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短大を出て二年働くか働かないかで香苗は西納誠治との結婚を決め、勤めていた保険会社を退職した。誠治とは、学生時代にサークル活動を通じて知り合った。茨城県O町の県議会議員の息子。土地で西納といえば昔からの名家で、誠治はそこの長男だった。O町は太平洋岸の漁港で、漁業、農業、それに観光が主な産業だ。夏は東京からの海水浴客も大勢やってくる。西納の家は代々漁協では力を持っていて、現在県議を務めている誠治の父親の治一郎《じいちろう》も、かつては魚協の理事をしていたし、現在も県議の仕事のかたわら、地元で海産物の加工食品の会社を営んでいる。誠治もまた、大学を卒業するとO町に帰り、祖父や父、それに叔父たちと同じように漁協に勤め始めた。誠治もいつまでも魚協にいるつもりはない。いずれは父と同じ道、地盤を引き継ぐ恰好で県議となり、加工食品会社をも受け継ぐ……彼の人生のレールは明確だった。一緒に走るに悪いレールではない、と香苗は思った。
一方、香苗の側は片親、当時時枝は喫茶店を経営していたが、水商売であることにはちがいない。また、喫茶店以前の仕事のほうが、あちらにとってはより問題だったろう。スナック、デートクラブ、個人金融……当然のように、西納の家は香苗との結婚には反対だった。誠治の母親のちずは、時枝が新潟の出身ということにまで難癖をつけた。新潟のどこがいけないのか……誠治に尋ねてみても、理由は釈然としなかった。ちず本人にも、自身の嫌悪の根拠がはっきりとしていない様子だった。要は香苗の何もかもが気に入らなかったのだと思う。それを押しての結婚。もともとが意に染まない嫌われ者の嫁だ、向こうで風当たりの強くない道理がない。ちずの当たりようはひと通りでなく、内心香苗を西納の嫁と認めてもいなかった。香苗の扱われ方は使用人以下、いや、人間以下だったと言っていい。それでいてふた言めには「西納の嫁、西納の嫁」と、香苗を忙殺しようとしているのではあるまいかと思うぐらいに、雑用の類は何でも押しつけた。いわば歯向かうことが許されない無報酬の家政婦だ。
それでも香苗は十年の間耐えた。この先も、いつの日か自分が西納の家の奥向きの実権を握る時を楽しみに、何が何でも頑張り抜くつもりでもいた。香苗の望みは誠治の妻になることでも西納の嫁になることでもなかった。西納の「奥様」になること。その道半ばにしての離婚。頑張りきれなかったのはそんな女の意地以上に、守らねばならない大切なものがあったからだ。真穂──。
生まれたばかりの頃は、ちずも真穂のことをかわいがっていた。何せ真穂は誠治の子、ちずの血を引く西納の子だ。加えて真穂は、掛け値なしにかわいらしい赤ん坊だった。まるでからだ全体が光に包まれているように金色の産毛が輝いて、この子は何か特別な子供ではあるまいかと思いたくなるほどに眩《まばゆ》かった。鬼でもない限り、あれだけ美しい赤ん坊を疎《うと》んじることなどできはしない。
物心つきだす時分になると、真穂には西納の人間としてどこに出しても恥ずかしくない娘になってもらわなければ困るからと、ちずは真穂に対する教育は自分がすると言いだした。たとえいかに厳しかろうと、教育、躾《しつけ》ならば、香苗だって文句は言わない。だが、それが躾という大義名分を持ったいじめに発展するのにそう時間はかからなかった。真穂の左利きが気に入らない。思い返すに、それがそもそもの始まりではなかったか。世の中には、先天的な左利きというのがいる。欧米ではそんなことなど当たり前で、ひとつの個性ぐらいにしか受け取られていない。日本でも近頃は左利き用の鋏や包丁が小売店で簡単に手にはいるぐらいに、普通のことになりつつある。だが、ちずは違った。
「西納に左利きの人間なんかいない。私の実家の久慈にもいない」
ちずは嫌悪の色をあらわにした。久慈家は水戸徳川家とは縁筋に当たる家柄、もとを糺《ただ》せば公家だという。それだけに、ちずが目の色変えて「左利き」を云々するというのは、香苗の血が賤しいがゆえと腐されているのも同然だった。その証拠に、ちずは真穂の左手を物差しでびしびし叩き、紐で括りつけて動きを封じてでも、左利きを直そうとした。
