利明は五時一〇分前にその発表会場へ足を向けた。暗い室内ではまだ学生らしい男性がスクリーンの横に立ち、大きな声で説明を続けている。百席ほどの椅子が並ベられており、そのうち三分の二が聴衆で埋まっていた。
学会は多くの発表が同時刻に並行しておこなわれる。このような小さい会場が十ほど設けられており、それぞれがひとつのテーマに関する演題をまとめている。聞き手は幾つもの発表会場の中から最も自分が興味あるテーマを掲げているところへゆき、演題を聞くという仕組みになっている。したがってシンポジウムや著名研究者の講演会などのように多数の聴衆を集めるものは大ホールでおこなわれるが、大多数の研究者はこのような会場で本当に興味を持って聞いてくれる数十人の研究者を相手に発表をすることになる。
室内をぐるりと見渡すと、左の中程に見慣れたソバージュの後ろ姿が見えた。利明は聴衆のじゃまにならないよう頭を低くしながら歩いてゆき、ソバージュの横に座った。
「先生」
浅倉佐知子が小さく声を上げた。
「準備は万全だな」演者に対して失礼にならないよう声をひそめていう。
「すこし緊張してます」
「大丈夫だよ」
室内が明るくなった。発表が終わったのだ。利明は前方に視線を戻した。
「ありがとうございました」向かって右側に座っている司会者がいう。「それではいまの発表に対して、ご質問等ございましたら……」
後ろのほうで誰かが手を挙げる。司会者はどうぞというように手で指した。
利明は浅倉の表情を窺《うかが》った。質問者と演者を交互に見ている。確かに自分でいうとおり緊張した面持ちだった。だが利明はさほど心配する必要もないだろうと思った。利明も初めての発表のときは直前まで体がこわばっていたものだが、いざ発表が始まると肩の力が抜け、予想以上にうまく喋《しゃべ》れたのを覚えている。浅倉も練習のときは完壁《かんぺき》だったから、きっとうまくいくだろう。そう考えていた。
壇上に立っていた演者は少し危なっかしいところも見せたが無難に質問を切り抜けていった。二、三、質問が出たところで司会者が会場を見渡していった。
「えー、よろしいでしょうか。それでは時間ですので、次の演題に移らせていただきます。次は、名古屋大学理学部の……」
最前列の左端に設けられた次演者席に座っていた男性が立ち上がった。その次が浅倉となる。
「いってきます」
少し堅い笑みを浮かベて浅倉が立ち上がった。
「バッグは持っていてやるよ」
浅倉は頭を下げ、原稿を手に次演者席に向かった。
再び場内が暗くなる。次の演者が説明を始めた。
利明はそっと会場を見回した。何人か講座の学生が集まっている。浅倉の発表を聞きにきたのだろう。
ぽんと後ろから肩をたたかれた。
篠原だった。利明の後ろの席に座る。利明は会釈を返した。
「石原先生は?」篠原が訊く。教授の姿が見えないのに気がついたのだろう。
「懇親会があって、そっちに行ってますよ」
「まいったな、まだ挨拶してないんだ」
演者の説明が続く。浅倉はしかし、自分の原稿に目を落としており発表を聞いている様子はなかった。無理もない、と利明は思った。いくら覚えているとはいえ、直前まで原稿は確認したいと思うものだ。
やがてその演者も発表が終わり、いよいよ浅倉の番になった。司会者が浅倉の所属と名前、そして演題を告げる。浅倉が立ち上がった。
「お弟子さん、綺麗《きれい》になったじゃないか」
篠原がうしろで感心したように声を漏らした。
利明は浅倉の顔を見て、おやと思った。利明の横に座っていたときまでの緊張した表情が消えている。そのかわり自信と力強さが全身から漂っていた。まるで要職に就く人間が人々の前で演説するときのようだ。
浅倉が演者席に立った。顎《あご》をわずかに突き出し、利明たち聴衆に威厳を示すようにしてゆっくりと場内を見渡した。
なにかがおかしい、そう思った。
司会者が促す。「それでは、どうぞ」
浅倉は静かに頷《うなず》き、そしてマイクを持って第一声を発した。
「——ついにミトコンドリアが解放される日がやってきました」