橋本が、第三次攻撃隊の残存八機をひきいて、飛竜に着艦したのは、午後一時すぎであった。このころ、飛竜と敵空母の位置は極度に接近し、百マイルあるかなしかに思われた。橋本は、敵の輪型陣を水平線のかなたに見失うと間もなく、飛竜を囲む輪型陣の外廓に、味方駆逐艦を発見したのであった。
機動部隊の陣形はばらばらとなり、赤城は東の方に、加賀と蒼竜は南西の方に位置し、煙をあげていた。
飛竜の周囲には、依然として無傷の戦艦榛名、霧島、八戦隊の重巡利根、筑摩などが、機銃、高角砲を空に向け、長良のひきいる十隻の駆逐艦も、飛竜の回りを固めていた。
長良に移乗した南雲は、艦橋で、飛竜の攻撃成功の入電を聞くと、急に元気になった。今までうつむき加減だった姿勢が、しゃんとして来た。
彼は十戦隊司令官の木村進少将をみると、言った。
「おい、今から夜襲をやろう。駆逐艦に信号を送ってくれい」
彼は太い声でそう言った。
そばで聞いていた草鹿は、はっとして南雲の顔を見た。そこには、自信に満ちた表情のかわりに、追いつめられたものの顔があった。三艦を失った詫びに、一旦は自決を決意した南雲であるが、思い直して、水雷戦の夜襲で、最後の賭けを行おうというのである。
草鹿は、長官が気の毒になって来た。海軍生活三十年を水雷と共に暮らし、今やっとその成果を問うチャンスが到来したのであるが、果たして、高速の空母を駆逐艦で追いかけて、どの程度の成果が上がるものか。日没まではまだ三時間ある。陽のあるうちは、飛行機を持った空母には近づけない。では、日没を待つとするか。飛行機がなくなった今、当分は仕事がないのだ。何にしても、長官が元気を出して来たのは、よいことなのであろう。急に疲れが出て来たのを感じると、草鹿は、休憩をとるため、艦橋を降りて、艦長休憩室に向かった。
日没を待っている男は、飛竜の艦橋にもいた。
橋本たちが着艦を始めたとき、山口多聞は西の空を見ていた。太陽はかなり西に傾いていた。——薄暮《はくぼ》攻撃だな——帰って来た機数の少ないのに気づいて、山口はそう考え、航空参謀の橋口にそれを告げた。少ない機数で奇襲をかけるには、白昼よりは薄暮がよい。搭乗員も疲れているだろう……。人殺しといわれた山口も、朝からの激戦に、ふとあわれみの心を出した。彼にも心の弱りというものはあったのである。これ以上、強行作戦で、部下を損耗させることはしのびなかった。そして、その心の弱りが、飛竜を破局にひきずってゆくのであった。
母艦に着いた橋本は、戦果と味方の被害を山口と加来《かく》に報告した。友永の死を聞いた山口の心は重かった。暗示的なものが背筋に来た。あれだけ豪快で、気っぷのよいパイロットでも、やられるときはやられるのだ。この戦いは、今までの精神的な迫力では押し切れぬものがあった。ハワイや印度洋とは、どこか様相が異なっていた。トランプのつき《ヽヽ》が変わりつつあった。“航空戦の鬼”といわれる彼も、それには気づいてはいたが、ここで挫けるわけにはゆかなかった。三艦のうち二艦をやっつけたから、もう一艦であった。この薄暮攻撃にまで持ちこめば、刺し違えても悔いはない、と彼は考えていた。
山口は、ただ二人残った兵学校出の若い指揮官の一人である橋本に問いかけた。
「どうだ、疲れたか、もう一度行ける元気があるか。飛行機は使えそうか」
「はい、まだ大丈夫です。最後までやります」
長身の橋本は、いつもは白い頬を紅潮させて答えた。しかし、彼の頬はかなり油のしぶきで汚れていたので、表情は山口にはよくわからなかった。
橋本は第四次攻撃隊の編成にかかった。
使用機数は、艦爆五機、艦攻四機、零戦十機であった。艦爆の隊長は、中沢飛曹長、零戦の隊長は重松で、いつも変わったことをする峯岸飛曹長が第二小隊長であった。
攻撃隊総指揮官は橋本であった。編成にかかるとき、彼は重松の方を向いて言った。
「二人だけになってしまったな」
「うむ……」
朝からの攻撃で、七人の上級指揮官を失っていた。将棋の歩は香になり、ついに飛車と角になってしまったのである。
「いいか、ここまで来たら、階級は問わない。とに角、一番当たりそうな人間をつれてゆく。そのかわり、十中の十まで帰れないぞ。おれの人選にあとで苦情をいうな」
橋本は今までにないけわしいものを眉の間に漂わせながら、集まった搭乗員たちの顔を見回した。汗と油で、鈍く光る三十いくつかの顔が、まもとに彼の顔を見返していた。
——いいです。やりましょう飛行士。ここが死に場所ですぜ——。
六十いくつかの眼がそう言っていた。どれもが、爬虫類に似たプリミティブな光を放っていた。
重松は、母艦の直衛に残す機と、攻撃に行く機とを分けにかかった。誰もが攻撃に行きたがった。
「だめだ。敵はまだ来る。母艦はどうなってもいいというのか」
