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私の西域紀行35

时间: 2019-05-23    进入日语论坛
核心提示:三十五 大馬扎 五月九日、快晴、昨日一日休養しているので、ホータン(和田)ニヤ(民豊)間の荒いドライブの疲れも癒って気分
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 三十五 大馬扎
 
 五月九日、快晴、昨日一日休養しているので、ホータン(和田)—ニヤ(民豊)間の荒いドライブの疲れも癒って気分爽快である。今日はNHK、中国の二つの取材班が、この町から北方一二〇キロの沙漠の中にあるニヤ遺跡に向って行動を開始する日である。
 ニヤ遺跡までは一二〇キロであるが、約九〇キロのところに大馬扎《だいばさつ》という集落がある、他の言い方をすれば、大馬扎生産大隊の所在地である。そこまでジープとトラックで行って、あとの三〇キロは駱駝六〇頭のキャラバンを組むという。
 いずれにしても今日は大馬扎まで九〇キロの行程。大体、大馬扎までの九〇キロは、タクラマカン沙漠に突き出している細い半島と考えればいいらしい。往古からニヤ河が流れている地帯で、ニヤ河の水によって、その流域に細長いオアシスが形成され、それが沙漠の中に半島のように突き出しているのである。今日はその半島の突端部の大馬扎の集落まで、ジープとトラックで行き、そこで宿営する予定。
 大馬扎から先きはタクラマカン沙漠の砂の海が拡がっているので、大馬扎という集落が生きている人間の最後の住居地ということになる。それにしても大馬扎という集落名は多少奇異である。大馬扎は大マザール、大きな墓所という意味である。
 しかし、実際にこの地区は“大きな墓所”とされているところなのである。正しい呼び方で言えば、イマム・ジャハァル・サディクの大マザール。“イマム”は回教のアーホンという最高の位を示す称号、“ジャハァル”は人名、“サディク”は宗教に非常に忠誠であるという意味の形容詞。従って、“イマム・ジャハァル・サディクの大マザール”は、“回教の聖者ジャハァルの大いなる墓所”ということになる。実際に現在でもこの地区はそう呼ばれているが、生産大隊の所在地である集落の方は、簡略化してマザールという名だけで通用するようになってしまっているのである。
 一九〇〇年代の初めにこの地を訪ねているスタインも、
 ——イマム・ジャハァル・サディクの人里離れた霊地。
 とか、
 ——イマム・ジャハァル・サディクを出発して、
 とか、そのような使い方をしており、更にこの霊地について、簡単に説明している。
 ——イマム・ジャハァル・サディクのマザールというのは、有名な巡礼地で、一般に伝わる伝説によれば、同名の聖なる回教指導者が、コータンの異教徒らを相手に戦って、何百人もの信者たちと共に斃れた地点とされている。(スタイン「中央アジア踏査記」、沢崎順之助氏訳)
 しかし、ここが霊地と見られていることは、その頃も今も変りはない。大馬扎の集落の附近に、聖者とその妻の墓があり、毎年八月、多くの信者が祖先の霊を祀《まつ》るために、ナン(パン)を入れた袋と、水を入れた瓢箪《ひようたん》を持って、徒歩で、この聖地参拝の旅に出る。男の信者は聖者の墓に詣で、女の信者は妻の墓の方に詣でることになっているそうである。
