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私の西域紀行28

时间: 2019-05-23    进入日语论坛
核心提示:二十八 飛天と千仏 十月九日(前章の続き)、朝七時四十分、酒泉招待所を出発、半沙漠、半ゴビ地帯を二八〇キロドライブした果
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 二十八 飛天と千仏
 
 十月九日(前章の続き)、朝七時四十分、酒泉招待所を出発、半沙漠、半ゴビ地帯を二八〇キロドライブした果てに、安西に着いたのは午後六時である。安西で大休止をとり、七時二十分、安西を出発、敦煌まで一四〇キロの最後のドライブに移る。
 安西の閑散とした集落には燈火が二つ、三つ瞬き始めている。集落を出ると、すぐゴビが拡がってくる。まだ空は残照で赤く彩られている。しかし、やがて地上は次第に暗くなり、空のみが薄明るいが、暫くすると、その夕映えの空もなくなり、夜の帳《とばり》がすっぽりとゴビ全体を包み始める。時計を見ると、八時である。
 その頃からジープのライトのいたずらか、道が雪を置いたように白く見えてくる。そして道の両側のゴビもうっすらと雪をかぶっているようである。そうした雪のドライブが長く続く。
 路傍に、敦煌まで六〇キロの標識を見る。雪の道を二人の男が歩いている。野兎が雪の道を横切る。ふしぎなドライブである。時折、砂烟りが上がっているに違いないのであるが、そうしたことは、いっさい感じられず、ただ静かな雪原のドライブが続く。
 敦煌まで一六キロの標識のある地点で、ふいに雪が消える。どうして消えたか判らないが、道の両側が原野になったためであろうか。
 敦煌まであと一〇キロというところで、純白の驢馬が路傍に立っているのを見る。白いのはライトの加減であろう。くるまは敦煌の町には入らないで、直接、町から二五キロの地点にある敦煌莫高窟に向う。敦煌文物研究所の招待所に着いたのは九時三十五分。
 くるまを降りると、みんないっせいに夜空を仰ぐ。つめたい光の星が満天にかかっている。昨年(五十三年)五月、ここを訪ねているので、一年五カ月ぶりの敦煌である。
 部屋の割り当てが行われ、私は奥の一部屋を頂戴する。昨年は五日間の滞在中、毎日のように、宿舎である敦煌の町中の招待所から、この莫高窟に通ったものであるが、こんどは莫高窟千仏洞の裾に眠らせて貰うことになる。たいへん贅沢なことである。
 招待所の広い応接室で遅い夕食を摂る。部屋を出て、応接室に向う時も、食事を終って、部屋に戻る時も、みんな申し合せでもしたように、中庭に出て空を仰ぐ。降るような星が瞬いている。まさに“星闌干《らんかん》”である。河西回廊西端の星であり、敦煌の星であり、そのかみの沙州の星である。夜気はつめたい。既にこの地帯は秋が終ろうとして、すぐそこに冬がしのび寄りつつある。
 部屋の寝台に横たわる。“秋風・慈眼・星闌干”、そんな文字を瞼の上に載せて、眼をつむる。三千の慈眼に見守られての、贅沢極まりない敦煌の眠りである。
 
