20
途中一度、真穂の様子を見に行った。少し疲れたのか、真穂はよく寝ていた。旅に疲れたのではなく、別の人間をもう一人抱え込んでいることに、からだがくたびれているのかもしれない。
ダイニングに戻って時枝に尋ねる。「お茶でも淹れようか?」
「お酒のほうがいいよ。水割りか何か」
「そうね、お酒のほうがいいわね」
棚からウィスキーの瓶を出す。夏の夜、古くなったクーラーのモーターの音だけが響いている。
作田は、八木沢地区でも貧しい農家の三男だった。彼に割り当てられた土地は蓮根畑。それも猫の額のような狭い沼地でしかない。作田は子供の頃からその沼で、いつも腰まで泥水に浸かって蓮根を掘っていた。日々泥水に浸かる暮らしを続けていても、その畑の広さではたいした収入にもならない。大きな田畑を抱える首藤の家では、そんな作田を折々仕事に駆り出した。
「年中ぴいぴいしている痩せ蛙みたいな作田を、いい手間賃を弾むようなことを言って駆り出すんだ。そのくせいざとなると、涙銭か小遣い銭程度の金しか渡さない、いつものいちのさんのやり方さ」
「それはいちのさんが無類の吝嗇家だったから?」
「それもあるけど、たぶん楽しんで見ていたんだと思うよ。毎度毎度金に釣られてのこのこやってくるもの欲しそうな作田の顔や、涙銭に肩を落として帰る作田の後ろ姿を。なにせ底意地の悪い人だったからね、あの人は」
その日作田は偶然に、いちのが山菜を採りに裏山にはいっていくのを見かけた。しめたとばかりに足音を殺し、あとを尾ける。貧農の小伜と見くびられ、これまでさんざん煮え湯を飲まされてきた。尾けて行けば、いちのが山の宝と言っている山菜の群生地がわかる。それを突き止め、翌年から山菜が生えてこないぐらいに根こそぎにしてやるのだ──。ところが低木の茂みに身を潜めて様子をうかがっていると、思いもしなかった事態が展開した。いちのを追うように山にはいってきた時枝といちのの激しい罵り合い、その果ての事件。
「それでも作田は黙っていた。警察に喋ろうが誰に喋ろうが、自分の得にはならないものね。ただ私には、自分は知っているってことは匂わせてたね。それもあって、私は急いで村を出ることにしたんだよ」
行くあてはなかった。ただ漠然と、東京へ行けば何とかなるのではないかと考えた。東京なら、人込みに身を紛らわせてしまうこともできると思った。
「それで新宿にきたの……」
「新宿しか知らなかったんだよ。当時大久保にはまだ木賃宿みたいな安宿や下宿屋みたいな木造のアパートがたくさんあって……だから私は新宿で働きながら、大久保で暮らすことにしたんだ」
ところが、それから三ヵ月もしないうちに、時枝を追って作田がきた。アパートを訪ねてきた作田の顔を見た時は、現実に目の前が暗くなった。ようやく振り切ったと思った過去が、墓場から甦って追いついてきたような心地。
それからが、作田にたかられる生活の始まりだった。作田はまるでヒモのように、時枝が稼いだ金を巻き上げる。作田に金を渡しながら子供を育て、自分も食べていくためには、より実入りのいい稼業《しようばい》、より実入りのいい稼業を、なりふり構わず選んでいくより仕方がなかった。
「だけどあいつの要求は際限がなかった。何年かこの街で暮らすうち、作田はすっかりここの水に馴染んで、金の作り方も覚えていった。自分も泥水ではさんざんいやな思いをしてきたくせに、あいつは泥水かぶるような商売を、今度は私にやらせるようになったんだ」
マッサージ嬢の派遣、キャッチバー、デートクラブ、闇金融……店の名義はみんな時枝だったし、実質的に運営していたのも時枝だ。しかし上がりのほとんどは、作田の懐《ふところ》にはいっていた。
ここでも香苗の認識には錯誤があった。使われていたのは作田ではなく時枝。いつか春山が、時枝は儲けた金をどうしたのだろう、と首を傾げていたが、荒稼ぎしていたようでいて時枝の懐具合がよかったことなど、これまで一度もなかったということだ。
「十五年間は、あいつに吸い上げられっ放しだった」時枝は言った。「つまり時効が来るまではさ。結果、私の手元に残ったのは、今のあの喫茶店ひとつだけ」
ずっと賃貸マンションに住み続けてきたのも、ひとつにはまとまった金がなかったからだし、いざという時には後先構わず逃げ出さなくてはならなくなるかもしれないという思いがあったからだ。
「知らなかった……」
「そりゃ知らなかっただろうよ。あんたにはこんなこと、一生知らせるつもりはなかったもの」
