駒田 信二
この『中国笑話集』には、いわゆる笑話本以外の書物からも九十篇あまりの笑話を収録したので、先ずそれらについて触れておく。
秦の始皇帝が統一国家を樹立したのは紀元前二二一年。それ以前の時代を先秦(せんしん)時代というが、その先秦時代のいわゆる「諸子(しよし)」の書には、殊に『孟子(もうし)』『荘子(そうじ)』『列子(れつし)』『韓非子(かんぴし)』などには、数多くの笑話が使われている。
それらの笑話からは多くの警句的な成語が生れている。たとえば、「助長(じよちよう)」という言葉は『孟子』公孫丑(こうそんちゆう)篇の、苗の生長を助けようとして枯らしてしまった男の話から、「顰(ひそみ)に效(なら)う」という言葉は『荘子』天運篇の、美女西施(せいし)が眉をひそめて歩いているのを見てその真似をした醜女(しこめ)の話から、また「矛盾(むじゆん)」という言葉は『韓非子』難篇の、矛と楯とを共に最強の武器だといって売る男の話から生れたのである。
これらの笑話が原典ではどのように使われているかということを補って、先秦諸子の笑話の使い方の例を示しておこう。
「助長」の話は、孟子が弟子の公孫丑の質問に答えて「浩然の気」を養うためにはどうすればよいかということを語る中に引用される。
〈気を養うためには、義を行なうことを踏み重ねて行かなければならない。しかし、気を養うという目的を以て義を行なってはならない。そうかといって気を養うということを全く忘れてもいけないし、また無理に気力を助長しようとすることもよろしくない。〉
そして、苗の生長を助けようとした男の話を引き、つづけて次のようにいうのである。
〈世の中には、無理をして苗の生長を助けようとする者が少なくはない。勿論、気を養うことは無益だとして何もしないことは田の草取りもしないのと同じであって、よろしくない。しかし無理に養おうとすることは、苗を引き抜いてしまうことと同じであって、無益であるどころか、かえって有害である。〉
「顰に效う」は、孔子の高弟の顔淵(がんえん)に対して魯(ろ)の師金(しきん)という人が語った話(——という形で荘子が孔子の尚古(しようこ)主義をそしった話)の中に引かれている。
〈かの三皇五帝の礼義や制度も、形をととのえるという外面が重要なのではなく、よく世を治めるという内面が重要なのである。礼義や制度というものは、時代に応じて変化して行くべきものであって、固守すべきものではない。いま猿をつれてきて周公の服を着せたならば、猿は服を噛みきり引き裂いてしまうであろう。古今の人情風俗のちがいには、猿と周公ほどのちがいがあるのである。〉
師金はそういってから、西施の真似をした醜女の笑話を引き、そして話をこう結ぶ。
〈この醜女は西施が眉をひそめる風情の美しさはわかっても、その美しさが何によるものであるかを知らなかったのである。あなたの先生(孔子)がいたずらに古の聖王たちの真似をしようとするのは、ちょうど西施の顰に效うこの醜女のようなものだ。〉
「矛盾」は、ある人と儒者との対話(——という形での韓非子の孔子批判)の中で引かれる。
〈むかし、歴山(れきざん)の農民たちは互いに田地の境界を争っていたが、舜(しゆん)がそこへ行っていっしょに耕作したところ、一年後には自然と畦(あぜ)みちが正しくなった。また、そのころ黄河のほとりの漁民たちは互いに釣り場を争っていたが、舜がそこへ行っていっしょに漁をしたところ、一年後には自然と釣り場は年長者にゆずられるようになった。また、そのころ東夷(とうい)の陶工たちの造る器はみんな粗悪な物だったが、舜がそこへ行っていっしょに造るようになったところ、一年後には自然と立派な器が造られるようになった。
孔子はこの話をきいて感嘆し、
「農業も漁業も製陶も、もともと舜の役目ではない。しかも舜が自ら出かけて行ってそれをしたのは、悪弊を正すためであった。まことに舜は仁者ではないか。自ら労苦することによって民を教化したのである。これこそ聖人の徳化というものだ」
といったという。そこで、ある人が儒者にたずねた。
「そのとき、堯(ぎよう)はどこで何をしていたのだろう」
「堯はそのとき天子だった」
「それなら、孔子が堯のことを聖人というのはおかしいではないか。明察な聖人が天子の位におれば、天下が悪くなるはずはないではないか。もし堯が聖人なら農民も漁民も争うわけはなく、陶工も粗悪な品を造るわけはないはずだ。従って舜にいくら徳があっても、教化の仕様がないはずだ。つまり舜が悪弊を正したということは、堯に失政があったということではないか。舜を賢者だとすれば、堯が明察な聖人だったことを否定することになり、堯を聖人だとすれば、舜の徳化を否定することになろう。両立させることはできないのだ」〉
