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私の西域紀行19

时间: 2019-05-23    进入日语论坛
核心提示:十九 火焔山ふたたび これまで記してきたように私は去る五十二年八月に新疆ウイグル自治区を訪ね、五十三年五月に敦煌を訪ねて
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 十九 火焔山ふたたび
 
 これまで記してきたように私は去る五十二年八月に新疆ウイグル自治区を訪ね、五十三年五月に敦煌を訪ねている。この二回の旅は私にとっては生涯での事件と言えるような旅であった。若い学生時代からいろいろな書物で読み漁り、馴染みになっている地帯であり、小説家になってからは何篇かの作品の舞台として取り扱っているところである。そういう場所に七十代になってから足を踏み入れることができたのである。
 しかし、中国側の好意に支えられた招かれての旅であるにしても、限られた日数であったので、行きたいと思うところのすべてに足を印するというわけには行かなかった。が、歴史家でも、美術史家でもない私としては、それで充分満足すべきであったし、事実満足していたのであるが、五十四年になってまたまた思いがけないことが降って湧いたように起った。八月に新疆地区を再訪し、十月に敦煌をこれまた再訪するという好運に恵まれ、それで前回に行くことができなかった幾つかの都邑《とゆう》や遺跡に自分の脚で立つことができた。タクラマカン沙漠の川・タリム河にも船で浮かぶことができたし、甘粛省の河西回廊の古い歴史の町の幾つかをも、ジープで経廻ることができたのである。私にとっては、五十四年という年はちょっと信じられぬような恵まれた年であった。
 事の起りは五十四年の春であった。中国社会科学院院長の胡喬木氏が日本に来られたが、その折お会いして、新疆地区のまだ見ていない幾つかの都邑や遺跡のことを話題に取り上げたことがあった。
 胡喬木氏が帰国されて間もなく、社会科学院からの招待状が届き、改めて新疆地区で希望するところを申し送ってくれるようにということであった。早速日中文化交流協会の白土吾夫氏に謀《はか》って、同協会を通じて、こちらの希望する都邑や遺跡の幾つかを挙げた。
 それに対して中国社会科学院外事局長孫亜明氏から、楼蘭、若 羌《チヤルクリク》、且 末《チエルチエン》などは交通不便のため案内できないが、その他のところはできるだけ希望にそうようにするという好意に満ちた返事があった。このような簡単な経緯で、八月初旬の新疆ウイグル自治区再訪の旅は実現したのである。
 一行は宮川寅雄、円城寺次郎、口隆康氏等、それに日中文化交流協会の佐藤純子、横川健の両氏。八月六日に東京を発って、北京に二泊、八月八日に新疆ウイグル自治区の都、ウルムチ(烏魯木斉)に向った。
 この旅に中国側からは詩人の李季氏、社会科学院外事局の張国維氏、それに女性通訳の解莉莉さんが同行の労をとって下さった。それからこんどの旅のすべてにわたって、社会科学院の副院長である周揚氏のお世話になった。氏は私たちに同行するつもりであったらしかったが、日本の旅を終えて、帰国されてから何程も経っていず、それに秋の中国文学芸術工作者代表大会という大きな行事が控えていた。新疆の旅は、氏にとっては無理なことであった。
 ウルムチを起点として、新疆ウイグル自治区のカシュガル(喀什)、タシュクルガン(塔什庫爾干)、ヤルカンド(莎車鎮)、ホータン(和田)、アクス(阿克蘇)、クチャ(庫車)、およびその周辺の集落や遺跡を経廻らせて貰うつもりであったが、現地に行ってみないと、正確なスケジュウルは立たなかった。
 八月八日(五十四年)、北京を発ってウルムチに向う。今日は立秋である。北京は三十度。
 午後三時十五分、離陸。イリューシン18、九二人乗り。この前はイリューシン62の大型ジェットで、ウルムチまで二八〇〇キロを三時間半で翔んだが、今度はそういうわけにはゆかない。途中蘭州空港に降りる。蘭州までは一三〇〇キロ、二時間半、蘭州からウルムチまでは一七〇〇キロ、三時間十分の予定である。
 曇天で、窓からの眺望は全く利かない。五時四十五分、そろそろ蘭州に着く頃になって、漠地の中に短冊を張りつめたように、耕地が現れて来るのが見えた。蘭州オアシスに入りつつあるのである。六時、蘭州着。二十五度、まだ陽は高い。この空港にはこの前の新疆地区の旅からの帰りと、敦煌の旅の往復と、三回立ち寄っており、今度は四度目である。