 十月十日、八時起床、晴天、千仏洞の裾を走っている道を散歩する。一年ぶりで鬼柏掌と呼ばれている大樹を見上げる。風が吹くと鬼が柏手でも打っているような音をたてるということから、この名があり、ポプラの一種ではあるが、この千仏洞前の道を特殊なものにしている。
 九時食事、すぐ招待所を出る。今日は午前中に莫高窟の入口で、敦煌文物研究所長の常書鴻氏、ならびに夫人に出迎えられるところをNHK・中国撮影班両方のカメラに収められるというので、多少緊張していたが、仕事は三十分ほどで簡単にすんでしまう。
 そのあと常氏の案内で、大泉河の河原に出て、莫高窟北区域の未整理の窟がたくさんあるところを見せて頂くことにする。大泉河は往時は千仏洞が営まれている鳴沙《めいさ》山の断崖の裾を洗って流れていたが、現在は少し離れて、そこを迂回するような恰好で流れており、莫高窟と流れとの間の平地に敦煌文物研究所関係の建物や畑などが収められており、それを樹木の茂みが包んでいる。長さ一〇〇〇メートルに及ぶ莫高窟南区域のたくさんの石窟も、みなこの地帯に収められている。
 しかし、大泉河の流れはそのまま鳴沙山の断崖から離れてしまうのではなく、間もなく莫高窟の北区域に於て断崖に寄り添ってくる。従って莫高窟北区域の六〇〇メートルに亘る地域の石窟はいずれも、大泉河の広い河原に向って、その黒い眼窩《がんか》を開けている。
 河原を歩いて行くと、多少寒くはあるが、秋の陽がたいへん気持いい。河原は石は僅かで、大部分が砂、細かい粒子の砂である。そしてそこに点々と枯草がばら撒かれている。河原は到るところにアルカリを噴き出して、白い地帯を造っている。川幅は広いところで二〇〇メートルぐらいであろうか。流れの水はほんの少々、涸れた川と言っていい。河畔のポプラの林が黄葉して美しい。
 やがて河岸に莫高窟の北区域が現れてくる。断崖にたくさんの石窟が彫られている。河原を斜めに横切って、その方に近付いて行く。河原に沿い始めた最初の岩面《フエース》だけでも、石窟の数は三十ぐらいあろうか。そしてそれに続くフェースはすっぽりと削り落されている。
 ——このフェースには二十年前には五つの石窟がありました。それがいつか岩壁ごと落ちてしまった。いつ落ちたか判りません。
 常書鴻氏はおっしゃる。こうした削り落されたフェースはここばかりではない。少し離れたところで、十ほどの石窟があったフェースも、いつか消えてしまっているという。
 こうした莫高窟北区域の岸壁を左手に見ながら、河原の上を歩いて行く。現在遺っている窟は百五十ぐらいであろうか。いずれも未整理、未発掘であり、その大部分は空洞であるが、中には入口にウイグル文字や、満州文字の記されている窟もある。
 こうした小空洞の一つに梯子をかけて登って、内部を覗いてみる。洞内は砂で埋まっているが、それでも三メートル四方ぐらいの広さ、床から天井までは二メートルぐらい、狭い部屋であるが、暖炉、煙突、寝台などの設備の跡が認められる。僧侶の宿坊であったかも知れないし、或いは画家や工人たちの宿舎、または仕事部屋であったかも知れない。現在整理されている石窟は莫高窟全体で四百九十二(一九七八年調べ)、その中に収められている塑像《そぞう》は三千点、壁画で埋められている全壁面を横に竝べると四五キロに及ぶという。四世紀から十四世紀にかけて、千年に亘って開鑿《かいさく》され、荘厳《しようごん》されたものであるが、その時代時代で、大勢の彫刻家や画家が敦煌の町に工房や画室を構えたり、この莫高窟にも仕事場を持ったりしていた筈である。古い記述には千の石窟があったと記されているが、画家や工人たちの宿坊、仕事場にまで思いを致せば、千という数は必ずしも大袈裟なものではないであろう。
 
 午後は北魏《ほくぎ》の幾つかの古い窟をゆっくりと覗かせて貰う。北魏の窟だけにある交脚弥勒《みろく》に一年ぶりにお目にかかりたかったからである。二七五、二五九、二五四、二五七といった窟が交脚弥勒のお住居である。
 まず二七五窟。正面は大きい交脚弥勒像が、左右に小さいユーモラスなライオンを随《したが》えて、ゆったりとこちらをお向きになっていらっしゃる。敦煌関係の書物の多くが、最初の口絵に収めている交脚さまである。敦煌の交脚弥勒で一点を選ぶとなると、この交脚さまということになるだろう。どっしりと構えたお姿は、いつまで眺めていても倦《あ》きない。上半身は裸身、そこを二本の頸飾りで飾ったおしゃれな北魏の弥勒さまである。両腕とも損傷甚しいが、そんなことは少しも気にならない。
 なおこの窟には奥の南北両壁の龕《がん》に、それぞれ二体ずつの交脚像が置かれている。この四体の交脚像も両腕の満足なのはないが、それぞれにいい。顔も体も共にふくよかで、人間的ではあるが、ひたすらに清らかで、静かである。この二七五窟はまさしく交脚の弥勒さまたちのお住居である。昨年の時もそうであったが、こんどもまた滞在中、毎日一度、時には何度も、この窟を訪ねさせて頂くことになるだろう。
 二五九窟。ここには南北両壁の上段の龕に、小さい交脚さまが二体ずつ竝んでいらっしゃる。三〇センチぐらいか。顔は黒くなって傷んでいるが、完全な時はきりっとした美しいお姿だったと思う。
 二五四窟。左右の、入口に近い上部の龕に、対い合って二体の交脚像が置かれている。眼はぱっちりとしており、細面《ほそおもて》のお顔は白く塗られている。そして髪は高々と結い上げられて兜か冠でも戴いているかのように見える。古様、古代の交脚さまである。
 二五七窟。中央の龕の右壁に、七五センチぐらいの小さい交脚さまがいらっしゃる。正確に記すと“中心龕柱北向龕に交脚像一体あり”とでもいうことになろうか。高所の龕の中に坐っていらっしゃるので、下から仰ぐことになるが、お顔はなかなかいい。二五四窟の交脚さまと同じ古様、古式、兜でもかむったような感じであるが、こちらは端麗、いつまでも仰いでいたい弥勒さまである。
 北魏の窟はなお六つあり、交脚弥勒像もそこに何体か収められているかも知れないが、こんどの敦煌訪問に於ての交脚さまとのお付合いは、このくらいのところで停めさせて頂くことにする。主な交脚像にはみな一応久濶《きゆうかつ》を叙した筈である。
 
