これまで五十四年の八月、カシュガル(喀什)、ヤルカンド(莎車鎮)、アクス(阿克蘇)、クチャ(庫車)などを訪ねた、その時の紀行を綴って来たが、この旅から二カ月を置いた十月、敦煌《とんこう》を再訪する機会に恵まれた。NHKと中国のシルクロード共同取材班に同行し、敦煌文物研究所長の常書鴻氏と短い対談をするのが、私に与えられた役目であった。
敦煌には先きに記しているように五十三年に一度足を踏み入れてはいるが、見たと言えるような見方はしていない。短い滞在期間中に玉門関、陽関行きに一日をさいており、常書鴻氏御夫妻の案内で、五十六の窟を駈け廻ったに過ぎない。見なければならぬ窟も割愛しているし、それにどの窟も、小さい懐中電燈の光で、まるで手探りでもしているような、そんな捉え方をしただけのことである。
こんどの日中共同取材班の仕事では、主要な窟の幾つかにライトが入るという。NHKから声をかけられた時、二つ返事で敦煌行きを承諾した次第である。
それからもう一つ、この機会に河西回廊をジープで走ることができたらと思った。既にこの地区は取材班がカメラに収めているので、交渉次第で、そこに入れて貰えないものでもなかった。小説「敦煌」で主要舞台として取り上げている涼州、甘州、粛州といった往古の大集落が、現在は武威《ぶい》、張掖《ちようえき》、酒泉《しゆせん》といった名で散らばっている。
河西回廊は往復二回、列車で走ってはいるが、列車の窓からではいかなるところか、いっこうに見当がつかない。やはりジープで走らせて貰って、武威にも泊り、張掖の夜の眠りも経験したいと思う。そしてでき得るなら連《きれん》山脈の烏鞘嶺《うしようれい》もジープで越えてみたい気持である。この方は確実にこちらの望みが適《かな》えられるかどうかは判らないが、現地に行ってみた上でのことにする。
十月五日(五十四年)、北京を飛び立ったのは午後三時半、蘭州空港に着いたのは七時、空港で夕食を摂ってから町に向う。町までは七四キロ、すっかり暮れてしまった夜のドライブになる。このところ昼間は二十度から十五、六度の間だが、朝夕は大分冷えるという。
雲の間から満月が顔を出している。陰暦十月の満月である。幾つかの小さい集落を通過するが、街路樹が見えるだけで、周囲には真暗い夜が拡がっており、人の子ひとり見えない。日本では考えられない漆黒の闇の中のドライブである。
鉄橋で黄河を渡って、工場地帯に入るが、鉄橋の上で停車、満月の夜の黄河を見させて貰う。上流の方は石油コンビナートの燈火で、流れは赤くただれており、下流の方は月光に青く照し出されている。川幅は二〇〇メートルぐらいであろうか。流れはかなり速い。
八時に蘭州迎賓飯店に入る。すぐ飯店の広間で、蘭州の放映機関の人たちによって観月の宴が開かれる。月餅が出る。十一時に部屋に引き取って、すぐ眠る。夜、一、二度、寒さで目覚める。
十月六日、今日は一日休養、明日は朝の列車で酒泉に向うことになる。午後、常書鴻氏夫妻のマンションを訪ね、お茶のご馳走になる。氏の書斎も見せて貰う。窓から一キロほどのところを流れている黄河の水の面が望める。なかなか贅沢な書斎である。氏の敦煌の、千仏洞のすぐ傍のお住居も訪ねたことがあり、一三〇窟の風鐸《ふうたく》の音の聞えるという書斎にも感心したが、こちらはこちらで羨しく思う。机に対《むか》って、煙草でものみながら、ぼんやりと黄河の流れに眼を当てていられるということは、やはり贅沢と言う他はない。
氏のお宅を辞して、白塔山公園に向う。氏のお宅を出たところにある黄河大橋を渡る。十月一日に開通した許《ばか》りの新しい橋で、今日は開通六日目ということである。この橋の上手に、これまでよく写真で紹介されている鉄橋があるが、この方は新しい橋ができたために黄河古橋という名に変ったそうである。どちらも蘭州の町中の橋である。