 しかし、ニヤの古代文物を調査している人たちの話では、最近この伝承を各方面から調査したが、伝説が伝えるような聖者戦死の結論は出なかったという。大体この聖者ジャハァルはアラブでは大変有名な人で、イスラムの歴史では、彼がこの新疆地区に来たことはなく、聖者は彼地に父親と一緒に埋葬されている。従って、彼を崇拝している回教徒たちが、彼の名を冠した聖地を、ここ、タクラマカン沙漠に突き出ている半島の突端に造ったものと思われる。
 
 八時三十分、出発。ジープ七台、トラック二台。撮影班以外では早稲田大学教授の長沢和俊氏と私。いよいよまっすぐに沙漠をめざしてのドライブである。大馬扎まで何時間かかるかと、運転手君に訊いてみるが、見当がつかないという。運転手君も、大馬扎行きは初めてなのである。
 招待所を出て、暫く閑散とした朝の街を走る。ポプラと沙棗の混じった街路樹。街路樹の根もとには水路が置かれている。
 町を脱けると、すぐ大原野の拡がりとなり、そこを東に向う。崑崙山脈は今日も見えない。羊群点々。水溜りが多い。七、八分で、道は北をめざす。
 左右に低い丘の連なりが置かれてあるが、道は右手の丘の末端部を通過して行く。左右共に放牧地が拡がって来、羊群、馬群、あちこちに置かれている。また前方に丘の連なりが重なって見えて来る。道はそれに近付いて行くが、それにぶつからないで、それを右手に見るように大きくカーブし、丘の連なりに沿って行く。左手は一望の放牧地、一面に草の生えた青い原野である。相変らず羊群、あちこちに見える。水溜りも多い。
 右手の丘は次第になくなり、一望の大原野の拡がりとなり、遠くに羊群が米粒のように小さく見えている。一群三〇〇というが、それ以上の数だろうと思う。
 八時五十五分、くるまは今まで走って来た本道から離れ、直角に曲って北に向う。道は狭くなり、とたんに荒れてくる。しかも道の両側に水溜り地帯が続く。道、いつか西に向っている。もう一度、どこかで右折するのであろう。
 やがて道は放牧地のまん中に入って行く。放牧地のまっただ中ではあるが、草はなく、一面に灌木がばら撒かれている。そうしたところを五分ほど走って、道は直角に右折、こんどこそ本当に北に向う。既にニヤ河の流域地帯、つまりタクラマカン沙漠に突き出している細長いオアシスの半島に入っている筈なので、これからは一路北を目指すことになる。見渡す限りの枯草の原が拡がって来、土は白い。右手遠くに丘の連なり。原野のただ中の一軒家が眼に入って来る。その前に女と子供二人が立っている。
 やがて枯草の原は泥土地帯に変る。白い泥土はどこまでも拡がっていて、土は到るところめくれ上がっている。そして小さい灌木を載せた泥土の固まりが現れ始める。大きいのも、小さいのもある。大きいのは二、三尺の高さ、小さいのは一尺ぐらい。いわゆる土包子地帯である。土包子(土饅頭)の上に載っている灌木の葉は青い。
 そのうちに土包子地帯は引込んで、こんどは大小の丘が現れ、草が地面を覆い始めるが、それは長くは続かず、やがて茶褐色の枯芦地帯が拡がって来る。見渡す限り枯れた芦で埋められている。芦という芦はみんな枯れている。みごとな死の風景である。
 そのうちにその死の風景のところどころに大きな逞しい木が姿を現し始める。沙漠の木として知られている胡楊である。太い幹が一本、その上に大きな濃い緑の固まりを載せているが、その緑の固まりは勝手な恰好をしていて、横に拡がったり、斜めに伸びたり、天を衝いたりしている。精悍《せいかん》にも、自暴自棄にも、居坐ったようにも見える。沙漠地帯の木としては一番強いらしいが、それぞれ自分勝手な生き方をしている感じである。
 その胡楊がやたらに現れてくる。行手にも、左右にも胡楊ばかり。何百本あるか判らない。そして胡楊と胡楊の間を枯芦が埋めている。
