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私の西域紀行36

时间: 2019-05-23    进入日语论坛
核心提示:三十六 ニヤの娘たち 五月十一日、快晴、昨日一日、殆ど寝台で過したので、今日はすっかり疲労がとれている。一昨日の大馬扎《
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 三十六 ニヤの娘たち
 
 五月十一日、快晴、昨日一日、殆ど寝台で過したので、今日はすっかり疲労がとれている。一昨日の大馬扎《だいばさつ》行きのことが、夢の中の出来事のように思われる。昨日の夕刻、NHK撮影班から電報を受け取ったが、それには“ニヤ遺跡へ三時間半ノ地点ニ幕営”とあった。六〇頭の駱駝隊は、今日の午前中に目指すニヤ遺跡に着くことだろうと思う。
 こちらは、——といっても、中国中央電視台の郭宝祥氏、NHKの吉川研氏、それに私と、僅か三人の一団であるが、こちらはこちらで、これから三日程、ここに滞在、沙漠の中の撮影班の仕事が順調に進行しているという報告を受けてから、その帰りを待たないで、十四日頃、ここを発って、東方三一五キロの古い集落・漢代の且末《しよまつ》国の故地であるチェルチェン(且末)に向うことにする。
 午後、吉川氏と町を散歩する。気温は三十五、六度ぐらいか。夕方になると十五、六度ぐらいになり、ひどく寒く感じるが、日中は快適、空気が乾燥しているので、からりとして、さして暑さは感じられない。土地の人は日中でも夕方でも、同じように着ぶくれている。どうもその方がよさそうである。暑いと薄着になりたいが、そうするとかぜをひき易い。
 招待所の前の表通りを、町の中心部の方へ歩いて行く。ニヤ(民豊)県の人口は二万三〇〇〇(一九八〇年調査)、そのうち四〇〇〇が漢族、あとはみなウイグル族。もちろん沙漠から崑崙山脈の麓にかけて散在する幾つかの集落(人民公社)をも含めての人口なので、この町だけの住民は、その半分ぐらいであろうか。
 招待所のある附近は人通りも少く閑散としているが、十分ほど歩くと十字路に突き当り、その辺りから町らしい多少の賑わいを持ってくる。更にそこを真直ぐに歩いて行く。
 路傍で一〇人程の男や女たちが店を拡げている。路上に小さい絨毯を敷き、その上に商品を竝べている。種子、硝子玉の頸飾り、帽子、菓子、それもほんの少々。可愛いバザールである。一つ一つ店を覗いて行くが、五分とはかからない。多少人は群がっているが、めったに商品は動かないのではないかと思われる。一日に一個も売れないかも知れない。
 が、小さい店の主人たちは、そんなことにはお構いなしに路上に胡坐《あぐら》をかいて、雑談したり、胡弓を弾いたり、瞑想したりしている。彼等をめぐって、悠遠な時間が流れている。
 帰途に就く。途中で背後を振り返ってみると、たいへんなことになっている。広い道いっぱいに男も、女も、子供も、私たち二人のあとについて移動しつつある。いつこのようなことになったか知らないが、これでは先刻のバザール附近はからっぽになってしまうと思う。しかし、秩序整然たる移動である。決して私たちの前には出ない。うしろにくっついているだけである。たまに子供が前に出ようとすると、私たちの警備を受持っているらしい大男に追い返されてしまう。
 女は大抵子供を抱えており、更にその上に子供を一人か二人連れている。中国政府も少数民族には産児制限をすすめていないそうだが、そのためかどうか知らぬが、若い女がやたらに子供を連れている。若い母親の一人に、吉川氏が年齢を訊いてみると、十八歳だという。十六歳で結婚し、現在は二人の子持ち、可愛らしい母親である。この母親に限らず、町で会う若い女たちは顔立ちもいいし、きれいな恰好をしている。頭を包んでいる布、上着、スウェーター、スカート、それぞれ赤、青、白といった原色で調え、耳飾りをつけている。連れている幼児にもきれいな恰好をさせている。
 しかし、五、六歳から上になると、子供たちは男女共、殆どが裸足で、細かい砂に覆われた道を、砂埃りを立てながら歩いている。少女の方はまだましだが、男の子の方は半裸、これ以上汚れようのないシャツを着ており、ズボンも同様、なかにはずたずたに裂けたズボンを穿いているのもある。だが、子供たちはみな平気な顔をして歩いており、視線を当ててやると、悦んでどこまでもついて来そうである。
 大体に於て、この町のウイグル人はみな愛想がいい。視線を向けると、すぐ笑顔を見せ、カメラを向けると、女たちはスカーフを結び直したりする。広い表通りから路地を見ると、細い道の両側に泥で固めた土屋が竝んでいる。
 