そして矛と楯の笑話を引き、つづけていう。
〈そもそも、何で突いても突き通せない楯と、どんな物でも突き通せない物がない矛とが、同時に存在することはあり得ないのである。堯と舜とを同時にほめることができないのは、この矛と楯の話と同じことである。しかも舜が悪弊を正したのは一年に一つ、三年に三つである。舜は一人しかおらず、その寿命には限りがあるが、天下のあやまちには限りがない。限りあるもので限りないものを追いかけたところで、正せるあやまちの数は知れたものだ。ところが、賞罰によるならば、天下の人々に必ず実行させることができる。たとえば法に合うものは賞し、合わぬものは罰する、という命令を朝出せば夕方までに、夕方出せば翌朝までに、民は従うであろう。何も一年も待つことはないのである。……〉
こうして、韓非子の代弁者である「ある人」の論は法治主義の主張へ移って行くのである。
これらの例によって明らかなように、先秦時代の諸子は、自説を主張する道具として笑話を利用したのである。それらの笑話の大半は、諸子が自説を有利にするために自ら作ったものではなく、多くは当時民間に行なわれていた笑話を臨機応変に利用したものと思われる。
つまり、先秦時代の民間の笑話は、それを諸子が利用したことによって今日まで残されているのである。本集には先秦諸子の書の中に見えるそれらの笑話を、約四十篇撰集した。
秦・漢時代(紀元前二二一—後二二〇)の書物、秦の宰相呂不韋(りよふい)が多くの学者を集めて編んだ『呂氏春秋(りよししゆんじゆう)』、漢の高祖劉邦(りゆうほう)の孫で淮南(わいなん)王に封ぜられた劉安(りゆうあん)の撰になる『淮南子(えなんじ)』、漢の劉向(りゆうきよう)の著わした『戦国策(せんごくさく)』などにも、多くの笑話が使われている。
だがその使われ方は、先秦諸子の書物の場合とは幾らかのちがいがある。たとえば、「舟に刻して剣を求む」は『呂氏春秋』慎大覧篇に見える話だが、この笑話は次のように語りつづけられる。
〈舟は動いてしまっているのである。しかし剣は動いていない。それなのにこのようにして剣をさがすとは、何とたわけたことではないか。古い法令で国を治めるのもこれと同じである。時代は移り変っているのに法令は変らない。これではよい政治が行なわれるはずはない。〉
これだけなのである。自説を主張するために笑話を使うという点では変りはないが、先秦諸子のように笑話をもとにしてくどくどと説を述べることはない。
東家の息子が母親が死んだのにあまり悲しまないのを見て、西家の息子が母親に「わたしはお母さんが死んだら必ず心から悲しんで泣いてあげるよ」といった話は『淮南子』説山訓篇に見える話だが、この笑話は次のように語りつづけられる。
〈自分の母親の死を望んでいるような者は、母親が死んでも悲しみをこめて泣くはずはない。暇がなくて学問ができないという者は、たとい暇があっても学問ができるはずはないのだ。〉
「漁父の利」は『戦国策』燕策に見える話で、趙(ちよう)の恵文(けいぶん)王が燕(えん)を討とうとしているとき、策士の蘇代(そだい)が燕のために恵文王に説いた言葉として記されている。蘇代は恵文王に先ず蚌(はまぐり)と鷸(しぎ)の話をしてからいう。
〈いま、王は燕を討とうとしておられますが、趙と燕とが戦って民が疲弊すれば、強国の秦がこの漁父(漁師)になりはしないでしょうか。どうかよくお考えくださいますよう。〉
恵文公はそれをきいて「なるほど」とうなずき、燕を討つことをやめた。——と『戦国策』は結んでいる。
先秦諸子の笑話の使い方にくらべると、比喩として笑話が使われている点では変わりはないものの、比喩を使っての主張の部分はあっさりとしている。これは先秦諸子の書がそれぞれの思想を述べたものであるのに対して、『呂氏春秋』は道家の説を重んじているとはいえ他の諸子の説をもまじえた百科事典的な雑家(ざつか)の書であり、『淮南子』も道家思想が強いとはいえ一種の随筆集・寓話集であり、『戦国策』は戦国時代の策士たちの謀略譚集であることからのちがいによるものであろう。
本集にはこれら三書のほかに、漢の劉向の編んだ、先賢の逸話集『説苑(ぜいえん)』と、後漢の班彪(はんぴよう)とその子班固(はんご)・班昭(はんしよう)兄妹の撰になる前漢の歴史書『漢書(かんじよ)』からも一、二篇選び、あわせて約三十篇を収めた。
