ただいまは、男女同権なんてえいい世の中でございますが、昔は、たいへんこの女のかたはやかましいことを言われまして「三界《さんがい》に家なし」なんて乞食みたいなことを言われているかと思うと、「外面如菩薩内心如夜叉《げめんによぼさつないしんによやしや》」……面《おもて》は菩薩だけども腹の中は夜叉だてえ、これは昔お釈迦様がそう言ったんですから、苦情があったら印度のほうへ持ってってもらうんですな。
それに戒《いまし》めとして「七去、三従」なんて言って、三従てえのは女のかたは幼にして親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従い、まことにお気の毒で、のべつ従わなけりゃァなりません。
ですから女のかたは昔は鼈甲《べつこう》の櫛《くし》なんてえものを頭へのせました。つまり女というものは亀の子みたいにのべつ首を引っ込めていろ。それがいまセルロイドやなにかのってますから、すぐ燃え上がっちゃったりする。
七去てえますと、舅・姑に仕えぬものを去るべし、悪《あ》しき病《やまい》を去るべし、盗心を去るべし。不貞なるを去るべし。これは貞操観念ですな。三年添って子なきを去るべし……なんてわからねえことを言ってあります。多弁なるを去るべし……これはお喋りですな。女ばかりじゃあない、男でもあんまりべらべら喋るやつに悧巧なやつはない。まあ、噺家は別ですけども。これを止めちゃった日にァしょうがねえ、噺家に講釈師に漫才に弁護士なんてえのは、いくらか喋るからお鳥目《ちようもく》を頂けるんですから、ま、大目に見ておいてもらいますが……。
しかるべき男は、急所で口をききますな。もう台所へ出てきて、
「そうガスを使われちゃァしょうがないね、いまばかに料金が高《たけ》えんだから……」
なんて怒鳴っている男にあんまりえらい男は少ない。
つまり商売に頭が働かないから台所のガスのほうへ頭が働いてくるんですから、こりゃあんまり感心しない。
悋気嫉妬《りんきしつと》を去るべし。これは俗にやきもち[#「やきもち」に傍点]というやつ。
旦那が家へ帰るのが遅いと、奥さんの頬っぺたが脹らんでしまって、こういうところへ帰ってくる旦那は、暗剣殺《あんけんさつ》へ向って飛び込むようなもので……。
「おい、いま帰ったよ」
「お帰りあそばせ……」
「どうも困るねえ、……あたしは遊びに行ったんじゃない、用達に行ってるんですよ」
「わかっておりますわよ」
「なんてェ顔するんだい」
「どォーせ、あたしの顔はこういう顔ですよ」
「ご飯を食べるかねえ」
「清《きよ》や、ご飯だとさ、お膳を出してやんなさい」
「きみ、奉公人じゃないよ、あたしは。よろしい、表へ行って食《く》うから……」
折角、帰った旦那が家を飛び出てっちまう。これはわるい妬《や》きかたですな。
おなしお妬《や》きになりましても、ご夫婦のご情愛ですから、今晩あたりは浮気夫も帰るってのは、奥さんとすれば第六感で感じますから、ふだんよりいささか長めにお風呂をお召しになりの、濃厚にお化粧《けえけえ》をほどこしの、お召し替えになりので、旦那のお帰りを待つ。
お帰りになるとたんに玄関へお出迎えに出て、
「お帰りあそばせ……」
と言うときの、この目付きが難しい。甘えるような訴えるような潤《うる》んだような……噺家《あたし》がやると近目《ちかめ》が眼鏡《めがね》をなくしたようになっちまいますが……こんな目付きをしておいて、旦那の顔をじィーっとにらんで、首っ玉へかじりついて頬っぺたなめちゃう。……こうされれば、もとからいやで夫婦になっているわけじゃあありませんから、
「今夜はどこへも行かないから……」
なんて……。
女のかたのお娯《たの》しみとなると、まず第一番が芝居、あとは食い物《もん》ですなあ。芋《いも》にこんにゃくに唐茄子《とうなす》なんて、たいして入費《にゆうひ》のかかったものはない。
