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「ところで、細川」
「は……?」
「明日は非番じゃそうな。ゆるりとやすむがよい。そして、明後日から、お前は勘定方《かんじようかた》をやめ、わしと共に市内見廻りをしてもらおう」
「そ、それは、あの、まことでございますか?」
「お前に嘘をついたところで、わしは一文《いちもん》にもならぬ」
「か、かたじけのうございます」
細川峯太郎はよろこびいさみ、両手をついた。
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[#地付き]「草《くさ》雲雀《ひばり》」
勘定方同心・細川峯太郎は若輩者であった。誘惑に陥りやすく、意志も薄弱である。
だが、組織のなかで鍛えられていくうち、成熟した大人としてのふるまいができるようになった。そんな細川に、待望の外廻りの役目が申しつけられたのだ。聞けば、入れ替わりに勘定方になるのは、腰痛に悩む高齢の岳父《がくふ》だという。細川は平蔵の粋なはからいに、ひたすら深謝するのみであった。
小生、その挿話に「日本的経営」の原点を見てとり、戦後日本の復興に思いを馳せるのであるが、読者諸氏のなかにも同じ思いに駆られた人がいるのではなかろうか。
昨今、不況のあおりで「リストラ」という名の解雇があちらこちらで行なわれている。そうしたなか、「日本的経営はもはや破綻した」などという考え方が支配的になっているようだが、まったく事実誤認も甚だしい。不況の原因は日本的経営にあったわけではまったくない。
もとより「利潤優先」という資本主義の基本原理を考えた場合、年功序列や終身雇用が徹底を欠くのは当然である。がしかし、日本的経営とは、年功序列や終身雇用に象徴される経営形態をいうのではなく、長期雇用がもたらしうる人格|陶冶《とうや》と年功評価をいっていたはずだ。多くの人間が長く組織にかかわることで、若輩者が鍛えられ、功労者がいたわられてゆくシステムこそが日本的経営なのである(そもそも年功序列制度は、戦後の高度成長期にのみ見られた一時的な現象で、戦前の日本にはなかったし、また資本主義が存続する限り、今後も存在しえないであろう)。
それがいつのまにかごっちゃにされて、世界に誇るべき日本的経営が苦しい立場におかれている。
冷静になって考えていただきたい。日本的経営を捨てるとは、すなわち組織のなかでの訓練と成長を手放すということであり、そこで働く人間を交換可能なモノと見なすことである。それでいいのか。断言するが、これは日本的経営の功績と将来の可能性に想像力を欠いた観念的蛮行である。惚れ惚れするようなバカっぷりといってもよい。
人間をモノと見なす組織が存続しえないことは、中学生でもわかる人間論であり組織論である。日本が日本的経営を捨てたとき、ほかにどんな雇用形態を選択するというのか。人を徹底的にモノ化するシステムをつくるとでもいうのだろうか。
「たわけ!!」
日本的経営は破綻したなどとほざいている経営者や経済学者に、平蔵ならこう大喝するであろう。
「青二才どもめが。愚かなことをしよって。日本的経営があればこそ、いまの日本と日本人があるのだ。人格陶冶を手放した組織に未来があるものか」
平蔵の怒りの声が聞こえてくるようだ。