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パラサイト・イブ2-4

时间: 2019-07-27    进入日语论坛
核心提示:       4 利明は、聖美の葬式があけた翌日から大学へ出勤した。普段と同じように、八時二〇分に薬学部の駐車場へ車を停
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 利明は、聖美の葬式があけた翌日から大学へ出勤した。普段と同じように、八時二〇分に薬学部の駐車場へ車を停め、八時半には自分の研究室に入った。
 まだ誰も来ていなかった。電気を点け、自分のデスクへと向かう。
 聖美が事故に遭ってからの一週間で、利明の机の上は業者が持ってくる新製品のチラシやパンフレットで溢れていた。新しいクローニングベクターやサイトカインの英文カタログなどは普段ならざっと目を通しておくのだが、今はそんな気分にはなれず、利明はそれらをまとめて机の横の棚に放り込んだ。
 そのとき、がちゃりと音がして研究室の扉が開いた。利明は顔を上げ、扉のほうに振り返った。
「………」
 浅倉佐知子が右手を口にあて、驚いた表情で利明のほうを向き、棒立ちになっていた。
 しばらくどちらも声を出すことができなかった。一瞬、気まずい空気が流れた。浅倉は口をばくばくと動かしながら、しかし何と話しかけたらいいのかわからないといったように視線をあちこちへ動かしている。
 利明は慌てて笑みをつくり、手を挙げていった。
「……おはよう」
 浅倉はそれにはっとして、それからようやく緊張を解いた。
「……おはようございます!」にこりと笑って軽く頭を下げてきた。
 ほっと室内の空気が和《やわ》らいだ。利明は長い間大学に来れなくて迷惑をかけたことを詫《わ》び、そして葬儀のときに手伝ってくれた礼をいった。
「そんなこと、ぜんぜん気になさらないでください」浅倉は微笑む。
「これまでのデータがどうなっているのか見せてくれないか」
 その言葉に、浅倉は表情を輝かせて頷《うなず》いてくれた。
 大抵の理科系学部では、学生は職員の下につき、その職員が研究しているテーマに沿って自分の実験をおこなう。薬学部でもそれに変わりはなかった。利明の所属する生体機能薬学講座には毎年十人の四年生が配属される。利明の講座には教授のほか助教授、講師がそれぞれひとりずつ、そして助手が二人おり、各々が分担して四年生を受け持つことになる。今年、利明は二人の四年生を担当していた。四年生は前期の試験も終わり、ようやく実験に集中できるという時期であった。ただし利明の受け持っている四年生はどちらも大学院への進学を希望しているため、八月に入ったら休みを取ることになる。大学院への選抜試験が八月の末日におこなわれるのだ。
 浅倉はそうした試験に合格して大学院に進学した学生だった。四年のときにたまたま利明が指導していたので、修士課程に進学してからも同じテーマで研究を続けていた。現在修士課程二年だから今年度で卒業である。すでに大手の製薬企業に就職が内定していた。あとは修士論文を書くためのデータを揃えるということになる。
「MOM19のレベルはやっぱり上がっていました」
 浅倉はマッキントツシュからプリントアウトした解析データを見せながら、ここ一週間の結果を利明に報告した。浅倉は四年生のときや修士一年のときはまだ実験の組み立て方がぎこちないところがあったが、最近は直感力と応用力がついてきて、随分と研究者らしくなった。結果を説明するのも順序だてて簡潔であり、利明はすんなりと理解することができた。
「あと、先生が遺伝子導入《トランスフエクト》した細胞、いっぱいになっていたんで継代しておきました。レチノイドレセプターを入れたやつです」
 何げなくいったその浅倉の言葉に、利明は少しひやりとしたものを感じた。
 あの細胞に浅倉は気づいたのだろうか。
 相槌《あいづち》をうちながら、利明は浅倉の顔を窺った。だがそのとき、研究室の扉が開いて四年生が入ってきた。利明がいるのを見つけてはっとする。
「おはよう」と利明は穏やかに声をかけた。それから四年生との話がはじまり、利明は浅倉に細胞のことについて探りを入れる機会を逸してしまった。
 最初の浅倉との挨拶がうまくいったためか、やがて出勤してきた講座の職員たちにも利明はぎくしゃくすることなく挨拶をすることができた。皆一様に頭を下げ悔やみの言葉を述ベてくれたが、湿っぽくならずにすんだ。
「そんなに急いで来ることはないんだよ。すこし休んだらいい」
 利明の講座の教授である石原陸男はそうもいってくれた。しかし利明は心遣いには感謝しながらもそれを振り切った。
「大学に来ていないと却って気がしずんでしまって」
「そうかい」教授は心配そうに眉《まゆ》を動かした。「あまり無理をしないでくれよ」
 その夜、講座の職員が帰宅した後、利明は何げないふりをして培養室に入り培養器《インキユベーター》の扉を開けた。
