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私の西域紀行27

时间: 2019-05-23    进入日语论坛
核心提示:二十七 疏勒河を追って 十月八日、快晴、九時に目覚める。招待所の庭を同行の常書鴻氏(敦煌文物研究所長)夫妻と歩く。空気は
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 二十七 疏勒河を追って
 
 十月八日、快晴、九時に目覚める。招待所の庭を同行の常書鴻氏(敦煌文物研究所長)夫妻と歩く。空気は爽やかである。酒泉は人口五万の町、十一月初めに降雪があり、年に五、六回の雪、十月初めの今は多少ひんやりとして、爽やかである。昨日列車で通過して来た武威も、張掖も、大体同じ気温のようである。
 午後二時に招待所を出て、夜光杯工場を訪ね、そのあと町中の鼓楼に赴く。鼓楼は招待所から歩いて五分ほどの所、ほぼ町の中心部の十字路のまん中にでんと収っている。昨年もこの町に来ているが、鼓楼を訪ねる暇はなかった。その前を素通りしただけで、くるまは停めていない。酒泉の町の紹介にはよくこの鼓楼の写真が取り上げられているが、確かにこの小さい形のいい建物は、酒泉という河西回廊の古い町を特別なものに見せている。
 酒泉の町ができたのは紀元三四六年であるが、勿論鼓楼はそれほど古いものではない。明代にここから三十数キロの地点に嘉峪関《かよくかん》建造の大工事が行われたが、鼓楼が造られたのはそのあとのようである。いずれにしても六百年ほどの歴史を持つ建物ということになる。記録によると、町の城壁と東門の壊れたのが材料として使われているという。言うまでもないことだが、鼓楼と呼ばれていることからでも判るように、時刻を報ずるための太鼓が打ち鳴らされた建物で、その太鼓は何層か知らないが、北面正面に置かれたということである。
 鼓楼は高さ三三メートル、大きな四角な石門の上に載っている三層の楼閣である。石門の高さは五、六メートル、東西南北、四方からの道がこの鼓楼の建物に集っている。石門四面の上部中央には、それぞれ次のような文句を記した額が嵌《は》め込まれている。東面には“東迎華嶽”、西面には“西達伊吾”、南面には“南望連”、北面には“北通沙漠”と記されている。まさにその通りである。東は遠くに中華の山々が聳《そび》えており、西は天山東部南麓のオアシス、伊吾(現在の哈密《ハミ》)に通じている。そして南ははるかに連山脈を望むことができ、北はいわゆるゴビの大沙漠に通じている。
 石門の内側に壊れかかった階段があり、それによって一層に登ってみる。二層に上がったような錯覚を覚える。一層の床はコンクリートで固められてあるが、これは最近の補修によるものであろう。もともと土と煉瓦で造られている建物である。
 一層の回廊をぐるりと廻る。酒泉の町の俯瞰場所として、これ以上の場所はないだろう。高い建物のない白い土屋の町が、秋の陽を浴びて静かに拡がっており、鼓楼に突き当る四本の街路は、それぞれポプラの緑に縁どられて、まばらに人影を載せている。南に向って立つ。町の拡がりの向うに、雪を戴いた連の山なみが重なって、大きい屏風《びようぶ》となって置かれている。前山も雪、その向うの大きい連なりの山脈も雪である。山は既に冬の装いを見せているのである。
 このゴビのただ中の小さい町は、昔はぐるりと城壁で囲まれていたというが、その頃はどんなによかったであろうと思う。蘭州の町もしっとりしていていいが、ここまで来ると最果ての町の静けさ、淋しさが、それに加わってくる。確かにここは“古来征戦幾人ぞ帰る”の涼州詩の町であり、夜光杯の町なのである。
 鼓楼を辞して、東の郊外にある酒泉公園を訪ねることにする。昨年は五月の酒泉公園を歩いて、何とも言えず楽しかったので、こんどは秋のそれを覗いてみることにする。町が小さいので、東の郊外といっても、五、六分のドライブで着いてしまう。昨年はライラックの紫の花が真盛りだったが、こんどは公園全体が紅葉で燃えている。ポプラの大樹も、何種類かの楊樹も、みな燃えている。葡萄棚の下の道を歩いて行くが、葡萄の葉もまた紅葉している。
