和菓子の|めでたさ《ヽヽヽヽ》は、つきつめて行けば、「アンコの美」にたどりつくだろう。味も香りも、そうして見た目の色や形も。
いやいや、たとえば打《うち》菓子や干《ひ》菓子のようにアンコとは直接関係なさそうなものもあるにはあるけれど、ふつう和菓子といったら、八割以上の確率で「練りきり」や「羊羹《ようかん》」または「団子」「饅頭《まんじゆう》」といったアンコものを想像するに違いない。
とりわけ、私は東京の人間だから、「漉《こ》し餡《あん》」を愛する。アンパンなどでも、やはり桜の花の塩漬《しおづ》けをヘソにあしらった、あのしっとりした漉し餡パンの方が、がさつな粒餡の小倉餡パンより格段と好ましい。
私のアンコ好きは徹底していて、ただのアンコだけを買ってきて賞味することさえある。
夏、私は信州の山荘に避暑するのがならいであるが、その山荘のある信濃《しなの》大町《おおまち》には、隠れた名品とも評すべきアンコを売る店があるのを知っている人は多くはないだろう。この店は大日向製菓という何の変哲もない和菓子屋である。その直売の店ではもちろん普通の和菓子も買うことができるけれど、私が買うのはいつもアンコだけ、いわば「プレーンアンコ」である。この店の「プレーンアンコ」は町のスーパーマーケットでも買うことができるが、どちらにしても風味|頗《すこぶ》る愛すべき、良い餡である。勿論《もちろん》漉し餡で、ペナペナしたプラスチックの器に、シャモジでこてこてと入れたそのままの感じで売られている。その「手で詰めました」というところがまた良いじゃないか。
で、普通はこれを買ってきて、延ばして汁粉にしたり、皮に包んで郷土菓子のオヤキを作ったりするのに使うのだろうけれど、私はそんな面倒なことはしない。
餡自体の味がよいから、そのまま食べるのがもっとも美味《おい》しい。夏だから冷蔵庫でひんやりと冷やしておいて、それを適当にナイフで切りだし、熱いお茶とともに食べる。用いられている砂糖は白砂糖ではないらしい。それで刺激のない丸い甘さと、それと釣合《つりあ》った必要にして充分な塩味、この正直なアンコは、さながらひやりと口に入ってきて、舌の上で溶けながら渋い茶の味を引き立てる。
朝飯の時には、そのままジャムの感じで、バターをつけたトーストにのせてパクリといったりもする。
この他にも、じつはもっと美味しい「秘密の食べ方」があるのだけれど、それをここに書いても多分誰も信じないだろうから、フフ、その「秘密の食べ方」は教えてあげない。もしどうしても知りたい、という人は、拙著『音の晩餐《ばんさん》』(徳間書店・集英社文庫)に書いておいたからそちらを御参照あれ。
東京では、虎屋《とらや》の「練りきり」を愛する。正直言うとべつに虎屋でなくたってよい。ともかく私は「練りきり」という菓子そのものがまたとなく好きなのだ。けれどもさすがに虎屋のは、王者の風格というか、大ぶりでどっしりと鷹揚《おうよう》な風情《ふぜい》があるところがめでたい。
あのねっとりとした口触り、豆のさらりとした質感と手に持ったときの重い存在感、それでいて爽《さわ》やかな甘み、美しく練られた色彩と形、四季折々の季節感……。
げに「練りきり」こそは、アンコの固まりにして、もっとも和菓子らしい和菓子だといっても良いだろう。
ところが、和菓子屋を経営している古くからの友達に聞いてみると、この「練りきり」がこの頃はさっぱり売れないのだそうだ。
「そりゃ、店で見てると、ああいうアンコだけっていうようなものはさっぱり売れないぜ。特に若いお母さんみたいな人は、子供にアンコを喰わせるのをすごくいやがるみたいでね、スアマとかそんなものばっかり買っていく。ドラ焼きだってアンコは抜いて食べさせたいってくらいの感じだからね……」
と彼は憮然《ぶぜん》とした表情で言うのだった。これだから、アンコものをいやがる子供たちがふえているのも道理である。いやはや、嘆かわしいことである。苦々しいことである。
豆と砂糖だけで出来ている「練りきり」のようなものは、脂肪分だの添加物だのに満ちたいわゆる洋菓子なんかより、子供の健康に良いことは火を見るより明らかである。それにこの頃の和菓子は昔ほど甘くない。和菓子屋さんの方でもそこのところは充分に研究しているのである。私は、スナック菓子やケーキなんかを食べさせるくらいなら、子供には断然和菓子、ことにアンコものを食べさせたい。
アンコといえば、もう一つ私の愛してやまないアンコがある。これは厳密には「和菓子」とは言わないだろうけれど、神楽坂《かぐらざか》「紀の善」の「粟《あわ》ぜんざい」である。
私が女子大の教師をしていた時分、ときに学生たちにさそわれて、甘いものなんかを食べに行くことがあった。私はまったくの下戸で甘党だから、そういうときにはちょうど良いのだ。そんなわけで、この「粟ぜんざい」も、もう十年以上昔に、学生たちに連れられて初めて見参していらい、俄然《がぜん》病みつきになった。
一般に私は甘味屋の汁粉とかぜんざいとかを好まない。甘すぎてうんざりするのである。しかしこれは、こればかりはまったく違うのだ。
熱い湯気を上げる炊《た》きたてのみずみずしい粟飯、その薄黄色い豊満な粟飯の上に、淡い藤色《ふじいろ》の熱い餡が品良くのせてある。その色彩、椀《わん》の中の風景を想像して頂きたい。餡自体はもちろん相応に甘いけれど、良い豆と砂糖で練ってあるらしくて、その甘味にちっとも嫌味《いやみ》がない。色といい味といい、あっさりしていかにも江戸風に小粋《こいき》である。しかも、それ自体はまったく甘味のない柔らかな粟飯との組み合わせ、それによって私の舌は、餡の甘さと粟飯の無味の間を行きつ戻りつして、少しも飽きが来ないのである。下手な汁粉なんぞを食べると、小さな椀一杯でさえ、もてあますことがあるのに、この「粟ぜんざい」に限っては決してそういうことがない。たっぷりした器に盛られたのをペロリと食べてしまっても、「なんだ、もうなくなった」と飽き足りない思いがするくらいだ。まことに口は正直である。
けれども、この「粟ぜんざい」は寒い季節しかやっていないから、桜が満開になるとその年はもう終りである。また木枯しが吹き始めて、さてそろそろ食べに行くかな、と思うころまで。