 十月十一日、快晴、多少寒い。今日は千仏と飛天だけを拾って見て行くことにする。常書鴻氏に代表的な千仏と飛天の窟を挙げて頂く。氏はこの私の依頼に応えて、ノートにいくつかの窟を記したり、それを消したり、また加えたりなさる。どうやら私の質問は難問のようである。あるいは愚問かも知れない。
 千仏、——一六、五七、二四八、二五四、二五七、二六三、二七二、三二一、三二九、三三五、三六一の十一窟。
 飛天、——五七、三〇五、三二一、三二〇、二八五、二九〇、二五七、一七二、二七五の九窟。
 こうなると大変である。しかし、午前を千仏に、午後を飛天に当て、一日を千仏と飛天で過してしまおうと思う。
 大体、千仏なるものは大抵の窟に描かれてあり、どれがいいとか悪いとかいうようなものではないが、ぎっしりと小さい仏さまが印刷でもされたように竝んでいる壁面の前に立ったり、それが描かれている天井を仰いだりすると、近代的とさえ言っていい美しさを感ずる。いずれにしても、窟内の壁面や天井のあいている所を、ぎっしりと千仏で埋めてしまおうという発想は、なかなかすばらしいものだと思う。窟内は一つ一つの千仏の持つ色彩や、地の色によって、厳粛にもなり、華やかにも、暗くもなるのである。手の込んだ小さい仏さま模様の絨毯《じゆうたん》である。
 描かれてある千仏の大きさは時代によって異り、窟によっても異るが、一つの窟内では、同じ大きさ、同じ形で統一されている。小さいものでは、一二センチほどのものもある。概して隋、唐時代の千仏は小ぶりである。
 昨年の敦煌訪問の折に、特に美しいと思ったのは金箔を使ってある四二七窟(隋)、三二一窟(初唐)などであった。
 まず最初に二五七窟。ここは中心龕柱北向龕に小さく美しい交脚像が安置されている窟で、昨日交脚さまの時入っているので二度目の訪問である。改めてここに入ってみると、なるほど中央の龕をめぐって三方の壁面の大部分は、ぎっしりと千仏で埋められている。ざっと算えてみると、一つの壁面に二百四十の千仏が描かれてある。三つの壁面で七百二十、それに天井、その他の千仏を加えると、八百ぐらいになるであろうか。小さい交脚弥勒像の魅力も、窟内を埋めつくしている千仏群、それが醸《かも》し出している雰囲気、そうしたものと決して無関係ではないと思われる。
 次は五七窟(初唐)。この窟は左右の壁面、天井、みな千仏で埋められている。左右の壁面のまん中に四角に区切って説法図が描かれているが、それをぎっしりと千仏が取り巻いている。この部屋の千仏をざっと算えると、三千ぐらいになろうか。壮観である。
 三二九窟(初唐)。この窟は天井をぎっしりと千仏が埋めている。藻井《そうせい》(天井の中心部)を別にして、天井は全部千仏で埋まっていて、なかなか美しい。
 次々に常書鴻氏推奨の千仏の窟を覗いてゆく。千仏そのものは窟によって千差万別、どの千仏が特にいいとは言えない。千仏の大群の持っている力強さ、静けさ、威圧感、そういったものが、窟それぞれによって、いろいろな形でこちらに迫って来るのである。
 
