ヨークタウンの艦長バックマスターが、「総員退艦」の命令を発したのは、正午に近かった。橋本隊の攻撃から二十分そこそこである。いかに、浸水と傾斜が急速であったかを示しているが、それにしても、アメリカの総員退去は、いかにも早い。ヨークタウンは、このあと、傾斜したまま漂流していたが、翌々七日朝十時、田辺《たなべ》弥八艦長の伊号百六十八潜水艦から二本の魚雷をうけ、その後間もなく沈没した。(米側の資料では、八日午前二時まで浮いたことになっている)
してみると、バックマスターの総員退去は、四十六時間あるいは、六十二時間早かったことになる。(彼はキャプテン・ラストの原則に従って、沈没の直前まで艦に居残って、防水と本国への曳航に努力しているが)
これは、日本とアメリカの兵器に関する考え方の違いを示すものであろう。日本では、すべての兵器は天皇陛下より賜わったもので、軍人精神の在り方を示すものである。アメリカでは、兵器は大小にかかわらず、戦闘のための用具に過ぎない。故障したら、満足なものに切り換えればよいのである。空母としての機能を失った艦に、いつまでいても仕方がない、というのが、アメリカのプラグマチックな考え方のようである。
ヨークタウンで、総員退艦が下令された正午ごろ、米巡洋艦から発進した索敵機が、日本の第四の空母飛竜のありかをつきとめ、エンタープライズに打電した。この電報は、巡洋艦アストリアに移乗していたフレッチャー提督にも届いた。
「そうか、NO・4がみつかったか……」
フレッチャーは、電報を手にとると、しばらく沈黙した。彼は第十六、十七機動部隊の先任司令官であった。しかし、ヨークタウンは傾斜し、すでに戦闘不能に陥ってしまっている。海戦の最後の決は、珊瑚海生き残りの航空部隊専門の司令官であるフレッチャーの手にではなく、十日前までは、護衛の巡洋艦隊を指揮していた航空戦のアマチュアであるスプルアンスの手に握られているのである。
洋上に停止したヨークタウンを遠望しながら、フレッチャーは、肩を落とし、息を一つ洩らした。
エンタープライズの艦橋は活気づいて来た。
「ラスト・ワンですな、提督……」
艦長のマレー大佐が、スプルアンスにほほえみかけた。
「うむ……」
うなずいたスプルアンスは、双眼鏡で西の方を見た。十五マイル西方のヨークタウンはまだ黒煙をふき上げていた。彼はヨークタウンが、二回の攻撃——一回は爆弾で、一回は魚雷で——を受けたことを知っていた。二日前、ヨークタウンとエンタープライズは、ラッキー・ポイントでのランデブーを祝い合ったのであるが、いま、僚友のヨークタウンは、その祝福から見はなされようとしていた。スプルアンスは、自分の足を見た。飛行靴をはいていた。航空のアマチュアである彼が、航空屋に入門した、唯一の、それが証拠品であった。責任は重い……。しかし、スプルアンスは計算していた。ヨークタウンに対する二度の攻撃が、敵のラスト・ワン・ヒリュー型からのものとすれば、ヒリューの次の攻撃までには、少し間があると考えてよい。その間にこちらは、出来るだけのドーントレスをかき集めればよい。
スプルアンスは、ブロウニング参謀長と相談して第十六機動部隊の戦力を集計した。エンタープライズのマクラスキー隊は、十一機のSBDドーントレスが使用可能であった。ヨークタウンから着艦したマックス・レスリー隊の十四機が健在であった。そして両隊共、マクラスキー少佐は肩を撃たれて病室に、レスリー少佐は、着艦を待っている間に海面に不時着し、今は駆逐艦の上にいた。
この二十五機をエンタープライズ攻撃隊として、マクラスキーの部下のアール・ガラハー大尉が指揮することとなった。
午後零時半、ガラハーは二十五機をひきいて発艦し、西に向かった。現地時間では、午後三時半であり、太平洋は夕刻に近かった。発艦後、一機が引き返し、計二十四機となったガラハー隊のドーントレスは、断雲に夕陽が映える海上を、高度をとりながら、西に向かった。この時点において、エンタープライズと飛竜の距離は百マイル(東京—静岡間)である。発見にいくらか手間どるとしても、一時間半見ておけば十分の距離である。
スプルアンスは、まぶしい夕陽を掌でさえぎりながら、マレー艦長と共にガラハー隊を見送った。彼はまだ怯《おび》えていた。どこからともなく、ヒリューのダイブ・ボンバー(急降下爆撃機)が現われて、彼のエンタープライズとホーネットを、ヨークタウンのように火の入ったバケツにしてしまうことをおそれていた。
ホーネットでは、猛勇をもって鳴るマーク・ミッチャー艦長が、いらいらしていた。彼が愛したウォルドロンの雷撃隊は全機が未帰還で、全然、消息がわからない。リング少佐のひきいた爆撃隊は、敵を発見しそこなって、ミッドウェー島に不時着していた。
——この大切なときに、一機も攻撃隊を出せないとは——。
トーキョー空襲でトージョーの心胆《しんたん》を寒からしめた、栄光あるホーネットの恥だ。彼は、有名なひさしの長い特別あつらえの戦闘帽をとり、窓のへりを叩いて憤慨した。
「神よ、我を見捨てたもうか」
彼は、滅多にお祈りしたことのない神様をひきあいに出して、己《おのれ》の不運を嘆いた。そのとき彼は、かすかな爆音を聞いた。蠅のとぶ音に似ていた。
「おい、みんな静かにしろ」
一同を制したとき、
「右前方に編隊……」
と見張員が告げた。
「対空戦闘!」
ミッチャーは、まず、そう下命した。ラスト・ワンのヒリューからの使者が、今度はこちらに現われたのか、そう思って体を堅くしていると、
「ドーントレス、十機こちらに向かう」
と見張員が、内容を明かした。
間もなく十一機のドーントレスがホーネットに着艦した。ミッドウェーに不時着した爆撃隊の一部が帰艦したものであった。
「おう、神は未だ我を見捨てたまわず」
忽然として敬虔なる信者と化したマーク・ミッチャーは、両掌を組んで、頭《こうべ》を垂れ、次いで、とび上がった。
五機の予備機を加え、十六機となったドーントレスの隊を、ステビンズ大尉が指揮して、午後一時すぎ、発艦することになった。
「いいか、敵は近い。ラスト・ワンのヒリューを、よく狙え。回りこんで太陽の側から行けば、必ず当たる。本艦長は、諸君の上に神の加護があらんことを確信している」
ミッチャーは、搭乗員にそう訓示した。彼はいまや、どのような奇蹟でも信じたい気持になっていた。
十六機のドーントレスは、次々に発艦し、夕陽に翼をきらめかせながら、高度をとりつつ、先行したエンタープライズ隊のあとを追った。