 招待所に帰る。勤務人はみないい。親切で、愛想がよく、献身的である。食堂には二人の娘さんがいるが、一人は漢族で十八歳、一人はウイグル族で十九歳、ウイグル娘の方はいつもスカーフで頭髪を縛るか、でなければスカーフを頸に巻きつけている。今朝、珍しくスカーフをどこにも巻きつけていないので、そのことを指摘すると、余り暑いので、今日は特別だと答えた。そしてこんなことを家ですると、両親から叱られると言う。
 もう一人の漢族の娘さんの方は、決してスカーフは用いない。スカーフを身に着けると、ウイグル娘になってしまうと言う。
 この食堂係の二人の娘さんは、どちらも同じ高校を出ている。漢族の高校には、ウイグル人は何かの手蔓がないと入れないというから、何かそうした特殊な家庭の娘さんらしい。
 食堂に出るのは、吉川氏と私の二人だけ。何しろ一年の降雨量は二九ミリ、雨は殆ど降らないと言っていい。世界でも海から最も遠い地帯の一つであり、最も雨の少い地帯の一つなのであろう。が、山間部に雨が降るので、それによって水が得られ、そのお蔭で人間は生きていられるのである。
 従って物資には甚だ恵まれていない。野菜も少く、食卓には罐詰の野菜が出ている。そうした中で食堂の料理係の人は、私たちのために東奔西走、少い材料でいろいろ工夫してくれる。すまない気持である。
 しかし、料理は野菜であれ、肉であれ、砂糖をふりかけた甘いものばかりで、それを平らげることは大変である。吉川氏が砂糖をふりかけないように交渉に行くが、それでもなかなか改まらない。皿の料理がへらないと、二人の娘さんが悲しそうな顔をするので、少しでも食べようと思うが、ナン(麭)以外は、なかなか口に入らない。
 朝の食卓には砂糖まぶしの菓子が何種類か出る。料理の半分以上が菓子である。この土地の人は甘いものが好きか、でなければ甘いものが必要なのであろう。部屋の小卓の上には大きな角砂糖が山盛りに皿にのせられて出ており、それと竝んで、キャンディーと乾葡萄が、これまた山盛りに出ている。たいへんなサービスなのであろうが、これまた手が出ない。
 雨が降らないので、この地方の人は全く雨に対する観念を持っていない。だから家を造っても、例外なく屋根は扁平、芦を編んで、その上を泥で覆っている。少し大雨に見舞われると、ひとたまりもない。大体、家を造るといっても、極めて簡単である。先ずタマリスクの枯れたので四角な箱を造る。柱は木を使うが、あとはみなタマリスク。そのタマリスクの箱を内側から泥でかためて壁を造る。壁はかなり厚い。日乾煉瓦は使わない。日乾煉瓦を造るのには水が要るから、この地方では煉瓦は造らないという。
 夕刻、沙漠の撮影班から電報が届く。——一日沙漠ヲ歩キ廻ルガ、遺跡発見デキズ。ドコカ不明ノ場所ニ幕営、目下遺跡発見ノタメニ小分隊ヲ派遣中。なるほど沙漠は大変なところだと思う。大馬扎から僅か三〇キロの地点であるのに、まる二日かかって、未だにそこに到達していないのである。夕食後、郭、吉川両氏と共に、多少不安な思いで、招待所の広い庭を歩く。
 
