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私の西域紀行31

时间: 2019-05-23    进入日语论坛
核心提示:三十一 得故城の静寂 十月十五日、酒泉招待所の三階の部屋にての目覚め気持よし。窓から覗くと、灰色の空も、裸木も全くの冬の
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 三十一 得故城の静寂
 
 十月十五日、酒泉招待所の三階の部屋にての目覚め気持よし。窓から覗くと、灰色の空も、裸木も全くの冬の朝の感じだ。防寒衣を着て散歩に出る。果して日本の真冬の寒さである。招待所の前の広場には大きな枝垂柳が数本あるが、この柳だけは青々としている。
 今日から張掖、武威を目指す河西回廊の旅が始まる。河西回廊は三回列車で通過しているが、こんどはジープによっての縦断である。列車の窓から大体どのような地帯であるかは知っているが、その中に散らばっている集落ということになると、それがいかなるところか全く判っていない。こんどはそうした集落を一つ一つジープで縫って行く。張掖、武威といった歴史の町にも自分の足で立ち、そこの夜の闇の中に身を横たえることができる。張掖は甘州として、武威は涼州として小説「敦煌」で書いたところである。実際に行ってみないと判らないが、どこかに曾遊の地を訪ねるといった思いがないわけではない。
 八時三十分、出発。夜光杯工場に立ち寄り、九時十五分、そこを出発、一路張掖を目指す。張掖まで二二〇キロ。道は甘新公路。気温十度、天気予報によると、午後は強い風が吹くという。
 白壁の町、着ぶくれた男たちの歩いている町、驢馬の町、鼓楼の町。——いつもの酒泉の印象だが、今朝はそれをすっぽりと灰色の空が包んで、何よりも辺境の冬の町の貌《かお》になっている。広場の傍の野菜市もひどく静かで、街路樹のポプラは上の方だけに葉を着けている。
 くるまは黄と代赭《たいしや》色の鼓楼から、その扁額が“南望連”と記している、その連山の方に向う。すぐ郊外に出る。町中のポプラは貧しいが、郊外のポプラは大きい。間もなく、耕地、不毛地がだんだらに入っているゴビ(戈壁)に出る。くるまは土屋の小集落を縫って行く。この頃から陽が当って暖かくなる。道幅は広いが、工事中の箇所が多く、そうしたところでは砂埃りがもうもうと立ちのぼる。
 青い小麦畑、茶色のトウモロコシ畑、不毛地、小さい村々の茂り、黄色のポプラ竝木。——昨日までのドライブと異って、大体に於てオアシス地帯のドライブで、その中を小砂利を敷いた広い道が走っている。羊群。やがて大きな乾河道を渡る。運転手君の話では、この辺りは上《じようは》人民公社地域で、土地の人はいまの川を野猪溝と呼んでいるという。
 九時五十分、大不毛地帯に入る。が、やがてまたオアシス。黄色のポプラ竝木が美しいと思っていると、また不毛地。要するに大不毛地帯の中にできた小集落を通過したのである。駱駝草点々、羊群。
 オアシスと不毛地を交互に縫って行く。オアシスに入ると、みごとに黄葉した長いポプラ竝木が置かれている。が、時折、その街路樹が片側だけになることがある。片方にオアシス、片方に不毛地が拡がっている場合である。概して不毛地は道の右側に拡がっており、その不毛地の拡がりの向うに連山脈が見える筈であるが、今日はあいにく霞んでいて、雪の大山脈の雄姿を眼にすることはできない。時々、路傍に駱駝が材木を運んでいるのを見る。
 十時、左右共に大不毛地の拡がりとなる。この辺りは全くのゴビで、それが長く長く続く。オアシスの緑はどこにも見えない。酒泉—張掖間の大ゴビである。時々、乾河道を渡る。
 ゴビの中を、道はゆるく、大きく曲る。行き交うくるまは殆どない。遠くに大羊群。乾河道、また乾河道。この大ゴビを徒歩で突切るのはさぞ大変だろうと思う。往古、何回も戦場になった所である。
 
