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私の西域紀行32

时间: 2019-05-23    进入日语论坛
核心提示:三十二 張掖から武威へ 十月十六日、快晴、八時三十分、張掖招待所を出発、武威に向う。武威まで二四〇キロ。 再び訪ねること
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 三十二 張掖から武威へ
 
 十月十六日、快晴、八時三十分、張掖招待所を出発、武威に向う。武威まで二四〇キロ。
 再び訪ねることはあるまいと思われる張掖の町に眼を当て続ける。荷車を驢馬が曳いているが、驢馬の数は二頭、四頭、時には五頭。驢馬五頭曳きの荷車はこの町で初めて見るものである。白壁の土屋の窓枠や木の扉が赤や青で塗られているのも、やはりこの町で初めて見るものである。
 みごとなポプラ竝木によって郊外に送り出される。小麦とトウモロコシ畑の農村地帯を行く。肥沃《ひよく》な耕地である。左手から前方にかけて山影が見えている。合黎《ごうれい》山山系なのであろう。それに相対して見える筈の連《きれん》山脈の方は霞んでいて見えない。
 くるまは時折、みごとなポプラ竝木に入る。沙棗の林もある。小さい集落を縫って行く。合黎山山系、完全に左手になる。堂々たる山脈の連なりである。原野のあちこちに羊群、馬群、そしてポプラ竝木。
 ずっと田園地帯を走り続ける。青い野菜畑も美しく、鮮黄のポプラの黄葉も美しい。快適なドライブである。
 三十五分にして、漸くにして荒蕪地が挟まれ始め、やがて大不毛地帯に入って行く。荒れたゴビの拡がりの中に、羊群が点々と置かれている。合黎山山系は依然として左手に長く続いているが、その山系の裾までゴビは拡がっている。貧しいポプラに縁どられている道は絶えずゆるやかにカーブして走っている。曲りなりにも舗装されているので、くるまの動揺は少い。原野の中に烽火台の欠片が右手に一つ、左手に一つ。依然としてまだ連は見えない。
 九時十五分、左手すぐそこに長城の欠片が土塀の如く見え始める。この辺りは道と平行して線路が走っているが、その線路のすぐ向うに、長城の欠片が断続して連なっている。が、そのうちに長城の欠片は線路のこちらになったり、また向うになったりして、その欠片と欠片の間からゴビが見えている。長城の欠片は、欠片とも言えないほど長く続くこともある。それに混じって、大きな烽火台の欠片もある。
 連は見えないが、合黎山の方は高くなったり、低くなったり、どこまでも長く続いており、その手前に時折、低い丘が現れている。
 九時三十分、地盤の荒れた地帯を通過して、山丹地区に入る。合黎山続きの山、次第に前方に廻ってくる。山が幾つか重なっている。
 山丹のオアシスに入る。ゴビの中に次第に耕地が見えてくるが、しかし、依然として不毛地の拡がりである。時折、踏切りを渡る。
 九時三十五分、山丹の郊外の集落に入る。連山脈の前山が見え始める。暫く見えなかった長城の欠片が、また道の傍に姿を現してくる。
 やがて山丹の町に入る。長城の欠片のある町である。が、町の中心部には入らず、町の端れを通って郊外に出る。この地域は漢時代から良馬・山丹馬を産することで知られたところである。漢の若い将軍霍去病《かくきよへい》が活躍したのも、この地帯であろう。
 ゴビのただ中にできている小オアシスを行く。踏切りを度々渡る。ゴビと耕地が交互に置かれている。合黎山山系は近くなったり、遠くなったり。ゴビに眼を遣ると、いつも遠くに長城の欠片が数個置かれているのを見る。
 九時四十五分、黄葉のポプラの道によって、また不毛地に送り出される。右手に長城の欠片が長く連なって見えている。何キロか、原野の中に長い城壁を造っている。そしてそこに配されている烽火台も見えている。長城の裾をゆっくりと大羊群が移動している。
 道が長城の遺構と交叉しているところで停車。運転手君の話では、この辺りが長城の最もよく遺っている所だという。なるほど田野の中に、長城の欠片がどこまでも真直ぐに竝んで置かれている。遠くからでは大きな土塀にしか見えないが、近寄ってみると、大城壁である。往時、この長城がいかなる役割を果したか、ちょっと見当はつかないが、完全な姿の時、ここに兵を配したら、やはり外部からの侵入を防ぐ強固な壁であったろうと思う。ただ漢民族、少数民族入り乱れて織りなされている河西回廊の歴史を思うと、この地帯の長城は漢民族ばかりでなく、時代時代で、いろいろな民族に使われ、奉仕を余儀なくされたことであろうと思われる。
 