 空港の別棟の建物の二階で夕食を摂り、落日近い七時十分に離陸、ウルムチに向う。
 十時二十分、ウルムチ空港着。二十三度。空港から町までは三〇キロ。この前に泊ったウルムチ迎賓館に入り、部屋に落着くと、結局十二時になっている。
 
 八月九日、午前七時半起床、八時半に別棟の食堂で朝食、この前もそうであったが、ここの朝食はパン、ミルク、卵、珈琲《コーヒー》、中国では珍しくさっぱりしたものである。ポプラの林に包まれた贅沢な迎賓館の建物も、広い敷地も、何となく欧風で、ここではこうした朝食の方がぴったりする。
 九時半、一泊の予定でトルファン(吐魯番)に向けて出発する。宮川寅雄氏も、円城寺次郎氏も、私も、それぞれトルファンには行っているが、口隆康氏が初めてなので、みな氏に付合うことにする。が、もちろんそれ許りではない。いずれにせよ、慌しい旅なので、見落したところもあれば、印象の不鮮明なところもある。二度行けるなら、行った方がいいに決まっている。円城寺氏はどうしてももう一度、アスタナの壁画を見たいとかねがね思っておられたらしく、その点、トルファン行きには積極的であった。
 久しぶりのウルムチの町である。迎賓館は町の端《はず》れにあるが、敷地を出ると、すぐみごとなポプラ竝木が走っている。二頭の驢馬が曳いている荷車、土屋、路地という路地から見える砂丘の欠片、イアリングを着けているウイグルの娘たち。延安路を行って、解放路に突き当り、左に折れると、徐々に繁華地区に入って行く。白壁の家が竝んでいる通りである。しかし、あっという間にそこを脱けて、郊外の丘陵地帯に入って行く。道は高低ある地盤の上、次々と現れる丘を二つに割って、南に向って走っている。
 四十分ほどのドライブのあと、十時十分、遠くに塩湖を望む地帯に出る。辺りは一望のゴビ(戈壁)であるが、そのゴビのただ中に々草《ちいちいそう》村という集落がある。この集落については前にも記したが、往時の駅亭といった集落で、辺りは一面に駱駝草と々草で埋められている。
 十時三十分、ゴビの中を蘭新鉄道が道と平行して走っている。左右に山脈が置かれているが、左手の山脈の方が遠く、やがて道は大きくカーブして、右手の近い山脈の方に近付いて行く。
 十一時、達板城という集落を過ぎる。ウルムチを出てから初めての集落らしい集落である。路傍のポプラが風に大きく動いている。この村を過ぎてすぐ蘭新鉄道の線路を越え、前方の山の重なりの間に入って行く。先刻右手に見えた山脈の中に入って行くのである。これから、この前の紀行で詳しく綴っている白楊溝という渓谷のドライブになる。白楊溝というのは天山の一支脈を割って、北疆地区から南疆地区に通ずる通路である。白楊溝というのは、白楊が埋めている渓谷という意味なのであろう。
 渓谷に入ると、すぐ川が現れ、道はそれに沿って、岩山の裾を走ってゆく。川は白楊河、流れは白濁している。磧《かわら》は一面にタマリスク(紅柳)で埋められている。そしてそのまるい株がざわざわと風に揺れ騒いでいる。砂岩の山とタマリスク、全くその間のドライブとなる。
 
 数日前、この地帯は珍しく大雨に見舞われたということで、道はひどく荒れている。白楊溝をどれだけドライブした頃であろうか、前方の橋が流れているということで、くるまは白楊河と別れて、左手の山間部に入って行く。白楊溝の渓谷を出て、別に山中を走っている道によって、トルファン盆地を目指すというわけである。
 白楊溝と別れると、すぐ一木一草なき丘陵地帯の殺風景なドライブとなる。初め乾河道に沿って走っていたが、次第に丘か山か判らぬところに上って行き、やがてゴビのただ中の道となる。全く一木一草ない地帯で、駱駝草も生えていず、見渡す限り小石のばら撒かれている荒野の拡がりである。
 ──ここが昔からの道だそうです。
 案内の青年が教えてくれる。そう言われてみれば、白楊溝を走っている道は新しい道であるに違いないと思う。こちらは道とは言えない道であるが、古道である以上、タリム盆地に侵入してくる匈奴を初めとする北方の遊牧民族たちは、他ならぬこの道を使ったことであろう。
 くるまは丘陵の背を上ったり下ったり、折れ曲ったり、砂塵はもうもうと上がっている。やがて降りになるが、依然として荒涼たる地帯が続いている。
 午後零時半、白楊溝の出口とは異った出口から、トルファン盆地に出る。ウルムチの迎賓館を出てから三時間余りかかっている。白楊溝からの出口は老風口と言って、この地帯で最も風が強いところとされているが、こちらもまた風が強い。盆地に出たとたん、車内も暑くなる。