漢代以降になると、正統派の文学者は諧謔を遠ざけるようになる。その代表的な意見が六朝(りくちよう)の梁の劉〓(りようきよう)(四六五—五二一)の『文心雕龍(ぶんしんちようりゆう)』の諧〓(かいいん)篇に見られる。
〈古の諧謔・隠語は、危急を救ったり労苦をいやしたりするのに役立った。それゆえ絹や麻のようなすぐれた物があってもなお、菅(すげ)や茅(かや)のようなつまらない物も捨てなかったのである。諧謔・隠語はそのいうところが事理にかない肯綮(こうけい)にあたるならば、大いに諷諫(ふうかん)に役立つ。しかし、いたずらに滑稽をもてあそんで人を笑わせることは、君子の徳をそこなうものである。〉
〈魏の文帝(曹丕(そうひ))はふざけた話を集めて笑話の書を著わし、呉の薛綜(せつそう)は宴席で蜀(しよく)の使節をからかったが、そのような諧謔は同席の人々を笑わせることができるだけのことで、何ら時世に益するところはない。〉
これによって、当時、曹丕の著といわれる笑話集のあったことが知られるが、その書は伝えられていない。薛綜のことは『呉志(ごし)』に記されている。
劉〓はまたいう。
〈魏(ぎ)・晋(しん)の時代には滑稽をきそいあい、ついには応〓(おうとう)の鼻をたとえて、卵を盗んできてくっつけたようだといったり、張華(ちようか)の頭の形を杵(きね)のようだといったりしたが、これらはみな醜悪な言葉で聞こえがわるく、溺れる者の馬鹿笑いや曳(ひ)かれ者の気違い歌と何のちがうところもない。〉
その魏・晋時代の知名の人たち数百人についての短い逸話を集めた書に、南朝の宋の劉義慶(りゆうぎけい)(四〇三—四四四)の著わした『世説新語(せせつしんご)』がある。劉義慶は宋の武帝の弟の長沙王劉過憐の第二子。本集にはその『世説新語』の千百篇を越える逸話の中から約二十篇を撰集した。
劉〓はまた次のようにもいっている。
〈文章に諧謔・隠語があるのは、諸子に小説家があるようなものである。〉
これは、諧隠を一段と低いものとみなしているのである。「諸子」は諸子十家、「小説家」は今日の小説家という言葉と同じ意味ではない。
後漢の班固は『漢書』を編纂したとき、「藝文志(げいもんし)」という一巻を設けて、当時の現存の書物の名を列記したが、その「漢書藝文志」の「諸子略(しよしりやく)」には、先秦の諸子を、儒家・道家・陰陽家・法家・名家・墨家・縦横家・雑家・農家・小説家の十家に分けた上で、
〈諸子十家、その観るべき者は九家のみ。〉
として「小説家」を一段と軽んじた。それでも「小説家」の書名十五(十五家、千三百八十篇)を挙げ、そのあとに、他の九家の場合と同様に「小説家」なるものの淵源を記して、次のように述べている。
〈小説家というものは稗官(はいかん)(小役人)から出たものであろう。街談巷語(がいだんこうご)(町や村のうわさ話)や、道聴塗説者(とうちようとせつしや)(いいかげんなことをいいふらす連中)が作りあげたものである。孔子は「小さなことの中にも必ず見るべき点はある。しかし遠大なことを為すには役に立たない。それゆえ君子はそのような小事にはとりあわない」といっている。しかしこれを滅ぼしてしまうようなこともせず、閭里小知者(りよりしようちしや)(田舎のこざかしい連中)が考えだしたことでも、集めて失われないようにしておいたのである。たとえその中に見るべき意見があるとしても、要するにそれらは芻蕘狂夫(すうぎようきようふ)の議(草刈りや木こりの言説)にすぎないのである。〉
「小説家」とは、このような「小説」(つまらない言説)を集める一派のことをいったのである。文章に諧謔・隠語があるのは諸子に小説家があるようなものだという劉〓の言葉は、諧謔・隠語は本質的に典雅なものではなく、絹や麻ではなくて菅や茅であるという点において「小説」と同じようなものだということに他ならない。
「漢書藝文志」に挙げられている十五家千三百八十篇の先秦の「小説」は、今日伝えられていないが、それらの中には「小説家」以外の諸子が使った笑話あるいはそれに類するものもふくまれていたのではなかろうか。