「人前で左手を使われでもした日には、私が恥を掻く」
先天性の左利きの無理な矯正は、子供の心身に影響を及ぼすこともある。じきに真穂は右手で箸や鉛筆を使おうとすると、手ががくがくと震えるようになった。それを止めようとして懸命になると、余計に震えが大きくなるばかりではなく、今度は目の下あたりに痙攣が走る。子供が顔を歪めて頬を痙攣させている様は、母親として見るに忍びないものがあった。
「本当に強情な子よ」
しかし、ちずに真穂の努力を評価する気持ちはまったくなかった。
「これだけ言い聞かせても、この子は私の見ていないところで左手を使う。そもそもこの子は性根が曲がっている。子供のくせに気持ちの悪いしなを作ったり、作り話をしたり……大人の顔色を見ておもねって、取り入ろうとする。かわいげがないばかりか品がない。見ていて私はぞっとする」
もしも真穂にちずの言うような点が少しでもあるとするならば、ああでもないこうでもないと真穂をいじくって、盆栽みたいに矮小歪曲させてしまったのは、ほかでもないちずだ。にもかかわらず、ちずは聞こえよがしに香苗に言った。「この子、本当に西納の血を引く、誠治の子供なのかしらね。だってこの子は誠治に全然似ていない。私にもお父さんにも誰にも似ていない。──そう言えば、真穂は香苗さんにも似ていないわねぇ。いったいどこの誰の血を、こんなにも濃く引いているのやら。孫が他人の顔をしているだなんて、情けなくて涙が出る」
確かに真穂は、誠治にも香苗にも似ていない。見ていて香苗自身、ふと不思議な思いに駆られることもなくはなかった。言うなれば真穂は、ふた親を越えた美しい見目形を神から授かって生まれてきた。が、むろん真穂は誠治と香苗の子供だ。そのことは、当然ちずにもわかっていただろう。ただ、ちずは香苗の神経を逆撫でする言葉を吐くことを、無上の喜びとしていた。それも細くて甲高い声を潜めるようにしてねちねちと、いつまでも際限なく言い続ける。本人は鈴の転がるような上品な声と思っているかもしれないが、あの声もまた、香苗の神経を逆撫でせずにはおかなかった。お蔭で香苗は言葉のお尻がぴゅっと持ち上がるような茨城弁独特の音感まで、すっかり嫌いになってしまった。今では茨城弁を耳にしただけで虫酸《むしず》が走る。いや、香苗自身の気持ちはどうでもよかった。自分が我慢しさえすれば済むことだ。気掛かりなのは真穂のこと、小学校に上がって間もなく、香苗は担任教諭から呼び出された。それが香苗に決断を迫り、結論と行動を急がせた。
「白昼夢を見ているようなというか、時々現実を離れて夢の中に行ってしまうみたいな感じがあるんです」小島という担任の女性教諭は香苗に言った。「そういう時話しかけると真穂ちゃんは、妙に大人びた物憑かれしたような表情をして、夢物語みたいな話をしとしと切れ目なく話すんです。その内容もおばあさんが殺されたとか殺したとか、子供のする話としては、あんまり穏やかなものじゃなくて……。おたくではそういうことありませんか?」
それだけではない。時にチックのような症状も見られるし、自分でも訳がわかっていないような魂の抜けた顔をして、黙々と花壇の花を引っこ抜いたり、池の金魚を捕まえては次々外に放り出したりもしているという。クラスで飼っていた文鳥がみんな水に浸けられて殺されるという事件もあったと、いくぶん遠慮がちに小島は言った。
「それも真穂がやったとおっしゃるんですか?」
「いえ、もちろんそうは申しません」
ただ、文鳥が殺されていた前の日の放課後、真穂が教室に一人残り、鳥籠をいじっているのを見た生徒はいたらしい。
「お勉強のほうは問題ありませんし、知能の発育は標準以上、むしろ他の子供よりも進んでいるぐらいでしょう」小島は言った。「ですから、たぶん精神的な問題かと……。差し出がましいようですが、一度その方面の専門家の方に、ご相談になってみてはいかがでしょう? 私も十年あまり教師をやってきて、真穂ちゃんのケースは放置しておいてはいけないような気がしましたので」
