安斉が目を開けた。辺りが静まり返ったことに気づいたようだ。利明の腕の隙間からおずおずと様子を窺う。びくり、とその体を突然震わせた。それが利明の腕にも伝わる。それの姿を見て驚いたのだろう。
しばらく安斉は硬直していたが、はっと体を起こし、
「麻理子」
と眩いた。
利明が叫んだときには安斉は腕をくぐり抜けていた。麻理子の名を叫び剖検台へと駆け寄ってゆく。
「やめろ」
利明の制する声よりもはやく、その生命体が安斉を睨んでいた。
その瞬間、安斉の体が消えた。同時に利明の後ろから大きな音が聞こえた。
なんだ?
振り返る間もなかった。何かがばらばらと頭上から落ちてくる。利明は悲鳴を上げて頭を屈めた。
利明の背後でどさっと鈍い音がする。おそるおそる後方に視線を向けた。
安斉だった。安斉が身を屈め丸くなって床に倒れていた。こめかみの当たりから血を流している。その体へばらばらと白い粉が降ってきた。あわてて頭上へ目をやる。壁の上、ほとんど天井に近い所にひび割れが蜘蛛《くも》の巣のように走っていた。安斉の体がそこへぶつけられたのだとわかるまでに数秒かかった。
安斉が微かに呻き声を上げる。立ち上がれないようだ。利明は呆然としてそこに立ち竦《すく》んでいた。
視界の隅で何かが動いた。顔を上げる。吉住だった。壁に設置された警報機へと脱兎の如く走り出す。
だが相手はその行動を読んでいた。吉住が警報機へと手を伸ばしたそのとき、大きく口を開け短く吼《ほ》えた。
吉住が絶叫した。ぐにゃりと腕がねじれる。その直後吉住の体が一回転していた。頭から床へ落ちる。ごきりと堅い音が響いた。
それは唇を歪めて笑った。吉住を脾睨《へいげい》する。吉住の体がじりじりと宙に浮き始めた。
それは笑みを浮かベたまま吉住の体を弄《もてあそ》び始めた。空中でくるくると回し、手足を操り人形のように動かす。吉住の悲鳴が切れぎれに聞こえる。自分が何をすることができるのか、ひとつひとつ確かめていっているようだった。それは次第に眸を輝かせ、吉住の体を四方の壁にぶつけはじめた。吉住の服がみるみるうちに血で黒く染まってゆく。ぐったりしたのを見ると、それは空中で吉住の体を逆さまに吊るし、一気に叩き落とした。吉住の頭が床につく直前でそれを止め、上に持ち上げる。それを何度も繰り返す。まるでおもちゃを嬲《なぶ》るようだった。
「やめろ!」
利明は思わず叫んでいた。
それがゆるりと視線を向けた。
利明は硬直した。完全に呑み込まれていた。目を逸らすことができない。足が動かなかった。口の中が乾いてゆく。どこかでどすんと音がした。吉住が落ちたのだ。だがそちらに顔を向けることができなかった。
それがにやりと笑った。
突然、部屋のあちこちから声が聞こえてきた。
喘ぎ声だった。ひとりやふたりではない。数人いる。合唱のように大きくなってくる。
利明は愕然とした。
聖美の喘ぎ声だった!
利明だけしか知らないはずの声だった。絞り出すような切なく甘いあの声、利明の耳の奥底に眠っていたあの声、利明の行為ひとつひとつに敏感に応えたあの声、聖美の喘ぎ声、妻のあの声が轟音となって響き渡る。利明は部屋の中を必死で見渡した。誰が、誰が聖美の声を上げているのか。利明の頭の中に洪水のように聖美の姿が溢れ出てきた。聖美のすベての表情が、すべての仕草が、怒濤となって押し寄せてきた。笑顔を浮かべる聖美、眉をひそめる聖美、涙を浮かべる聖美、静かに思いにふける聖美、そして利明に抱かれたときの聖美、何十、何百、何千もの聖美が脳髄に溢れていった。
「ああああ!」
利明の目がそれを捕らえた。
床に転がっている裸の男の死体が、口をぱくぱくと開け聖美の声でよがっていた!