 二十分程のドライブの果てに小さいオアシスに入る。漸くにしてゴビから闘いとったといった、苦しそうなオアシスである。が、次第に耕地が拡がって来て、大オアシスに変って行く。土屋の農家がところどころに見える。やがて閑散とした集落に入る。清水人民公社である。列車の駅に清水駅というのがあったことを憶い出す。停車、後続のくるまを待つ。
 十時三十分出発。農家がまばらに置かれている地帯を行く。畑は小麦とトウモロコシ。相変らず耕地、不毛地、乾河道がだんだらに織りなされている。清水は不毛地の中にできたかなり大きい集落である。
 列車の踏切りを渡り、暫くして集落を脱けて大きいゴビの中に入って行く。左手遠くを列車が走っている。その手前に大羊群が二つ、三つ。
 やがて行手に断層が長く走っているのを見る。近付いてみると、それに沿って大乾河道が横たわっている。道はその乾河道の小石の河原に降り、そこを突切って対岸を形成している断層の上に登って行く。川幅は一キロ、断崖の高さは三メートル。断崖を登ると馬営村というのがあるが、そこには入らず、それを左に見てゴビの中に入って行く。馬営村は昔から馬をたくさん飼育している所として知られており、いま渡った乾河は馬営川である。
 十一時、ゴビのただ中のドライブが続いている。霞んでいるので山影は全く見えない。晴れた日だと、左手に元山、右手に連山脈が見える筈だという。ゴビのまん中であるが、ここから張掖地区に入るという標示がある。
 こんどのゴビも、先刻に劣らぬ大ゴビである。遠くに一軒の農家が数本の樹木を背にして置かれている。たいへんな所に人は住んでいるものだと思う。路傍左手に羊の大群。この辺りのゴビは甘草に埋められており、薄赤く、あるいは薄黄色に彩られている。
 十一時十分、小オアシスに入る。元山人民公社である。しかし、あっという間にそこを過ぎて、再びゴビに入って行く。左手から前方にかけて低い山の連なりが見え出す。元山である。道はその一角を越えるようにして丘陵地帯に入って行く。元山は山の重なりであるが、そこを越えて、再びゴビヘ。
 右手に連山脈が見えて来る。元山の方は長く長く右手に延びて、連山脈の方に走り、しまいにはその前山のように見えてくる。
 いつまでもゴビのドライブ。こうなると、先刻より大きいゴビと言わなければならない。右手には前山が幾つも重なっている連山脈が見えている。ゴビはこの辺りも甘草で赤く染まっている。線路の踏切りを渡る。道は折れ曲りながら走っており、地盤は絶えず多少アップ・ダウンしている。羊群、二つ、三つ。
 十一時三十分、長いゴビは漸く終り、道は高台県のオアシスに入る。全くゴビに取り巻かれているオアシスである。南貨人民公社の集落を通過する。かなり大きい集落で、ここもまた街路樹のポプラが美しい。耕地を隔てて向うに竜巻が見えている。
 十一時四十分、再び不毛地帯に入る。ゴビの拡がりの中に、アルカリの白い地帯が点々と置かれている。道の両側だけに貧しいポプラが植っている。左手やや離れて、小オアシスが見えている。
 停車。いつかゴビは沙漠に変り、辺りには細かい粒子の砂がたっぷりとばら撒かれている。北方の大沙漠の端がこの地帯に入り込んで来ているのである。遠くには小砂丘の連なりも見えている。つめたい風が強くなっていて、路傍の貧しいポプラが風に揺れている。天気予報の通りである。
 十二時、出発。やがて沙漠地帯を脱けてオアシスに入る。ここからは臨沢県。土屋の農家は少いが、耕地は大きく拡がっている。
 道はゆるやかに折れ曲り、折れ曲りながら走っている。目の覚めるような黄葉のポプラの林がある。大きなオアシス地帯である。道はまた線路の踏切りを越え、そのあと農村地帯を縫って行くが、所々に不毛地も置かれている。
 十二時十五分、臨沢の町に入る。大通りに昼休みの人たちが溢れている。道をまん中に挟んだひとかわ町ではあるが、久しぶりで大きい集落に入った感じである。
 町を脱けるとゴビが拡がっているが、間もなく耕地に変り、集落に入る。そしてまたゴビ。不毛地を抱きながらも耕地帯は長く続いている。帯のように長いオアシスである。ここのポプラの黄葉は明るい黄色で、くるまがその色に染まってしまいそうだ。
 小乾河を幾つか渡る。羊の群れ。牛の群れ。また風が強くなり、黄色のポプラ、一方に靡《なび》いている。農村地帯のドライブ、長く続いた果てに、漸くにして張掖の町に入る。
 張掖は全くの田園都市である。町に入っても、畑が多く、馬三頭の荷車や驢馬に乗った人たちが、白壁の土屋の町に溢れている。野菜市の傍を通る。トマト、白菜、トウガラシ、ニンニク、林檎《りんご》、そうしたものが露天に竝んでいる。白壁の土屋だが、扉や窓枠は赤や青に塗られている。さすがに街路樹は立派であるが、町といった感じはなく、埃りっぽい河西回廊の大集落である。人口は都市部で八万。
 十二時五十分、張掖地区招待所に入る。白煉瓦造り、赤茶色の屋根を持った一階建てのしゃれた建物である。
 