作田の望みは、故郷の八木沢地区に首藤の家にも負けない大きな家を建てること。土地での発言権を持ち、実権を握ること。ずっと故郷の村で冷飯を喰わされ続け、人から歯牙にもかけられずにきた貧農の三男坊にとっては、それが一等胸のすくことだったのかもしれない。
「大きな家も建てた。今じゃ向こうで商売もやっている。あいつの望みはだいたいかなったという訳よ」時枝は水割りで口を湿らせた。「だけど手にはいらないものもある。ここに来て作田もそのことに気がつき始めたんだろう」
金では手に入れられないもの、それは歴史だ。首藤の家と作田の家とでは、歴史も格も違う。いかに大きな家を建てようとも、何百年も生き続けていた家とでは勝負にならないし、蔵を建てても入れるものがない。
「結局、自分の本当に欲しいものは首藤の家そのものだったということに気がついたんだよ。道具や家といった形ある歴史、それに血筋という目には見えない歴史」
「悪いことにそこに私が現れて、おまけにいちのさんそっくりの真穂を見せてしまったのね」
今、首藤の家には跡取りがいない。そこに真穂がはいり込む余地があると、恐らく作田は踏んだのだろう。
「あの男が最終的にしたいと思っているのは、血消《ちげ》るということなのかもしれないね」
「血消る?」
「戦国武将のよくしていたことよ。よい家柄にはいり込んで家を乗っ取って、やがては自分がその姓を名乗り、家系図にもはいり込む。そんなふうにして卑しい自分の出自を消してしまうということね」
それが長年踏みつけにされてきた男の夢であり復讐なのかもしれない。理解はできる。だからと言って許すことはできない。自分の欲望のため、長年時枝を喰いものにし続けたこと、今度は真穂を喰いものにしようとしていること。紳士ぶったその顔が余計に憎い。
過去、時枝が香苗に対して強い愛着を抱き得なかったのは、香苗が時枝の子供であると同時にいちのの血を引く子でもあったからだ。殺さずにはいられなかったほど憎い女の血を引いているということもある。それ以上に、この子の祖母を殺したということを、香苗の顔を見るたびにある種の負い目を持って思い出さざるを得ない。だから逆にどこか開き直ったようにしていなくては、香苗を育てながらやっていけなかった。加えて香苗に対して強い愛着を持てば、それは時枝の弱点になる。ちょっとでも弱みを見せれば、すぐに作田はつけ込んでくる。
時枝のふてぶてしさは、この街で生きていくうちに身につけたしたたかさからくるものではなく、ぎりぎりのところにまで追い込まれた人間が肚を括った時に見せるふてぶてしさだった。哀しき傀儡《かいらい》、今、香苗が知った母の実像は、そう呼ぶにふさわしい。実の娘に喰えない女と思われても、言い訳することすら許されなかった時枝──。自然と目の縁が熱くなり、目の前を霞ませるように涙が滲んでくる。今夜は咽喉の渇きに促されて、いったい何杯水割りを飲んだことだろう。けれども少しも酔いはまわってこない。夏の夜は、はや白々と明けていく。
「浅野|内匠頭《たくみのかみ》とおんなじだよ」自らを嗤うような面持ちをして時枝は言った。「殿、ご短慮でしたな、ってやつ。私の我慢が足りなかったばっかりに、あんたにも真穂ちゃんにも、結局ツケを負わせてる」
「そんなこと……」
「初めて真穂ちゃんを見た時は、心臓が潰れるかと思うぐらいに驚いた。真穂ちゃんはいちのさんに生き写し。歳の差があるだろうにと思うかもしれないけど、いちのさんというのは妖怪みたいな人でね、歳がいっても見た目には、童女みたいな無垢さのあった人なのよ。おまけに真穂ちゃんも左利き。いちのさんと同じだった」
「左利き──、いちのさんも」思わず香苗は目を見開いた。
時枝も、のりうつった相手が真穂でなければ、再びいちのと対決していたかもしれない。けれどもそれが自分の孫娘では、罵るいちのを黙らせようと、平手で頬を張ることさえできない。逃げ場のない愛憎の板挟み、とことん時枝を苦しめようとしている。それがいちのの策略だとすれば、やはりいちのというのは恐ろしい。
「ごめんなさい。私、何も知らずに誤解してた」
「馬鹿だね。悪いのはこの私だって言った。すべての原因は、この私が作ったんだから」
三十年余りもたった二人きりの母娘として過ごしながら、ここにきてはじめてわかり合えた。感動に似た思いが香苗の胸にひろがる。しかし、抱え込んでしまっている問題があまりに大きすぎた。時枝と香苗は一緒に暮らせる。二人だけなら、これから先はうまくやっていけるだろう。けれども時枝と真穂は一緒に暮らせない。いちのが真穂に宿っている以上は仇同士、ともに過ごせばさらなる不幸が二人を見舞う。だとすれば、香苗は真穂を伴《ともな》って、時枝の許から去ってゆくより仕方がない。ようやくにして母の胸の痛み、苦しみがわかり、心通じ合ったというのに。
