尚書省の戸(こ)部(ぶ)の役人に、張(ちよう)検(けん)という人がいた。
その妻は評判の美人であったが、化(ばけ)物(もの)にとりつかれて病気になった。ところが、その化物の正体がなんであるかわからず、そのため病気はいっこうによくならなかった。
張検の家では良馬を一頭飼っていたが、まぐさは普通の馬の二倍も食べるのに、痩(や)せていくばかりであった。張検は不思議に思って、隣りに住んでいる西域人にたずねてみた。
すると西域人は笑いながら、
「馬というものは、一日に百里走れば疲れます。それなのに、千里以上も走らせては、痩せるのがあたりまえでしょう」
という。張検はいよいよ不審に思って、
「家ではわたしのほかに馬に乗る者はおりませんし、人に貸したこともありません。千里も走らせるはずはないのですが……」
「やはり、ご存じなかったのですか」
と西域人はいった。
「あなたがお役所で宿直をなさるたびに、奥さんが夜中に外出されるのですよ。もし、うそだとお思いになるなら、宿直の夜、帰ってきてごらんになればわかります」
そのつぎの宿直の夜、張検は西域人にいわれたとおり、こっそり帰ってきて、庭の隅にかくれて、様子をうかがっていた。
すると、夜がふけたころ、妻がきれいに化粧をして出てきて女中を呼び、馬に鞍(くら)を置かせて、それにまたがった。女中は箒(ほうき)に乗ってそのあとにつづき、二人は次第に空へ舞いあがっていって、やがて姿が見えなくなってしまった。
張検はしばらく茫然としていたが、気をとりなおして妻の部屋へいってみると、寝台はもぬけのからであった。
翌日、張検は西域人の家へいって、
「あなたのおっしゃったとおりでした。妻の身体に化物が乗り移っているのです。どうしたらよいでしょう」
といった。すると西域人は、
「あわてることはありません。つぎの宿直の夜、もういちどよく様子をごらんになったほうがよいでしょう」
という。
つぎの宿直の夜も同じだった。その夜、張検は妻が女中といっしょに飛び立っていってから部屋の帳(とばり)のかげに身をひそめて、帰ってくるのを待っていた。するとまもなく、妻は帰ってきたが、部屋の中へはいるなり、
「おかしい! 生きた人間のにおいがするようだが……」
といい、女中に箒に火をつけさせ、あかりの代りにし、部屋中を隈なく照らして、さがさせた。張検はあわてて、部屋の隅に置いてあった大(おお)甕(がめ)の中へ身をかくした。
しばらくすると、妻はまた馬に乗って出かけようとしたが、女中はいましがた箒に火をつけてしまったので乗る物がない。
「どうしましょう」
というと、妻は、
「部屋の隅に大甕があったでしょう。あれに乗りなさい」
といった。張検はそれをきいて、いそいで甕から出ようとしたが、そのひまもなく、女中がやってきて、甕にまたがった。甕はどんどん空へ舞いあがっていくようだが、張検は生きたここちもなく、眼をあけることもできなかった。
しばらくすると甕がとまって、女中が下りていった。張検がそっと首を出して見ると、そこは山の頂上の林の中で、すこしはなれたところに幔(まん)幕(まく)が張ってあり、そこで数人の男女がそれぞれ一組ずつになって仲むつまじく酒をくみかわしたり、ふざけあったりしていた。
四、五時間たって、ようやく酒宴がおわると、張検の妻は馬にまたがり、女中はふらふらした足どりで甕のほうにやってくる。張検はいそいで首を引っこめたが、女中は気がついたらしく、
「おや、甕の中に誰かはいっているみたい……」
といい、傍へくるなり、いきなり甕を横倒しにした。とっさに張検は甕から出て灌木の繁みのかげにかくれたが、女中はそのあとで甕の中をのぞいて、
「なんだ、誰もいやしない。酔っぱらったせいかな」
とつぶやいて、そのまま甕にまたがると、甕は女中を乗せてふわふわと浮きあがり、夜の闇の中へ消えていった。
張検は夜があけるまで、繁みのかげに身をひそめていた。夜があけてから見まわすと、あたりには人かげはなく、昨夜幔幕が張ってあったあたりに、焚火のあとがくすぶっているだけであった。
張検は道をさがしながら、七、八里も山をくだって、ようやく麓に着いた。途中、いちども人に出会わなかった。麓の村で、ここはどこかときくと、〓(ろう)州(しゆう)(四川省)だという。長安からは数百里もはなれたところである。
張検は物乞いをしながら旅をつづけ、さんざん苦労した末、ひと月あまりかかってようやく家に帰った。妻はその姿を見て、
「ずいぶん長いこと留守になさって、いったいどこへいっておいででしたの」
といった。
「役所の秘密の用事で北の方へいっていたのだよ。それより、おまえ、病気はどうだ」
と張検がきくと、妻は、
「だいぶんよくなりました」
といった。張検にはそれが、化物にとりつかれている妻か、そうではない妻か、見わけがつかなかった。
張検はまた西域人をたずねて、こんどのことを話し、これからどうしたらよかろうと相談をすると、西域人は、
「化物はもう怪異を出しつくしたようですな。こんど飛び立ったときをねらって術をつかってからめ取り、火で焼いてしまいましょう。わたしにおまかせください」
といった。つぎの宿直の夜、張検の妻はまた馬に乗って空へ飛び立った。西域人はそれを見るといそいで庭に焚火をし、空にむかってふーっと息を吐いた。すると空から、
「助けて!」
と叫び声がきこえ、やがて黒い鶴がまっさかさまに落ちてきて、焚火の中で焼け死んでしまった。
張検があわてて、
「妻は?」
というと、西域人は、
「これでもう、奥さんの病気はなおりました」
といった。張検がいそいで妻の部屋へいってみると、妻は身体中に汗をかいていて、張検を見るとほっとしたように、
「わたし、こわい夢を見ていた」
といった。
唐『広異記』