 五月十二日、快晴、今日はニヤ河に沿って五〇キロ遡り、ニヤ河の上流地帯に足を踏み入れてみようと思う。先日の大馬扎とは反対の方向に向うことになる。こんどの旅ではずっと崑崙山脈にお目にかかっていないが、今日は多少砂で烟っていても、ニヤ河の上流地域から崑崙山脈を眼間《まなかい》に望むことができるだろう。ジープ二台、土地の人三人が案内役についてくれる。
 九時三十分、出発。すぐ郊外へ出る。土屋の農家点々。
 五分で、ゴビ灘《たん》の中に入る。見渡す限り何もない大ゴビの拡がりである。先日、ニヤの町に入る時に通過して来た道を、今日は逆に西に、つまりホータン(和田)の方に向っている。一台のくるまとも擦れ違わぬ。駱駝草に似た草だけが、見渡す限り点々とばら撒かれている。麻黄という草である。案内のウイグル人の話では、駱駝草は沙漠には生えるが、ゴビには生えないという。
 蒲団を背に積んだ駱駝とすれ違う。道、大きく曲りながら降って行く。すると、いきなりニヤ河の橋の袂に出る。ニヤ河の東岸は大きな断層で縁どられているので、今まで走って来たゴビ灘は、ニヤ河以西のゴビ灘より一段高くなっている。ここまでニヤの町から五・三キロ。
 橋を渡って、暫く河岸というか、河畔というか、そうした地帯を走り、やがて南へ、崑崙山脈の方へ曲って行く。ゴビには大きな石がごろごろしている。
 方向を南にとってからも、二、三回折れ曲るが、そのあとは真直ぐに崑崙山脈の方へ向う。用水路が現れる。それに沿ったり、離れたりしながら、一路南を目指す。
 ゴビのドライブが続く。時折アップ・ダウン。そのうちに遠く、近く左手に、ニヤ河の流れを収めている断崖が望まれる。断崖の裾に青い流れが見える。向う側の断崖は先刻の橋のところから続いている断層であるが、いつかこちら側も断崖をなしている。水は少いが、青い。
 ゴビには相変らず大きな石がごろごろしている。さすがに崑崙山脈の裾一帯に拡がっているゴビ灘だと思う。石はみな崑崙から流れ出して来たものなのであろう。崑崙は砂に烟っていて、まだ見えない。いつかニヤ河の川筋も遠くなっている。時折、乾河道を渡る。このゴビもまた、一人の通行人もない。
 
 十時四十分、つまりニヤの招待所を出て一時間ほどして、多少ぼんやりしているが、初めて行手に崑崙山脈が見えてくる。左手に雪山が一つ、この方ははっきり見えている。六〇〇〇メートル級の山であろう。頂き近くからすっぽりと雪をかぶっている。この雪山には名はないが、ウイグル人たちはチェックル峯と呼んでいるという。
 チェックルはウイグル語で高い峯の意、なるほどこの辺りで見る崑崙山脈では、この雪山がひときわ目立って高く聳《そび》えている。同じ南道でも、ヤルカンド(莎車鎮)附近からは崑崙がはっきり見えるが、こちらはそうはゆかないらしい。ここまで近寄らないと、崑崙にはお目にかかれないのである。
 ジープから降りて、ゆっくり崑崙山脈を眺めさせて貰う。前山は幾重にも重なり、波状をなして拡がっていて、なかなか雄大な景観である。そしてその無数の前山の波の向うに、崑崙山脈は長い稜線を見せて、堂々たる貫禄で置かれている。
 いま立っているゴビ一帯は海抜二四〇〇メートルの由、ニヤは一〇〇〇メートルなので、いつか知らないうちに大分登っている。
 再びジープに乗り、ゴビのドライブが続く。そして橋から三六キロの地点で大休止、昼食を摂る。ゴビ灘のただ中である。崑崙山脈は予想したように眼間《まなかい》に見えている。漸くにして崑崙の裾に辿り着いた思いであるが、しかし、ここから本当の崑崙の裾に辿り着くには、徒歩か、馬でなお一日行程を要するという。そしてその間に、遊牧民の小さい集落が幾つかあるそうである。
 ——行きますか。
 郭さんがおっしゃる。
 ——結構ですな。どうせ行くなら馬がいい。そして遊牧民の集落に泊めて貰う。
 半ば冗談、半ば本気である。
 ——高い、寒い、だめです。
 案内役のウイグル人の方は本気である。真顔で“だめ、だめ”を連発する。
 休憩地附近のゴビにも、拳大の石がごろごろしている。竹踏み替りになりそうな石を探す。石以外に持ち帰れるものはない。
 