彼は声を励まして、何機かを直衛に残した。
「敵の雷撃隊は被害が大きい。爆撃の方に気をつけろ。高度五千位で入って来るぞ」
彼はそのように、直衛機に注意を与えていた。
陽は西に傾いていたが、三時四十分の日没まで、まだ二時間あまりあった。しかし、太平洋は徐々に夕景を見せ始めていた。波が金色に光り、うねりが重苦しく、時々けだるそうであった。
編成が終わると、橋本は重松の肩を叩いて言った。
「おい、重松、頼むぞ。これで最後だ。今になって見殺しにしたりするな」
「大丈夫、おれがいる間は大丈夫だ」
重松は丸い顔をほころばせて、にっと笑った。——こいつは、敵機が照準器に入ったとき、どんな顔をするのだろう——と橋本は考えていた。
艦橋の下で整列していると、山口と加来が艦橋から降りて来た。
「みな頼むぞ。体は大丈夫か、疲れは直ったか、眠いものはおらんか」
山口は、三十二名の搭乗員の肩にさわって、一人ずつゆり動かしてみた。加来のあとからついて来た飛行長の川口が思いついて言った。
「そうだ。あれを持ってゆけ。おい、整備員、医務科に行って眠くならない薬をもらって来い」
間もなく、整備員が持って来たのは、航空錠の甲であった。
「おや? これは眠る方の薬じゃないのか」
川口がレッテルを見て首をひねった。
「馬鹿! ぼやぼやするなと軍医官に言え!」
加来が眼を三角にして、本気になって怒った。これは、かけがえのない大切な攻撃であった。
「敵の前で眠ってしまったらどうするんだ」
川口が医務科に電話をかけた。その薬で間違いないという返事であった。
出発準備が整ったところで、山口は、壇の上に立って言った。
「みな、ご苦労。——これがおそらく、最後の攻撃となると思う。敵の最後の空母に止めを刺してくれい」
そう言ったとき、山口は、飛行甲板に並んだ数少ない艦攻や艦爆を見て、落涙を覚えた。この数では、無効であるかも知れなかった。しかし、出さねばならなかった。それが司令官の責務であった。
山口は猛訓練をもって鳴るだけに、また青年を愛する男であった。彼は朝からの攻撃で何人もの指揮官と四十機以上の飛行機と多くの搭乗員を失った上、今また総指揮官の友永を失ったので、かなり気が弱くなっていた。——こんなに、若い生命を殺してよいものか。おれにそれだけの権利があるのか。薬品を用いて、疲労を押し伏せ、死にに行くことが、この敗軍のなかでどういう意味を持つか。それは若い生命に対する冒涜《ぼうとく》ではないのか——。
航空戦の鬼といわれた山口の大きな眼球のなかに、そのような疑問と悲しみが湧き起こっていた。彼のなかには、まだ、即時、攻撃隊を発進させた方が、少なくとも母艦の被害は局限出来る、という計算が働いていた。しかし、彼が攻撃を薄暮に延ばしたのは、必ずしも、情に負けたからではなかった。彼のなかの数学が、実質的に敵に対して有効と思われる薄暮攻撃を選ばせたのである。山口は、そう自分に言って聞かせた。彼の思考内容は複雑であった。多くの情緒を抑え、不可能を可能にしようというのであるから、いきおい、複雑にならざるを得なかった。
彼のなかに、ぼんやりとした美の意識があった。彼は、むしろ、漠然と攻撃を薄暮に延期させたとも言える。薄暮攻撃の成果を期待しているのではなかった。彼は、死地に赴《おもむ》くことを承諾した青年たちの表情を美しいと思い、その美しさにうたれていた。彼は、青年たちが死地に入る時刻を延ばし、彼らに生の呼吸をいくらかでも長くさせようと試みたにすぎなかった。
山口は台の上から、斜陽を反映する大きなうねりを見ていた。金色の縞をゆらめかせる陽光は、青年の顔におとらず、美しいと言えた。山口は、
「攻撃は薄暮とする」
と宣した後、加来の方を見ると、やや無愛想に言った。
「搭乗員をよく休ませてくれ給え」
搭乗員は休養のため解散し、橋本は整備長の三雲中佐と、残りの機の整備について打ち合わせをすませると、しばらく飛行甲板に立っていた。B17が高空から爆撃を行い、遠くに水柱が上がっていた。
輪型陣の乱れに、彼は気がついていた。戦場全体に倦怠が感じられた。この乱れた輪型陣で、漫然と日没を待つというのは、危険ではないか。戦争というものは、坂道を上る車だ、とだれかが言った。押す手をゆるめれば、車は滑り落ちてしまうのだ。そんなことを連想し、いますぐ攻撃を開始するよう、意見具申をしてみようか、とも橋本は考えたが、何にしても疲れていた。搭乗員待機室に入ると、飛行服の上半分をぬぎ、ソファに横になった。今朝まで、十名近くの士官が雑談をかわし合って、やかましいくらいにぎやかだった待機室も、いまは、橋本と重松のいびきが聞こえるだけであった。
艦橋では、山口が、薄暮まで、戦場から遠ざかるよう、針路を北西に指向させていた。