男の道楽は、それからそれへと飲み歩いて、花柳界で銭を遣ったりなんかすりゃあ、これはたいへんな散財になりますが、女のかたはいくら悔しがってもそうは金は遣えませんからなァ。
「竹や、昨夜《ゆうべ》うちの人が帰って来ないの癪《しやく》にさわるわねェ。忌々《いまいま》しいから八百屋へ行って、唐茄子十貫目買っといでェ」
そんなに買ってきたって食い切れるわけのもんじゃァない。
まず第一番が芝居てえことになってますが、もっともお芝居は寄席のほうと違いまして、この舞台に背景てえものがございます。これが場面場面で変わってそれに役者が出て来て、これがいろいろ顔へ紅粉《こうふん》を粧《よそお》う。つまりメイキャップってえやつですな。色の黒い役者は白粉《おしろい》で白くしますし、鼻の低いやつは盛り鼻《ばな》なんてえ調法《ちようほう》なもんがあって、これを高く見せます。噺家《われわれ》みたいに目尻のさがってるやつは目吊《めつ》りてえのをかけて吊《つる》し上げちまう。頬のこけてるのは含《ふく》み綿《わた》てえのを突っ込んで、こいつをふくらがします。頤《あご》の長えやつは削《そ》いじまう、てえわけにはいかねえけども……。
見た目がきれいですから役者てえとなんだかきれいなようで、噺家《はなしか》ってえとあんまりきれいでねえようですが、これでも毎日湯へ入《へえ》ってるんですから、なにもナフタリンを撒くほどのことはないんですが、それだけ役者てえものは、このきれいてえことについて婦人から信用がある。その証拠に羽子板でわかりますな、菊五郎と羽左衛門の二人《ににん》立ちの羽子板は売れるけども、可楽と志ん生なんて、これは売れやしませんよ。
第一、芝居へ行くときは、婦人は服装から違ってくる。一番いいお召しものを召して帯も上等なやつを締め込んで、自動車やなにかで飛ばして行く、寄席のほうは残念ながらそういかない。
「あの奥さん、今晩寄席へいらっしゃるんですか?」
「ええ、日が暮れたらね、演芸場へ行って笑ってこようと思ってんのよ」
「浴衣《ゆかた》出しますか?」
「いいえ、寝間着《ねまき》でいいわよ」
ひでえことになる。これだけばかにされてるんですから。
そのかわり芝居を観に行って役者のきれいな顔ばかり見ていい心持ちンなって家《うち》へ帰ってごらんなさい。家ィ帰《けえ》ると、てめえんとこの旦那の顔がはっきりしねえことンなるから、あたしゃいい気味《きび》だと思ってんだ。
「どうして家《うち》の人はこう色が黒いんだろうねえ。どおでもいいが黒すぎるねえ。がっかりしちゃうよ、まったくゥ。こんな黒いのといっしょになるぐらいなら赤道越えて嫁へ行っちゃったほうがいい」
こりゃあおだやかじゃあありません。
そこへいくと、寄席のほうへいらっしゃれば、まあこういう顔ばかり見てお帰りンなるんですから、この顔が目に馴染んじまいますからな。お宅へ帰ると、旦那様の顔がたいへん立派ンなってきますから。
「ほォんとに家《うち》の人は様子がいいよ、ええ? 男らしくってきりィっとしていて、まァ噺家とは大違いだねえ。うふゥ、あたしうれしくなっちゃったァ。こういう人といっしょになって幸せだ」
なんてたいへん家庭が円満になってきますから、まァ月のうちに奥さんは五、六たび寄席へ寄こさなくっちゃいけねえんだそうですな。子供衆を見たってそうです。きれいな子を見ると、
「君ンとこの子かい? いい子だなァ、色が白くって、目がぱっちりしていて、口元が締まってて、大きくなるといい男ンなるねえ、役者だねえ。新派かなァ。映画俳優のほうが、君、出世が早いよ」
なんてえことンなる、いいのは。わるいのはこうはいかない。
「君ンとこのォ……えれえもん拵《こせ》えちゃったな、こらどうも。君に似ても細君に似てもたいした品物はできねえと思ったが、おッそろしい目が窪《くぼ》んでるじゃねえかァ。これァ目玉があぶなくなくっていい、奥のほうで光ってるんだから。穴ぐらから覗いてるような目付きをしていやがる。口が大きいね。ものを零《こぼ》しませんよ、この子は。粗相はねえなァ。鼻の穴が上ェ向いてるじゃねえか。大きくなっても煙草ォ吸わねえほうがいいなァ。煙突《えんとつ》みてえにみな煙が上から出ちゃうから……しかし見飽《みあ》きのしない顔だね、この顔はァ。どう見ても、……ほっほほォ……面白《おもしれ》え顔てえんだなァ。大きくなったら、噺家におしよ」
