。現在整理されている四百九十二の窟のうち、五十六の窟を参観したことになる。五日間滞在のうち、一日を玉門関、陽関にさいているので、四日間で五十六の窟を見たことになる。平均一日に十四窟、──慌しい見方であるし、窟内が暗いので、見たと言えるような見方はしていない。窟から窟へと経廻って行っただけのことであるが、それでもやはり楽しかったと思う。
 四日間、千仏洞通いした感想は、非常にたくさんある窟の一部を、しかもどの窟に於ても、そのごく一部の壁画を、何となく眼に収めたといったものである。塑像の方は多少見易いが、それにしても大差はない。各時代のすばらしい塑像群の前を、足早やに素通りして来たといった印象である。
 塑像でいいと思ったのはどれも唐の窟のものであった。本尊であれ、菩薩であれ、いずれも豊満、表情はふくよかで美しく、どれも人間的であった。彫刻でただ一つ選ぶとなると、やはり一三〇窟の大仏ということになろうか。これはただ一つの石の彫刻である。この二六メートルの倚座《いざ》の弥勒大仏だけは森厳《しんげん》なものを持っており、盛唐のゆたかさを代表する堂々としたものであった。
 特殊なものとして記憶に残ったのは、少数民族の顔を持ち、少数民族の服装を纒った菩薩や四天王たち。
 それから一番古い北魏の窟にあった三体の交脚の弥勒菩薩。いずれも上半身は裸で、下半身だけを薄い布で覆い、肉体の線も、それをすかして見えている。どれも可憐で、愛くるしく、親しい感じを持たせられる。やはり開放的な沙漠の国の弥勒さんであると思った。私はノートに次のような、詩とも散文ともつかぬ文章を綴っている。
 
 北魏という北方からやって来た民族の正体はよく判っていない。四世紀に国を樹てて、大同に都し、あの大きな雲崗石窟を鑿《うが》っている。百年にして洛陽に遷都し、ここでは龍門石窟を営み、そして六世紀頃消えている。本当に消えて跡形ないのだ。そうした北魏の形見を一つ選ぶとなると、それはおしゃれな交脚の弥勒さまということになるだろう。脚を十字に交叉した殆ど信じられぬような近代的姿態は、ふしぎに雷鳴、碧落、隕石、そんな天体に関するものを連想させる。星座にでも坐っている姿かも知れぬ。当然なことながらその民族と運命を共にし、星の如く飛んで、散乱し、また消えている。消える他なかったのだ。だから日本にも伝って来ていない。
 
 実際にこのなかなかすばらしい交脚型の弥勒さんは、北魏時代だけのものであって、他の時代には見られない。
 それから、どの窟をも埋めている壁画であるが、壁画は、その多くが仏教思想を取り扱ったものであり、経典の内容を絵画で現したようなものが多い。なにしろ四世紀から十四世紀まで、千年間にわたって描かれているので、画風の上で時代、時代の特色を持っている許りでなく、その時代、時代の風俗や生活が写されていて、丹念に見て行ったら、さぞ面白いだろうと思う。戦闘の模様も描かれていれば、農耕、漁撈《ぎよろう》の状況も描かれている。結婚式、医者の往診といった具合に、社会風俗百般が取り扱われている。
 壁画の中から楽器だけ拾って行っても、音楽の東西交流の貴重な資料になるだろうし、服装だけを拾って行っても、千年に亘っての風俗史が具体的に展開してゆくだろう。言うまでもないことであるが、少数民族関係の資料もたくさん詰まっている。
 それから多くの窟をぎっしり埋めている飛天と千仏。飛天は天井ばかりでなく、天井と壁面の間にも描かれてあり、どれも天衣をひるがえし、軽やかな姿態で舞っている。中には水面からいま飛び出したといったようなのもあれば、舞いながら楽器を奏しているのもある。
 一体、四百九十二の窟の中に、どのくらいの飛天が舞っているであろうか。いつか常書鴻氏に質問してみたら、
 ──千ぐらいでしょうか、千五百ぐらいでしょうか。
 そういう言い方をなさった。
 千仏の方は、どの窟をも埋めているわけではないが、ぎっしりと小さい仏さまが、まるで印刷でもされたように描かれてある壁面の前に立ったり、天井を仰いだりすると、圧倒される思いを持つ。無数の仏さまに取り巻かれてしまった感じである。
 それから先きに記した胡旋舞。これについても、ノートに感想が書きつけられてある。
──その前に立っていると、大きな琴を背にしている踊り子の姿は消え、どこからともなく軍鼓の響きが聞えてくる。そしてその軍鼓の響きの先頭に立って一本の竜巻の如きものが近寄ってくるのを覚える。胡族の可憐な踊り子の持った運命の旋回なのだ。
 四日間で経廻った五十六の窟の中では、やはり今日蔵経洞の名で呼ばれている第一七窟が、私には関心深かった。ここに蔵されていた夥しい数の古文書、古経巻の類が、スタイン、ペリオの手に渡り、敦煌の名を、一躍世界の敦煌にした、そうした由緒ある窟である。
 私は小説「敦煌」で、この窟にそうした古文書、経巻類を詰め込むところを書いている。小説の中でせっせと運び込んだものは、当然なことながら、すっかりなくなって、ひどくさっぱりしたものになっている。運び込んだのは小説の中に於てのことであり、それがなくなったのは、物語ではなくて、スタインやペリオが登場する厳とした歴史的事実である。小説の世界と、現実とが、私の心の中で入り混じり、錯綜し、それを整理するのに、多少の時間を要した。
 私は小説の中で、この窟の前で落雷のために死んだ何人かの男たちを描いている。この窟を出た時、
 ──この辺は、落雷の時は凄いでしょうね。
 私は常書鴻氏にお訊きしてみた。すると、氏は、
 ──雷光があたると、窟内の仏像たちが、一瞬、明るく照し出されるでしょうね。
 と言われた。まさにそうであろうと思われた。しかし、私はそれを小説の中では書いていない。
 