漢代の小説も伝えられていないが、その次の六朝の小説は数多く残されている。六朝の小説は「志怪」(怪を志(しる)す)と呼ばれているように、その内容は『論語』に「子、怪力乱神を語らず」とある怪(怪奇)、力(暴力)、乱(紊乱)、神(鬼神)についての説話であって、笑話的要素のものは皆無とはいえないけれども、ほとんどない。しかし逸話集的なもの、たとえば宋(南朝)の虞通之(ぐつうし)の『妬記(とき)』などには笑話といえるような話もある。(それらのものは本書に収めなかったので、一例を記しておく)
謝太傅(しやたいふ)(東晋の宰相謝安(しやあん))の夫人劉(りゆう)氏はたいへん嫉妬ぶかく、夫が妾(めかけ)を置くことをゆるさなかった。謝太傅は歌舞音曲が好きだったので、芸のうまい妓女を妾に置きたいと思っていたが、もとより夫人は承知しない。それを知った親戚の者が夫人の劉氏に、
「詩経には、妻が嫉妬をしないことを婦徳としてほめた詩がありますね」
というと、夫人は、
「詩経は誰が編んだのですか」
ときき返した。
「聖人の周公です」
と答えると、夫人はいった。
「そうですか。もし周公ではなく周公夫人が編んだら、そんな詩は取らなかったでしょうよ」
唐代の小説は「伝奇」(奇を伝(ものがた)る)と呼ばれ、「志怪」よりも物語性が強くなるため、いよいよ笑話から離れて行く。この志怪や伝奇の時代には、笑話は独立し、先ず後漢(ごかん)の邯鄲淳(かんたんじゆん)(一三二—二二〇頃)によって『笑林(しようりん)』が編まれる。邯鄲淳は後漢末の学者で、魏の武帝(曹操)に召されて厚遇され、文帝(曹丕)のときには博士、給事中(きゆうじちゆう)(博士は教学を司る官、給事中は「加官」で宮中の奏事を司る官)に任ぜられた。そのとき邯鄲淳は九十歳を越えていたという。『文心雕龍』に「魏の文帝はふざけた話を集めて笑話の書を著わした」とあるのは、あるいはこの『笑林』のことを指したのかもしれない。『笑林』の原典は伝わらず、唐の欧陽詢(おうようじゆん)等の撰になる『太平御覧(たいへいぎよらん)』、同じく欧陽詢等の『太平広記(たいへいこうき)』、宋の李〓(りぼう)等の撰になる『藝文類聚(げいもんるいじゆう)』に引かれている合計二十余話が残っているだけである。本集にはその中から十余話を収めた。
隋の侯白(こうはく)(?—六〇〇頃)の『啓顔録(けいがんろく)』も原典は伝わらないが、唐の開元十一年(七二三)の敦煌(とんこう)発掘本の写本に収められている四十話のほか、明(みん)刊の各書に収録されているものをあわせると百余話が見られる。本集にはそれらの中から十余話を選んだ。
唐の朱揆(しゆき)の『諧(かい)〓(きよ)録(ろく)』と高懌(こうえき)の『群居解頤(ぐんきよかいい)』とは、ともに『世説新語』にならった歴代著名人の逸話集。両書とも、これまた原典は伝わらないが、前者は三十九話、後者は十九話が他書に収められている。本集には両書から二話ずつを選んだ。
陸亀蒙(りくきもう)(?—八八一)の『笑海叢珠(しようかいそうじゆ)』は中国では全く亡んでしまって、わが国に残されている笑話集。陸亀蒙は晩唐の著名な詩人で、一時官途についたことがあったが間もなく郷里の蘇州に隠棲し、文名高く、風雅の人として知られた。七十三話ある中から本集には二十余話を収めた。
宋代になると、白話(はくわ)(話し言葉)の小説がおこって文言(ぶんげん)(文章語。わが国でいう漢文)の小説を圧倒する。量においてではなく、質においてである。あるいは、勢いにおいてである。文言で書かれる笑話についても同じことがいえよう。
唐の中期から、首都長安や洛陽などの大寺院では、布教の手段として、仏教の教理やその功徳などをわかりやすく民衆に説き聞かせる行事が行なわれだした。この行事は、僧侶を対象とする講義を「僧講」といったのに対して、俗人を対象とするという意味で「俗講」と呼ばれた。わが国でいう教説あるいは教法にあたる。「俗講」は娯楽の少なかった当時の民衆によろこばれ、唐末になると長安の寺院で「俗講」が行なわれるときには、境内に見世物小屋なども掛けられて寺院は民衆の娯楽場になったという。そういう雰囲気の中で「俗講」もその布教という目的を離れ、聴衆の興味にあわせて話題を広げて行ったこと、つまり勧善を越えて娯楽化して行ったこと、寺院が民衆の人気に乗じて「俗講」を興行化して行ったことは想像に難くない。そのため北宋の中期、「俗講」は勅命によって禁止されるに至る。