ってひどいことォ。引き物ァみんな噺家ンなっちゃったりなにかする。
しかしまァ、ご亭主が競馬だの競輪に行った留守におかみさんが芝居を観にいらっしゃるなんてえのは、これはお互いが娯しみをするんですからよろしゅうございますが、ご亭主は朝から晩まで真っ黒ンなって働いてンのにかかわらず、その留守におかみさんが一人で芝居を観に行っちまったなんてえのァ、ちょっとおだやかでありませんからなァ。
男の道楽は、それからそれへと飲み歩いて、花柳界で銭を遣ったりなんかすりゃあ、これはたいへんな散財になりますが、女のかたはいくら悔しがってもそうは金は遣えませんからなァ。
「竹や、昨夜《ゆうべ》うちの人が帰って来ないの癪《しやく》にさわるわねェ。忌々《いまいま》しいから八百屋へ行って、唐茄子十貫目買っといでェ」
そんなに買ってきたって食い切れるわけのもんじゃァない。
まず第一番が芝居てえことになってますが、もっともお芝居は寄席のほうと違いまして、この舞台に背景てえものがございます。これが場面場面で変わってそれに役者が出て来て、これがいろいろ顔へ紅粉《こうふん》を粧《よそお》う。つまりメイキャップってえやつですな。色の黒い役者は白粉《おしろい》で白くしますし、鼻の低いやつは盛り鼻《ばな》なんてえ調法《ちようほう》なもんがあって、これを高く見せます。噺家《われわれ》みたいに目尻のさがってるやつは目吊《めつ》りてえのをかけて吊《つる》し上げちまう。頬のこけてるのは含《ふく》み綿《わた》てえのを突っ込んで、こいつをふくらがします。頤《あご》の長えやつは削《そ》いじまう、てえわけにはいかねえけども……。
見た目がきれいですから役者てえとなんだかきれいなようで、噺家《はなしか》ってえとあんまりきれいでねえようですが、これでも毎日湯へ入《へえ》ってるんですから、なにもナフタリンを撒くほどのことはないんですが、それだけ役者てえものは、このきれいてえことについて婦人から信用がある。その証拠に羽子板でわかりますな、菊五郎と羽左衛門の二人《ににん》立ちの羽子板は売れるけども、可楽と志ん生なんて、これは売れやしませんよ。
第一、芝居へ行くときは、婦人は服装から違ってくる。一番いいお召しものを召して帯も上等なやつを締め込んで、自動車やなにかで飛ばして行く、寄席のほうは残念ながらそういかない。
「あの奥さん、今晩寄席へいらっしゃるんですか?」
「ええ、日が暮れたらね、演芸場へ行って笑ってこようと思ってんのよ」
「浴衣《ゆかた》出しますか?」
「いいえ、寝間着《ねまき》でいいわよ」
ひでえことになる。これだけばかにされてるんですから。
そのかわり芝居を観に行って役者のきれいな顔ばかり見ていい心持ちンなって家《うち》へ帰ってごらんなさい。家ィ帰《けえ》ると、てめえんとこの旦那の顔がはっきりしねえことンなるから、あたしゃいい気味《きび》だと思ってんだ。
「どうして家《うち》の人はこう色が黒いんだろうねえ。どおでもいいが黒すぎるねえ。がっかりしちゃうよ、まったくゥ。こんな黒いのといっしょになるぐらいなら赤道越えて嫁へ行っちゃったほうがいい」
こりゃあおだやかじゃあありません。
そこへいくと、寄席のほうへいらっしゃれば、まあこういう顔ばかり見てお帰りンなるんですから、この顔が目に馴染んじまいますからな。お宅へ帰ると、旦那様の顔がたいへん立派ンなってきますから。
「ほォんとに家《うち》の人は様子がいいよ、ええ? 男らしくってきりィっとしていて、まァ噺家とは大違いだねえ。うふゥ、あたしうれしくなっちゃったァ。こういう人といっしょになって幸せだ」