 中のステンレス板を引き出す。聖美の細胞を入れたプレートと培養フラスコが、昨夜と同じ状態で置かれていた。フラスコの上部には、利明の書いたEveという文字が見える。聖美の誕生日がクリスマス・イヴであったことを思い出し、細胞の名前としたのだった。
 聖美の肝細胞のプライマリー・カルチャーを始めてから、利明は毎夜ここへ来て細胞を眺めていた。午前の二時か三時、学生たちが帰ったころを見計らって自宅を抜け出し、この細胞に会いに来た。培養室に来ていることを悟られないように、利明は部屋の明かりを点けなかった。クリーンベンチの中の殺菌灯が部屋を青白く染めるなか、利明はじっと顕微鏡のレンズに両目を当て、フラスコの中身に見入った。
 夜中に暗い部屋でひとり顕微鏡を覗いている、そんな姿を怖いと聖美はいうだろうか。そのとき利明はふと思った。聖美はテレビドラマの殺人シーンですら目を背けたものだった。家の中にいる虫を捕るときは必ず困ったような声をあげて利明を呼んだ。そんな聖美に、利明は自分の実験を詳しく話して聞かせることができなかった。結婚してからもしばらく聖美は無邪気に研究のことについて尋ねてきた。利明は研究の大まかな流れやすでにデータとして加工された結果については喜んで教えた。だがラットを解剖したり、癌《がん》細胞や大腸菌を培養したりといった具体的な操作はなるべく伏せておいた。聖美が怖がるといけないと思ったのだ。ねずみに注射するというだけで聖美はおびえたのだ。帰宅するときも実験動物の匂《にお》いが体に残っていないか気をつけたものだった。
 だが、今は聖美自身の細胞がこうして培養フラスコの中にある。通夜のときなど、利明はアパートで枢《ひつぎ》に納められた聖美の顔を見た後にここへ来てEveを観察していたのだ。利明はそのとき奇妙な錯覚に囚《とら》われた。聖美が分裂してあちこちに散らばっているような気がした。
 そう、聖美は遺体と細胞だけではない。ふたつの腎がそれぞれベつの人間に移植されているのだ。
「残念ですが、移植を受けた方とはお会いできないことになっているんです」
 昨日、電話の向こうで女性の声はそう答えた。
 利明は言葉に詰まり、数秒間受話器を持ったまま沈黙してしまった。
「どうしてなんですか。お願いです、一度くらい……」
 利明の哀願を相手は制した。
「患者さんのプライバシーがありますので。申し訳ありません、当院ではドナーのご遺族のかたの患者さんへの面会はご遠慮していただいているんです」
 移植コーディネーターの織田から手紙が届き、利明は気持ちを抑えられなくなって市立中央病院へ電話をかけたのだった。手紙には聖美の腎臓がふたりの患者に移植されたこと、そのうち十四歳の女性のほうは術後も順調であること、臓器を提供してくれたことに皆感謝していることなどが丁寧な文章で書かれており、そして末尾になにか役に立てることがあればいつでも連絡してほしいと書き添えられていた。
 聖美の腎臓がまだ生きて動いている。誰かの体の中で蘇っている。そう思うと利明の心は疹《うず》いた。移植を受けた人物に会ってみたい、そしてできることなら聖美の痕跡《こんせき》をそこに見つけたい。
 しかし結局、利明は失望して受話器を置くほかはなかった。
 よく考えてみれば病院側の対応は妥当だった。ドナーの遺族とレシピエントとの接触を許可してしまうと、金銭関係のトラブルに発展するであろうことは想像に難《かた》くない。腎臓が生着しなかった場合、両者に精神的なしこりが生じる可能性もある。お互いの素性がわからないほうが、どちらもその後の人生で余計な心労を抱えずにすむ。
 だが、理屈ではそうわかっていても、利明は諦《あきら》めきれなかった。
 聖美の存在感が欲しかった。だがすでに遺体が灰になってしまった今となっては、この肝細胞を見るしか欲求を満たすことができないのだ。枢がなくなったアパートはあまりにも暗く、初夏だというのに冷たかった。
 研究室へ復帰しよう、そのときそう思ったのだった。仕事を始めればなにも夜中に大学へ行って細胞を見る必要はない。研究の合間にいつでも聖美に会うことができる。聖美と少しでも一緒にいたかった。
 利明はフラスコをインキュベーターから取り出し、顕微鏡の下に置いた。そしてランプのスイッチを点け、レンズに双眼を近づけていった。
 左手の中指でくるくるとつまみを回し、ピントをあわせる。たちまち細胞が姿を現した。細胞は突起を出して星状になり、フラスコの底面に付着している。視野の中には十数個の細胞が敷き詰められていた。利明は台座を動かし視野を左右に振ってフラスコ全体の様子を確かめた。プライマリー・カルチャーをおこなうのに必要な成長因子を幾つか培養液の中に加えていたので、Eveは具合が悪くなることもなく生き生きとした状態を保っていた。
「………?」
 し七ばらく細胞の様子を見ていた利明は、奇妙なことに気づいて目を凝らした。
 細胞が増えている。