 が、やがて枯芦に替って、タマリスクが登場して来て、タマリスク地帯が始まる。胡楊と胡楊の間を埋めているのはタマリスクばかりになる。枯芦と異って、この方は生きている。葉は浅い緑で、桃色の花を持っている。すっかり桃色になっているのもあれば、桃色になりかかっているのもある。葉も美しいし、花も美しい。何とも言えない美しさである。
 胡楊は群落をなしているのか、現れ出すと集団で現れ、そしてまた集団で消えてゆく。群れから外れて、あちこちにぽつんと立っている胡楊もあるが、そうした胡楊は、その逞しい姿に似ず、孤愁といったものを身に着けている。淋しそうな化物である。
 道はいつか、道と言えるようなものではなくなっている。トラクターの轍《わだち》の跡があって、それを伝わって行くのであるが、路面は到るところ抉りとられてあって、くるまは跳ね上がりづめである。
 ひと抱えもある太い幹の胡楊の群落の中に入る。そこを出ると、また枯芦地帯が拡がってくるが、こんどはその中にタマリスクがばら撒かれている。芦の方は枯れており、タマリスクの方は生きて花を着けている。
 
 九時二十五分、道から少し離れたところに山羊の飼育場のあるのを見る。丸太で四角に囲まれ、その中に山羊が入っている。人の姿は見えず、逞しそうな番犬が一匹、その廻りをうろついている。
 依然として枯芦、タマリスク、胡楊の大原野が続いている。いつか遠くの丘もなくなっている。初めて驢馬に乗った親子らしい三人と擦れ違う。父親が先頭、次は女の子、そして母親。女の子はこちらを向いて、笑っている。
 道はニヤ河の左岸を、ニヤ河に沿って走っているらしいが、川の流れは見えない。原野はタマリスクで埋まっているが、このあたりのタマリスクはまだ花を持っていない。しかし、葉の浅い緑は、それだけでも美しい。道はいつか全くの沙漠となり、くるまは砂の上をよたよた走っている。
 九時三十五分、道の傍に水渠《すいきよ》が現れてくる。ニヤ河の水であろうか。辺りは一面の枯草地帯で、火でもついたら大変だろうと思う。
 また胡楊の群れが現れてくる。化物の登場である。大体風景そのものが化物めいて来ている。いつまでも、いやに乾燥した白い風景が続いている。枯芦、枯タマリスク、生きたタマリスク、無数の胡楊。こうして沙漠に入って行くのであろうか。が、そのうちに枯れた芦は青い葉を持ち出し、枯れたタマリスクも、その株の中に青いのが見え出す。
 九時五十分、左右遠くに低い丘の連なり、どちらの丘も長く稜線を曳いている。暫く大土包子地帯が続く。胡楊は全くなくなり、大小の泥土の丘の上には枯れたタマリスクや、生きたタマリスクが載っている。
 十時、左手の丘が近寄ってくる。青黒いものに点々と覆われている生きた丘である。突然、道の左手に水路が現れる。二間ぐらいの川幅で、かなりの量の水がゆったりと流れている。ニヤ河の水の一部が造っている水路なのであろうか。そのうちに川幅は拡がったり、狭くなったりする。
 前のくるまの運転手君が、ニヤ河だと教えに来てくれる。停車、撮影。崑崙山脈から流れ出し、一二キロの地点で地下に入るニヤ河は、この辺りで、あちこちから地上に姿を現して来るのである。陽も空気も爽やかで、いっこうに暑さは感じられない。暫くそこらを歩き廻る。原野も、河畔も、地面はどこも白いアルカリを噴き出している。
 
 十時三十分、出発。ニヤ河の流れに沿って行く。河畔に放牧の羊群が現れる。依然として芦とタマリスクの地帯。共に枯れたのが芽吹こうとしていたり、既に芽吹いてしまっていたりする。死の原野が必死に生きようとしている感じである。ニヤ河の流れが応援しているのである。
 道は河畔から離れて、原野に入って行く。タマリスクも、芦も、枯れたのも、生きているのも、何もかも白っぽく砂をかぶっている。