なんてたいへん家庭が円満になってきますから、まァ月のうちに奥さんは五、六たび寄席へ寄こさなくっちゃいけねえんだそうですな。子供衆を見たってそうです。きれいな子を見ると、
「君ンとこの子かい? いい子だなァ、色が白くって、目がぱっちりしていて、口元が締まってて、大きくなるといい男ンなるねえ、役者だねえ。新派かなァ。映画俳優のほうが、君、出世が早いよ」
なんてえことンなる、いいのは。わるいのはこうはいかない。
「君ンとこのォ……えれえもん拵《こせ》えちゃったな、こらどうも。君に似ても細君に似てもたいした品物はできねえと思ったが、おッそろしい目が窪《くぼ》んでるじゃねえかァ。これァ目玉があぶなくなくっていい、奥のほうで光ってるんだから。穴ぐらから覗いてるような目付きをしていやがる。口が大きいね。ものを零《こぼ》しませんよ、この子は。粗相はねえなァ。鼻の穴が上ェ向いてるじゃねえか。大きくなっても煙草ォ吸わねえほうがいいなァ。煙突《えんとつ》みてえにみな煙が上から出ちゃうから……しかし見飽《みあ》きのしない顔だね、この顔はァ。どう見ても、……ほっほほォ……面白《おもしれ》え顔てえんだなァ。大きくなったら、噺家におしよ」
ってひどいことォ。引き物ァみんな噺家ンなっちゃったりなにかする。
しかしまァ、ご亭主が競馬だの競輪に行った留守におかみさんが芝居を観にいらっしゃるなんてえのは、これはお互いが娯しみをするんですからよろしゅうございますが、ご亭主は朝から晩まで真っ黒ンなって働いてンのにかかわらず、その留守におかみさんが一人で芝居を観に行っちまったなんてえのァ、ちょっとおだやかでありませんからなァ。
「おいいま帰《けえ》ったよ。いねえのかなァ。お隣かな?……うちのどっかへ行きましたか? 隣もいねえや。……前の家も締まっていやァがる。長屋のかみさんが揃って買物に行ったわけじゃあねえだろうな。……そうだよ、このごろ寄ると触るとべちゃべちゃ喋ってやがった、あれ芝居《しべえ》へ行く相談していやァがったんだな? うちのときた日にァ、芝居へ行ったって、最初《はな》っから尻《けつ》まで観ていやァンだからなァ。そうしちゃあ明くる日、脚気《かつけ》ンなった脚気ンなったって騒いでいやァがらァ。忌々《いめいめ》しいったってねえや、まったく。仕事場から帰《けえ》って来て、てめえでもってこうして、戸締りを開けてよ、見ろやい、埃《ほこり》だらけだァ、掃除もしずに出て行っちめえやァがったんだな? 火鉢《しばち》に火《し》がねえ、火がねえから湯も沸いてねえや、ものは順にいっていやァがる。これじゃ煙草|喫《の》むこともできねえじゃァねえか。しかたがねえからこうやってなあ、台所《だいどこ》へのそのそ出てきて七輪《しちりん》に向って、火消し壺の蓋ァとって、消し炭をたたっ込んで、これで火ィつけて湯ゥ沸かして飯を食うくれえなら、かみさんなんてえものはいらねえんだ。変な女房を持つと六十年の不作て、昔の人ァうめえこと言ったねえ。一|生涯《しようげえ》の不作だなあ。いまさらンなって取り替《か》いようったって、間に合やしねえや、こっちァ頭が禿《は》げちゃったから。都々逸《どどいつ》なんぞもうめえ文句があるねえ。『よせばよかった舌切り雀、ちょいと舐《な》めたが身の因果《いんが》』って、えれえもん舐めちゃったよ、こりゃあ。……これを思うと、友だちのかみさんは羨《うらや》ましいなあ、半公ンとこの女房見ろやァ、もっとも齢《とし》も違うがなあ。……五、六日|前《めえ》だったよ、『おい兄貴、おれが世帯持ってから一度も家《うち》ィ寄らねえなあ』『ああ、間《ま》がねえからよゥ。じゃァ今日、寄らしてもらおうかなァ』『そうしてくンねえ、ふたりで一杯《いつぺえ》飲むからよゥ』ってえから、おらァあとからくっついて行くと、あいつが表から、『おゥ、いま帰ったぜェ』って、かみさんが、『あァ、お帰ンなさァい』ってえ……座敷を泳ぐようにして出て来やがって『疲れたでしょうねェ…ェ』ってやァン。