 昼食をすませてから、程遠からぬところにあるニヤ河の渓谷を見に行く。断崖の上に立って、下を覗く。前山の亀裂とでも言うべき渓谷の底にニヤ河の青い流れが置かれている。断崖の高さは、最近の調査によると、対岸も、こちら側も、一二八メートルあるという。一二八メートルの底を、ニヤ河は川波をきらめかせて流れているのである。ここで見るニヤ河は伏流する前のニヤ河なので、豊かな水が滔々と流れており、そのきらめきは宝石のように美しい。
 断崖は岩石ではなくてゴビ層、つまりゴビの泥土の堆積である。但し下の方はやはり岩質になっているという。対岸の台地の傾斜面に小さい穴が点々と見えている。砂金を獲った穴である。
 渓谷の上手に眼を向けると、遠くにニヤ河の流れの欠片と、その一部を引いた用水路の流れの欠片が見えている。その辺りは、いま私たちが立っている所より、大分高くなっているので、そうした二つの流れの欠片を眼に収めることができるのである。用水路の方はその辺りで暗渠に収められるが、ニヤ河の方は渓谷を流れ降って、源から一二キロの地点で、——ということは、いま私たちが立っているところから数キロ下流ということになるが、そこで地下にもぐってしまう。そして再び地上に出るのは大馬扎附近であるという。そう言えば先日の大馬扎行きの時、ふいにニヤ河の流れが出現し、その出現の仕方が多少唐突に思われたが、それはあの地帯で、ニヤ河が長い伏流を打ち切って、地上に姿を現したからなのであろう。
 従って、ここに来るまでに渡った橋のところのニヤ河は、流れのほんの一部で、流れの大部分は地下を流れているのである。しかし、洪水の時は水の全部が地下にもぐり切れず、地上をも流れるので、それを収容するために大きな川幅が用意されているのであろう。
 帰途、用水路の水を飲みに来たロク(黄羊)が、ゴビ灘を駈けているのを見る。ロクは山羊の一種だが、この辺りには野生のロクが多いという。
 
 招待所に帰ると、沙漠の撮影班からの電報が届いている。——正午、遺跡ニ到着、旅ノ一路平安ヲ祈ル。
 撮影班も遺跡に着くのは、予定より一日遅れたが、まあ、これでひと安心というものである。明るい電文である。旅の一路平安を祈るというのは、私たち三人の旅に対する挨拶である。夕方、入浴、さっぱりする。
 夜、ブランデーを飲みながら、昼にニヤ河上流でウイグルの人から聞いた伏流伝説をノートする。
 ——昔、崑崙山地にも雨が降らず、ためにニヤ河も乾上がり、ニヤの町には一滴の水もなくなったことがあった。町の人一人残らず渇きに苦しんだ。一人の若者はふらふらになりながら、崑崙の山に水をもとめに行った。あちこち水を探している時、山中で、杖を持った仙人に会った。仙人は言った。水がほしいなら、この杖を上げよう。この杖をついて山を降りて行きなさい。但し、何事があっても、背後を振り向いてはいけない。それだけまもれば、お前も、町の人たちも、水のない苦しみから救われる。そして仙人は若者に杖を与えた。若者は仙人から言われたようにした。杖をついて山を降った。山を降ったところに、一滴の水もないニヤ河の河原が、むざんな姿を横たえていた。若者は杖をついて、その河原を降って行った。すると突然、背後で猛獣の咆哮《ほうこう》が聞えた。が、若者は振り返らなかった。そして杖をつきながら、なおも乾いた河床を降った。暫くすると、こんどは背後で、水の流れ降るごうごうたる音が聞えた。水だ! 思わず、若者は背後を振り返った。とたんに、そこまで流れ降って来ていたニヤ河の流れは姿を消した。伏流してしまったのである。
 ニヤ河は、このようにして伏流するようになってしまったというのである。このような土地に生れそうな、悲しく、きびしい伝説である。
 
