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輪(RINKAI)廻03

时间: 2019-11-21    进入日语论坛
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 人の記憶というのは曖昧でいい加減なものだった。「大久保東レジデンス」も四〇五号の部屋も、そして時枝も、香苗の記憶の中のそれと現実のそれとの間には、微妙な齟齬《そご》のようなものがあった。まるで現実に目にした途端にすべて乾涸《ひから》び、煤けて埃をかぶってしまったような感じ。むろん、十年の歳月というものが及ぼした影響は否めない。そのぶん、建物の外壁は雨風や汚れた空気に晒され、内壁は油や脂に燻《いぶ》され、水まわりは錆を含んだ澱《おり》に赤く染められた。時枝にしても同じことで、当然流れた月日のぶんだけ歳をとった。だが、時がもたらした変化とはまた別の、記憶違いのようなものが確かにあった気がする。恐らくは十年離れている間に頭の中で、香苗は現実とはやや異なるいくぶん美化された像を、知らず知らずに作り上げていたのだと思う。それでいて何分かそこに身を置き眺めていると、もともとそれが当然というように、たちまち感覚が現実の姿に馴染んでいく。ただし、馴染んでいく気持ちの中に、落胆に似た思いがないではなかった。落胆というよりも、失望を含んだ諦めというべきか。
物が多く、せせこましくて使い勝手のよくない薄暗いキッチン。ダイニングの床の趣味の悪いビニタイル。昔からある古ぼけた食器棚、テーブル、年季の入った電気炊飯器、冷蔵庫、電子レンジ……。換気が悪く、湿気が籠もって黴《かび》の出易い狭い風呂、洗面所。小さな穴蔵みたいな暗いトイレ。その隣の、四畳半もない時枝の衣装部屋兼ベッドルーム、ここは一日中、日がまったく差さない。南の和室は居間兼時枝の居室。その隣の洋間が、かつての香苗の部屋だった。覗いてみると、香苗が以前に使っていた洋服ダンスと本棚とが、昔のままに置かれていた。両方ともあちこち細かな傷がついているし、油と埃とが表面を覆って、今では薄いセピアの膜をかぶったような色合いになっている。その横には、香苗のスチール製の学習机までもがまだあった。懐かしい、とは思わなかった。それよりも、からだの内側からじんわり疲れが滲み出してくる。人生の仕切り直し──、そんな思いで東京に帰ってきた。けれども、待っていたのは薄汚れて埃をかぶった過去。何もかも新しくやり直すことなどできないのだと、鼻先に灰色の現実を突きつけられているような気分だった。
「その部屋を、あんたと真穂ちゃん、二人で使ってもらうより仕方がないんだけど」横から顔を覗かせて時枝が言った。「ご承知のように、何せここは狭いから」
「わかってる」香苗は答えた。「たいして荷物もないし、まずは母子二人寝られればそれで充分」
「タンスや棚の中のものは全部出した。一応掃除もしてある。でも、カーテンなんかは替えなかった。そのうち自分たちの好きなのを買えばいいかと思って」
ありがとう、と香苗は言った。何日か前までは、この洋間も時枝の物で埋まっていたのだろう。それを香苗たちのためにどこかへ動かし空けてくれたのに違いない。それだけでもありがたく思わなくてはいけないとわかってはいるのだが、からだの芯から勝手に滲み出す疲れは止められず、徐々に気力が失せていく。家は、思っていた以上に狭苦しく、物に溢れ、窮屈だった。天井が低く、空気が滞っているのも息苦しい。
「お茶、はいってる。先に飲んだらどう?」時枝が言った。「真穂ちゃんは何がいいんだかよくわからないんだけど、ジュースでもなんでも、あるものは好きに飲んで構わないから」
覗いてみると冷蔵庫には、いく種類かのジュースがはいっていた。どれも時枝が飲むものとは思えない。時枝は時枝で真穂のことを考えて、用意しておいてくれたのだろう。やはり時枝は真穂を待っていた、そう考えて、香苗は半ば強制的に自分自身を元気づけようとした。
「真穂。真穂は何をいただく?」気をとり直したような声で香苗は言った。
「真穂も今はお茶にする」
「お茶?」
「うん」真穂はにっこり笑って頷いた。「おばあちゃんが淹《い》れてくれたお茶を真穂もいただく」
