二十四機のドーントレスをひきいて、西北西に進んだガラハー大尉は、午後一時四十分、ほぼ索敵機の知らせた位置に、ヒリュー型空母とこれを囲む輪型陣を発見した。不思議なことに、ヒリューは西に向かって進んでいた。
ガラハーは、大きく右へ、つまり、北の方に旋回し、高度をとりつつ、さらに西の方、すなわち、ヒリューにとって太陽のある側に回りこんだ。
——もし、隠密裡《おんみつり》に突撃することが出来るならば——とガラハーは考えた。空母一隻に、二十四発の千ポンド(四百五十キロ)爆弾は多すぎる。命中弾は三ないし五発あれば、十分である。それならば、と彼は下をよく見て、ヒリューに近いところに一隻の戦艦が同航しているのに眼をつけた。
彼は隊内無線電話で、「エンタープライズの隊(十一機)は、ヒリュー型空母を狙え。ヨークタウン隊(十三機)は、戦艦に投弾しろ、グッドラック!」と告げた。
高空にいた直衛の零戦数機が急上昇して、ヨークタウン隊のドーントレスに追いつき、後尾から、一機、二機と、火焔の洗礼を浴びせていた。高度は五千五百にのぼっており、太陽を背にうけたガラハー隊は、すでに突撃の位置にかかっていた。
「突撃する(Come into dive)」
ガラハーは、一旦エンジンを絞って、機首を下げると、急降下に入り、エンジンを全速近くまで増速すると、降角六十度で、急降下を続けた。
飛竜艦橋の上部にある防空指揮所では対空見張員の兵曹が、上空における不気味な静寂に、不審を感じて、十二倍双眼鏡を上方に向けてみた。零戦が、敵の爆撃機に襲いかかり、火をふかせていた。そのたびに、キラリ、キラリと、夕陽に翼の裏側が反射をみせた。その近く、太陽光線でけむって見える大気のかたまりのなかを、まっしぐらに降下して来るずんぐりした爆撃機があった。
「敵機急降下!! 左三十度、高度四〇《ヨンマル》(四千)!」
見張員は、あわただしく、伝声管につばをとばした。
それを聞いた加来艦長は、双眼鏡をかざして、空を仰いだが、もやのような夕方の光線にまぎれて、敵機の姿は、明確に視認出来なかった。——来たか——と思いながら、彼は、
「とーりかあじ!! 一杯!」
と転舵を命じた。
十秒、二十秒、飛竜はゆっくりと左に旋回し始めた。
高度三千で、ガラハーはヒリューの転舵に気づいた。太陽の側、つまり、こちらに食いこむように転舵して来るので、そのまま照準を続けると、降下角度が深くなり、七十度近くなると、ふわふわと体が浮いて、照準が困難になった。高度五百、半ば自暴自棄になって、ガラハーは投下ハンドルを回した。彼の投弾は飛竜の右舷三十メートルに外《そ》れ、続く数機も至近弾に終わった。
このとき、漁夫の利を占めたのは、ヨークタウンの隊である。ガラハーの命令によって、ヨークタウンの十三機は、近くの戦艦を攻撃するようにいわれていたが、ヨークタウン隊の指揮官は、——そんな馬鹿なことが許されてたまるか——と考えていた。
ヒリューがこちら向きに転舵し、進入点が早まったのを幸いに、彼はバンクをふって、空母に突入してしまった。あわてたのは、エンタープライズの第二中隊である。朝、赤城を攻撃して命中弾を与えたディック・ベスト大尉は、ヨークタウン隊が、自分よりも早く降下したので、怒り心頭に発した。——どうして、こう、みんな、ルールを守らないんだ——彼は中隊の六機をひきいて、大急ぎで、エンジン全開のまま降下に入った。こうして、エンタープライズとヨークタウンの十数機が入り乱れて、飛竜に殺到する形となった。
第一弾命中は、午後二時五分。前部リフトに四百五十キロがぶちこまれ、リフトは爆風で舞い上がり、とんで来て艦橋前部にぶつかり、全部の窓ガラスを割った。続いて、三弾が、前部に命中し、火災を生じた。
艦橋にいた航空参謀の橋口は、大きなリフトが、飛び上がったかと思うと、艦橋にぶつかり、飛行甲板にぐさりと突き刺さるのを見た。——えらい力だ——そう考えながら、彼は山口の方を見た。山口は腕を組んだまま、前方を凝視していた。突き刺さったリフトが視野をさえぎりマントレット(ハンモックで作った防禦装置)が燃え、その煙が、割れた窓から、艦橋に入りこんだ。飛竜の艦橋は沈黙に支配されていた。やがて、航海長の長《ちよう》少佐が、機関科と連絡をとった。
「機関室異常なし」
と彼は報告を伝達した。
しかし、山口の心は重かった。スクリューは回っても、甲板に穴のあいた空母は、どこへ行けばよいというのか。彼の心のなかに、薄暮攻撃決定に対する悔いが残っていた。ツメを誤ったのだ。搭乗員の疲労を思いやるのではなかった。一時の同情が、すべてを灰燼《かいじん》に帰したのである。航空戦の鬼は、鬼であることによって、航空戦を勝利に導くことが出来るのであって、鬼でなくなると同時に、死神にとりつかれ始めていたということが言える。(もっとも、エンタープライズから、ガラハー隊の二十四機が発艦したのが午後零時半。橋本の隊が、ヨークタウン攻撃を終わって飛竜に着艦したのが、午後一時すぎであるから、それからすぐに攻撃隊を編成して発進しても、エンタープライズの攻撃隊を阻止することは、不可能であったということが、計算では《ヽヽヽヽ》言える)