 出発、すぐ道は丘陵地帯に入って行く。全くの不毛地である。右手正面に、雪を戴いた連山脈の一部が現れて来る。前山の背後に顔を覗かせている。丘陵地帯はすぐ終り、またまた不毛の大原野が拡がってくる。左手の低い山脈と右手の連の前山は、それぞれその先端部を前に延ばして、やがて重なってしまう。道はその二つの山脈の間を分け入って行く感じで、その方に大きくカーブしながら走っている。
 十時五十分、南の山脈と北の山脈が近寄って狭くなった地帯を通過して行く。南の山脈に重なって、連の主峯が、雪をかぶって美しく見えている。この辺りが河西回廊で一番狭い地帯かも知れない。不毛地ではあるが、一面に小さい草が生えていて薄野《すすきの》といった感じのところである。停車して、そこらを歩く。殆どゴビの拡がりである河西回廊にも、このようなところがあるのである。南の山脈の裾には長城の欠片が点々と見えており、北の山脈の手前には低い丘が二つ三つ、なだらかな線を見せている。
 出発。薄野を脱ける頃から、これまで対い合っていた二つの山脈は、まるで申し合せでもしたように次第に小さくなって行き、しまいには丘の連なりになってしまう。その替り、その背後に新しい大山脈が顔を出してくる。従って視野は大きくひらけ、新しい両山脈の間は一望のゴビの拡がりとなる。南の山脈は言うまでもなく連の主峯、堂々たる山容である。ゴビには羊群があちこちに配されている。
 十一時二十分、久しぶりで土屋の集落に入る。山丹を過ぎてから全く人家、人煙を見なかったが、ここで人間のにおいを嗅ぐ。が、すぐその小集落を脱けて、再び丘陵が波立っている大原野に入って行く。大ゴビのドライブが続くが、ところどころに人民公社の小オアシスがあり、人々の働いている姿を見る。
 十一時五十分、永昌県のオアシスに入る。鐘楼のある土屋の集落を通過して行く。土屋や土塀を見ると、長城の欠片ではないかと思う。が、すぐその集落を脱けて、黄葉したポプラの竝木によって再びゴビに送り出される。また長城の欠片が左手に見え始める。執拗な現れ方である。
 ゴビと耕地のだんだら地帯を行き、やがて本格的なゴビに入って行く。路傍、所々に植林のポプラがある。育つか、育たないか、ゴビとの闘いである。連山脈、長い稜線を見せて続いている。北の方は低い丘の連なりになっていて、しかも遠い。
 小集落通過、夥《おびただ》しい白と黒の羊群が道を塞いでいる。停車、外は風が寒い。
 十二時十分、依然としてゴビ、土屋の小集落を通過する。ゴビの中の島である。女の子が手を振っている。こちらも手を振ってやる。ゴビの島の礼儀である。大乾河道を渡る。連山脈は続いているが、北には山影全くなし。次々に乾河道が現れてくる。
 十二時二十分、みごとなゴビ、小石以外何もなく、遠く行手に低い丘が横たわっているだけである。
 十二時三十分、豊楽人民公社通過、小さい土屋の集落である。ゴビと耕地が交互に配されている。また大乾河道を渡る。
 やがて両方ゴビに包まれた道を通って、目指す武威のオアシスに入って行く。ポプラ竝木が立派になり、それが黄色に燃えている。やがて永豊人民公社、その集落を脱けると、またゴビ。踏切りで停車。羊群が道に溢れている。
 また踏切り。半ゴビ、半耕地帯の長いドライブの果てに、みごとなポプラ竝木によって武威の町に導かれて行く。さすがに大きなオアシスである。
 