 昼食を摂って休憩したあと、漢代の張掖郡の郡城の跡であり、得《らくとく》県の県城の跡である得故城に出掛ける。遺跡は張掖の町から一八キロ、沙漠の中に埋まっているという。
 町を横切って郊外に出、先刻通った道を、反対に酒泉の方に向う。二、三時間前に通過したところであるが、全く初めての地域をドライブしているような思いになる。埃りっぽい道を行く。小麦畑とトウモロコシ畑。ポプラというポプラはいっせいに北に靡いている。道は大オアシス地帯を大きくカーブし、カーブしながら走っている。ゆたかな田園風景の中のドライブである。原野のあちこちに、ポプラの林が置かれている。
 やがて橋を渡る。道は大きくカーブしている。また橋を渡る。畑、不毛地帯、乾河道。乾河道はやたらに多い。
 そのうちに土屋が点々と現れ、農村地帯になり、みごとなポプラの街路樹の竝木を走る。そこを過ぎると、こんどは道の両側に沙漠が拡がってくる。
 ここで、ジープは道から逸れて、左手の沙漠の中に入って行く。小さい砂丘があり、その傍を走る。風が強いので砂塵が舞い上がっている。若いポプラがたくさん植っているところがある。防風林でも造ろうとしているのかも知れない。
 やがて前方に城壁らしいものが見えて来る。そこへ近付いて行く。沙棗《すななつめ》の林を脱けると、城壁の傍に出る。道から一キロ、あるいは二キロの地点であろうか。くるまから降りる。城門がある。そこから入って行く。城門のところの域壁の厚さは、私の足で十一歩、三、四メートルぐらいか。
 内部に入ってみると、大きな遺跡であることに驚かされる。大小の城壁の欠片が沙漠の中に四角な区域を造っており、周囲何キロか、ちょっと見当がつかない。案内してくれている地区革命委員会の人の話では、四角形の一辺の長さは五〇〇メートル、周囲二キロの由。しかし、もっと大きそうに見える。
 城壁に囲まれている内部は、瓦礫と砂の拡がりである。ひどく歩きにくい。城壁の裾は砂が溜って傾斜面を造っている。半ば靴を埋めながらそこを登って行って、城壁の上に立ってみる。現在遺っている城壁の一番高いところは三メートルぐらいか。城壁はもちろん土煉瓦で造られてあり、煉瓦と煉瓦の間には芦のような植物が嵌め込まれていると思われる。西南の一画には城楼の跡らしいものが遺っている。
 城壁の上から見渡すと、全くの沙漠の中の遺跡である。遺跡を取り巻いている沙漠には、あちこちに植林のポプラが林を造っており、城壁の外側には点々と沙棗が植っている。沙棗の方は野生である。
 城壁の上に腰を降ろして、煙草を喫ませて貰う。河西回廊に遺っているただ一つの漢代の、二千年前の城址である。発掘してみないと判らないが、往古の城市が一つすっぽりと埋まっていそうな気がする。それにしても城壁がこれだけ遺っているということは、信じられぬことである。
 一体、この城はいつ亡んだのであろうか。漢民族と少数民族によって織りなされた河西回廊の歴史はひどく複雑である。漢のこの地区への進出によって、初めて郡県が設置されたのは紀元前一一一年のことである。それから曲りなりにも中国の西域経営は三百年程続くが、この時期に得城は河西回廊の鎮《しず》めとしての大きい役割と、城市としての繁栄の日々を持っていたのである。それから三世紀末から始まる五胡十六国時代には、この地帯は五つの涼王国の興亡の舞台となる。八世紀の初めに到って再び中国の勢力はこの地区に及ぶが、唐末からは吐蕃の進出がある。そして張議潮による一時的な河西収復、続いてウイグル(回)の甘州(張掖)占拠、それから舞台は約二百年に亘る西夏時代に移って行くが、十三世紀初めのモンゴルによる西夏の滅亡と、時代はめまぐるしく変って行く。
 変転極まりない歴史の大きい波の中に、得城が持った運命とその末路を見届けることは難しい。五世紀の動乱期に法顕《ほつけん》は印度に向う途中、この地区に足を踏み入れている。張掖が大いに乱れ、道路は不通になっており、ために北涼国王の庇護を受けたことを、法顕はその紀行(法顕伝)に記しているが、その頃の北涼の都城が得城であったかどうかは判らない。当時既に得城は廃墟になっていたかも知れないし、あるいは主を替えて、北涼の都城として存続していたかも知れない。
 が、得城を廃墟にするのは歴史の力だけではない。河西回廊の第一の大河・黒河の狂奔する川波の力もまた無視することはできない。黒河は昔は現在の流れよりずっと西を流れており、その西側に得城は位置していたと言われている。従って私たちが訪ねた得故城の東側を黒河は流れていたのである。現在は黒河から遺跡まで、道伝いに行くと一二キロ、直線距離は五キロだという。
 遺跡は黙して何も語らない。十月半ばの真昼の故城は、ただひたすらに静かである。
 