わが子ながら、時として香苗も真穂には驚かされる。先刻までのくすんだ表情が信じられないような完璧な笑み。しかも滅多に緑茶など飲みたがらない真穂が、時枝の淹れたお茶を飲むという。この子はこの子なりに物事を考えて、そのうえでものを言っているのだと思うと逆に不憫を覚える。時枝はといえば、真穂にちらりと目を走らせはしたが言葉はなく、顔も能面のように動きがなかった。やはり真穂を見る目に温《ぬく》みはない。少なくとも、香苗の目にはそう映る。そのことが、香苗の想像と現実の一番大きな齟齬だったかもしれない。
やめて、おかあさん、そんな目をして真穂を見ないで。真穂はたった一人のおかあさんの孫。おかあさんは真穂がくるのを楽しみに待っていた。そうでしょ?……あえて時枝の顔には目を向けず、心の中で香苗は語りかける。そうしながら、自分の中によくない記憶が甦りつつあるのを何とか抑え込もうとしていた。あれは自分の僻《ひが》みだったのだと、香苗もここ数年でようやく、そう思うことができるようになっていた。記憶の中で家を美化していたのと同様に、やはり時枝のことも美化していたのだろうか。だんだん自信がなくなってくる。
時枝と香苗は、決して仲のよい母娘ではなかった。いつ、どうしてそうなってしまったのか、今となってはさだかでない。ただ、自分たちの暮らしが世間一般から見て普通でないと気がついた時、香苗の中で時枝との間に溝のようなものができた。だとすれば、溝を作ったのは香苗自身の心と言えるのかもしれない。だが、時枝もその溝を埋め、自分からこちらに歩み寄ってこようとする努力をしなかった。
大久保が、香苗の世界のすべてであった時期もあった。小学校や中学校の時、同じクラスには「ホテル麗羅」の娘がいたし、「ゲームセンターJ」の息子がいた。飲食店、水商売の息子や娘もいれば、競馬の予想屋、ゲーム喫茶のオーナー、ビニ本、アダルトビデオの取次店……もっと得体の知れない、子供には想像もつかないような商売の家の子供たちも大勢いた。ゲームセンターに出入りしてはいけないと注意した生活指導の教師に対して、「それじゃあ俺は家に帰れねえなぁ」とうそぶいてみせた春山秀浩、彼は今頃どうしているだろう。何でもありだし、どんな家庭もあり、それがこの街、大久保だった。むろん香苗のところのように、片親だけという家庭もあった。だから香苗も母娘二人という自分の生活形態を、とりたてて特別なこととは感じていなかった。仲がよかった森田美奈、彼女の家も母娘二人暮らしだった。家に遊びに行くと母親はたいがい留守で、雑然と物がひしめく狭いアパートの部屋にはタンスにはいりきらない派手なドレスが突っ張り棒にずらりと架けられていて、壮観だった。部屋には場違いな感じのする大きくて立派な三面鏡。その前に座ってホットカーラーで髪を巻いたり、化粧をしたり……それが香苗たちの密かな楽しいお遊びだった。お腹が空けば缶の中の菓子を勝手に食べた。与えられたいくつかの百円玉を手に、おでんを買いに走ったりもした。それが日常。
友だちは、何の前触れもなくこの街からいなくなることもあれば、降って湧いたようにやってくることもあった。そんなことなど日常茶飯事で、いちいち心を動かしてはいられなかった。だから森田美奈が不意に消えた時も、香苗はさして悲しんだりしなかった。今はもう、当時の同級生のほとんどが、この街から消えてしまったのではあるまいか。香苗にしても十年前には消えていたし、本来ここへ戻ってくるはずでもなかった。
当たり前の日常が当たり前と思えなくなったのは、高校に上がった頃のことだった。え、大久保? すごいところに住んでいるんだね。私、あんなところ怖くて一人じゃ歩けない……友だちからのそんな言われ方。朝、背広を着て会社に出かけて行くお父さんがいる。学校から帰れば、エプロン姿で迎えてくれるお母さんがいる。夕刻近くには夕餉《ゆうげ》の温《あたた》かな匂いが漂ってきて、階下から「ごはんよ」と呼ぶ声がする。兄弟姉妹揃って囲む夕飯の食卓。蜜柑色がかった温かみのある灯り、テーブルの上を往来《ゆきき》する声、笑いさざめき。親の関心はひとえに子供たちに向けられている。学校での生活、成績、進路、そして未来……。それが世の一般の家庭、生活なのだと知った時、香苗の中で一度にこれまでの常識が覆った。それにつれ、大久保という街が嫌いになった。時枝のことも嫌いになった。