毎日出かける仕事だよ、改めて疲れることァねえが惚れた女房に『疲れたでしょう』なんて言われりゃあわるい心持ちァしねえや。『お風呂ィ行くの、それともご飯たべちゃうのォ』『うゥん、腹がへったから飯《めし》を食っちゃおうじゃねえか』『じゃ浴衣と着替えるといいわ』って浴衣ァひっかけさして、脱いだ半纏叩《はんてんはて》えて、衣紋竹《えもんだけ》へぶらさげやがって、あいつが長火鉢の前へあぐらァかくと、膳の支度がしてあって、布巾《ふきん》がかぶさってらあ。片っ方《ぽ》の端《はし》が持ちゃがってるねえ。言わずと知れた燗徳利《かんどつくり》だ。布巾をとると、いきなり燗徳利を銅壺《どうこ》ン中へ突っ込みやがって、『あたし、今日魚屋さんへ行ったら旨《うま》そうな鮪《まぐろ》があったの。お刺身に作らしといたんだから、おまいさん旨いか不味《まず》いか食べてみてくンないか』、あいつが一と口食いやがって、『うゥん、これァ乙《おつ》だなァ、中とろで旨えぜ、脂《あぶら》がのっててェ』『まァ、うれしかった、あたしァおまいさんに不味《まず》いって言われたらどォーしようかと思っちゃったのよ』って……色っぽいね、あのかみさん。……あいつもかみさんに惚れてやがっから、『おゥ、おめえもひとつ食えよゥ』『いいえ、あたし家《うち》にいンの、あんた仕事へ行って体躯《からだ》が疲れる、たんと栄養をとらないといけないわ。ビタミンBが少なくなると脚気ンなる兆候《ちようこう》があるから』『いいから、おめえも食えよゥ』『うゥん、あたしァあとで頂くわよ』って、じゃれてやンの。こっちァ見ちゃァいられねえ、ばかばかしくってェ。『おゥ、おらァどうなるんだ?』つったら、『あァおめえいっしょに来たんだったなァ』。こっちの行ったの忘れていやァったあいつァ。『ふざけちゃいけねえ、おれだって女房持ってるんだよ。ばかにしてもらいたくねえな』ってんで、ぷィと家《うち》へ帰って来て、表から『おォう、いま帰ったぜ』ったら、あいつァ『もォー、お帰りかね』っていやァがる。あの『もォー』って声がおらァびりびりっと腹へ響いたねえ。……亭主の帰《けえ》って来るのに『もォー、お帰り』って言い草ァあるかいったら、『だっておまいさん、牛《うし》(家)の人だから』っていやな洒落だなァおォい。……『湯ィ行くから、手拭い取れよ』ってったら『あらおまいさん、湯へ入《へえ》ンの?』って不思議そうな面《つら》ァしてやがる。『あたりめえよ、おれだって湯ィ入《へえ》ろうじゃあねえか』『湯銭《ゆせん》くすねたのを持ってンでしょうね』って透《す》かさないねえ。わずかばかりの湯銭がねえとァ言えねえや。『じゃあ、このシャボン持ってくぜ』ったら『あ、それ大きいからこっちの小さいのを持っといで』、あいつといっしょンなってから、おらァ大きいシャボン使ったことねえなあ。のべつ神経衰弱なシャボンばっかり使わしていやァる。だから湯ィ行ったって、泡《あわ》がたたなくて骨が折れて仕様《しよ》ァねえよゥ。……でも湯から上がって来ると、ちゃんと膳に支度がしてあって、布巾がかぶさってェ、片っ方《ぽ》の端《はし》が持ち上がってらあ。やっぱり燗徳利があるんだなと思ったから、腹ン中でそう思ったねえ、持たなきゃァならねえのは女房だと。布巾をとって見ると、燗徳利はありがてえが、どんぶりばかりで中身はなんにも入《へえ》ってねえン。『おめえ瀬戸物屋の店《みせ》じゃねえからなあ、こうどんぶり鉢を並べてみたって仕様《しよ》ァねえんだから、中身はねえのかい?』ったら、『いま時化《しけ》だよ』ってやがる。あいつといっしょになってのべつ時化だね、おい。『いくら時化だって塩っ気《け》がなきゃァ酒は飲めねえよ。香々《こうこ》でも出してくれよ』ってったら、『あァいよ』ってやがン、いやな返事だ、あの返事は。出してきたのを見ると、胡瓜《きゆうり》の香々だァ。胡瓜だって締まった胡瓜ならいいよ。ぶくぶくして腸沢山《わただくさん》。おまけにあいつがしみったれで、塩をかなじみ[#「かなじみ」に傍点]やがっから生漬《なまづ》けときてやがる。『おゥおめえ、これ生《なま》じゃァねえか』ったら『贅沢をお言いでないよ、螽斯《きりぎりす》をごらんよ』って言やがる……」
