[#ここから5字下げ]
「でも……」
「でも?」
「何となく……」
「どうした?」
「この家《うち》が、いまでも、何処からか見張られているような気がしてなりませぬ」
「そりゃあ、おまさ。お前の、おもいすごしだよ」
と、横合いから口をはさんだ忠吾が、
「きさまは、唖《おし》になっておれ!!」
平蔵から叱《しか》り飛ばされ、|くび《ヽヽ》を竦《すく》めた。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]「鬼火《おにび》」
人間は保身のためには努力を惜しまない生きものだ。
たとえば、高収入を得ている人に税金の話をしてみるといい。彼らは間違いなく「所得への累進課税は不当で、消費税でそれを補うべきだ」と主張する。累進課税を引き上げよと唱える者は誰一人としていまい。同様に、資産を多くもっている人は「相続税は高すぎる」と声高に主張するのであって、相続税の税率をもっと引き上げよと叫ぶ者など誰一人としていないであろう。そして、いずれの場合においても、「これはけっして自分の利益のためにいっているのではない。社会全体のことを考えて述べているのだ」との言葉がつけ加えられる。
人は利害がからむ当事者となれば、どんなに「いい人」であっても自分にとって都合のよい見解に味方しようとするものだ。それはそれで仕方のないことだ。だが、エゴを剥《む》きだしにして保身そのものを目的にしてしまうと、人は見苦しいほどに自己を分裂させてしまうようだ。
ひとつ身近な例を引こう。たとえば会議と名のつくものにでてみるとよい。自己顕示欲で質問する者、じっと黙って頷いてばかりいる者、考えているふりをしながら居眠りしている者のほかに、大勢を占めそうな意見の尻馬に乗って囀《さえず》りまわるスズメが数羽かならず顔をだしている。庇護を求めて群がるこうした腰巾着たちの発言を聞いていると、意見とは名ばかりで(「意見」は近世までは「異見」と書いていた。こちらのほうが意味がはっきりしている)、ほとんどが強者のヨイショに終始していることがわかる。寄らば大樹の蔭とばかりに、長いものにはみずからすすんで巻かれにいくのである。彼らの賛否の判断は、「何をいったか」ではなく、「誰がいったか」によってなされる。内容がどのようなものであれ、「あの人のいったことだから」という理由でことの是非を判断してしまうのだ。
地位や立場の高い者のいうことがつねに正しいかといえば、誰もが知るように、むろんそうではない。が、鼻息を窺《うかが》う者たちは、「仕える身の上だから」という大義名分のもと、間違っていることを承知のうえで上位者の意見や思いつきにとことん同調しようとする。ちょっとした造反もしないのだ。
「課長がいわれましたように、日本的経営なるものは前近代的な遺物でありまして……、とは申しましても、先ほど部長がおっしゃったように、和というものは大事でして……」
こうしてスズメは舌を小さく切り分けていくうち、何枚もの舌をもつ醜い風見鶏へと成り果ててゆくのだ。
人はぶらさがること、なびくことによって矜持《きようじ》を失っていく。勇気のないことは仕方ないことだが、自分の意に沿わないことを繰り返していると、人はだんだん卑怯になっていく。相手によって自分の意見を変えているうち、人はかならず卑屈さを身につけるのだ。だから忠吾よ、少しはおまさを見習いなさい。