かつて、マンションの横の通りの向かい角は、昔ながらの下宿屋タイプの木造二階建てのアパートだった。ひと部屋に七、八人ものアジア人が暮らしていて、一階入口の沓《くつ》脱ぎには、いつも何十足もの靴が脱ぎ散らかされて転がっていた。アパートの住人は、フィリピン人だったかと思うと韓国人になり、中国人だったかと思うとタイ人になっていたりする。ほかにも似たようなアパートがそこここにあったし、通りを一歩向こうへ渡ればラブホテルが軒を並べていた。そんなところで生活していれば、次第に子供の常識だって狂ってくる。親ならそれを心配してしかるべきだった。けれども時枝は、環境だの教育だのにはまるで関心のない母親だった。雨露凌げる家があって、命を繋ぐに充分な食べものがあり、着るものを着て学校に通えているのだからそれで充分──。広い世界に目を向けてみるならば、時枝の考え方は間違っていなかったのかもしれない。だが、豊かな日本社会にあっては、自分だけが蔑《ないがし》ろにされているようなやりきれなさを募らせざるを得なかった。
食べてはいても肉屋のコロッケ、メンチ、パン屋の店先で蒸《ふ》かした肉まん、餡まん。弁当さえもができあいの惣菜の詰め直し。調理パンを買えと、小銭を手渡されたこともある。母親手作りの手さげ袋など、一度として持たされた覚えがない。それどころか学校に持ってゆく雑巾さえもが、縫ってもいないただのタオルだった。確かに、働いて金を稼ぎ、香苗を食べさせ育てているのは時枝だった。香苗は短大にまで行かせてもらった。親の務めは充分果たしていたかもしれない。しかし、勝手に結婚をして子供を産み、離婚したのも時枝だった。自分はこの人の勝手に振りまわされて割を喰っている──、だんだんにそんな思いが膨らんできて、時枝に反発を覚えるようになっていった。世間を知り、世の常識というものに染まれば染まるほど、時枝に対する反発は、憎悪に近いものへと育っていった。「母親」という規格から大きく外れている時枝という母が、我慢ならないものに思えたのだ。
祖父母や伯父、伯母、いとこ……そんな逃げ場でもあればまた違っていたかもしれない。香苗にはそれすらなかった。時枝はかつて新潟の旧家に嫁いだ。しかし、その家との折り合いが悪く、香苗が生まれるとすぐに嫁ぎ先を飛び出して、東京へ出てきてしまった。三十二年前、時枝が二十七の時のことだ。嫁ぎ先の首藤《しゆどう》家とは完全に縁を切り、以来どんな交渉も持っていない。したがって、香苗は実の父親の顔を知らない。声を知らない。筆《て》も知らない。もともとあんたには父親なんていないのよ、それが時枝の言い種《ぐさ》だった。不可解なのは、その離婚を機に、時枝が自分の実家との縁まで絶ってしまったことだった。実家の山上家も、同じ新潟にあるらしい。ことによると山上家は、首藤の家になにがしかの借りなり恩義があったのかもしれない。首藤の家を飛び出したことで、時枝は山上の家の面目まで潰してしまった……。何ひとつ具体的には知らされていないから、詳しいことはわからない。知り得たことから推測するのみだ。いずれにしても香苗には、祖父母はもちろん親戚というものもきれいさっぱりまるでなかった。そのことの異常さには、子供の時分から気がついていた。
時枝は、自分の仕事についても一切話をしない母親だった。どういう仕事をしているのか、時枝の口から直接聞いたことは大人になるまでほとんどなかった。が、聞かなくても、時枝がこの街で何をして生きてきたかは自然と耳にはいってくるものだし、子供を抱えた女が一人、ここで金を稼ぐ方法だって限られている。時枝は始終かけ持ちで仕事をしていたし、ある程度金ができたらできたでその次は、金や人をまわす仕事にも手を出していた。店も持った。最後に落ち着いたのが、深夜営業の喫茶店。時枝は、一日過ごせば一日分、この街の匂いを身につけていく種類の人間だった。だからまるでこの街そのもの、猥雑で無秩序で、陽の当たる部分よりも闇の部分のほうが大きく勢いがある。時枝も、金を拾うためには一般社会のモラルなど平気で無視する夜光虫だった。そのことに何ら疑問を持たない時枝が、自分の母であることが香苗には堪えがたかった。早くこの街を出たいと思った。時枝から離れたいと思った。そして二十三の時に、結婚という形でそれを果たした。子供だったのだ。親に反発することも、反発をもとに自分の人生を決めてしまうことも、大人の人間がすることではない。人生、思いのままにいくものではない。香苗も遅まきながらそのことを悟った。だから今なら逆に、時枝とうまくやっていけそうな気がしていた。時枝も六十を機に店を人に任せ、少しはのんびりしようと思うと電話で香苗に語っていた。そんなことを言うのは時枝が歳をとった証拠、かつての母は金の気配がしただけでもぞもぞせずにはいられずに、常に何かにせきたてられるように動きまわっていた。時枝が若くて元気のよい時ならばともかくも、今なら実の娘と孫がすぐそばにいるということは、決して悪いことではないと考えた。老いていくこの先を考えれば、それは時枝にとっても喜ばしいことにちがいない。今度こそ、時枝との母娘関係をやり直すのだ。過去、確執はあった。そうはいっても時枝と香苗は実の母娘。真穂はたった一人の実の孫だ。血の繋がった女三世代水入らずの暮らしもきっといい。真穂は母娘の関係修復の、いわば切り札みたいなものだった。