 遺跡からの帰途、黒河の主流と思われるところで、くるまを停めて、その流れをカメラに収める。この黒河は弱水、黒水、張掖水、居延水、いろいろな呼び方で呼ばれている。連山脈から発し、張掖附近で山丹川、梨園川を合せ、酒泉附近で北上して遠く居延海を目指し、居延海の近くで沙漠に消える川である。全長八〇〇キロ、河西回廊第一の大河であり、二番目が疏勒河ということになる。
 張掖の町から遺跡に行くまでの間に、ずいぶんたくさんの乾河道を渡ったが、運転手君に訊いてみると、どれも黒河だという。確かにどれも黒河なのである。一本の黒河が張掖附近で何本かに分れ、そしてまたそれが集って一本になるが、その分流地帯を道は走っているのである。従ってたくさんの黒河を渡ることになる。
 そうしたたくさんの黒河の中で、その本流と思われる最も大きい橋の袂で、くるまを停める。橋のところでは川幅は一〇〇メートルぐらいであるが、上流も、下流も、橋から隔たると何倍かの川幅に拡がっている。上流の方はさして遠くないところで、流れは大きく二つに分れている。
 歴史は河西回廊の地図を何回か塗り替えているが、また別の見方をすれば、黒河もまたこの地帯の地図を何回も塗り替えていると言っていいだろう。黒河がその流れの道を変える度に、城市は棄てられ、人々はその住居を他に移さなければならなかったのである。
 
 張掖の町に戻り、招待所に入る前に、臥仏《がぶつ》で有名な大仏寺を訪ねる。招待所の隣接地区にある寺である。
 この寺も、臥仏も一〇九八年、西夏時代に造られており、目下大修理中であるが、内部に入らせて貰う。この寺は仏教寺院として建てられたものであるが、後世道教の寺に改められている。だからすばらしい臥仏と共に、清代の道教の壁画などもある。
 臥仏は中国西北地区に於けるただ一つのもので、釈迦牟尼が朱色の布を巻きつけて、横向きに臥《ふ》しているところは壮観である。長さは三四・五メートル、肩幅八メートル、凄いボリュームである。足を重ねて横たわっているので、足の指が十本重なっており、その一本の指の厚さは半メートルぐらい、やたらに大きい塑像の臥仏である。
 十三世紀、つまり元の時代に、この町に入ったマルコ・ポーロは、甘州(張掖)が大きな立派な町であり、町には仏教徒の他にキリスト教徒、イスラム教徒も住んでいることを記しており、仏教寺院の臥像についても触れている。おそらく彼はこの寺を訪ねているであろうと思われる。
 この寺の他には、張掖の町には古い物は殆ど遺っていない。明、清時代の城壁の残骸があるぐらいのものである。この町にも鼓楼はあるが明代のものである。今日漢代の得故城を訪ねたが、唐代の張掖の城市はどこにあったのであろうか。
 招待所に向う。町は暮方の人出で賑わっている。それぞれ各自の村へ帰って行くのであろうか。驢馬の荷車とやたらに行き交う。路傍のバザールは店仕舞でごった返している。六時十五分である。人も多く、自転車も多い。大きなレストラン、百貨店など町らしいものはあるが、やはり町というより大集落の感じである。
 
 夜は早く寝台に入る。さすがに疲れている。小説「敦煌」では、甘州から粛州まで、つまり張掖から酒泉までの、西夏軍の行軍に十日間を当てている。馬は沙中に脚を埋めないように蹄《ひづめ》に木履《きぐつ》を履かされ、駱駝は蹄を牛《ヤク》の皮で包んでの行軍である。そこを今日、私たちはジープで四時間ほどで走っている。多少の疲労は仕方ないかも知れない。
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