 やがてカシュガルヘ向う道の分岐点を通過する。真直ぐに行くとトルファン、右に折れるとカシュガル。それにしてもカシュガルまでは、いわゆる西域北道(天山南路)を経廻ることになり、たいへんな道のりであると思う。
 左手は遠くに山脈を配したゴビの拡がり。山脈は幾重にも重なっており、言うまでもなく天山である。前方にも山の連なりがあるが、低い。東南に向って、道は真直ぐにゴビの中を走っている。
 零時四十五分、ゴビと沙漠がだんだらに織りなされている地帯を行く。左手遠くに天山が見えるだけで、あとは眼に入るもの一物もない。
 いつか天山、背後になる。うんざりするゴビのドライブ、限りなく続く。そのうちに砂嵐で山影全く見えなくなる。ひどく暑い。
 一時十五分、トルファンのオアシス地帯に入る。ポプラの竝木、アカシヤ、驢馬の曳く荷車、赤煉瓦の農家、まだ小さいが、青いトウモロコシ畑、綿畑。トルファンの綿は繊維が長いそうである。
 やがて町に入る。トルファン地区の人口は三〇万、トルファン県は一七万、トルファンの町は四万。なるほど人口四万ほどの町であろうと思う。町の中心地区には農産物の市が立っている。それにしても暑い。三十二度。
 トルファン県招待所に入る。大勢の人たちが迎えてくれる。葡萄棚のあるのびのびとした敷地には記憶がある。従業員の男女の中にも、見覚えのある顔がある。通訳氏を介して、その見覚えのある顔の一つに、この前はここでたくさん果物を食べたということを話すと、
 ──今年は四月の寒波のため、果樹全部が被害を受け、葡萄も、瓜も、例年に較べて味は劣ります。また来年、改めて来て下さい。
 とおっしゃる。そう度々は来れないだろうと、笑いながら答える。
 二時に昼食。四時に高昌故城、アスタナ古墳に出発する。どちらもこの前に行っているが、もう一度行くべきであろうと思う。白楊溝に対する印象が、この前とは大分異っていたので、妙に自信を失って、そんな気持になる。
 町を脱けると、すぐ大ゴビが拡がっている。風が出て砂を舞い上げているので、どこを向いても山影は見えず、やたらに暑さが甚しくなる。くるまの窓枠も熱くなっている。カーレーズが点々としている地帯を、東北に向って走る。高昌故城までは四〇キロ。
 四時、左手に火焔山、前方にも、同じような山が、幾つか重なっている。宿舎を出てから、これまでに一台のトラックともすれ違っていない。楡の街路樹のある集落に入って行く。楡は水がなくても育つ強い木だと聞いていたが、なるほどと思う。トルファンの、火焔山附近の集落に生い茂っているのである。
 集落を出ると、高昌城の遺跡が拡がっている。周囲五キロの遺跡であるが、塹壕様の土塁の拡がりの中に、青いトウモロコシ畑が点々と置かれている。もちろんトウモロコシ畑もみな遺跡で、掘れば何が出てくるか判らない。地区政府では、三十万元で、これらのトウモロコシ畑のすべてをなくそうと計画中であるという。
 この遺跡の中で最も大きい寺院建築の跡だというところで、くるまを降りる。その寺院跡の周辺は目下修復中である。近年、雨が降るようになったので、遺跡の傷みがひどいという。
 晴天の日、ここから火焔山を望むと、まさに炎が燃えているように見えると、誰かが言っている。まことに、そうであろうと思う。戸外は四十一度。
 遺跡見物を打ち切って、遺跡の前の休憩所に飛び込む。この前も、今日と同じようなことをしていたのではないかと思う。しかし、この前はもっと遅い時刻で、薄暮の垂れこめた遺跡の中をぶらついていたことを思い出す。
 六時二十分、出発。風、やや涼しくなる。遺跡の周辺の部落が、遺跡の一部であるかのように見える。部落の中の黄色のひまわりが、目のさめるように美しい。そのひまわり畑の傍に、裸の子供たちが立っている。遺跡の埃りの中で、炎のような火焔山を見たり、西瓜を食べたりしながらここで生い育ってきた子供たちである。
 五分ほどで、アスタナの古墳群のあるところに行く。この前と同じ土饅頭の拡がりである。この前に入った同じ墓の中に入る。唐代の墓であるが、この中の壁面に描かれている花鳥画の花は、中国のものではなく、南方のものであるという。当時、南方の人たちがここに来て、ここに住み、そして死んだのである。
 八時二十分、葡萄溝人民公社に立ち寄る。さすがに、ここだけはひんやりしている。陽はまだ高い。落日は九時頃であろうか。北京とは二時間の差がある。
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