 五月十四日、快晴、六時五十分、招待所を出発、柳園に向う。柳園までは一二八キロ。敦煌に来る時は、列車を酒泉で降りたが、こんどは更に省境に近い柳園まで行き、そこで列車に乗り込もうというわけである。この方が列車の乗車時間は長くなるが、ジープの旅の方は短くなる。ジープの旅が続いているので、疲れを少しでも軽くしようという県長さんたちの配慮から出たことである。
 敦煌の町に別れを告げる。静かな土屋の町、爽やかな風の渡っている田園の町、さよなら、さよならといった気持である。
 町を出ると、すぐアルカリ性土壌地帯に入る。茶褐色の泥が波立って拡がっている。この土壌の下には硝石が埋まっているというが、それにしても荒涼たる風景である。
 いまジープはチベット、青海に通じている幹線道路を走っているという。そう言えば時折、チベット行きのトラックとすれ違う。所々に沼があり、沼の周辺だけに赤土が置かれてある。
 太陽は前方、やや右手、すでに高くなっている。道路だけが黒く、黒い道路が、どこまでもまっすぐに走っている。
 山影全くない大平原のドライブが続く。いつか団子型の土の固まりが、見渡す限りの平原を埋め始める。そしてその土の固まりの上にタマリスク(紅柳)が載っている。載っていないのは、タマリスクが切られたあとだという。いずれにしても泥土の拡がりで、タマリスク以外のいかなる植物もない。アルカリ性土壌でも、タマリスクだけは生きられるのである。これでは蜃気楼も出ようがないと思う。
 しかし、この泥土の拡がりの中にも人家がある。一軒家もあれば、数軒固まっているところもある。夜毎の眠りはいかなるものであろうかと思う。玉門関では月光が皎々《こうこう》と感じられると思うが、こちらはただ凄惨というか、悽愴《せいそう》というか、死の世界とでも言う他ない。
 西湖人民公社を過ぎる。ここだけに緑の畑がある。泥土との闘いに於て、僅かに人間が闘いとったものである。が、やがてまた、不毛地帯が拡がり始める。
 八時十分、泥土地帯がゴビに変る。タマリスクも少くなり、一望の小石の原が拡がっている。左手前方に低い山の連なりが、薄青く美しく見える。泥土地帯に較べれば、ゴビは平坦で、明るい。左手から左手手前にかけて、低い山脈、くっきりとして来る。
 八時五十分、左手前方の山脈大きくなり、陽の加減か、藍色に見え、実に美しい。前方右手にも低い山脈現れてくる。この方は低い稜線がどこまでものびている。
 やがて左右の山脈、一つに繋がる。この頃から地盤の高低烈しくなり、一望の丘陵地帯が拡がって来、山も、原野も黒くなる。黒い丘陵地帯のドライブが続く。
 安西と新疆地区のハミ(哈密)を結んでいる道とぶつかり、それを横切る。安西からずっと運転してくれている私のジープの運転手君は、私たちを柳園に送ったあと、この道を通って、安西に引き返すという。たいへんすまないと思う。丁度一週間ほど付合って貰ったことになるが、その間、風呂にも入らず、毎日のように運転して貰い、そのうちの一日は玉門関、陽関行きで、たいへんな疲労だったろうと思う。
 いつか左手も、右手も、黒い団子山に包まれた地帯に入る。その団子山の外側を、遠く山脈が包んでいる。
 停車、休憩。四方黒い山脈に囲まれた凄い風景である。美しいとか、美しくないというようなものではない。左右前後、幾重にも、黒い山脈に囲まれている。
 