この二つの橋の他に、昨夜空港から来る途中に満月を眺めた鉄橋がある。この方は西固大橋、西固というのは地域の名で、西固地区の橋ということになる。黄河大橋、黄河古橋、西固大橋、——この三つのほかに三〇キロほどの上流に、もう一つ橋があるそうである。蘭州は黄河とは切っても切れぬ関係を持つ黄河の町と言う他ない。
蘭州は北の白塔山続きの山々と、南の五泉山続きの山々に挟まれ、白塔山麓を流れる黄河に沿って営まれているたいへん長い町である。
昨年蘭州を訪ねた時は五泉山に登っているので、こんどは白塔山に登ることにしたのである。黄河大橋を渡って、対岸の白塔山の裾《すそ》の雑然とした地帯に入る。回族の住居地区だそうだが、なるほどひと目でそれと判る白い帽子をかむった男たちが多い。
くるまを降りて白塔山公園に入る。ここも山の斜面に造られた公園であるが、五泉山公園より斜面は急で、樹木も少い。回廊を通り、途中から石段で登るようになっている。黄河を俯瞰《ふかん》できるところまで登って、塔のところまで行くのは諦めて、そこから引き返す。
公園を出て、黄河古橋の袂《たもと》に立つ。この辺りではここが川幅の一番狭いところだそうである。川幅は一〇〇—一五〇メートルぐらい。水深は十五、六メートル、しかも水がつめたいので、この橋の附近の水泳は禁止されているそうである。流れは速く、ために冬でも凍らぬという。
町を歩く。市街だけで人口一〇〇万の町である。郊外の工場地帯を入れると二一三万にふくれ上がる。中国西北地区の大工業都市であるが、しかし町中には古い町の名残りが到るところに遺っている。町中の丘にはぎっしりと壊れかかったような白壁の土屋がつまっている。
町はもう灰色の冬の町の感じである。街路樹の葉が落ちてしまうと、全くの冬の町になるだろう。どことなくしっとりとしていい。昨年八月の蘭州には感じられなかったものである。今から五十年前の蘭州は四方を城壁で包まれた人口一〇万の町だったという。甘粛省一の都会ではあっても、黄河に沿ったさぞ静かな、殊に冬などは淋しいくらい静かな地方都市であったろうと思う。
町にはアカシヤ、槐《えんじゆ》、枝垂柳《しだれやなぎ》の類が目立つ。一番多いのはやはりポプラである。
十月七日、六時起床、七時四十分、宿舎を出る。八時十九分発の列車に乗る予定である。駅は大きい。昨年の時は、深夜の出発になり、辺境地帯へ向う列車の駅の暗さがあったが、今日は明るい。ホームには大勢の乗客が溢《あふ》れていて、賑やかである。
結局列車は一時間おくれ、九時十五分、蘭州駅を離れる。今日は烏鞘嶺をゆっくり見物させて貰うつもりである。昨年は往きも帰りも、二回共、暁方の烏鞘嶺越えになり、峠も峠附近も殆ど眼に収めていない。
郊外の土屋の集落地帯を過ぎると、樹木の多い大耕地が拡がり、遠くに黄河の流れの帯が見えてくる。線路に沿って、舗装された甘新公路が走っている。酒泉を経て、ウルムチ(烏魯木斉)まで、遠くなったり、近くなったりしながら、線路に平行して走る道である。途中にゴビ(戈壁)もあれば、沙漠もある。なかなか大変な街道である。
蘭州から三十分ほどで、左公車を配した黄河が見えてくる。左公車というのは、春秋時代に左公という人が造った水車だと言われ、水車の直径は一〇メートルほど、それに水を汲み上げる桶が三十幾つかついている。水量が多い時は水車の廻転が早くなり、その廻転の速さによって、流れの速度や水量が判るという。いずれにしても二千年ぐらい前から使われている、高い崖の上の耕地に水を送るための水車である。以前はこの辺りの黄河にたくさん見られたが、今は用水路の整備によって少くなったそうである。