 大原野のドライブが続く。前のジープが砂塵をもうもうとあげている。道は原野の中を、折れ曲り、折れ曲りながら走っている。左手に低い丘が現れるが、もはや完全な砂丘である。
 十時四十五分、道は再びニヤ河の流れに沿う。川は川幅を何倍かにし、くろずんだ洲を幾つも持っており、流れは、そのたくさんの洲の間を、幾つにも割れて流れている。
 河畔に放牧の羊群、点々。また胡楊が現れてくる。ニヤ河のオアシスの細い帯を走っているのであるが、メリケン粉の上をドライブしているようなもので、砂塵と、くるまの烈しい動揺には閉口する。
 川幅は広くなったり、狭くなったり。河畔のタマリスクは大きな灌木となり、どれも薄桃色の花がまっ盛りである。いつまでも川に沿って行く。川の両側には大原野が拡がっており、左岸には砂丘が姿を見せている。
 十一時、今までの死の原野が、徐々に生きた青々とした草原に変ってゆく。タマリスクは枯れた株はなくなって、みな青くなる。道はやがて胡楊の大きな林に入って行く。するとたくさんの駱駝が、林の中を移動しつつあるのを見る。停車、撮影。
 
 十一時三十分、出発。風が出て、砂塵が凄い。一面のタマリスク、みな風で揺れている。この辺のタマリスクの株は三メートル以上、大タマリスク地帯である。撮影班は砂塵撮影。
 再び出発するが、前のジープ、すぐ動かなくなる。砂の中に埋まってしまったのである。トラックが綱をつけて、それを引張り出すのに三十分かかる。
 その間、辺りを歩く。原野には駱駝草もあれば、牧草もある。牧草は大部分が枯れているが、中には若芽を出しているのもあれば、完全に青くなっているのもある。
 十二時四十分、出発。タマリスク、駱駝草、牧草、芦、そうした原野を行く。風は地面を這うように吹いていて、何となく砂を捲き上げてくる。天地はすっかり曇っている。タマリスクも、芦も、駱駝草も、甘草も、みな風で動いている。
 三メートルほどの水渠を渡る。一度失敗して、二度目にうまく対岸に這い上がる。そして少し行くと、突如、広場に出る。向うから十頭ほど駱駝が、こちらへ広場を突切ってやってくる。それを遣り過して、くるまは広場の向うの大集落に入って行く。必ずしも大集落ではないが、まさにそういった感じである。ニヤより六五キロの地点にあるアクシドン生産大隊の所在地である。大勢の男女が迎えてくれる。砂の中で生き、砂の中で働いている人たちである。ニヤ河が造っている小さいオアシスの中に、集落は営まれており、広い道を挟んで、対い合うように、タマリスクの枝で覆われた土屋が、たっぷり距離をとって竝んでいる。三、四十戸の集落であろうか。そこらを少し歩き廻る。胡楊の群落にすっぽり包まれた集落で、長くいると淋しくなりそうである。風のほかには、何の物音も聞えて来ない。
 
 一時出発。広場を出、小川を渡り、沙棗の長い竝木に沿って走り、風よけのある田圃で大休止。くるまは道に置いて、風よけの塀の内側に入って昼食を摂る。ナンと罐詰。
 ここで今までのジープを棄てて、待機していてくれた解放軍の大きなトラックに乗り替えることになる。ここからはジープの走れる道ではないというが、いかなる道か、見当がつかない。
 二時三十分、休憩地出発。兵隊さんの運転になる。運転台の兵隊さんの横に坐らせて貰う。休憩後は全くのタマリスクと胡楊の死の原のドライブとなる。タマリスクも胡楊もすっかり茶褐色になってしまっている。先刻まで濃い緑の固まりを戴いていた胡楊も、こんどはすっかり枯れてしまった茶色の固まりを戴いている。やがて葉が落ちてしまうと、太く逞しい幹だけになってしまうのだろう。全くの死の風景である。しかし、こうした凄まじい死の風景の中にも、まだ闘いは続けられている。時に下半分枯れ、上半分は枯れ切らないで、少しではあるが、青い葉を着けている胡楊もある。そうした胡楊は下半分に枯れた枝を蔓《つる》のように巻きつけている。これはこれでまた凄まじい。生と死が必死に争っている不気味な眺めである。
