一五四 この似田貝という人が近衛連隊に入営していた時、同年兵に同じ土淵村から某仁太郎という者が来ていた。仁太郎は逆立ちが得意で夜昼凝《こ》っていたが、ある年の夏、六時の起床ラッパが鳴ると起き出でさまに台木にはしって行き、例のごとく逆立ちをしていた。そのうちに、どうしたはずみかに台木からまっさかさまに落ちて気絶したまま、午後の三時頃まで前後不覚であった。後で本人の語るには、木の上で逆立ちをしていた時、妙な調子に逆転したという記憶だけはあるが、その後のことはわからない。ただ平常暇があったら故郷に帰ってみたいと考えていたので、この転倒した瞬間にも郷里に帰ろうと思って、営内を大急ぎで馳け出したが、気ばかりあせって足が進まない。二歩三歩を一跳びにし、後には十歩二十歩を跳躍してはしっても、まだもどかしかったので、いっそ飛んで行こうと思い、地上五尺ばかりの高さを飛び翔って村に帰った。途中のことはよく覚えていないが、村の往来の上を飛んで行くと、ちょうど午《ひる》上《あが》りだったのであろうか、自分の妻と嫂《あによめ》とが家の前の小川で脛を出して足を洗っているのを見かけた。家に飛び入って常居の炉の横座に坐ると、母が長煙管《きせる》で煙草を喫いつつ笑顔を作って自分を見まもっていた。だが、せっかく帰宅して見ても、大したもてなしもない。やはり兵営に帰った方がよいと思いついて、また家を飛び出し、東京の兵営に戻って、自分の班室に馳け込んだと思う時、薬剤の匂いが鼻を打って目が覚めた。見れば軍医や看護卒、あるいは同僚の者たちが大勢で自分を取り巻き、気がついたか、しっかりせよなどといっているところであった。その後一週間ほどするうちに病気は本復したが、気絶している間に奥州の実家まで往復したことが気にかかってならない。あるいはこれがオマクということではないかと思い、その時の様子をこまごまと書いて家に送った。するとその手紙とは行き違いに家の方からも便りが来た。某日の昼頃に妻や嫂が川戸で足を洗っていると、そこへ白い服を着た仁太郎が飛ぶようにして帰って来て家に馳け入った。また母は常居の炉で煙草を喫んでいるところへ、白服の仁太郎が馳け込んで横座に坐ったと思うとたちまち見えなくなった。こんなことのあるのは何か変事の起こったためではないかと案じてよこした手紙であったという。なんでも日露戦争頃のことだそうである。