発案者の左公なる人は、一説に少数民族の人だとも言われている。それはともかく、大きな水車を岸に配したこの辺りの黄河は、何とも言えずのびやかでいいが、残念なことに今は算《かぞ》えるほどしかない。一つ、二つ、それからまた二つ、そんな現れ方である。
十時、河口南駅。それから暫くして東流している黄河の黄濁した流れを渡る。そして次第に黄河の奔流とは隔たり、その間に岩山地帯が置かれる。こうして黄河とは別れる。
白草原頭 京師を望めば
黄河 水流れて尽きる時なし
これは唐詩選に載っている王昌齢《おうしようれい》の七言絶句の前半であるが、何となくこの辺りの黄河にぴったりするように思う。もともと辺境の将兵に代って、その心情を歌った詩であるから、その場所がどこであるか詮索しても始まらないが、この詩には、この辺の黄河がぴったりするようだ。これからなお黄河に付合うとなると、青海省まで分け入って行かねばならない。まあ、この辺で別れるのが無難というものであろう。この辺りに立って京師を望めば、確かに、黄河の水は流れ、流れて、尽きる時はない、そんな感懐に打たれるに違いない。
黄河と別れて、列車は連山脈へと入って行く。左手にも右手にも、一木一草ない低い岩山が連なっており、それに挟まれた地帯を列車は走っている。土地は荒れているが、その大部分が耕されており、農村地帯が続いている。
やがて右手の山の連なりはなくなり、左手は大きな断層をなし、視野は大きく開ける。この辺りから列車は上りづめに上る。不毛の土地が拡がり、ところどころに羊群が置かれている。明らかに連山脈に分け入りつつあるのであるが、耕地もあれば、不毛地もある。十一時四十分、永登駅。駅は高台にあり、集落は低地にある。地盤は高低、段落があるが、それでも一面耕されており、樹木も点々と配されている。ここは連山脈への登り口の駅で、ここから烏鞘嶺を越えて河西回廊に入ってゆくのである。
三十分程すると、急に両側の山が迫って来て、渓谷は狭くなり、山間部に入ってゆく。それでも所々に小さい集落がある。屋根の低い土屋が身を寄せ合っており、楊樹は黄ばんでいる。
渓谷は広くなったり、狭くなったりし、列車は右手の岩山の裾を走っているが、その岩山を脱けると、他の渓谷に入り、そしてまた他の渓谷に入って行く。幾つかの渓谷を縫って、山脈を越えてゆくのであろう。時には水の美しい小川が顔を覗かせ、その向うに一面に紅葉した楊樹の林があったりする。
十二時五十分、打柴溝という駅、ここで機関車を替える。冬は二輛の機関車をつけるが、現在は一輛で間に合うそうである。
やがて無数の糸屑を束ねたような川が見えてくる。山脈の頂き近いところの川らしい。列車の線路のすぐ傍に、万里の長城の欠片《かけら》が置かれているのを見る。
金強河という駅がある。この辺は烏鞘嶺の裾に当る地帯、二〇〇〇メートルの高地であるが、チベット族が住み、短期間で収穫できる雁麦を栽培しているという。同名の河があるが、その河畔の台地の上にも、長城の欠片が幾つか置かれている。以前はこの地区は定羌河《ていきようが》と呼ばれていたが、羌族を平定するという意味なので、革命後に金強河という名に改められたという。
山に挟まれた平坦地がずっと続き、その間川の流れは平坦に置かれていたが、やがて道は上りになり、雪の山がすぐそこに現れてくる。羊の大群の放牧、このようなところも放牧地になっているのであろうか。
一時五十分、川の畔《ほと》りの淋しい土屋の集落が眼を惹《ひ》く。その集落の辺りから、列車はぐんぐん登って行き、烏鞘嶺駅を通過する。そしてトンネルをくぐったところから道は降りになる。この地帯もチベット族の住居地帯で、丘と丘との間や、丘の裾に小集落が点々と配されている。どの集落にも、低い屋根の家が寄り添うようにして固まっており、一晩の雪で埋まりそうに危く見える。丘の頂きや斜面には、あちこちに、放牧の牛の群れが配されている。三八〇〇メートルの烏鞘嶺の向う側にも、こちら側にも、人々は住んでいるのである。