 そうした死の風景の中に、たまに沙棗の木が黄色の小さい花を咲かせているのを見る。沙漠では沙棗が一番強いと聞いていたが、なるほどこの木は強いと思う。この木だけは生きて、花を咲かせている。
 そうした風景の中を白い砂の道が一本、絶えず折れ曲り、折れ曲りながら、しかも上ったり、降ったりしながら走っている。前のハンドルにしがみついて、ノートの方は諦める以外仕方ない。白い細い道は時々広くなるが、広くなると何本かの割目ができており、ドライブは一段と凄くなる。まさに難行苦行と言う他ない。
 三時三十分、突然タマリスクの繁みの向うに、ニヤ河の流れを見る。そして道はその流れに近付き、流れに沿って走る。両岸は完全なタマリスクの密林である。
 ニヤ河はゆっくり折れ曲りながら流れており、道はそれに沿っているが、時折岸に出、くるまはその岸辺を走って行く。依然としてタマリスクが両岸の原野を埋めており、時折、胡楊の群れも見られる。
 両側をタマリスクの株に挟まれた道を走る。タマリスクも、この辺りのは二抱えも三抱えもありそうな大きな株になっており、先刻の死の原のタマリスクとは違って逞しく生きている。薄桃色の花を着け始めているが、満開はあと十日ほど経ってからだという。兵隊さんの話である。
 くるまは道を走っていると言いたいが、大馬扎の生産大隊のトラクターがつけたであろう轍の跡を走っている。ラジエーターの水は百度、時々、それをひやすために停車。停車すると、どこかでごうごうと風の鳴っているのが聞えてくる。
 胡楊の群落地帯に入る。川の向う側は胡楊の林に埋められ、こちらはタマリスク地帯、しかも花盛り。胡楊もこの地帯に入ると、みな逞しく生きている。
 突然、川縁《かわべり》に、白い布きれをいっぱい着けた木の枝のようなものが立っているのが、眼に入ってくる。霊地巡礼の信者たちが、参詣したしるしに白い布片を着ける札の木であるという。これも兵隊さんの話。多少不気味である。一体、巡礼する人たちは何日かかって、この辺りまで来るのであろうか。
 タマリスクの株、やたらに大きくなる。荷を背負った駱駝の一隊とすれ違う。くるま、何度目かの停車。くるまから降りると、風で揺れている胡楊の小さい葉が、眼にしみ入るように美しい。
 やがて沙漠に入って行く。満開のタマリスクの群落。胡楊は少くなり、沙棗点々。枯れた牧草地帯、土包子地帯、小さいタマリスクの地帯、枯れたタマリスクの地帯、次々に沙漠の様相は変って行く。そして突然、緑の耕地帯が拡がって来、行手に胡楊の群落が置かれているのを見る。
 五時三十分、右手に用水路。砂塵甚し。タマリスク地帯を走っているが、タマリスクの株は多少間隔を置くようになり、その間から沙漠の拡がっているのが見えてくる。
 五時五十分、大きな用水路にぶつかる。滔々たる濁流が流れている。その中に入って行くが、途中から引き返し、次の渡河で成功。うしろのトラックは流れの中で動けなくなる。それをまた綱でひっぱる。
 
 六時三十五分、大耕地地帯に入る。一望の畑の拡がり。田圃に男たち、犬、山羊、子供、巡礼の男女。巡礼の女は白布で顔を覆っている。