おばあさん、殺した……聞いていて、ちずのことだと香苗は思った。言葉や行動で直接反撃できないだけに、ちずに対する怒りや憎しみが真穂の中でおかしな形で捩じ曲げられ、時として不明な言動となって身の表面に浮かび上がってきているのだ。母親として、危機感を覚えた。このままでは真穂が壊れる──。むろん誠治にも相談した。しかし彼はまともに取り合おうとはしなかった。子供など、誰でも自分勝手な幻想の中で生きているものだ。大人になればどんなやつも、みんなそこそこまともになっている。何も神経質になりすぎることはない。
「だけどあなた、やはり放ってはおけないわ」香苗は言った。「このうえお義母《かあ》さまが真穂にますます厳しく接したら、あの子は本当におかしくなってしまう」
けれども誠治は言う。お袋の言うことなんか、適当に聞き流しておいたらいい。真穂だってじきに、そうすることを覚えるさ。現に俺がそうだった。お袋に面と向かってこの話をしてみろ、また血筋がどうのこうのとつまらないことを言いだすに決まっている。医者にかかるなんて言ったら最後、西納の家に精神科の医者にかかるような人間はいないとかなんとか、間違いなしに大騒ぎだ。その手のことを言われるとお前だって、いつも顔をひきつらせるじゃないか。そんなことは、何も気にすることはありゃしない。水戸徳川だの公家だのはお袋の十八番、真偽のほどだって定かじゃないんだ。仮に本当だったとしても、昔の権力者なんていわば殺し合いを繰り返して生き残ってきた人殺しだ。普通の農民、漁民のほうが、血はよっぽどきれいなんだから……。
口だけだった。香苗にはそう言っても、誠治自身が西納の血筋というものにおぶさって生きている。だから親の前に出ると、誠治は治一郎にもちずにもまるで頭の上がらぬ甚六になる。いつも口にするのは同じこと、気にするな、そればかりで自分は何も言わず、見ぬふりをする。香苗は、そんな誠治にほとほと愛想が尽きた。一度だって彼は、表立って香苗の味方をしてくれたことがない。庇《かば》ってくれたことさえない。しかも今回問題は、自分の娘にまで及んでいるというのにそれだ。
彼の父親としての自覚のなさ、男としての骨のなさが、許しがたいものに思われた。だから香苗は真穂を連れて家を出る決心をした。この時ばかりはかつてのちずの言葉を逆手に取り、頑として真穂に対する権利の主張はさせなかった。真穂が誠治の子供ではない、西納の家の人間ではないと言いだしたのはちずのほう、ならば真穂はあちらには縁のない子だ。真穂は香苗が自分の手で育てる。慰謝料も、養育費も、何もいらない。手もとに真穂が残ればそれでいい。
そうなってみると、年端《としは》のいかぬ子供を抱えた香苗が帰り得るところは、時枝のところよりほかになかった。反目していた母の許、嫌っていたはずの薄汚れた猥雑なふるさと、新宿、大久保。
誠治との結婚を決めた時、呆れたような顔を見せた後、冷たく鼻でせせら笑った母だった。
「茨城の旧家? あんた、そんなものに釣られたわけ? まったくおめでたいね。よくもそんなところに嫁に行こうと思うこと。あんたが先々食べていくのに困らないように、行きたいというだけ学校にも行かせてやったけど、結局何の意味もなかった訳だ。まったく、どうして苦労しに行くだけだってことがわからないんだか」
違う。香苗は自分がまともな家庭に育たなかったから、周囲からも一目置かれるような、どこから見ても真っ当な家に憧れたのだ。もちろん、誠治のことも好きだったが、地方の旧家、地元の実力者、県議の家……自分がそこの家の一員になれることが嬉しかった。確かに苦労はするかもしれない。それでもいずれは西納の家の奥様だ。誰もぞんざいには扱えない。そのはずだった。
西納の家が誠治との結婚を認めるに当たって、最終的にひとつの条件として提示してきたのが、「これまでの生活は完全に断ち、西納の家の人間になるよう努めること」だった。即ち、母とはいえ、時枝とのつき合いはするなということだ。迷わず香苗はそれを飲んだ。実の娘の香苗のみならず、西納の家からも嫌われ、拒絶された母、時枝。結果としての十年間の没交渉。