 普通、肝細胞は癌細胞と違い、さほど増殖するわけではない。必要なときに必要なだけ分裂する制御機構が働いている。この制御が効かなくなったのが癌細胞だ。したがって癌細胞をフラスコで培養すると、栄養分である血清さえ与えてやれば数日後にはフラスコ一杯にまで分裂、増殖してしまう。さらに培養を続けるためには細胞をフラスコからいったん取り出し、そのうちのほんの少しを戻してやるという間引きが必要になってくる。これを継代《けいだい》という。しかし増殖能力がもともと弱い肝細胞を培養する場合、血清のほかにわざわざ増殖を促進するような因子を培養液の中に入れてやって細胞が死なないようにするのである。それでも肝細胞は癌細胞のように勢いよく分裂、増殖を繰り返すわけではない。長くても数週間後には死滅してしまうのが普通である。
 それが、この細胞の場合は違っているのだ。
 細胞の敷き詰められかたが一様ではなく、群島のように密集しているところとまばらなところがあった。細胞が増殖したときにしかこのような形態は取らない。今まで気づかなかったのは迂闊《うかつ》だった。増殖の速度は日を追うごとに速くなっているようである。混在していた繊維芽細胞が増殖したのではないかと細胞の形を再確認したが、まぎれもなく肝細胞であった。
 利明は別のフラスコやプレートの細胞も点検してみた。いずれも確実に分裂増殖していることがわかった。プレートのウェルの中はすでに細胞でひしめいていた。継代をしないと細胞は死んでしまう。
 これはおもしろいかもしれない、と利明は思った。
 通常の肝細胞でありながら、このEveはコンスタントに癌細胞並みの分裂増殖をする細胞なのだ。癌関連遺伝子が異常をきたしている可能性がある。しかし聖美の肝臓が癌に冒されていたとは考えられないから、極めて珍しいタイプの細胞が得られたことになる。いままで報告されたことのないようなユニークな突然変異が細胞内で起こっているに違いなかった。細胞株の樹立も容易なはずだ。
 利明は早速クリーンベンチのランプを点け、ガスバーナーを焚《た》いた。トリプシンと培地を冷蔵庫から取り出す。15cc用のチューブを包装ごとクリーンベンチの中に放り込んだ。最後に細胞の入ったプレートを静かに置く。
 利明はベンチの前に座り、細胞を回収しはじめた。この細胞をクローニングする必要があった。急速に利明はEveに興味を惹《ひ》かれていっていた。<ミトコンドリア>という自分の研究テーマに利用できるかもしれないのだ。利明の頭のなかでめまぐるしく疑問が交錯していた。ミトコンドリアの形状に変化はあるのだろうか。β酸化系酵素は誘導されているのか。レチノイドレセプターの発現はどうなのか。EGFレセプターのリン酸化は亢進《こうしん》しているのか。もしミトコンドリアが変化しているのであれば、それは細胞の増殖と関係があるのか。あるとすればそれはいったい何故か。
 聖美の顔が目に浮かんだ。
 聖美は笑っている。明るい笑顔だった。大きな瞳《ひとみ》、優しい曲線を描く眉、口紅を注《さ》さなくても淡く桃色に光る唇、柔らかな頬、それらが笑うと輝いてみえた。利明は聖美の笑顔が好きだった。ころころとした心地よい声が聞こえてきそうだった。
 初めて聖美と会ったときのことを利明は思い出した。聖美は慣れないビールを飲んで少し赤くなっていたが、それでも笑顔の可愛らしさは失っていなかった。そのとき利明は自分の研究についてつい饒舌《じようぜつ》に話してしまったが、聖美は興味深げに聞いてくれた。それは付き合い始めてからも変わらなかった。相手のことをよく知りたいと思う聖美の純粋なところにも利明は惹かれた。だが一方で、聖美は実験に淡い嫉妬《しつと》を抱いているようでもあった。実験があるので帰りが遅くなるというと寂しそうな声を出した。それを不欄《ふびん》にも思ったが、しかし利明は聖美にどうしても伝えられないもどかしさを感じた。聖美を愛することと研究に打ち込むことは全く次元の違うことなのだ。どちらを取るかという問題ではない。研究は自分にとってなくてはならないものなのだということを、結局最後まで聖美は理解してくれなかった。
 だが、今は聖美と実験がひとつに融合している。
 利明は奇妙な感慨を覚えた。この細胞を研究対象にすることで、同時に聖美と共にいることができる。
 細胞の限外希釈をおこないながら、利明は全身に微熱が湧き起こっているのを感じていた。聖美が自分の体に呼びかけてきているような気がした。レシピエントに会えなくとも、この細胞がある。この細胞を扱うことで自分は聖美と繋がることができる。
 大事に育ててやらなければならない。一日でも長くこの細胞の生命を延ばし、そして有意義なデータを出すのだ。そうすれば聖美もきっと喜んでくれるに違いない。結婚後も自分は遅く帰宅し、充分に聖美と接してやることができなかった。その分の愛情をこのEveに注ぐのだ。そう利明は決意し、次のプレートに取り掛かった。
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