「──さて、それじゃ私、ちょっと出かけてくるから」お茶を飲むのもそこそこに、時枝がやおら腰を上げた。
「え? 出かけるの?」驚いたように香苗は時枝を見た。
「うん。ちょっと人と会わなきゃならない用事ができちゃってね。冷蔵庫にあるもので夕飯作って、二人で勝手に食べてよ。外に食べに行くならそれでもいいし」
「……おかあさんは?」
「私は、外で済ませてくる」
「そう」薄ぼやけた失望が、靄の如く胸を漂い流れていく。「相変わらず、忙しいのね」
「まあ、何だかんだね」
「店、そろそろ人に任せることにしたんじゃなかったの?」
「もう半分任せてはいるのよ。だけど、何もかもすぐにっていう訳にはいかないし」
時枝は手早く身支度を済ませると、香苗と真穂を部屋に残し、そそくさと出かけてしまった。その様子は昨日までの日常そのまま、香苗や真穂が来たことぐらいでは時枝の営々たる日常は少しも揺るぎはしないという風情だった。
香苗の頬の筋肉が、自然とたるんで落ちていく。音のない溜息。せめて十年ぶりに再会した日の晩ぐらい、手作りのとまでは言わないものの、一緒に夕飯を摂るぐらいのことはできないものか。
時枝の日常に、自分の都合で勝手にはいり込んできたのは香苗のほうだ。だからこれもたぶん香苗のわがままだろう。頭では理解していても、少女時代に抱き続けていた感覚が、胸にまざまざ甦る。自分は時枝に愛されていない──、常に香苗が感じ続けてきた思い。ようやく忘れかけていたいやな肌の記憶だった。
おかあさん、私をあんまりがっかりさせないでよ……香苗は思わず心の中で呟いた。嫁ぎ先から子連れで家へ帰ってきた娘。久方ぶりの再会。過去の確執を越え、互いに腕をひろげ合い、血の絆を確かめ合う。娘を迎える母の深い眼差し、孫に向けられた手放しの笑顔。長年離れていたことが逆にもたらした互いへの深い理解。真穂を間に挟んだ、母、娘、孫、三人の、新たな真の家族関係。そんな香苗のシナリオが、再会して一時間経つか経たないかのうち、無残な形で崩れていく。それは香苗が自分一人で書いた、ひとりよがりのシナリオだったのかもしれない。しかしながら、失意の中で抱くことのできた唯一の希望だったし、常識を下敷きにした至極真っ当なシナリオのつもりでいた。
「おばあちゃん、名前、時枝っていうの?」不意に真穂が言った。
そうよ、と香苗が頷く。
「ふうん……私、会ったことあるよ」
「え?」思わず香苗の眉が寄る。「会ったことあるって、誰に?」
「だから……おばあちゃんに」
「まさか」
茨城に嫁いでからこの十年、母娘は完全なまでの没交渉にあった。時枝と真穂、二人が会うのは今日が初めてという事実に、間違いがはいり込む余地がない。
なのに真穂は言う。「でも真穂、おばあちゃんのこと知ってる」
「そんな訳ないんだけどな。会ったって真穂、それ、いつのこと?」
真穂はちょっと考えるような面持ちをして、黙ったままわずかに首を傾げた。何かを懸命に思い出そうとしているような、妙に大人びた顔つきだった。
「忘れちゃった」果てに真穂は言った。「とにかく、ずっとずっと前」
「ずっとずっと前って……」
「きっとおばあちゃんも、その時のこと覚えていると思うな」
話していると、香苗も真穂の拵えた話の迷路にはいり込みそうになる。不意に不憫さがこみ上げてきて、香苗は真穂の頭を腕で引き寄せるようにして、その長い髪を撫でた。
「やだ、おかあさん。なぁに、急に?」
「何でもない。ただ真穂がかわいい、かわいい、それだけのこと」
本当は、真穂を抱きしめ泣きたかった。可哀相な真穂、この子は病気なのだ。茨城の、あんな西納《にしのう》の家などで七年を過ごしたばっかりに、すっかり歪んで病気になってしまった。その病気が、この子に人には見えないものを見せ、ありもしない話をさせる。そのことも、香苗はまだ時枝に話せないままでいた。
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