けれども時枝は、香苗が真穂を連れて家に帰りたいと言った時、呆っ気ないほど簡単に、香苗の願いを聞き入れた。
「いいわよ、別に。こっちはあんたとの縁を切った訳じゃなし。ただし、狭いの何のは言わないでよね。不自由は承知ということならば、私のほうは構わないわよ」
それ見たことか、案の定……その種のことはただのひと言も言わなかった。ありがたかった。やはり本当の母娘だからこそ許されるのだと、受話器を手に胸を熱くもした。そのぶん香苗はついつい期待して、ご都合主義のシナリオを書いてしまった。
思えば時枝も新潟の旧家に嫁ぎ、家との反《そ》りが合わずに乳呑み児を抱えて飛び出してきた身の上だった。流れ着いたところがこの大久保。身勝手だと反発を覚えていた母と、今自分が同じ道筋をたどろうとしていることに香苗は気がついた。因果なこと、と胸の内で小さく呟く。生き抜くため、時枝はこの街そっくりのふてぶてしさを身につけていった。あれも半分は、養い育てていかねばならない香苗が存在したがゆえのことだったのだろうか。
違う気がした。それにしては、時枝はいつも開き直っていた。いざとなったら平気で尻をまくって命を賭して勝負に出るような、一種捨て鉢な気迫と凄味があった。あれが子供を守ろうとしている母親の顔だろうか。時に香苗に向かって放たれる突き放したような冷やかな眼差し、香苗は幾度も心に冷水を浴びせかけられたような思いを味わった。時枝に母性というものはないと、確信していた時期もあった。少なくとも自分はこの人に愛されてはいない。西納の家での日々が幸せではなかったから、香苗は自分にいいように、そうした日々やかつてのつらく寂しい思いを、たぶん忘れてしまっていただけだった。ことによると時枝もこの十年の空白で、自分が香苗を少しも愛してはいないし、ただ反目し合っているだけの母娘だったということを、忘れていたのかもしれない。が、いざ実際顔を合わせて現実を共有した途端に、互いに思い出したという訳だ。愛していない、愛されていない──。これだから記憶というのはあてにならない。
それにしたって……と溜息混じりに香苗は思った。時枝も真穂のことだけは、無条件に受け入れてくれると思った。それ以外のことなどこれっぽっちも考えてはいなかった。人目を惹きつけ、魅了せずにはおかないぐらいに愛らしく、美しい子供。その真穂の魔力も、実の祖母である時枝相手には通用しなかったという訳だ。昔から何事にも動じず、怯まず、たじろぐことのなかった母。喰えないことこのうえない女。時枝がひと筋縄でいくような女でなかったことを、香苗はいまさらのように思い出していた。
一方、香苗の側は片親、当時時枝は喫茶店を経営していたが、水商売であることにはちがいない。また、喫茶店以前の仕事のほうが、あちらにとってはより問題だったろう。スナック、デートクラブ、個人金融……当然のように、西納の家は香苗との結婚には反対だった。誠治の母親のちずは、時枝が新潟の出身ということにまで難癖をつけた。新潟のどこがいけないのか……誠治に尋ねてみても、理由は釈然としなかった。ちず本人にも、自身の嫌悪の根拠がはっきりとしていない様子だった。要は香苗の何もかもが気に入らなかったのだと思う。それを押しての結婚。もともとが意に染まない嫌われ者の嫁だ、向こうで風当たりの強くない道理がない。ちずの当たりようはひと通りでなく、内心香苗を西納の嫁と認めてもいなかった。香苗の扱われ方は使用人以下、いや、人間以下だったと言っていい。それでいてふた言めには「西納の嫁、西納の嫁」と、香苗を忙殺しようとしているのではあるまいかと思うぐらいに、雑用の類は何でも押しつけた。いわば歯向かうことが許されない無報酬の家政婦だ。
それでも香苗は十年の間耐えた。この先も、いつの日か自分が西納の家の奥向きの実権を握る時を楽しみに、何が何でも頑張り抜くつもりでもいた。香苗の望みは誠治の妻になることでも西納の嫁になることでもなかった。西納の「奥様」になること。その道半ばにしての離婚。頑張りきれなかったのはそんな女の意地以上に、守らねばならない大切なものがあったからだ。真穂──。