やがて道は大きく曲って、前方に見えている山と山との間に入って行く。こんどの渓谷にも同じように小集落があり、猫のひたいほどの耕地には小麦や粟の栽培が見られる。レストランとも、劇場とも、繁華街とも全く無関係な生活が、ここでは営まれている。
三時四十分、十八里堡。渓谷の駅である。流れ降っている小川に沿って小さい集落が造られている。
やがて右手の山は次第に遠くなり、一望の原野が拡がってくる。そして原野のところどころに耕地が点綴《てんてい》され、羊群が置かれ始める。全く山脈を降りきったのである。
古浪、双塔といったしゃれた名前の駅を素通りして、黄羊鎮駅で停車。かなり大きいオアシスで、駅から遠く離れたところに集落がある。ここで、その一つの尾根を越えて来た連山脈の山なみを左手に見る。
五時三十分、武威駅。武威を過ぎてから、列車はずっと半ゴビ地帯を走り続ける。武威を過ぎてから連山脈の一峯である焉支《えんし》山なる山を眼にしたく思って、列車の何人かの乗務員に訊ねてみるが、誰も知らない。もし焉支山という山が見えるなら武威と張掖の間の筈であるが、今回は諦める以外仕方ないと思う。この敦煌行きの帰途、河西回廊をジープで走ることができるようだったら、その時改めてお目にかからせて貰おうと思う。
「史記」の“匈奴《きようど》列伝”に、
——漢、驃騎《ひようき》将軍去病《きよへい》をして万騎をひきいて隴西《ろうせい》より出でしむ。焉支山を過ぐること千余里、匈奴を撃つ。
という記述がある。年若き将軍霍去病《かくきよへい》の匈奴討伐の赫々《かくかく》たる武勲を述べるに当って、最初に焉支山の名が取り上げられているのである。
それからまた、去病の大遠征によって、長く根拠地としていた連、焉支の二山を失った匈奴が、その悲しみを歌ったという歌がある。「国訳漢文大成」の訳を借りると、
——匈奴、連、焉支の二山を失い、乃《すなわ》ち歌って曰く、我が連山を亡《うしな》う、我が六畜をして蕃息せざらしむ、我が焉支山を失う、我が婦女をして顔色なからしむと。其の悲惜すること乃ち此の如し。
この匈奴が歌ったという歌を、私流に訳させて貰うと、
——われ、連山をうしなう。大切な放牧地はなくなった。これからどうして、羊や、馬や、牛や、駱駝《らくだ》たちを生かして行ったらいいであろうか。
——われ、焉支山をうしなう。女たちにとって大切な臙脂《えんじ》は手に入れることができなくなった。わが可愛い女たちは、これからどうして化粧するであろうか。
私の場合、匈奴という剽悍《ひようかん》極まりない北方の遊牧民族が、ふいに生きた人間の集団として受け取られたのは、匈奴が歌ったというこの歌を知ってからである。
それはさておき、河西堡駅に入ったのは七時五分である。すでに漆黒の闇が大原野を包んでいる。連も闇に包まれ、焉支もまた闇に包まれている。
午前二時半、酒泉着。寒いというので羽毛服を纒うが、ホームに降り立ってみると、それほどでもない。月が美しい。甘粛、新疆《しんきよう》、それも辺境地区だけで見られるつめたい月の輝きである。また縁あって、この月を仰ぐことができた、そんな思いである。
駅附近にも人家というものはない。町まで一四キロ、真暗い道が続いている。くるまのライトでポプラの街路樹が次々に現れてくる。駅からまっすぐにのびている道が、町に入る手前で、僅かにカーブする。やがて南門をくぐると、すぐ鼓楼《ころう》に突き当り、右に曲ると、左側に地区招待所がある。人口五万の町であるが、夜半の今の時刻は、息を引きとったように静かである。招待所に入ると、すぐ寝台にもぐり込む。三時半である。