 が、間もなく地盤が荒れ、不毛地が交替する。驢馬にまたがった男二人。やがて行手に人家が見えてくる。大馬扎の集落である。その中に入って行く。集落に入ると道は広くなり、その道を挟んで同じような四角なタマリスクの枝で覆った家が、対い合って竝んでいる。ふしぎな表情のタクラマカン沙漠入口の集落である。家と家との間隔はゆったりととってあって、のびやかである。が、ここもまた、静かというよりも淋しい。家々の戸口には子供たちが立っている。
 道の右手に水路が走っているが、道の一部は、その水路から溢れている水で水びたしになっており、何カ所か水溜りを作っている。
 くるまは幾つかの水溜りを渡って、長い集落を通過して行く。右はタマリスクの原野、左は青い畑、そうしたところを通って、道は再び不毛の丘陵地帯に入って行く。タマリスク以外はみな枯れて、その枯れた茶褐色の草が原野全体を覆っている。
 七時半、不毛地帯の一画にある幕営地に到着。九〇キロ、十一時間の荒いドライブ、漸くにして終る。白い幾つかの幕舎が張られている。幕舎の周囲にはタマリスクとベスリアークの原が拡がっている。ベスリアークというのは牧草で、駱駝の食料のほかに肥料にもなるという。ベスリアークは枯れて茶色になっており、タマリスクの方は青い。が、ここのタマリスクは小さい。
 
 幕舎で一休みしていると、新疆人民病院内科主任の呉宗舜氏が診察に来て下さる。血圧は今朝が一三〇—八〇、今は一三八—八〇、大体同じである。
 煙草をくわえて幕舎から出て、タマリスクとベスリアークの野をぶらぶらしていると、この二つの撮影班を取りしきっている中国中央電視台の郭宝祥氏がやって来て、
 ——ちょっと、相談したいことがあります。
 と言う。
 ——まさか、ここから帰れ、ということではないでしょうね。
 と笑いながら言うと、郭氏も笑って、
 ——どこかへ腰をおろしましょう。
 と、おっしゃる。タマリスクの株の傍に竝んで腰をおろす。
 ——これはNHKの人たちも一緒になって、みなで相談したことですが。
 と前置きして、ニヤ遺跡へは行かないで、ここから引き返し、あとはずっと単独行動をとって、チェルチェン(且末)、チャルクリク(若羌)、ミーラン(米蘭)と、南道を経廻ったらどうですか。撮影班と一緒だと行動をしばられ、行きたいところへも行けなくなる。めったに足を踏み入れることのできないところに入ったのだから、この機会を生かして、充分に一人で歩き廻った方がいい。自分もあなたと同一行動をとる。NHKからも一人、あなたにつく。
 予想もしていなかった提案である。有難いと言えば、これほど有難い話はない。しかし、私としては折角ここまで来たのだから、あと三〇キロのニヤ遺跡の方にも未練がないわけではない。一九〇二年以来、前後三回に亘ってスタインによって発掘、調査されて有名になった古代精絶国の跡にも立ってみたい。七百点に及ぶカロシュティー文字の木簡が出たところである。
 ——ニヤ遺跡行きはやめにするんですか。
 ——ニヤ遺跡の方は棄てないと、あとのスケジュウルは組めなくなる。どうします?
 二者択一である。
 ——では、残念ですが、ニヤ遺跡の方は諦めましょう。
 私は言った。話が唐突過ぎるし、多少腑におちないところがないでもない。ニヤ出発間際になって、なるべくなら井上の沙漠入りはやめて貰うように、そんな電報でも北京から入っているかも知れない。七十三という年齢は、そういうことがあっても、いっこうに不思議ではない年齢なのである。と言って、こちら側としては、今更そんなことは切り出せないというところがあって、あれこれ協議した末、私にとってはたいへん有難い提案が浮かび上がってきたのではないか。これは全くの私の臆測である。
 そこへ田川純三氏(NHKチーフ・プロデューサー)もやって来て、
 ——どうなりました?