生まれたばかりの頃は、ちずも真穂のことをかわいがっていた。何せ真穂は誠治の子、ちずの血を引く西納の子だ。加えて真穂は、掛け値なしにかわいらしい赤ん坊だった。まるでからだ全体が光に包まれているように金色の産毛が輝いて、この子は何か特別な子供ではあるまいかと思いたくなるほどに眩《まばゆ》かった。鬼でもない限り、あれだけ美しい赤ん坊を疎《うと》んじることなどできはしない。
物心つきだす時分になると、真穂には西納の人間としてどこに出しても恥ずかしくない娘になってもらわなければ困るからと、ちずは真穂に対する教育は自分がすると言いだした。たとえいかに厳しかろうと、教育、躾《しつけ》ならば、香苗だって文句は言わない。だが、それが躾という大義名分を持ったいじめに発展するのにそう時間はかからなかった。真穂の左利きが気に入らない。思い返すに、それがそもそもの始まりではなかったか。世の中には、先天的な左利きというのがいる。欧米ではそんなことなど当たり前で、ひとつの個性ぐらいにしか受け取られていない。日本でも近頃は左利き用の鋏や包丁が小売店で簡単に手にはいるぐらいに、普通のことになりつつある。だが、ちずは違った。
「西納に左利きの人間なんかいない。私の実家の久慈にもいない」
ちずは嫌悪の色をあらわにした。久慈家は水戸徳川家とは縁筋に当たる家柄、もとを糺《ただ》せば公家だという。それだけに、ちずが目の色変えて「左利き」を云々するというのは、香苗の血が賤しいがゆえと腐されているのも同然だった。その証拠に、ちずは真穂の左手を物差しでびしびし叩き、紐で括りつけて動きを封じてでも、左利きを直そうとした。
「人前で左手を使われでもした日には、私が恥を掻く」
先天性の左利きの無理な矯正は、子供の心身に影響を及ぼすこともある。じきに真穂は右手で箸や鉛筆を使おうとすると、手ががくがくと震えるようになった。それを止めようとして懸命になると、余計に震えが大きくなるばかりではなく、今度は目の下あたりに痙攣が走る。子供が顔を歪めて頬を痙攣させている様は、母親として見るに忍びないものがあった。
「本当に強情な子よ」
しかし、ちずに真穂の努力を評価する気持ちはまったくなかった。
「これだけ言い聞かせても、この子は私の見ていないところで左手を使う。そもそもこの子は性根が曲がっている。子供のくせに気持ちの悪いしなを作ったり、作り話をしたり……大人の顔色を見ておもねって、取り入ろうとする。かわいげがないばかりか品がない。見ていて私はぞっとする」
もしも真穂にちずの言うような点が少しでもあるとするならば、ああでもないこうでもないと真穂をいじくって、盆栽みたいに矮小歪曲させてしまったのは、ほかでもないちずだ。にもかかわらず、ちずは聞こえよがしに香苗に言った。「この子、本当に西納の血を引く、誠治の子供なのかしらね。だってこの子は誠治に全然似ていない。私にもお父さんにも誰にも似ていない。──そう言えば、真穂は香苗さんにも似ていないわねぇ。いったいどこの誰の血を、こんなにも濃く引いているのやら。孫が他人の顔をしているだなんて、情けなくて涙が出る」
確かに真穂は、誠治にも香苗にも似ていない。見ていて香苗自身、ふと不思議な思いに駆られることもなくはなかった。言うなれば真穂は、ふた親を越えた美しい見目形を神から授かって生まれてきた。が、むろん真穂は誠治と香苗の子供だ。そのことは、当然ちずにもわかっていただろう。ただ、ちずは香苗の神経を逆撫でする言葉を吐くことを、無上の喜びとしていた。それも細くて甲高い声を潜めるようにしてねちねちと、いつまでも際限なく言い続ける。本人は鈴の転がるような上品な声と思っているかもしれないが、あの声もまた、香苗の神経を逆撫でせずにはおかなかった。お蔭で香苗は言葉のお尻がぴゅっと持ち上がるような茨城弁独特の音感まで、すっかり嫌いになってしまった。今では茨城弁を耳にしただけで虫酸《むしず》が走る。いや、香苗自身の気持ちはどうでもよかった。自分が我慢しさえすれば済むことだ。気掛かりなのは真穂のこと、小学校に上がって間もなく、香苗は担任教諭から呼び出された。それが香苗に決断を迫り、結論と行動を急がせた。