 一時十五分、武威の町に入る。酒泉、張掖より大きい町である。町中にはたいへんな人が出盛っている。全くの土屋の町で、土屋の屋根は板を載せたように扁平である。
 砂埃りはひどいが、町に妙に活気のようなものがあって、いかにも河西回廊の町といった感じである。張掖、酒泉、敦煌、どこよりもシルクロードの町としての雰囲気を持っている。そういう点から見れば、カシュガル(喀什)、ホータン(和田)と竝ぶだろう。
 路地は細く、長い。覗いてみると人一人か二人しか通れそうもない狭い路地が、どこまでも長く続いている。
 野菜の市が方々に立っている。着ぶくれた人たちが、そこに群がっている。河西回廊に於ける最大の物資の集散地である。“金の張掖、銀の武威”という言葉があるが、今はどうやら、張掖とその立場を替えていそうである。
 
 宿舎である地区招待所に入って、休息。四時に招待所を出て、鐘楼と博物館に向う。町中の路地に入って行く。何とも言えずいい路地であるが、忽ちにして人が集って来、身動きがとれなくなってしまう。
 博物館はもとは孔子廟だったところで、幾棟かの建物を陳列室にしている。ここで有名な「飛燕を踏む奔馬」と呼ばれている漢代の青銅製奔馬像の模型を見る。本物には蘭州の甘粛省博物館でもお目にかかっているし、日本で開かれた“中華人民共和国・古代青銅器展”でもお目にかかっているが、この奔馬が出土したのは、この武威の郊外の雷台というところ、そこの寺の境内にある後漢墓から出たものだという。出土したといっても、地下壕の工事か何かでたまたま陽の目を見るに到ったものらしい。一九六九年のことである。
 もちろん、この「飛燕を踏む奔馬」像が一点だけ出て来たわけではなく、一緒に青銅で鋳造された騎兵、馬車の大部隊が発見されている。十四輛の車と、十七騎の騎士俑《よう》と、三十九頭の馬など二百三十余点の文物が二千年の長い眠りを破られて、地上に姿を現すに到ったのである。
 その中で最高の逸品とされているのは、燕を踏んで天空を駈けている奔馬像である。高さ三四・五センチ、長さ四五センチ、二世紀の制作とされている。雷台という所も、そこの後漢墓も、この小さい奔馬像で有名になったと言ってもいいかも知れぬ。一本の脚は空飛ぶ燕を踏んでおり、他の三本の脚は宙を駈けている。疾走する馬の瞬間の姿態を見事に捉えた傑作である。日本に於ても、この奔馬像は絶讃を博し、雑誌や新聞で度々紹介されている。
 その雷台なるところに案内して貰うことにする。郊外ののびやかな農村地帯を一キロほど行って、小さい集落に入り、清朝時代の寺のある丘に登って行く。この寺の境内に奔馬像の出た漢代の墓があり、地下道がその墓室まで通じているということであるが、あいにく修理中で、今日はそこに入ることができないという。「馬踏飛燕」像が二千年の眠りを眠っていた場所がいかなるところか覗いてみたかったが、その方は諦めて、寺の境内から下の集落を見降ろす。ここも小さい土屋の竝んでいる路地がいい。その路地に、子供も大人も、大勢集っている。この小さい部落はただひたすらのびやかで、奔馬像の持つ烈しさはなかった。
 
 雷台から武威の町に帰る。ぼろぼろにこぼれそうな土屋の町を、ゆっくりドライブして貰う。人の溢れた、それでいて静かな、しんとした町である。堪らなくいい。二、三日、ここに滞在できたらどのようにいいかと思うが、そういうわけにはゆかない。一泊の余裕もない。今夜、夕食後、九時三分発の列車で蘭州に向うことになっている。
 招待所で夕食までの時間を、ブランデーを飲みながら、地区委員会の人から話を聞く。漢時代、唐時代の涼州がどこにあったか、まだ発掘調査をしていないので判らないが、この町から一五キロ隔たったところと、三キロ隔たったところに遺跡が埋まっているという。武威は漢代の武威郡治の地であり、唐の涼州、元の西涼州、明の涼州衛、清の涼州府の治所である。中国は時代時代で、この要衝の確保に努めたが、屡々遊牧民の侵すところとなり、五胡十六国時代には五つの涼国王はみなここに都している。ここもまた張掖に劣らず、それ以上に大きい転変の歴史の波をかぶっている。ただ一つの飛燕を踏む馬の、あのすばらしい躍動感から、往古のこの大都城のたたずまいを思い描いてみるしか仕方なさそうである。
 