 と、訊く
 ——ニヤ遺跡は、残念だが諦めて、あすの朝、あなた方駱駝隊を見送って、それから帰ることにしましょう。
 ——ところが、それができないんです。軍のトラックは、あと一時間程で引き返すことになっているらしい。帰るのなら、それに乗せて貰わないと。——でも、それもたいへんですがね。
 これから引き返すとなると、確かにたいへんである。しかし、すべては瞬間に決まる。多くの人の好意によって、旅のスケジュウルは大きく変ってしまったのである。一時間休憩、その間に食事をし、再びニヤに向って出発することにする。多少疲れるだろうが、昼間のドライブ・コースを夜をこめて走るのも、またいいかと思う。兵隊さんがついていてくれない限りは望めないことである。
 再びタマリスクとベスリアークの野を歩く。漸く暮色、迫ろうとしている。ここはタクラマカン沙漠の波打際である。ここで人間が住み得る地帯は終る。今日ずっと付合って来たニヤ河の流れも、この辺で消えてしまうのである。いかなる消え方をするか見当はつかないが、幾つかに分れでもして、地下に入ってしまうのであろうか。
 NHKの吉川研氏が土地の老人を連れて来る。白い顎鬚、真黒い顔、年齢は九十二歳。名前はモハメッド・ニアーズ。一九〇六年、十八歳の時、スタインのガイドとして、ニヤ遺跡の発掘に同行したという人物である。こちらの出発が迫っているので、ゆっくり話を聞けないのは残念である。
 テントの中で食事。あわただしい別離の宴である。NHKの諸氏とも、長沢和俊氏とも、ここでお別れである。
 ——イマム・ジャハァル・サディクの大マザールに於ける別れですね。
 私が言うと、
 ——どちらが送り、どちらが送られるのか、ちょっと判りませんね。
 誰かが言う。まさにその通りである。あわただしくウィスキーで乾盃して立ち上がる。
 
 十時、大勢の人たちの見送りを受けて、郭宝祥氏、李一錫氏(新疆ウイグル自治区外事弁公室)、NHKの吉川研氏、それに私と、四人が二台のトラックに乗る。吉川氏と私が先行トラック。私は運転台の助手席。
 昼間は十一時間かかっているが、夜は休みなしで走るので、七時間ぐらいが予定されているという。しかし夜道ではあるし、道とは言えない道なので、どのようなことになるか、誰にも見当はつかない。
 大馬扎の集落を過ぎる。十時半である。が、まだ暮れきらず、薄明が漂っている。方々の家から大人や子供たちが飛び出して来て、家の前で手を振ってくれる。自動車の音で飛び出して来たのであろう。トラックが走るだけでも、この集落では事件なのだ。特に子供たちにとっては、トラックの走るのを見ないより、見た方がいいに違いないのである。タマリスクの枝で包んだ四角な家のうしろの方で、火を焚いているのを見る。何軒か、同じように火を焚いている。この集落の人たちの生活が純粋にも、淋しくも感じられる。
 この“イマム・ジャハァル・サディクの大マザール”なる集落を過ぎる頃から、いきなり夜がやってくる。北京と二時間の時差があるので、ここの十時半は北京の八時半であるが、この時刻にタクラマカン沙漠の入口の村には、夜がやってくるのである。
 暗くなって初めて、ヘッドライトが点かないことを知る。うしろのトラックが、それをカバーして、横からライトを照してくれているが、たいして役に立とうとは思われぬ。どこが道かいっこうに判らないところを、若い兵隊さんはかん《ヽヽ》で走らせている。アップ・ダウンも多いし、河岸のところも多い。崖っぷちのところもある。もともとアクシドン生産大隊の集落で、そこに待っているジープと乗り替えることになっているので、それまでのお付合いだが、あまりいい気持ではない。吉川氏が傍から右とか、左とか、助言してやっている。
 こうしたドライブが二時間程続いて、どうにか無事でアクシドン生産大隊に到着。ジープに乗り替える。先行車に李さん、次のジープに吉川さん、郭宝祥氏、私。そして二台のトラックがあとに続く。こんども私は運転助手席から前方を睨んでいる。ジープの動揺がはげしいので、両手でどこかにつかまっていなければならない。道の両側はタマリスクの林で埋まっているが、その株がジープのライトによって青さを失って、白い固まりに見える。その白い固まりが変なものに見えてくる。雛人形に見えたり、五百羅漢に見えたり、四天王、阿修羅、人形芝居の人形の頭《かしら》、しかもそれが時には幾つか固まってしまう。まるで冥界の道でも走っているかのようだ。たくさんの鬼、たくさんの精霊。そうした不気味なドライブが、いつ果てるともなく続いている。