 午後は飛天の窟を次々に訪ねて行く。千仏の方は印刷された図案みたいなもので、動きというものは全くないが、飛天の方は、まさに飛び舞う天女である。静かな流れるような飛翔《ひしよう》もあれば、力強い飛翔もある。天井を舞っているのもあれば、壁面と天井との間のところに、そのかろやかな姿態を舞わせているのもあり、須弥壇《しゆみだん》のうしろの壁を游泳しているのもある。
 大体、飛天というものは瓔珞《ようらく》で裸身を飾り、天衣《あまごろも》をひるがえし、裳裾《もすそ》をなびかせながら、天空を飛行《ひぎよう》して天楽を奏するとされているが、どうも楽の音は聞えて来ない。飛行のリズムというか、動きのリズムの方が勝っているのである。飛天の魅力は、飛行し、飛翔する姿態の美しさである。それも集団の飛行、飛翔の美しさである。
 昨年の敦煌訪問に於て記憶に遺っているのは二四八(北魏)、三〇五(隋)、四一九(隋)、三二九(初唐)、三九〇(隋)の諸窟であるが、こんど常書鴻氏が挙げて下さった十窟の中には、僅かに三〇五窟一つが入っているだけである。しかし、これは少しもふしぎではない。私の場合は昨年見ることができた七十ほどの窟の中から選んでおり、氏の方は氏が四十年もの歳月をかけて見廻っておられる四百九十二の窟の中から選んでいるのである。
 大体、飛天というものはどの窟にも描かれてあって、その数はたいへんなものである。千あるかも知れないし、千五百あるかも知れない。描き方は時代によって異るが、北魏のものは体の描き方が簡単で、すべてが大まかな動態で捉えられている。隋、唐時代になると、精密な描法が用いられ、気韻生動というか、身体は流動的で、色彩も豊麗、二八五窟の飛天などはその代表的なもの、一七二窟に於ては次々に水から飛び出してゆくスポーティーな飛天が描かれている。
 二七二窟は小さい窟であるが、左右の壁面全部を、飛天と千仏が埋めていて美しい。飛天と千仏の協力は、いろいろな窟で見られる。三二一窟(盛唐)なども、飛天と千仏。三二〇窟(盛唐)も、入って左側の壁面には飛天が描かれ、天井には千仏が描かれている。
 三〇五窟(隋)。ここの飛天は非常に美しい。天井の飛天など、その動きはすばらしく、その動きの音が聞えてきそうである。ここの窟は、奥の龕、中央の須弥壇以外の三つの壁面は、全部千仏で埋められているが、残念なことに、この方は色が変ってしまっている。
 二八五窟(西魏)。この窟は、天井の大ぶりの飛天が美しく、いつまでも立ち去り難いものを覚える。
 こうして次々に飛天の窟を経廻《へめぐ》って行ったが、報告はこのへんで打ち切らせて頂く。昨年の敦煌訪問の帰りに、千仏と飛天について、一篇の詩を創っている。
 
——二十年程前に、一度飛天の夢を見たことがあります。深夜でした。何百かの天女が衣の袖をひるがえして、天の一角に上がって行きました。最後の天女が消えるまで、遠くから微かに風鐸の音と、駱駝の鈴の音が聞えていました。
 
莫高窟の疎林の中に三十数年住んでいる敦煌文物研究所のX氏は語った。更に氏は、続けて言った。
 
——千仏の夢も見たことがあります。六年程前、真冬の明け方でした。石窟からすべての千仏が出て、半分は沙漠の上に、半分は三危山の裾に竝びました。何万という千仏でした。静かでした。
 
私は息をのんだ。天女の飛翔と、千仏の出動。長い人生に生起する出来事で、このように重厚、且厳粛に語られた例を知らない。
 
 飛天訪問を終ったあと、一一二窟に出掛ける。胡旋舞を踊っている胡族の踊り子に、久濶を叙するためである。胡旋舞という異民族の踊りは他の窟にも描かれていないわけではないが、壁面が損傷したり、絵具がはげ落ちてしまったりして、はっきりと図柄を眼に収めることは難しい。やはり、一一二窟でお目にかかるのが、一番いいようである。他にもう一つ訪ねるとすると、二二〇窟ということになろうか。全体に色彩ははげ落ちてしまっているが、踊りそのものの烈しい動きはその画面から受け取ることができる。一一二窟の方は背に琴を負うて、それを両手で弾きながら旋回している。
 この胡旋舞についても二篇の詩を書いているが、その一篇は既に昨年の敦煌紀行に於て発表させて頂いている。他の一篇は次のようなものである。
 
中国の古書に見る胡旋舞なる胡族の踊りに対する讃辞は凄まじい。“心は絃に応じ、手は鼓に応ず”、“左旋、右転、疲れるを知らず”、“廻雪飄々、転蓬の如く舞う”、“疾きことつむじ風の如く、燿《かがや》くこと火輪の如し”、まあ、このくらいまではいいとして、“飛星を逐い、流電を掣《せい》す”、“回転乱舞、空に当って散る”、こうなると、もはや讃辞の域を超えている。天山を越えて来た胡族の踊り子の転変哀切な運命の旋回が、長安人士の心に錐《きり》の如く突き刺さったのだ。敦煌千仏洞の壁画の胡旋舞の前に立つと、それがよく判る。鋭い爪先立ち以外、己が体内に蔵する哀切極まりなきものの旋回を支える法はないのだ。
 
 唐代・長安に於て、この胡旋舞なる胡人の踊りは大いに迎えられたらしく、白楽天《はくらくてん》、元《げんしん》などの詩からも、そうした流行の一端が窺《うかが》える。しかし、実際にそれがいかなる踊りであったか、それを知る具体的資料となると、敦煌石窟の中に描かれているもの以外にはないそうである。そういう意味では、一一二窟、二二〇窟の壁画・胡旋舞は、唐代風俗資料として貴重なものなのである。
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