そのとき寺院を追われた「俗講僧」たちは、演芸場に招かれて、民衆にさまざまな話を語り聞かせる講釈師になる。この講釈を北宋では「説書」といい、南宋では「説話」という。講釈師はそれぞれ「説書人」「説話人」と呼ばれる。その講釈師たちの演ずる種目は、南宋では首都〓梁(べんりよう)(開封)のにぎわいを記した孟元老(もうげんろう)の『東京夢華録(とうけいむかろく)』、北宋では首都臨安(りんあん)(杭州)のにぎわいを記した耐得翁(たいとくおう)の『都城紀勝(とじようきしよう)』や呉自牧(ごじぼく)の『夢梁録(むりようろく)』等に見られるが、それらの中には、講釈(説話)という概念からはずれた「商謎(しようめい)」「合生(がつしよう)」「説諢話(せつこんわ)」等という種目がふくまれている。
「商謎」は『文心雕龍』にいう隠語で、演芸場では説話人が聴衆に対して文字や詩句についての謎をかけてそれを解きあかすという形を取る。笑話の中にそれと同じものがあることは、本集に収めた二十余話の文字についての笑話によって明らかであろう。
「合生」は二人の説話人が登場して行なうもので、いわば掛け合いまんざいである。笑話にも二人の対話という形を取るものが少なくない。
「説諢話」は一人で話す冗談ばなしのたぐいで、わが国でいえば江戸時代におこった小咄(こばなし)や落語(らくご)にあたる。これまた笑話にほかならない。
つまり、小説の場合と同じく、文言の笑話も宋代には白話に圧倒されてしまったのである。宋代は市民社会のおこってきた時代であるが、金と時間的余裕を持ちだした新興の商人階級にとっては、文言の笑話を読むよりも演芸場へ聞きに行くことの方がおもしろかったのである。量的にはかなり多くの笑話集が編まれるが、おもしろいものが少ないのはそのためだと見てよかろう。
宋代の笑話集で最もおもしろいのは張致和(ちようちわ)の『笑苑千金(しようえんせんきん)』だが、この書も晩唐の『笑海叢珠』と同じく、中国では全く亡んでしまって、わが国に残されている。おそらく相次いで刊行されたであろう二書が、全く亡んでしまったということの中に、宋代における白話の優位がうかがわれるのである。『笑苑千金』はすべて六十七話。本集にはその中から十八話を収めた。
蘇軾(そしよく)(東坡居士(とうばこじ)。一〇三六—一一〇一)の撰と伝えられている『艾子雑説(がいしざつせつ)』は、艾子という架空の人物を主人公にした笑話集。三十七話あるうち、本集には五話を選んだ。ほかに同じく蘇軾の撰と伝えられている『調謔篇(ちようぎやくへん)』と徐慥(じよぞう)の『漫笑録(まんしようろく)』とから一話ずつ、居実(けいきよじつ)の『拊掌録(ふしようろく)』から四話、張耒(ちようらい)の随筆集『明道雑志(めいどうざつし)』からも一篇を選んだ。
明代になると、宋以来「説話人」に語りつがれてきた「説話」が、文人によってまとめられるようになり、さらには文人が「説話」の形を踏んで「話本」を書くようにもなる。こうして、「説話」の種目の一つであった「小説」(ここでは「つまらない言説」という意味ではなく、読切りの講釈をいう)が短篇小説に、「講史」(毎回読みついで行く歴史物の講釈)が長篇の歴史小説(章回小説)に定着し、「説話」の他の種目である「談経」(「俗講」の形を踏む仏教的講釈)や先に挙げた「商謎」「合生」「説諢話」なども、短篇小説や長篇歴史小説の中に流れ込んでしまうのである。
このような小説、殊に白話小説は、儒者たちの甚だ疎んじ軽んじるものであった。儒者は詩と文(文言で書かれた、「小説」ではないところの「説」)しか文学とはみなさなかったのである。彼らにとっては、小説は非文学であるばかりか、非文化でさえあった。しかし、なかには明の儒者李卓吾(りたくご)(李贄(りし)。一五二七—一六〇二)のように、「童心」(人間の純真な生得の心)さえあるならば小説であろうが戯曲であろうがすべてみな文学であると主張した人もいた。しかし彼は異端邪説の徒として官憲に追われ、捕えられて獄中で自殺した。その李卓吾には『山中一夕話(さんちゆういつせきわ)』という笑話集がある。本集にはその中から、わが国の落語(らくご)にもなっている「饅頭こわい」ほか三篇を収めた。
李卓吾の文芸思想を受けついだのが金聖嘆(きんせいたん)(?—一六六一)であるが、彼も、悪役人の罪を追及したために反逆罪にとわれ、腰斬の刑に処せられた。
李卓吾や金聖嘆や、陽明学左派の革新的な人たちは別として、当時の儒者の大半は、たとえば次のようなかたくなな考え方しかできなかった。