 九時二十分、柳園着。ここからトルファン(吐魯番)までは七〇〇キロ、ハミまでは二四〇キロ、新疆ウイグル自治区との境の星々峡までは一〇〇キロ。
 一時間ほど駅で休憩して、十時二十四分発の列車に乗る。この列車は咋十三日午後五時五十分のウルムチ(烏魯木斉)発。終着駅である北京着は十六日午後九時五十五分、全走行距離は三七七四キロというから、全部乗ったら大変である。そのうちの一部である柳園─蘭州間を使わせて貰うというわけである。
 ここで、ここまで見送って下さった常書鴻、文玉西氏等、敦煌の五氏、ならびに秦積王氏をはじめとする酒泉の九氏と別れる。一週間、毎日のように行を共にして下さった人たちである。柳園駅に於ける別れは、何とも言えず胸に迫るものがある。
 列車が動き出す時、十四氏がみんな手を振ってくれる。長身の酒泉招待所のコック長さん、ずんぐりした安西の運転手君、最後まで手を振っている。一体、この人情は何であろうと思う。中国訪問は八回目であるが、このようなことは初めてである。玉門関、陽関行きの、あの二一一キロ、十二時間四十五分の大津波に揺られたような烈しいドライブが、互いの心を結びつけたものであろうか。
 
 列車は駅を出ると、すぐ黒い山塊群の中に入って行く。馬《ばそう》山続きの山なみなのであろう。やがて、そこを出ると、ゴビ地帯が拡がり始める。
 十一時四十分、龍岡駅、人家全くなく、ゴビの中にあるただ一つの駅。五分ほどすると、ゴビは黒色に塗られ始める。
 十二時十分、列車は黒ゴビの丘陵地帯を走っている。
 三時間ほど眠る。すでに嘉峪関《かよくかん》、酒泉を過ぎている。列車は嘉峪関のすぐ傍を走るので、嘉峪関を列車の窓から見ようと思っていたのであるが、それを果せないで残念である。
 五時十分、金川駅、ゴビの中の駅である。駅のポプラが烈しく揺れている。風が強いのであろう。駅の近くに人家少々。この辺は白いゴビである。寝台の蒲団が重いのか、体が痛い。ブランデーを飲む。
 六時、清水駅。駅の近くから水を汲んで、集落に運んでいる女や子供たちの姿が見える。かなり大きいオアシスで、集落は駅の近くにも、かなり離れたところにもある。大ゴビの中のオアシスで、そこに夕暮が来ようとしている。近くに大乾河がある。何という名の川であるか、知らず。
車室で、蘭州から付添って下さっている甘粛省人民病院の女医さんの田兆英女史と話す。この地方の無医村を廻った時のことを聞かせて下さる。
 
 五月十五日、八時に目覚める。車窓からの眺めは一変している。菜の花が咲いており、緑が美しく眼に沁みる。何時間か、死んだように眠ったので、頭は軽くなっているが、体の方は相変らず痛い。妻の方は全然起き上がれなくなっているらしい。既に連山脈を越え、大分蘭州に近くなっている。
 右手は明るい茶褐色の団子山の重なり、左手は連山脈。線路から程遠くないところに、黄河の茶褐色の流れが置かれてあり、畑には大根の白い花、まさに黄河の春である。
 列車は黄河の流れに沿って走っている。黄河はゆるくカーブして、川幅を広くしたり、狭くしたりしている。が、狭いところでも一〇〇メートルぐらいはあろうか。蘭州の町中の、例の白塔山の下の架橋地区は、黄河の川幅の一番狭いところが選ばれているという。それでもやはり一〇〇メートルぐらいはあるだろう。大体に於て、黄河という川は、余り川幅を変えないで、悠々と流れているらしい。
 黄河の向う側には、黄河の色と同じ山が重なっている。そしてその山の裾を、桃、梨、杏の木の緑が埋めている。そしてその間に、黄河と同じ色の土屋が点々と配されている。眼に入る風景は何とも言えず落着いているが、それは同色で統一されているからであろう。黄河、土屋、背後の山、みな同じ色である。
 河岸を蘭州街道らしいものが走っており、所々に灌漑用の水を汲み上げている大きな水車が見える。何とも言えず軽やかに廻っている。
 十時二十分、蘭州着。曇り、少々寒い。ホテルに入り、すぐ入浴。入浴は六日ぶりである。昼食、休憩。四時より街に買いものに出る。夜、民族芸能に誘われるが、中止。疲労が甚しい。
 五月十六日、夜半から喉が痛んでいる。今日の予定の黄河ダム参観は中止。今日も曇り日である。妻も同様な状態。
 甘粛省人民病院の院長さん、内科部長、田兆英女史、揃って診察に来て下さる。部屋の窓からポプラの梢《こずえ》と、白塔山続きの山を見ながら、寝台に横たわって、お尻に注射二本。ぽんと針をぶつける感じで、痛みは全くなく、いつ注射されたか判らない。
 小用近くなる。空気が湿っているためであろうか。窓から見る町は、灰色に曇っている。しかし、単に曇っている許りでなく、砂埃りが飛んでいるのである。
 五月十七日、昼、蘭州の諸氏とお別れの会食。午後四時十五分、ホテルを出て、空港に。一時間ほどで、空港着。空港で夕食。
 七時四十分離陸のトライデント機に乗る。ここでもまた大勢の人が送って下さる。田兆英女史が、何回も、何回も、妻と握手している。離陸すると、すぐ眠る。
 九時三十分、北京空港着、北京は九度、雨が降っている。敦煌帰りには、北京はひどく寒く感じられる。厳寒の寒さである。
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