 この前も野趣があっていいと思ったが、その印象は少しも改める必要はなかった。道の両側は雑草の中に花が咲いている自然の花壇になっていて、日本の田舎の背戸の叢《くさむら》の感じである。きれいな水を湛《たた》えていた大きい池は清掃、修理中だが、どこに眼を遣っても、公園の持つ取りすましたところはなくて、のびやかでいい。駱駝が池の修理の石材を運んでいる。ここばかりでなく、酒泉の町中でも、よく駱駝が大きな車を曳いているのを見掛ける。酒泉は驢馬《ろば》の町というより、駱駝の町と言った方がよさそうである。
 酒泉は駱駝の町、ポプラの町、鼓楼の町、夜光杯の町、そして白壁の町である。町を歩いていて路地を覗くと、白壁の塀がずっと続いている。
 
 十月九日、快晴、七時四十分、招待所を出て、敦煌に向う。敦煌まで四五〇キロ。NHKの撮影班と一緒なので、ジープ四台、マイクロバス二台の陣容である。
 私にとっては、酒泉から敦煌に向うジープの旅は二回目である。昨年は途中玉門鎮という小集落で昼食を摂り、充分休養して、安西に向い、安西に一泊、翌日敦煌に入ったが、こんどはそんなのんびりしたスケジュウルは組まれていない。途中仕事をしながら、夜少し遅くなるが、いっ気に敦煌に入ってしまうという。その方が私にとっても有難い。一度ドライブしたことのある単調なゴビ地帯なので、半分は夜になってもいっこうに構わない。深夜、敦煌莫高窟《ばくこうくつ》の小さい集落に入るのも悪くないと思う。
 それから同じ地帯のドライブではあるが、この前見落したところもたくさんあるので、そうしたところを拾って見て行こうと思う。そうしたものの中で一番大きいものは疏勒河《そろくが》である。この前はどれが疏勒河か見当がつかず、うやむやにたくさんの河を渡った記憶を持っている。
 こんどは一応その川筋を調べてあるし、NHKも疏勒河を一、二カ所で撮影するという。たいへん有難いことである。大体、疏勒河というのは「西域水道記」に出て来る河西回廊の代表的な大河である。連山脈より発し、安西附近で消えるが、往古からこの地帯の旅行者はこの川筋を辿《たど》ったり、目印にしたりして、安西への旅を続けたようである。大きさからいうと、河西回廊で、黒河に次ぐ第二の川であろうか。安西附近で消えると記したが、もちろん、その辺りで伏流して、そのあとは地表に出たり、地下にくぐったりしながら、遠くタクラマカン沙漠のロブ・ノール方面を目指しているのである。
 町を出て、五分ほどで甘新公路(甘粛省と新疆地区を結んでいる道)は問題の疏勒河を渡る。川幅は一〇メートルほどで、水は殆どない。主な流れは伏流しているのであろうか。すでにこの辺りはゴビであり、左手遠くに雪の連山脈が見えている。どこまでも長く稜線を見せた雪の山脈である。その雪の山脈の頂きが陽に当って美しい。山脈の前に前山が置かれてあるが、ここからではこの方の雪は見えない。
 甘新鉄道(甘粛省と新疆地区を結んでいる鉄道)の線路の下をくぐり、最初の集落を過ぎると、前方に嘉峪関址が見えてくる。関址には立ち寄らず、その附近の丘陵地帯を通過して行く。黒い山が嘉峪関の背景となっている。黒山子という山である。実際に黒い山で、往古、月氏《げつし》族の馬の訓練場所だった所と言われている。黒山子の稜線は烈しく、神経質に波打っていて、馬の《たてがみ》のように見えている。いわゆる馬《ばそう》山山系の一つの山なのである。
 連山脈と黒山子の間には本格的なゴビが拡がっていて、電柱以外は一物もない。甘新鉄道の線路を何回も越える。道はそれほど折れ曲っているのである。
 やがて地盤は断層によって低くなり、小さいオアシスに入る。黄色のポプラに包まれた集落である。右手の黒山子は近くなり、前方にも同じような岩の丘陵が幾つも重なっている。左手は依然として雪の連山脈がどこまでも続いている。
 八時四十分、ゴビ全部に陽が当って明るくなる。そのうちに地盤が荒れ出し、小丘陵が点々と置かれてある地帯を道は一本の黒い帯となって走っている。右手路傍に烽火台《ほうかだい》址が置かれているのを見る。暫くすると、また小さいオアシスに入る。土屋の小集落で、家は二、三十軒か。樹木はみな黄葉している。
