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間もなく、庭先へあらわれた老婆は、まさに、弥勒寺《みろくじ》門前で〔笹や〕という茶店を出しているお熊婆ぁであった。〈中略〉
「おい、銕つぁん。むかしなじみの、このお熊を庭先へ通すとは、あまりに|むごい《ヽヽヽ》仕うちじゃぁねえかよ。むかし、お前さんが勘当《かんどう》同様になって屋敷を飛び出し、本所・深川をごろまいていたころには、毎日のように酒をのませたり、泊めてやったりしたのを忘れたのかえ」
あたりかまわぬ声を張りあげたものだ。
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[#地付き]「お熊《くま》と茂平《もへい》」
お熊婆さんは「天動説の女」だ。万物は惑星であり、すべては自分を中心にまわっていると考えている。ゆえに、この老女の辞書には「配慮」とか「遠慮」とか「熟慮」といった文字はない。ところが、まわりの人間たちはそのことを疎《うと》ましく思うどころか、むしろ好意的に捉えて愉しんでいるかのようだ。
「人のつきあいにおいては、われわれは長所よりも短所によって人の気に入られていることが多い」
と喝破したのは箴言家《しんげんか》のラ・ロシュフコーだが、わたしたちの多くもまた「隙《すき》のない人間はつまらない」と思い、心の奥底では、それを嘆く愉快さも含めて、気質上の短所には親近感をおぼえて好意を寄せているのではないか。
性格上の欠点や短所を矯正できれば「ちっぽけな自分」を感じなくて済む──安易にこう考えて、昨今、自己啓発セミナーとやらに足を運ぶ人がけっこういると聞く。じっさいそうしたセミナーに参加したある女性は、目に力がこもり、声なんかやたらにでかくなって、しきりに「世界がちがって見えるようになった」とその変貌ぶりを誇示するのであった。
へえ、こんなふうにお手軽に「これまでとはちがう自分」に出会えるものなのか。人間も品種改良とか促成栽培ができるとは知らなかったなあ……。と、それも束の間、ひと月もするとやはり以前の彼女に戻ってしまっている。いや、以前よりも元気をなくしてしまったようにさえ見えた。あたかも悪い液体を含んだシラス台地のようにグズグズと崩れていくような印象さえ与えたのであった。
気質という地金《じがね》の部分にいくら自己啓発という名の興奮剤を注入したとしても、もって生まれついた「らしさ」はおいそれとは変えられないようだ。いや、むしろ虚構の自信を与えることで、かえって新たな不安を生んでしまうことが多いのではないか。いやいや、そもそもわたしたちの不幸は、自分以外のものになろうとすることからはじまるのではないか。
人は年月をかけて身につけた「他人の目に映る自分」からはなかなか自由になれないようだ。どんなに努力しても「等身大の自分」からは容易に逃げだせないらしい。だとしたら、「自分」という人間をずっと引き連れていくしかないのだと潔く開き直ってしまったらどうか。気質上の短所のことはいっさい気にせず、長所を伸ばすことだけ考えるのだ(人と接するときには、相手の短所は気にかけないようにして、長所とだけつきあうのがよい)。長所が目立つようになれば、不思議と短所はそれに反比例して小さくなり、やがて人生に妙味を加えてくれる香辛料のようなものになる。いや、思い切って、短所はかならず長所につうじるものだと考えてみてはどうだろうか。
ちなみにお熊婆さんの長所は、誰に対しても気さくなこと。それから、何があってもウジウジめそめそしないことである。