〈古くから儒・仏・道の三教があるが、明以降、また一教がふえた。それは小説である。小説演義の書は自ら教とはいっていないが、しかし、士大夫も農・工・商人もみなこれを読み、文字を知らない子供や女まで、みんな聞いて夢中になっているところを見ると、この教は儒・仏・道よりも広がりが大きいといわなければならない。仏と道は人に善をすすめるけれども、小説は専ら人を悪に導く。姦邪淫盗のことは儒・仏・道の書では明らかにいうことを避けるが、小説は事こまかにそれを描いて、いかにも楽しげであり、殺人者を好漢といい、漁色を風流とみなし、喪心病狂、何のはばかるところもないのである。〉
これは清(しん)の史学者銭大〓(せんたいぎん)の『潜研堂文集(せんけんどうぶんしゆう)』に見える説だが、当時の儒者としては極めてあたりまえの意見だったのである。銭大〓がここでいっている小説は「明以降」とあるところから見て、また志怪とも伝奇ともいわずに「小説演義の書」といっているところから見て、文言小説ではなくて白話小説をさしていることは明らかである。文言小説と白話小説とのいちじるしいちがいは、その言語のほかに、小説としての姿勢であろう。それは文言小説が儒者的・官僚的であるのに対して白話小説は庶民的であるということである。従って白話小説の世界では、お高くとまっている儒者を笑ったり、いばっている官僚をそしったりもする。彼らが人とみなさない殺人者や漁色家や喪心病狂者を白話小説では人であるとして語る。儒者であり官僚であった銭大〓がこれを「喪心病狂」といったのは当然であろう。
笑話は文言で書かれるが、しかも、白話小説よりも更に端的直截に儒者(道学先生)や官僚(役人)や医者、僧侶や道士や私塾教師(先生)を笑いものにする。その種の笑話は本集にも極めて多いが、殊更に多くを集めたのではない。また、淫猥なものも多いが、しかしそれらはみな極めて大らかで、健康である。
蘇東坡の『艾子雑説』を真似たものに陸灼(りくしやく)の『艾子後語(がいしこうご)』十五話と、屠本〓(とほんしゆん)の『艾子外語(がいご)』二十二話があるが、その半ば以上は他書の笑話と重複する。本集には前者から六話、後者から一話を選んだ。ほかに江盈科(こうえいか)の『雪濤諧史(せつとうかいし)』から十五話、劉元卿(りゆうげんけい)の『応諧録(おうかいろく)』から七話、姚旅(ようりよ)の『露書(ろしよ)』と趙仁甫(ちようじんぽ)の『听子(ぎんし)』とから一話ずつを選んだ。
潘游龍(はんゆうりゆう)の『笑禅録(しようぜんろく)』はその題名のように禅の語録の形を踏んで「挙(こ)」「説(せつ)」「頌(しよう)」の三段から成っている。すべて十八話のうち本集では十話を選んだが、「挙」と「頌」は省いて「説」だけを収めた。前後はむしろわずらわしく思ったからである。
趙南星(ちようなんせい)(夢白(むはく)。一五五〇—一六二七)の『笑賛(しようさん)』は、馮夢龍(ふうむりゆう)(墨〓斎(ぼくかんさい)主人。一五七四—一六三〇)の『笑府(しようふ)』とともに明代笑話集の双璧といってよかろう。趙南星は硬骨漢(こうこつかん)として知られ、官途についてしばしば要路の高官を攻撃して罷免されるが、その高官が失脚するごとにまた任用され、ついに吏部尚書にまで上った。しかし宦官の魏忠賢(ぎちゆうけん)に逆らって山西(さんせい)の代州(だいしゆう)へ流され、その地で死んだ。『笑賛』は七十二話から成る。本集にはそのうち三十六話を収めた。書名は、各話のあとにそれぞれ「賛」が付けられていることに由来する。その「賛」には硬骨漢らしい面影が見えるけれども、笑話そのものの興を削ぐという意味で蛇足だと思うので、本集では省いた。「賛」の一例を挙げておこう。「放生」と題して収めた一篇の「賛」である。
〈この雀は一瞬の間に二度も死に直面したが、結局生きることができたのは、そう定められていた天命だったのだろう。この僧は殺生をしようとするときにも念仏をとなえた。これは仏をそしったのである。殺生ができなくなっても念仏をとなえた。これは仏をあざむいたのである。こんな奴こそ地獄へ落すべきである。〉
詩文ではない「非文学」を俗文学というが、馮夢龍は明末のその俗文学界の第一人者で、宋以来の白話短篇小説から百二十篇を選んで『喩世明言(ゆせいめいげん)』『警世通言(けいせいつうげん)』『醒世恒言(せいせいこうげん)』(これを『三言(さんげん)』という)を編んだのをはじめ、『平妖伝(へいようでん)』『新列国志(しんれつこくし)』の編集校定、民謡を採録した『山歌(さんか)』、散曲を集めた『太霞新奏(たいかしんそう)』、逸話を集めた『古今譚概(ここんだんがい)』など、おびただしい編著がある。『笑府』もその一つで、中国笑話の集大成といってよかろう。およそ七百話。原典は中国では散佚し、わが国に残されている。本集にはそれらのうち、他書と重複するものをもふくめて二百二十余話を撰集した。ほかに同じく馮夢龍の撰といわれる『広笑府(こうしようふ)』があるが、約二百八十話のうち半ばは『笑府』と重なる。本集には他書と重なる話をもふくめて二十数話を選んだ。また『警世通言』の「荘子(そうし)休鼓盆(きゆうはちをたたいて)成大道(たいどうをなす)」からも数行を引いて一話とした。