「白昼夢を見ているようなというか、時々現実を離れて夢の中に行ってしまうみたいな感じがあるんです」小島という担任の女性教諭は香苗に言った。「そういう時話しかけると真穂ちゃんは、妙に大人びた物憑かれしたような表情をして、夢物語みたいな話をしとしと切れ目なく話すんです。その内容もおばあさんが殺されたとか殺したとか、子供のする話としては、あんまり穏やかなものじゃなくて……。おたくではそういうことありませんか?」
それだけではない。時にチックのような症状も見られるし、自分でも訳がわかっていないような魂の抜けた顔をして、黙々と花壇の花を引っこ抜いたり、池の金魚を捕まえては次々外に放り出したりもしているという。クラスで飼っていた文鳥がみんな水に浸けられて殺されるという事件もあったと、いくぶん遠慮がちに小島は言った。
「それも真穂がやったとおっしゃるんですか?」
「いえ、もちろんそうは申しません」
ただ、文鳥が殺されていた前の日の放課後、真穂が教室に一人残り、鳥籠をいじっているのを見た生徒はいたらしい。
「お勉強のほうは問題ありませんし、知能の発育は標準以上、むしろ他の子供よりも進んでいるぐらいでしょう」小島は言った。「ですから、たぶん精神的な問題かと……。差し出がましいようですが、一度その方面の専門家の方に、ご相談になってみてはいかがでしょう? 私も十年あまり教師をやってきて、真穂ちゃんのケースは放置しておいてはいけないような気がしましたので」
おばあさん、殺した……聞いていて、ちずのことだと香苗は思った。言葉や行動で直接反撃できないだけに、ちずに対する怒りや憎しみが真穂の中でおかしな形で捩じ曲げられ、時として不明な言動となって身の表面に浮かび上がってきているのだ。母親として、危機感を覚えた。このままでは真穂が壊れる──。むろん誠治にも相談した。しかし彼はまともに取り合おうとはしなかった。子供など、誰でも自分勝手な幻想の中で生きているものだ。大人になればどんなやつも、みんなそこそこまともになっている。何も神経質になりすぎることはない。
「だけどあなた、やはり放ってはおけないわ」香苗は言った。「このうえお義母《かあ》さまが真穂にますます厳しく接したら、あの子は本当におかしくなってしまう」
けれども誠治は言う。お袋の言うことなんか、適当に聞き流しておいたらいい。真穂だってじきに、そうすることを覚えるさ。現に俺がそうだった。お袋に面と向かってこの話をしてみろ、また血筋がどうのこうのとつまらないことを言いだすに決まっている。医者にかかるなんて言ったら最後、西納の家に精神科の医者にかかるような人間はいないとかなんとか、間違いなしに大騒ぎだ。その手のことを言われるとお前だって、いつも顔をひきつらせるじゃないか。そんなことは、何も気にすることはありゃしない。水戸徳川だの公家だのはお袋の十八番、真偽のほどだって定かじゃないんだ。仮に本当だったとしても、昔の権力者なんていわば殺し合いを繰り返して生き残ってきた人殺しだ。普通の農民、漁民のほうが、血はよっぽどきれいなんだから……。
口だけだった。香苗にはそう言っても、誠治自身が西納の血筋というものにおぶさって生きている。だから親の前に出ると、誠治は治一郎にもちずにもまるで頭の上がらぬ甚六になる。いつも口にするのは同じこと、気にするな、そればかりで自分は何も言わず、見ぬふりをする。香苗は、そんな誠治にほとほと愛想が尽きた。一度だって彼は、表立って香苗の味方をしてくれたことがない。庇《かば》ってくれたことさえない。しかも今回問題は、自分の娘にまで及んでいるというのにそれだ。
彼の父親としての自覚のなさ、男としての骨のなさが、許しがたいものに思われた。だから香苗は真穂を連れて家を出る決心をした。この時ばかりはかつてのちずの言葉を逆手に取り、頑として真穂に対する権利の主張はさせなかった。真穂が誠治の子供ではない、西納の家の人間ではないと言いだしたのはちずのほう、ならば真穂はあちらには縁のない子だ。真穂は香苗が自分の手で育てる。慰謝料も、養育費も、何もいらない。手もとに真穂が残ればそれでいい。