「ちょいと遅くなっちゃったねえ。うゥん。きっとねえ、あのォ、あとのひと幕だけ残してくりゃよかったけれどもねえ、やっぱり観たかったからねえ。よかったねえ、その所作《しよさ》ァ。うゥん、えへへェ……あの、いいえねえ、うちの帰《かい》ってきて、怒ってるだろうと思って、しかたがないからねえ、あたし謝っとこうと思ってンのよゥ」
「おまいさん、謝ってンの? それだから癖ンなるんだよ。亭主なんてものは月に五、六たび仕置きィしなきゃァいけないって、お治《はる》さんそう言ってたろう。あの人は乱暴だよ、ご亭主を煙管《きせる》でぶっちまうんだから。そうしたらおまいさんね、こないだ羅宇《らお》ォ折っちゃったんだとさあ。すげ替えも安くないじゃァないか、いまは。五十円取るとさあ。亭主ぶって五十円っ取られちゃ引合《あわ》ないって、こんだ品物替えちゃったの」
「何にしたの?」
「あァご亭主を壁へ押しつけといてね、山葵《わさび》おろしで顔をこすっちゃうんだって」
「泥棒猫だね、まるで。そんなばかなことはできゃしないよゥ。とにかく謝っておこうと思ってンのよゥ」
「ああ、そのほうが無事さァ。で、もしかいけないようだったら声をお掛け、あたしゃ飛んでってあげるから」
「あの、お寿司《すし》、だれが取ったの、お君さん? そいじゃ明日いっしょに勘定しますから、ごめんなさァい。……あ、お帰ンなさい。わるかったわねえ。火がなかったでしょう? ね? おまいさん、わるかったねえ、ちょいとォ……」
「…………」
「……どうかしたの? 心持ちがわりいの? どうしたのさァ、おまいさん、おまいさん」
「…………」
「……なにか咽喉《のど》ィひっかかってンの? ……どお……したてえのさァ、おまいさんっ」
「…………」
「わかった、怒ってンだろォ……? 怒ったってしょうがないじゃないか、あたしが遅くなっちゃったんだからさァ。だからおまいのほうが早かったら、なにか取ろうと思って来たの。……だけどもおまいさん、怒ってたほうがいいわよゥ。ふだんでれり[#「でれり」に傍点]ぼォ……っとしてる顔より、とても顔が締まってるわよ。もう一週間ばかり怒ってない?」
「そんなに怒ってたら、目がくたびれちゃうよ、おらァ。どこィ行ってたんだい?」
「芝居っ」
「軽いねえ、こいつァ。たいしたもんだよ。亭主が仕事ィ行って留守にかみさん、芝居《しべえ》見物か。……行くなじゃあないよ、行ったってかまわねえよ。手数のかからねえようにしてもらいてえねえ。仕事場から帰《けえ》って来て、こうやって湯ゥ沸かして飯《めし》を食うくれえなら、かみさんなんてものはいらねえンだから。芝居《しべえ》行ったっていいけども、あとがうるせえやァ。元《もと》さんは吉右衛門に似てますねって言やァン。三吉《さんき》っつァんは宗十郎に似てますね。……言われるたんびに、……肩身《かたみ》の狭《せめ》え亭主だっているン」
「だって似てェるからってねェ、だからさあ」
「褒《ほ》めんなじゃないよ。元さんは吉右衛門に似てよ、三吉っつァんは宗十郎に似てる。ものにはついで[#「ついで」に傍点]てえものがある。浮世にァ義理てえものがある。夫婦の仲には人情てえものがあるんだからなァ。何かお忘れものはござんせんか……ときやがらァ」
「いやだよ、おまえさんのことを褒めないって怒ってるの、そりゃ無理じゃァないがまさかうちの人をだれそれに似てェるって言えないじゃないか。だからねェ、よそのご亭主を褒めると向うのおかみさんたちが、おまえさんのことを褒めるだろうと思ってねえ。それとなく手を回しても向うが感じなきゃァしようがないや、あんただって似ているよ。あたしがいっしょにいるんだから……」
「ばかにすンない、こん畜生、催促されてから似ているってふざけるなよ」
「ほォーんとに、よく似てる。安心おしよ。似てるよ似てますよゥ」