清代には、陳皋謨(ちんこうぼ)の『笑倒(しようとう)』、石成金(せきせいきん)の『笑得好(しようとくこう)』、游戯(ゆうぎ)主人の『笑林広記(しようりんこうき)』の三書のほか、数種の笑話集があるが、先行の笑話集から取ったもの、あるいはそれを改作したものが多い。『笑倒』には改作した話の中にも独自な味わいのあるものが少なくない。約四十話のうち本集には十数話を選んだ。『笑得好』はその初集に七十七話、二集に九十話、あわせて百六十七話が収められているが、これまた先行の笑話と重複するものが多い。本集には約二十話を選んだ。原典には笑話のあとに短文の批評をつけ加えたものが多い。たとえば本集に「魔除札」と題して収めた、亡霊にとりつかれて人に助けられた道士の話は、すでに、『笑府』に見える話だが、『笑得好』には次のような短文がつけられている。
〈ある人が「魔除札があるのにどうして自分で救わなかったのだ」ときくと、道士はいった。
「お札は人を救うものであって、自分を救うものではありません」〉
また、本集に「四角」と題して収めた話もすでに『笑府』に見える話だが、『笑得好』には次のような短文がつけられている。
〈嘘というものは必ず見破られるものであるのに、どうして本人は気づかないのであろうか。〉
『笑林広記』に収められている話の数は八百を越える。その数は『笑府』をしのぐが、『笑府』その他の先行書と重複する話や改作した話が多い。また、淫猥な話も少なくないために下等の書とみなす人もいるが、儒者的官僚的な眼を以てすれば、もともと小説や笑話は非文学であり非文化なのである。だが、庶民の眼にはそのようには映らないはずである。洋の東西を問わず、コントはもともと艶笑的要素を持つ。
これらの中国笑話の中には、あるいはほとんどそのまま、あるいは巧みに換骨されて、江戸小咄や落語(その枕やさげ)になっているものが少なくないということは、読者のすでにお気づきになっているところであろう。
たとえば、さきに引いた「魔除札」は『うぐいす笛』(大田南畝(なんぽ)作。天明頃〈一七八〇頃〉)では次のような話になっている。
〈近所の山伏、狐にばかされ、田のくろにて馬糞を食ひ居けるを、つれ帰りて介抱しければ、やうやう正気つきけり。山伏、皆の者にむかひ、
「やれやれ、おかげでたすかりました。お礼に魔よけの札をあげませう」〉
つまり、ほとんどそのままである。また、本集で「突き抜ける」と題した『笑府』の話は、『間女畑(まめばたけ)』(天明頃)では次のような話に変えられている。
〈近所にきれいな若衆があつた。どうぞあいつを〓〓とつけ廻し、いろ〓〓だまし、とふ〓〓くどきおとし、
「そんなら痛くないやうにして。お前、面倒だあろふが、私は初めてだから」
といゝざま、うつむけになるかわゆらしさ。まづ中指につわをつけて、そろ〓〓入れていじり、モウよかろふと、つばきたつぷり付けて、ぬつと入れると、根までぬる〓〓ウと入ると、若衆、アイタヽヽヽといふ。びつくりして前へ手をやつて見ると、若衆がおやしているのをみて、
「なむ三、つきぬけた」〉(原文のまま。以下同じ)
換骨奪胎というべきだろうか。「牛の歳」と題して『笑府』『笑得好』から採った話は、『楽牽頭(がくたいこ)』(明和九年、一七七二)では更に換骨の妙を示して次のように語られる。
〈士、供一人召連れ、途中に死したる鼠あり。
「角内、この鼠を持つて参れ」
「ヘエあれは死んでおります」
「そりや知れたことさ。身どもは子(ね)の年じやから見のがしにはならぬ」
「ヘエ旦那、牛の年でなくつて、我ら仕合せ」〉
また、『笑林広記』から採って「開き乾し」と題した老人夫婦の話は、『さし枕』(安永二年、一七七三)では次のような百姓夫婦の話に変る。
〈百姓夫婦、野良へ出て、昼ごろ、退屈して休む中に、嚊(かか)が内股が見えると、俄に味な気になり、すぐに畠中で一幕。
さて、仕舞ふたが、拭くものがないので、
「嚊、どふしよう」