そうなってみると、年端《としは》のいかぬ子供を抱えた香苗が帰り得るところは、時枝のところよりほかになかった。反目していた母の許、嫌っていたはずの薄汚れた猥雑なふるさと、新宿、大久保。
誠治との結婚を決めた時、呆れたような顔を見せた後、冷たく鼻でせせら笑った母だった。
「茨城の旧家? あんた、そんなものに釣られたわけ? まったくおめでたいね。よくもそんなところに嫁に行こうと思うこと。あんたが先々食べていくのに困らないように、行きたいというだけ学校にも行かせてやったけど、結局何の意味もなかった訳だ。まったく、どうして苦労しに行くだけだってことがわからないんだか」
違う。香苗は自分がまともな家庭に育たなかったから、周囲からも一目置かれるような、どこから見ても真っ当な家に憧れたのだ。もちろん、誠治のことも好きだったが、地方の旧家、地元の実力者、県議の家……自分がそこの家の一員になれることが嬉しかった。確かに苦労はするかもしれない。それでもいずれは西納の家の奥様だ。誰もぞんざいには扱えない。そのはずだった。
西納の家が誠治との結婚を認めるに当たって、最終的にひとつの条件として提示してきたのが、「これまでの生活は完全に断ち、西納の家の人間になるよう努めること」だった。即ち、母とはいえ、時枝とのつき合いはするなということだ。迷わず香苗はそれを飲んだ。実の娘の香苗のみならず、西納の家からも嫌われ、拒絶された母、時枝。結果としての十年間の没交渉。
けれども時枝は、香苗が真穂を連れて家に帰りたいと言った時、呆っ気ないほど簡単に、香苗の願いを聞き入れた。
「いいわよ、別に。こっちはあんたとの縁を切った訳じゃなし。ただし、狭いの何のは言わないでよね。不自由は承知ということならば、私のほうは構わないわよ」
それ見たことか、案の定……その種のことはただのひと言も言わなかった。ありがたかった。やはり本当の母娘だからこそ許されるのだと、受話器を手に胸を熱くもした。そのぶん香苗はついつい期待して、ご都合主義のシナリオを書いてしまった。
思えば時枝も新潟の旧家に嫁ぎ、家との反《そ》りが合わずに乳呑み児を抱えて飛び出してきた身の上だった。流れ着いたところがこの大久保。身勝手だと反発を覚えていた母と、今自分が同じ道筋をたどろうとしていることに香苗は気がついた。因果なこと、と胸の内で小さく呟く。生き抜くため、時枝はこの街そっくりのふてぶてしさを身につけていった。あれも半分は、養い育てていかねばならない香苗が存在したがゆえのことだったのだろうか。
違う気がした。それにしては、時枝はいつも開き直っていた。いざとなったら平気で尻をまくって命を賭して勝負に出るような、一種捨て鉢な気迫と凄味があった。あれが子供を守ろうとしている母親の顔だろうか。時に香苗に向かって放たれる突き放したような冷やかな眼差し、香苗は幾度も心に冷水を浴びせかけられたような思いを味わった。時枝に母性というものはないと、確信していた時期もあった。少なくとも自分はこの人に愛されてはいない。西納の家での日々が幸せではなかったから、香苗は自分にいいように、そうした日々やかつてのつらく寂しい思いを、たぶん忘れてしまっていただけだった。ことによると時枝もこの十年の空白で、自分が香苗を少しも愛してはいないし、ただ反目し合っているだけの母娘だったということを、忘れていたのかもしれない。が、いざ実際顔を合わせて現実を共有した途端に、互いに思い出したという訳だ。愛していない、愛されていない──。これだから記憶というのはあてにならない。
それにしたって……と溜息混じりに香苗は思った。時枝も真穂のことだけは、無条件に受け入れてくれると思った。それ以外のことなどこれっぽっちも考えてはいなかった。人目を惹きつけ、魅了せずにはおかないぐらいに愛らしく、美しい子供。その真穂の魔力も、実の祖母である時枝相手には通用しなかったという訳だ。昔から何事にも動じず、怯まず、たじろぐことのなかった母。喰えないことこのうえない女。時枝がひと筋縄でいくような女でなかったことを、香苗はいまさらのように思い出していた。