「なに言ってやがンだい、似てるか……ほんとに似てンのかァ。へっへへェ、だれに似てんだよゥ。早く言って安心させろよ。だれに似てンだよっ」
「おまえさん、福助」
「あの役者のかァ?」
「なーに、今戸焼の福助だよ」
「おまいさん、謝ってンの? それだから癖ンなるんだよ。亭主なんてものは月に五、六たび仕置きィしなきゃァいけないって、お治《はる》さんそう言ってたろう。あの人は乱暴だよ、ご亭主を煙管《きせる》でぶっちまうんだから。そうしたらおまいさんね、こないだ羅宇《らお》ォ折っちゃったんだとさあ。すげ替えも安くないじゃァないか、いまは。五十円取るとさあ。亭主ぶって五十円っ取られちゃ引合《あわ》ないって、こんだ品物替えちゃったの」
「何にしたの?」
「あァご亭主を壁へ押しつけといてね、山葵《わさび》おろしで顔をこすっちゃうんだって」
「泥棒猫だね、まるで。そんなばかなことはできゃしないよゥ。とにかく謝っておこうと思ってンのよゥ」
「ああ、そのほうが無事さァ。で、もしかいけないようだったら声をお掛け、あたしゃ飛んでってあげるから」
「あの、お寿司《すし》、だれが取ったの、お君さん? そいじゃ明日いっしょに勘定しますから、ごめんなさァい。……あ、お帰ンなさい。わるかったわねえ。火がなかったでしょう? ね? おまいさん、わるかったねえ、ちょいとォ……」
「…………」
「……どうかしたの? 心持ちがわりいの? どうしたのさァ、おまいさん、おまいさん」
「…………」
「……なにか咽喉《のど》ィひっかかってンの? ……どお……したてえのさァ、おまいさんっ」
「…………」
「わかった、怒ってンだろォ……? 怒ったってしょうがないじゃないか、あたしが遅くなっちゃったんだからさァ。だからおまいのほうが早かったら、なにか取ろうと思って来たの。……だけどもおまいさん、怒ってたほうがいいわよゥ。ふだんでれり[#「でれり」に傍点]ぼォ……っとしてる顔より、とても顔が締まってるわよ。もう一週間ばかり怒ってない?」
「そんなに怒ってたら、目がくたびれちゃうよ、おらァ。どこィ行ってたんだい?」
「芝居っ」
「軽いねえ、こいつァ。たいしたもんだよ。亭主が仕事ィ行って留守にかみさん、芝居《しべえ》見物か。……行くなじゃあないよ、行ったってかまわねえよ。手数のかからねえようにしてもらいてえねえ。仕事場から帰《けえ》って来て、こうやって湯ゥ沸かして飯《めし》を食うくれえなら、かみさんなんてものはいらねえンだから。芝居《しべえ》行ったっていいけども、あとがうるせえやァ。元《もと》さんは吉右衛門に似てますねって言やァン。三吉《さんき》っつァんは宗十郎に似てますね。……言われるたんびに、……肩身《かたみ》の狭《せめ》え亭主だっているン」
「だって似てェるからってねェ、だからさあ」
「褒《ほ》めんなじゃないよ。元さんは吉右衛門に似てよ、三吉っつァんは宗十郎に似てる。ものにはついで[#「ついで」に傍点]てえものがある。浮世にァ義理てえものがある。夫婦の仲には人情てえものがあるんだからなァ。何かお忘れものはござんせんか……ときやがらァ」
「いやだよ、おまえさんのことを褒めないって怒ってるの、そりゃ無理じゃァないがまさかうちの人をだれそれに似てェるって言えないじゃないか。だからねェ、よそのご亭主を褒めると向うのおかみさんたちが、おまえさんのことを褒めるだろうと思ってねえ。それとなく手を回しても向うが感じなきゃァしようがないや、あんただって似ているよ。あたしがいっしょにいるんだから……」
「ばかにすンない、こん畜生、催促されてから似ているってふざけるなよ」
「ほォーんとに、よく似てる。安心おしよ。似てるよ似てますよゥ」
「なに言ってやがンだい、似てるか……ほんとに似てンのかァ。へっへへェ、だれに似てんだよゥ。早く言って安心させろよ。だれに似てンだよっ」
「おまえさん、福助」
「あの役者のかァ?」
「なーに、今戸焼の福助だよ」