「仰のけになつて天道干にしませう」
「成程それでよい」
と二人ながら仰のけに成つて干し付る。
嚊はそのまま仕事にかかる故、
「もう干したか」
と問へば、嚊がいふよう、
「ととのは丸干だから干やうが遅い。わしのがは割干だから早く干し申した」〉
この『笑林広記』と『さし枕』との話のあいだには、朝鮮笑話がある。朝鮮にも数多くの漢文で書かれた笑話集が残されているが、その一つの『陳談録』に「曝行」(日向(ひなた)乾し)と題した次のような話が見える。
〈みだらな男女が、山かげのくぼみにかくれて事を行なった。やがて一つすんだが、あまりにもぬれているので、
「日に乾かしてから、もういちどしよう」
と男がいうと、女も、
「そうね」
といい、二人は肩を抱きあって両脚を開き、そこに日をあてながら並んで寝た。
しばらくすると、女が脚をのばしていった。
「わたしのは、もう乾いたわ」
「おれのは、まだ乾かんよ」
男がそういうと、女はうらめしそうに、
「わたしのは乾いたのに、どうしてあなたのだけ乾かないの」
「おまえのは中を割って干すから早く乾くのだよ。おれのは丸ごと干すから、おそいというわけさ」〉
中国笑話と江戸小咄とのあいだには、このように朝鮮笑話があることが多い。中国では亡んでしまった笑話でわが国に残っているものがあるように、中国で亡んでしまったものが朝鮮に残ったまま、わが国には伝わらなかったというものもあるようである。
寛延四年(一七五一)、岡白駒(はつく)編『開口新語(かいこうしんご)』が刊行された。中国笑話や軽口本の話を簡潔な漢文で書いたもので、百話の短い話が収められている。その体裁を示すために一話を挙げよう。
守夜人(ヤ バ ン)寒夜扣 テ二 各門 ヲ一 曰、切 ニ 警 メヨレ 火 ヲ 。一戸方 ニ 飲 レ 酒。乃請 テ 与飲 シム 。臨 テ二 辞去 ニ一 曰、唯府上之火 ハ 請 フ 自 ニセヨ 。
これは『百登瓢覃』(元禄十四年、一七〇一)の中の「番太郎」という話(落語「市助酒」の原話)を縮めて漢文にしたものであるが、この簡潔な形が江戸小咄に影響を与えて、『再成餅(ふたなりもち)』(安永二年、一七七三)の「火の用心」では次のように語られる。
〈寒風強き夜、番太が裏店を「火の用心さつしやりませふ〓〓」と鉄棒の音。ある家から、
「これ番太どの、ちよつと寄つて一ぱいすゝつてござらぬか」
「それは有難し」
と内へ入りみれば、ねぎぞうすい。日ごろは好きなり、御意はよし、寒さは寒し。二はいまで代へて食ひ、
「アイお忝(かたじけ)のふごさります。火の用心はお勝手次第になさりませ」〉
『開口新語』が出た翌年(宝暦二年、一七五二)、中国笑話の最初の紹介本が出た。松忠敦編『〓窓解頤(けいそうかいい)』で、『笑海叢珠』『笑苑千金』『諧〓録』の三書から五十話を抄出したものである。同書は寛政九年(一七九七)『開口新話(かいこうしんわ)』と改題して再刊される。
明和五年(一七六八)、『笑府』と題した二種の本が出された。一つは京都円屋清兵衛等の板で、『笑林広記』から二十五話を抄出したもの、一つは江戸須原屋半兵衛板で、『笑府』と『笑林広記』から八十話を抄出したものである。本集にその出典を「江戸須原屋半兵衛板」とした話が二話あるが、それはこの本に収められていて、現存の『笑府』『笑林広記』には見当らないことを示したのである。
この二書の翌年(明和六年)には『刪(さん)笑府』が、安永七年(一七七八)には『笑林広記鈔』が、寛政六年(一七九四)には『解顔新話(かいがんしんわ)』が、寛政八年には『即答笑合(そくとうえあわせ)』が、文政十二年(一八二九)には『訳解笑林広記』が出される。『刪笑府』には七十話、『笑林広記鈔』には三十二話、『解顔新話』には『笑林広記』から四十五話、『即答笑合』には『解顔新話』に八話を加えて五十三話が、『訳解笑林広記』には三百五話が抄出されている。
これらの和刻中国笑話集が、『開口新語』以来続出した漢文体笑話とともに、江戸小咄に影響を与えて行ったのである。
『笑顔はじめ』(天明二年、一七八二)はすべて中国笑話を種にして、二十九話のうち二十六話を安永七年の『笑林広記鈔』に拠って翻案し、そのまま江戸小咄の世界に溶け入っている。
本集を編むに当っては内外の先学の恩恵を受けたが、中国書のほかには、松枝茂夫氏編訳の『歴代笑話選』(『中国古典文学大系』第五十九巻、平凡社)と武藤禎夫氏編『江戸小咄辞典』(東京堂出版)に多くの恩恵を蒙った。
中国笑話集(ちゆうごくしようわしゆう)