それだけではなかった。緑の手術衣を来た男たちが、向こうで、横の壁で、利明の左で、それぞれ白目を剥いたまま喘いでいる。男たちは皆死んでいた。死体が聖美の切ない声で大合唱を続けている。
利明の頭の中が錯乱《さくらん》を始めた。耳に届く聖美の喘ぎによって、本当にいま自分が聖美を抱いているような錯覚に陥りつつあった。あっあっと細かく聖美が悲鳴を上げれば自分は聖美の乳首を吸いンんんと口を閉じたまま喉を鳴らすときは脇腹と背中に舌を這わせ鼻に抜けるような声であれば首筋と耳の裏を嘗めすすり泣くような喘ぎは聖美の股間に刺激を与えあああとはああの間の声を繰り返し叫ぶときは利明は聖美の体の内に入り聖美を強く抱き締め何度も何度も口づけをしそして大きく動き聖美の内部を激しく擦りそのときの聖美の乱れた肢体そして聖美の表情が網膜に鮮やかに投射されそしてそれが腸をどろりと出して倒れている白い死体と重なるいつの間にか死体が立ち上がっていた手術衣の者たちもぐらぐらしながら起き上がりそしてこちらに近づいてくる利明の方に歩いてくる今自分が抱いているのは聖美だその声を上げているのは死体だ聖美は死体だった死んでいたそれなのに感じて声を上げている抱かれているわけがわからなかった自分はいま何を抱いているのだろうかこの冷たい感触は何なのか腕に絡み付いているのは腸ではないのか聖美の腸なのか自分は死姦しているのか脳死になった聖美の体に挿入しているのか聖美の喘ぎが大きくなる聖美は感じている聖美は聖美は聖美は聖美は聖美は聖美は
「やめろやめろやめろやめろやめろやめろおおおおおおおおおおオオオオオオー」
声が止んだ。
ばたばたと死体が倒れた。それらは瞬時にして換発《かんぱつ》し溶けてゆく。湿った音が微かに立つだけで焔さえあがらなかった。Eve1が発した熱とは比べものにならないほどの強烈さだった。
安斉が剖検台の麻理子にすがりつき大声を上げていた。がくがくと麻理子の体を揺すり必死で声をかけている。麻理子は目を大きく見開いたまま、安斉の呼びかけに全く反応しない。安斉は半狂乱になって麻理子の名を叫び続けた。
そんな安斉の姿に、それが凍った視線を送っていた。
いけない。
利明は声を上げた。
だが遅かった。それは安斉を睨みつけると首を軽く振った。安斉の足が宙に持ち上がる。再び壁へ叩きつけようとしているのだ。
安斉はもがいた。麻理子の体にしがみつき離れようとしない。安斉の下半身は完全に宙に浮き水平になってしまっている。だが安斉は麻理子の名を叫び娘を抱き締め続けた。
それは眉間に皺を寄せた。
安斉は無理やり麻理子から引きはがされた。安斉の体は利明の頬をかすめ、どおんという音とともに壁へぶつけられた。だが今度は床へ落ちない。大の字になったままうつ伏せの格好で壁に張り付いている。顔が壁に押し付けられている。安斉は目をつぶり顔をしかめていた。それが圧力をかけているのだ。
不意に利明の体にもどんと力がかかった。悲鳴を上げる間もなく利明の体も壁に圧しつけられる。凄まじい力だった。指を立てることもできない。頬の肉が歪みもう一方の頬につきそうだった。瞳が開いたまま瞬きをすることができなくなった。
やめろ。
やめてくれ。
その声を出すことはできなかった。圧力で舌を動かすことができないのだ。開いたままの利明の眸にそれの姿が映った。それはゆっくりと利明たちのほうに歩み寄ってきた。途中、ちらと床に視線を投げ、ずぶずぶの状態になったEvelに笑いかけた。油状の塊は汚らしい音を立ててそれに応えた。それがにこりとして利明たちのほうに向き直った。
<来るな>
利明は心の中で叫んだ。圧力はますます強くなってくる。臓腑が無理によじれ燃えるように熱い。頭蓋がぎりぎりと軋んでいる。喉がつぶれ息をすることもできない。全身から火花が飛び散っているようだった。相手は利明たちなど殺すのはたやすいはずだ。現に手術医たちの死体を一瞬のうちに消失させてしまっている。利明たちを弄んでいるのだ。より高等な生物が下等な生物を甚振《いたぶ》るのと同じように、あたかも人間の子供が蟻を捕まえその首や足を切断して胴体がもがくのを楽しむように、それは利明たちを嬲《なぶ》っているのだ。それに対して全くの無力である自分が許せなかった。命乞いをするしかない自分が許せなかった。
意識が朦朧としてくる。重力で押し潰《つぶ》されそうだった。視界が赤く濁った。眼の裏から血が溢れ始めたのだ。体の中で何かが鈍い音を立てて破裂するのがわかった。熱いものが体中に広がってゆく。だが利明は必死で叫んだ。それに向かってぶつけるように来るなと叫んだ。
|パパ《、、》……
ぎくりとした。
声が聞こえた。耳に入ってきた音は形容しようのない唸り声だった。だがそれは利明の頭の中で日本語に変換されていた。それが放った言葉だった。それは利明のことをパパと呼んできた。利明はぞっとした。赤く染まった視野の向こうに立つそれを、利明は見つめた。
それは凄まじい微笑を浮かべた。
利明は全身で絶叫した。自分がそれを見たということが信じられなかった。体のあちこちで血管が破裂してゆくのがわかった。体中がばりばりと音をたてる。利明は自分が気が狂うと思った。その微笑が瞳に焼き付いてしまっていた。瞼を閉じようと思っても閉じることができない、叫んでその光景を掻き消そうと思ってもできない。凄まじいとしかいいようのない微笑だった。耐えられなかった。その微笑を留めたまま生きてゆくことはできないと思った。はやく殺してくれと利明は願った。いますぐこの体を潰してくれ。
そのときそれが顔を歪めた。