 依然として地盤は荒れ続けている。路傍にまた烽火台址。左手、高いところに昼の白い月が浮かんでいる。初めて駱駝が曳いている車に出会う。
 疏勒河にぶつかる。橋が壊れているので、道から逸れて河床を渡る。いつかゴビは原野に変り、右手に新しい山が現れてくる。左手には相変らず連山脈が置かれている。やがてまた小集落に入る。この頃からアルカリの白い地帯が遠く、近く拡がり始める。左手遠くに列車の走っているのが見えてくる。
 九時十分、アルカリ地帯が道の両側に拡がって来、一面に霜を置いたように地面は白くなる。これまで原野のあちこちに駱駝草が見られたが、やがて駱駝草はなくなり、々《ちいちい》草地帯になるが、次第に土包(土の固まり)の上に々草を載せた団子草地帯に変って行く。左手、連山脈との間の原野には丘が島のように幾つか置かれている。道は再び丘陵地帯に入って行く。
 九時三十分、三度目に疏勒河を渡る。川幅はかなり広くなっているが、砂洲が多く、水は少い。両岸は左右共、断崖をなしている。つまり、断崖と断崖とに挟まれた流れである。川を渡って、半ゴビの小丘陵地帯を走り続ける。また線路を越える。地面、うっすらと赤くなる。
 九時五十分、本格的なゴビになり、遠くに蜃気楼《しんきろう》の湖が見えている。やがて前方にオアシスの帯が置かれ始める。本来なら緑の帯であるが、黄葉しているので甚だ色が冴《さ》えない。大乾河を渡る。疏勒河らしいが、はっきりしない。
 赤と黄に燃えた大街路樹に導かれて、大きい集落の中に入って行く。黄色のトウモロコシ畑があちこちに配されている。集落を出ると、またゴビ。が、程なくまた、緑と黄が入り混じっているオアシスの中に入って行く。路上に、ポプラの葉が金粉のように舞っている。
 十時十分、左手に疏勒河の流れの面を見る。川幅は狭くなったり、広くなったりしている。が、また道は疏勒河から離れて行く。
 道はゴビの中に点々と置かれている農村地帯を縫って行く。ゴビと、黄葉のオアシスが、交互に現れて来る。なかなか贅沢なドライブである。ゴビの中に黄色の島が置かれている。小さい丘全体が黄葉し、それが黄色の島のように見える。
 そうしたゴビのただ中で休憩。
 ——蘇々、紅柳、々草、この三つを沙漠の三宝と言います。蘇々は駱駝草のことです。駱駝草は俗称、本当の名は蘇々です。紅柳はタマリスク。この三つの草は沙漠の草ですが、それぞれに人類に貢献しています。蘇々は薬草、々草は、これを焼いた灰をに入れると、がのびます。タマリスクはこの根に寄生する植物が、やはり貴重な薬草です。
 常書鴻氏が足許に生えている沙漠の草を取り上げて、説明して下さる。
 
 十一時十分、左手遠くに橋湾城が見えてくる。例の誰も住んだことのない清時代の奇妙な城である。後車を待つために停車、休憩する。どうもこの城址の背後に疏勒河が流れていそうな気がするので、そこへ行ってみることにする。果して城の背後は深く抉《えぐ》られて、渓谷をなしており、そこを疏勒河が流れている。流れは大きく折れ曲っており、そのためか、今まで見て来た疏勒何とは異って、水はゆたかである。
 台地から降りて、河岸に立ってみる。まるでダムででもあるかのように、水はどんよりと、そこに溜っている感じである。
 十二時、橋湾城を出発。すぐ左手にヤルダン(白龍堆)地帯が拡がって来る。その地帯を過ぎた頃、出水のために、道が水の中に没してしまっているところにぶつかる。協議の結果、水を突切って渡ったが、一体、この水はどこから流れて来たのであろうかと思った。犯人は疏勒河であるかも知れないが、ところどころで、疏勒河の切れはししか見ていないので、何とも言えない。
 左手の低い丘の連なりに沿って、道は走っている。その丘がなくなると、大きくゴビが拡がり、その中に入って行く。左手遠くにまた、疏勒河の流れの細い帯が見えてくる。