 五月十三日、七時起床。漸くここの気候にも慣れたらしくかぜ《ヽヽ》をひかなくなる。このところ日中は三十度ぐらい、乾燥しているので過し易い。かぜを用心して、ずっと一日中厚着していたが、昨日から初めて夏衣裳になる。夜は長袖シャツ、毛糸のスウェーター、上着。
 今日、昼の散歩の時、初めて半袖シャツ一枚になってみる。ウルムチ(烏魯木斉)では戸外も、部屋も寒くてかぜをひき、こちらに来てからは昼の暑さと、夜の寒さに対応できなくて、かぜをひいたり、癒ったり、そんなことをくり返している。漢族も、ウイグル族も、みんな厚着で、誰も腕など出していない。七、八月頃、時には四十度近くになるという所では、それへの対応策も、住んでみないと判らないだろうと思う。
 物資の乏しいことは知っているが、その実状はなかなか掴めない。今朝、郭氏がやがて帰って来る撮影班の人たちのために、一人当り二個の鶏卵を用意するよう賄 方《まかないかた》に交渉したが、そんなことはとんでもないということであった。この町全部探し廻っても、六十個の鶏卵は集らぬという。そう言われてみて、初めてそうであろうと思う。
 午刻頃、撮影班から四度目の電報、——暑サ五十度、今日夜半、脱出。
 この電報によって、明朝、チェルチェンに向けて出発するのを見合せることにする。短い電文であるが、それだけに何か必死なものが感じられる。急に不安になる。不安に思えば、不安に思う材料はいくらでもある。大体ニヤ遺跡のある地帯は竝み大抵のところではないのである。玄奘は「大唐西域記」に記している。
 ——これ(ニヤ城)より東行して大流沙に入る。砂は流れただよい、集るも散るも風のままで、人は通っても足跡は残らず、そのまま道に迷ってしまうものが多い。四方見渡す限り茫々として、目指す方を知るよしもない。かくて往来するには、遺骸を集めて目印とするのである。水草は乏しく熱風は頻繁に起る。風が吹き始めると人畜共に目がくらみ迷い病気となり、時には歌声を聞いたり或いは泣き叫ぶ声を聞き、聴きとれている間に何所に来たのかも分らなくなる。このようにしてしばしば命をなくしてしまうものがあるのも、つまりは化物の仕業である。
 
 午後は招待所の庭を歩く。庭に一歩踏み出すと、靴に砂がつく。ホータンも砂の町であるが、こちらの方がひどいようである。かなり広い敷地であるが、敷地全体にたっぷりと砂が置かれ、靴も、ズボンの裾も、敷地の隅のトイレに行く度に白くなる。正確な言い方をすれば、砂が置かれてあるのでなくて、全部が砂なのである。何尺掘っても砂、砂が堆積しているのである。だから招待所の敷地にも、町の道路にも、小さい砂利がばら撒かれてあって、多少でも砂埃りの立つのを防いでいるが、ひと度風が吹くと、全く効果はない。
 この地方の一番いい季節は十月で、果物も多く、崑崙も見えるという。土地の人は十月を黄金の季節と呼んでいる。こんど訪ねるチェルチェンも、大体ここと同じ気候だが、ただ春の風はチェルチェンの方が強いそうである。
 夕方まで撮影班からの電報を待つが、何の連絡もない。先きの電報によると、今夜半遺跡を脱出するとあったので、順調にゆけば明日午刻頃、大馬扎に到着することになる。予定より早い帰還なので、現地でもそれに対する準備は何もできていないだろうと思う。それに疲労者や病人が出ていないものでもない。
 とたんに郭氏一人が忙しくなる。地区委員会の人たちと相談したり、どこかへ出て行ったり、電話をかけたり、——そしてその結果、トラック二台、ジープ四台、一一人編成で、明朝四時、大馬扎に向けて出発することになる。
 ——縁がありますな、大馬扎には。
 郭氏は笑っておっしゃるが、たいへんな縁である。
 ——ぐるぐる同じところを廻らないように。
 ——こんどは大丈夫でしょう。あの辺りで夜が明ける。
 ——沈まないように。
 ——その方は、何とも。
 ——一緒に行きましょう。
 ——めっそうな!
 そんな対話があって、吉川氏と私はここで待機することにする。
 