 それにしても、私は今日ドライブした張掖—武威間を、小説「敦煌」で書いている。「敦煌」に於ては、小説の登場人物たちは、今日のドライブとは逆に武威から張掖に向っている。
 ——涼州(武威)から甘州(張掖)までは五百支里の道程である。その間に何十本かの連山より流れ出す川が乾燥地帯に流れ込んでオアシスを造っている。部隊は最初の日は江《こうは》河畔に、二日目は炭山河畔に、三日目には山が近く見える無名の河の磧に露営した。……四日目の朝は水磨河畔に出、五日目は南北に山が迫っている山峡へはいった。……ここから先き甘州までは概《おおむ》ね平坦である。部隊は戦闘隊形を取って再び進発した。樹木一本もない漠地の行軍である。
 こうした記述が続いている。甘州を目指しているのは西夏の第一線部隊であり、甘州に拠って、これを迎え撃とうとしているのは回鶻《ウイグル》隊である。ここに記されている江河、炭山河、水磨河などという川は、今日のドライブで渡っている筈であるが、どれがどの川か、確かめることはできなかった。小説「敦煌」では革命以前に使われていた川の名を使っているが、現在は川の名も変っているし、その川の流れの位置も変っている。またそればかりでなく、水がなくなって乾河道になっているのもあるであろうし、反対に新しい川も生れているであろうと思われる。天山《てんざん》、崑崙《こんろん》から流れ出す川がひとすじ縄ではゆかない川であるように、連から流れ出す川も同じことであろうと思われる。
 小説「敦煌」の涼州(武威)、甘州(張掖)の十一世紀の城市が現在どこに埋まっているか判らないように、その間を流れる河川も、河川が作っていたオアシスも、またオアシスとオアシスを繋いでいた道も、みな砂に埋まってしまっているであろうと思われる。
 夕食後、九時三分発の列車に乗る。和崎氏と二人で一室占領、食堂からブランデーの瓶を買って来て、それを飲んで眠る。
 
 十月十七日、五時三十分、蘭州着、ひどく寒い。ホテルで入浴。お湯が出たのが何よりも有難い。この前蘭州で入浴していないので、北京以来十三日目の入浴である。朝食は久しぶりで麭《パン》とコーヒー。
 こんどの旅で今朝が一番寒い。入浴して漸く人心地がつく。十二、三日前に来た時も、これから先きどうなるかと思ったが、結局一番寒いのは蘭州であった。しかも部屋が広いので一層寒く感ずる。
 一日、ホテルでノートの整理。
 
 十月十八日、五時、ホテル出発。空港まで七四キロ、一時間。真暗い道のドライブ。行き交うのはこの時刻から働いている驢馬だけである。去る五日、ここを通った時は満月だったが、今は明け方の月が利鎌《とがま》のように鋭い。
 蘭州空港に着く。丁度どこからか飛行機が着いて、着ぶくれた乗客が降りてくる。みんな夜具をかぶったような恰好である。
 今朝はホテルでは余り寒さを感じなかったが、戸外に出ると、やはり寒さはきびしく、こんどの旅で持ち歩いた防寒服が役に立つ。
 七時三十分、離陸。滑走路の向うから陽が上ってくる。機内もひどく寒く、冷蔵庫の中にでも居るようだ。飛び立つと、機はすぐ無数の丘の波立ちの上に出る。異様な風景である。やはり蘭州はたいへんな所に位置していると思う。
 八時三十五分、西安着。ここは余り寒くない。九時三十分、離陸。
 十一時三十分、北京空港着。北京では少しも寒さは感じない。空が青く澄みきったきれいな秋である。
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