 左手に再びヤルダン地帯が拡がってくる。停車、ヤルダン地帯の中に入ってみる。足許の砂は石のように固まっている。コンクリートのように固まっていると言った方がいいかも知れない。そのコンクリートの板を、力をいれて引張ると、一枚一枚はがれて来る。
 周囲を見渡すと、大小のコンクリート作品が無数に置かれている。
“考える人”もあれば、かがめるライオンもある。ワニも居れば、サメも居る。烽台(烽火台)もあれば、城壁の欠片もある。寺院の基壇のようなものも置かれていれば、巨大な椅子も置かれている。
 昨年はこの地帯に足を踏み入れていないので、この不思議な大ミューゼアムの中の散策は初めてである。言うまでもなく、こうした芸術作品の制作者は風と、歳月である。この砂と土の波濤は、強風が永年にわたって造り上げたもので、“風蝕によって造られた硬い粘上の波立っている地帯”とでも言う他ない。
 このヤルダン地帯の近くを、疏勒河が流れている筈なので、先導車が、それを探しに行く。その報告があるまで、この大自然のミューゼアムで、ゆっくり休憩をとらせて貰う。時々、道路の上で砂が舞い上がっている。竜巻ではなく、ただ砂が勢よく天に向って舞い上がって行くのである。
 ——ああいうのを沙龍と言います。
 常書鴻氏が教えて下さる。なるほど沙龍とは、よくぞ名付けたものだと思う。沙の龍が天に舞い上がって行くのである。
 
 やがて疏勒河を探しに行ったジープが戻って来、それに導かれてヤルダン地帯の周辺のゴビの一隅を突切って行く。道がないので、くるまの動揺は烈しい。やがて疏勒河岸の断崖の上に出る。眼下に大きい流れが見えており、流れには橋までかかっている。
 こんど見る疏勒河は大河である。断崖を降りて橋のところまで行く。橋の上に立って上流を見る。左岸は大きな断崖、右岸は原野の拡がり、それに挟まれて二〇〇メートル程の大きな川床が拡がっており、その中に大きな洲が二つ三つ置かれて、それを縫うようにして、二〇メートル程の水の流れが見られる。次に下流に向って立ってみる。こんどは左岸は原野、右岸は大きな断崖によって縁どられ、こちらもまた、大きな中洲が幾つか置かれ、その周りを白濁した流れが埋めている。中洲の一つには牧童の鞭《むち》で動いている三〇頭余りの羊群が見られる。今しも浅瀬を横切って、他の中洲へ渡ろうとしているところである。
 先刻、橋湾城の裏手で見た疏勒河の水はきれいに澄んでいたが、こんどは白く濁っている。ふしぎな川である。大体、沙漠やゴビの川はみなふしぎであるが、この疏勒河はその代表のようなものである。たくさんの支流を持っているらしいが、どれが本流やら支流やら判らない。そして思いがけないところに、突然姿を現し、その流れは澱《よど》んでいたり、流れていたり、川幅は大きかったり、小さかったり、——まあ、こういうのをひと筋縄ではゆかない川というのであろう。大体、どうして疏勒河などという名がついているのであろうか。疏勒というのは、現在のカシュガル(喀什)の古代の名前である。タリム盆地でも、最も西にあった往古の西域の国の名前である。地域的にみると、この都邑《とゆう》とこの川はかなり隔たっている。
 四時半、疏勒河に別れを告げて、出発。ここから安西までは六〇キロ。ずっとゴビのドライブが続く。ゴビのただ中を、三頭の駱駝が竝んで歩いているが、どこを見ても人の姿はない。いかなる駱駝なのであろうか。
 左手遠くに蜃気楼の湖が見えている。連山脈の裾のあたりである。右手にも水面が見えているが、この方は真《ほん》もののダムらしい。また駱駝が現れる。こんどは大群である。ゴビ、どこまでも続いている。
 五時、左手に低い岩山が長く続いている。前山と後山が二つ重なって、非常に長い稜線を見せている。
 五時二十分、乾河道の橋が流されているところに出る。連山脈より出た水のためであるが、これも結局は疏勒河の仕業なのであろう。貧弱な街路樹が現れ出す。ポプラらしい。何となく安西に近い感じである。安西で大休止をとり、それから敦煌に向うことになっているが、安西からあとは夜のドライブになるだろう。
 
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