 五月十四日、四時に起きて、大馬扎に向う郭氏一行を送り出し、再び寝台に入る。そして七時に目覚める。今日は曇っている。実際は曇っているのではなくて、砂塵で烟っているのである。部屋係の娘さんが部屋の前の廊下を掃くが、たくさんの砂が溜る。やはり、それとは判らぬが、絶えず細かい砂が降っているのである。
 部屋の窓から見える背の高いポプラが、絶えず風で揺れている。部屋では聞えないが、部屋から一歩出ると、ポプラの葉が風にそよぐ音が聞える。さらさらと、何とも言えず爽やかな音である。
 シャツを部屋に置くと、娘さんがすぐ洗濯してくれる。洗濯ものは大体一、二時間で乾いてしまうが、砂埃りがつくので、果してきれいになるか、どうか。
 午前も午後も、庭を歩く。いつも背戸の杏の木の下で五、六歳の男の子、三、四歳の女の子が遊んでいる。男の子は裸足、半裸体で、頭に小さいハンティングを横っちょにかぶっている。二人は時々、杏の実の方を見上げる。杏の実は穫れなくても、時々見上げるだけで、けっこうそれで満足しているらしい。なかなかいい。
 午後、一時間、午睡をとる。目を覚ますと、鶏と郭公の声が聞えている。
 寝台から離れると、また庭を歩く。庭でも歩く以外、いかなる過し方もない。招待所の正面入口の横手に大きな畑が作られているが、全くの砂の畑で、水は与えられていない。野菜瓜なるものが植えられてあるそうだが、見るからに不毛な畑である。水に恵まれない点ではポプラも同じであるが、ポプラの方は亭々と育ち、伸びている。水がなくても平気な木なのである。沙棗も、杏も、砂の中に生えて、青々と葉を茂らせている。
 今日はニヤに来てから七日目。手がざらざらして、すっかり脂っ気がなくなっている。乾燥のためか、砂埃りのためか、やたらに洗いたくなる。
 タ方、庭の一隅で、食堂係の娘さん二人、部屋係の娘さん二人と、みなで吉川氏のカメラに入る。四人共、県の文化局勤務、こんど私たちの接待のために、こちらに廻されて来ているのだという。なるほど、そう言われてみれば、そういう感じである。みな、なかなかいい。いつもどこからか、こちらを見張っている感じで、洗面器を持って外に出ると、必ず誰かが駈けてくる。まさに誠意、誠実である。というのも、彼女らにとっては、私たちが初めての日本人であるからである。彼女たちの日本についての知識は、たまに来る日本映画から得たものである。が、殆ど何も知っていない。確実な知識は、東京が世界的な大都会であるということぐらいであろうか。
 一日中、撮影班、あるいは郭宝祥氏からの電報を待つが、何の連絡もない。こちらの郵便局では、いつでも受信できるようにしているが、連絡は入って来ないという。
 今夜半か、あるいは明朝、帰って来ないものでもないので、夜になると早く寝台に入る。
 
 五月十五日、六時起床。今日は朝から寒く、風が強い。どこもかしこも、砂塵のために烟っている。昨日早暁四時に、大馬扎に向った郭氏一行一一名が、昨日一日分の食糧しか携行していないので、その補給にジープを差し向けることにする。こんどは吉川氏がそうしたことの手配で、たいへん忙しい。
 十一時に、撮影班や郭氏のジープや、トラックが招待所の門を入って来る。とたんに招待所は全く異ったものになる。忽ちにして人で溢れる。みんな疲れてはいるが、元気である。大馬扎からここまでの九〇キロを走るのに、十七時間を要したという。途中でジープも、トラックも、みんな沈んでしまって、動けなくなったらしい。
 夜、久しぶりで会食。賑やかな夕食である。中国撮影班も一緒になる。郭氏、吉川氏、私の三人は、いよいよ明日、チェルチェンに向けて出発することになる。郭氏が疲れているに違いないので、もう一日出発を延ばしてもいいと思うが、郭氏は、
 ——そんなことをしていると、また何か支障が起ってここから動けなくなりますよ。私のことは心配要りません。明日もまたジープやトラックが、どこかで沈むかも知れない。沈んだら、そこで休みますよ。
 大馬扎まで二往復しているので、郭氏は見違えるほど荒っぽいものを身に着けている。が、確かに、そのくらいの覚悟がないと、この地帯の旅はできないに違いない。ともあれ、チェルチェン、チャルクリク(若羌)、ミーラン(米蘭)を結ぶ南道の旅は明日から始まるのである。
 明日に備えて、早く眠らなければと思いながら、結局田川純三氏に部屋に来て貰って、ニヤ遺跡の話を聞いて、深更に及ぶ。そして田川氏は引き揚げる時、
 ——それでは、旅の一路平安を祈りますよ。
 と、おっしゃる。旅の平安を祈られるのは、電文についで二回目である。
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