 時にくるまが徐行することがある。すると、くるまのライトに驚いた山羊の集団が前を横切って行く。山羊の眼はみんな青く光っている。無数の小さい青い光! これはこれで不気味である。
 一時間ほど冥界のドライブが続いた頃、私たちのジープのタイヤが泥土の中に入って、動けなくなる。トラックが引綱をつけて、引張って、どうにか泥土の中から出してくれたが、そうしているうちに、こんどはそのトラックの方が動けなくなる。それをもう一台のトラックが救援しようとして、これまた動けなくなる。こうなると、大きなトラックほど始末の悪いものはないと思う。こんどは救け出された私たちのジープが、及ばずながら救援に向おうとして、これまた立ち往生。辺りが暗いので次々に受難。もう一台のジープは先きに行ってしまって、この事件はご存じないというわけである。
 仕方ないので車外に出る。お手上げである。泥に深くはまっている二台のトラックには大勢のウイグル人が乗っている。男、女、それから何人かの子供たちも居る。おそらくアクシドン生産大隊の集落から乗り込んだものと見える。彼等も無償《ただ》で乗せて貰っているのであろうが、こうなると、とんだ災難というものである。みんなトラックから降りて、真暗い河畔らしいところに突立っている。寒い。
 ——多少、この事件には変なところがある。
 私が言うと、
 ——いや、驚きましたね。多少どころか、大いに変です。
 笑いながら吉川さんも言う。郭氏は黙って煙草をのんでいる。誰もその場に立ったままである。うっかり歩くと、泥の中にはまりかねない。大マザールの聖地をトラックやジープで荒し廻ったので、このくらいの災難は致し方ないかも知れない。
 一時間程して、いい加減うんざりした頃、先行ジープが引き返して来てくれる。こんどは大勢に手伝って貰って、そのジープによって私たちのジープの引出し作業が行われ、どうにか、それに成功する。そしてその上でみんなが協議した結果、私たちのジープだけがこの場所を離れて、ニヤに向うことになる。もう一台のジープの方は、動けなくなっている二台の大きなトラックの救援策を講じなければならないので、あとに残ることになる。
 二台のトラックと、一台のジープと、大勢の人たちとをそこに残して、私たちのジープだけが走り出す。申し訳ない気持だが、仕方ない。こんどは一台だけのドライブなので、運転は慎重を要する。変なことになっても、救援車はない。
 真暗い中のドライブは続く。胡楊の林も、タマリスクの野も、みんな闇に包まれている。
 四時頃、道が判らなくなる。もともと道はないようなもので、判らなくなっても不思議ではないが、ぐるぐる三十分程、同じようなところを廻る。そして最後に農場らしいところに出、番小屋の人を起して、道を訊く。それからも不安なドライブが続く。
 ——変だな、ただではないな。
 郭氏がそんな言葉を口から出したのは、くるまが同じ農場に入ったのに気付いた時である。どうしてこういうことになったか判らないが、先刻道を訊いた農場にまた舞い戻ってしまったのである。多少吹雪の中の輪状徘徊(リンク・ワンデリング)に似ているようなところがある。
 そうしたことはあったが、どうにか昼間走った記憶のある場所に出て、ほっとする。奇妙なことはあったが、誰も彼も、みんな疲れていたのである。
 招待所に着いたのは、それでも早朝の五時半、北京時間では深夜である。ウイグルの娘さんと、漢族の娘さんの二人が出迎えてくれる。二人共、私たち三人が帰ったので、ひどく驚いている。二十時間ほど走りづめに走ったので、体はくたくたになっている。すぐ眠る。十一時半に目覚め、昼食をとり、すぐまた眠る。四時半に目覚めて、湯を浴びる。頭はさっぱりするが、体の方は到るところ痛い。
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