背中のソファを下から大きなハンマーで叩き上げられたような衝撃で、橋本は眼をさました。搭乗員待機室の時計は、午後二時五分で止まっていた。彼は反射的に飛行服の上部をひっかぶり、飛行帽をとって飛行甲板に出ようとしたが、ハッチが開かなかった。格納庫の横の通路に降り、作戦室の横から艦橋に上がろうとした時、ズズーンと第二回目の衝撃が足元の鉄板をつきあげてきた。消火器から出る、ガスのような臭いがして来た。大勢の整備員が、格納庫からぞろぞろ通路の上に上がってきた。帽子をふきとばされ、髪を焦がしている者、片腕の袖をちぎられ、黒く焦げた腕を露出している者、背中を赤黒く焼かれて、僚友の肩につかまっている者、いずれもショックに茫然となった表情で、瞳孔《どうこう》がひらいていた。ハッチからは、火薬の臭いと、ガソリンの燃える臭いがあふれていた。
橋本が艦橋に上がるラッタルに一歩足をかけたとき、第三弾の衝撃が来た。ヨークタウン隊が投下した第三弾は、橋本がのぼろうとしていた艦橋の前方五メートルぐらいの所に落下し、艦橋の側壁をこすりながら、爆発したのである。強烈な爆風で顔を叩かれた橋本は、ラッタルからすべり落ち、手すりでしたたか顎を打った。後頭部がじーんとしびれた。電源が切れたらしく、あたりは暗黒となり、薄暮の陽光が空隙《くうげき》からかすかに洩れ入るだけで、物の識別は困難であった。隔壁のなかには、たちまちガスが充満した。橋本の周囲で、整備員たちが、窒息して倒れ始めた。突然、不吉な予感が橋本を襲った。朝から二回、攻撃隊として危険な出撃をしたが、そのときには経験しなかった、つかみどころのない不安であった。
自分の戦闘配置におれば、兵士は不安を感じることは少ない、といわれるが、橋本もその例外ではなかった。艦攻の偵察席で、航法の図板をあつかったり、グラマンの襲撃を見張ったりしていたとき、彼は恐怖を感じたことはなかった。一メートル四方には足りないが、その席が彼の持場であり、そこで死ぬことは、彼にとって正当な運命であり、名誉なことでもあった。
しかし、いま、艦橋の下でガスに追いつめられた鼠のように死んでゆくのは、彼にとっては無意味であり、それは単にみじめな死であるにすぎなかった。
橋本はあわて、正常な判断を失った。運動神経だけが反射的に活動し始めた。やみくもに手さぐりし、手にふれたビーム(梁《はり》)を伝って、上に登り始めた。艦橋へのラッタルのつもりであった。天井の鉄板で頭を打って、床に落ちた。ぐにゃりと、足の下で肉塊が動いた。また登り、また落ちた。鼠とりに入れて水中に漬《つ》けられた鼠のように、出口のわからぬ区画の中で、何度も無意味な上下運動を繰り返した。やがて意識が少しずつ戻って来た。
彼はビームをよじ登ることをやめて、床にすわった。煙で眼が痛く、呼吸が苦しかった。心臓が激しく鼓動を打っていた。彼は両手で頭をかかえて、うす暗い床をみつめた。
どこからかさしこむ、淡い光線に、煙が濃い不気味な縞を漂わせていた。——おれもここで死んでゆくのか——彼はその縞の底にころがっている死体を眺めた。自分が生きていることが不思議に思えた。郷里の肉親のことは、全然頭のなかに浮かんで来なかった。死ぬ間際に、思い出として浮かび上がって来るような、記憶を刻みこんでくれた女もいなかった。
——どうせ死ぬのなら、艦攻の偵察席で死にたい、あそこが、おれの戦闘配置だ——彼は勇気をふるい起こし、また、冷静になって、艦橋へのラッタルを求めた、屍体に蹴つまずき、他の兵士とぶつかり合い、突起で頭を打ち、狭い区画のなかをふらつき回った。
そのとき、区画の一角から煙が外に吐き出された。霧が晴れるように、あたりが澄んで来た。爆弾の衝撃で出来た破孔から、煙が外に流れ出たのであった。彼は本能的にその方に駆けよった。明かりがさしこんでいた。人間一人が十分抜け出せる孔《あな》であった。首を出してのぞいてみると、艦橋の下に救助艇の吊ってある位置であったが、救助艇は消えていた。爆風で吹きとばされてしまったらしい。そのダビット(繋止装置)の残骸がくにゃくにゃに曲がっていた。その下は、すぐ海面であった。赤い焔を映しながら、蒼黒い海水が、秒速十数メートルのスピードで流れていた。水面までは、十メートル以上の高さがあった。
橋本は大きく口をひらき、息を吸った。うまい空気であった。——生きることはいい、空気はうまい——そう考えながら、飛行手袋を両手にはめ、孔から抜け出すと、まだ灼けているダビットを伝って、艦の横腹を這い始めた。うしろから数名の兵士がついて来た。誰も声をあげなかった。みな、持場を去った兵士であった。彼は旗甲板の横にポケット(突出部)になっている小さな台にたどりついた。このあたりは、いつも往来して、十分地理を心得ているはずなのに、いっこうにそれが頭に浮かんで来なかった。
台の上にあがると、彼は初めて飛行甲板の火災を見た。前部と中部のリフトの附近に直径十五メートルくらいの大穴があいて、飛行甲板は、氷山のようにジグザグに折れ曲がり、前部リフトは二メートルほど前方の甲板に、帆のように突き刺さっていた。破孔は、熔鉱炉のように白熱した火をふいていた。ダーン、ダ、ダーンと誘爆が始まっていた。飛竜は針路を西に変え、全速で主戦場から離脱しつつあった。飛行帽の顎紐が、ぱたぱたと、はげしく、橋本の憔悴した頬を打ち続けた。