「真穂からいちのさんを追い出す方法はないのかしら……」香苗は言った。
「たぶん無理だろうね。あの人は、生きていた時から人並みはずれて執念深かった」
作田が真穂なら首藤の家に押し込めると思った理由のひとつには、当時村の人間誰しもが、いちのに対して抱いていた畏怖に近い心情というものがあった。村には陰で首藤の家のことを、「物持ち筋」と呼ぶ者もいた。物持ち筋、家に狐だの蛇だのの霊が憑いた家。物持ち筋は不思議と栄える。また、物持ち筋の人間は、家に憑いている霊を使役できるから、下手に歯向かったりすれば反対に、訳のわからない業病や災難をもたらされたりと、ひどいしっぺ返しを受けることになる。いちのは、その象徴のような女だった。見た目には、いちのはなかなか歳をとらない。何故かいちのに命令されると身が竦んだようになって、誰も面と向かって文句が言えなくなる。いちのがただの女ならば、いかに相手が豪農の娘であれ、誰一人として逆らえなかったということはないだろう。病的な虚言癖があり、底意地が悪いというだけでなく、人はいちのの性分の底に、動物の霊、憑き物を見ていた。そのいちのの生まれ変わりのような真穂を連れていけば、当然往時を知る人は震え上がる。いちのの再来、化け物の甦り。真穂の後見人のような立場に納まれば、作田に対してもケチがつけられなくなる。作田の目には、真穂が恰好の傀儡と映ったに相違ない。よもや本当にいちのがその身にのりうつっているとも思わずに。
時枝の口からいちのの話を聞くうちに、香苗は次第に自分の血が、ぬくもりを失い冷えていくような心地がした。真穂の虚言癖、左利き、O町の小学校であった小動物に対する虐待……認めたくはない。でも、確かに似ている。動物霊がとり憑いていると恐れられていたいちのが真穂の中にいると思うと、母親でありながら香苗は、怖気をふるわずにはいられなかった。
「それじゃ真穂は、一生いちのさんを抱え続けて生きていくことになるの?」ひとりでに低くか細くなる声で香苗は言った。
「いや」いくぶん目を伏せ気味にしながら、時枝は首を横に振った。「あの人の出てきた目的は私にある。私が死ねば、たぶんあの人も消えるだろう。真穂ちゃんのことを考えるなら、私は早くあの世へいったほうがいいんだ」
「おかあさん、そんなことを言わないで」
「本当ならばあの人に殺されてやるのが一番なのかもしれない。だけど、そういう訳にはいかない。あの人が私を殺すということは、真穂ちゃんが私を殺すということだ。真穂ちゃんにそんな恐ろしい罪を背負わせたくはないよ。そんな罪を背負うのは、私だけで充分だ」
「いずれにしても私たち、これから一緒には暮らせないということね」
「そういうことになるんだろうね。このまま一緒に暮らしていたら、いつかきっと何かが起きる」
自分でも予想もしていなかったことだったが、香苗の口から不意に嗚咽《おえつ》が漏れた。一度声を上げて泣き出してしまうと、発作のように身の内側からしゃくり上げてきて、涙と震えが止まらない。
時枝がぽんぽん、と香苗の背中を叩き、はは、と笑った。「知らなかった、あんた、泣き上戸だったんだ」
「おかあさんたら……」
完全に日がのぼり、あたりが明るくなってしまってから、二人はそれぞれに自分の寝床についた。真穂は深い眠りの中にある。眠っている時だけが平和──、香苗は真穂がまだ赤ん坊だった頃に思ったことを、久し振りに思い出していた。
ダイニングに戻って時枝に尋ねる。「お茶でも淹れようか?」
「お酒のほうがいいよ。水割りか何か」
「そうね、お酒のほうがいいわね」
棚からウィスキーの瓶を出す。夏の夜、古くなったクーラーのモーターの音だけが響いている。
作田は、八木沢地区でも貧しい農家の三男だった。彼に割り当てられた土地は蓮根畑。それも猫の額のような狭い沼地でしかない。作田は子供の頃からその沼で、いつも腰まで泥水に浸かって蓮根を掘っていた。日々泥水に浸かる暮らしを続けていても、その畑の広さではたいした収入にもならない。大きな田畑を抱える首藤の家では、そんな作田を折々仕事に駆り出した。
「年中ぴいぴいしている痩せ蛙みたいな作田を、いい手間賃を弾むようなことを言って駆り出すんだ。そのくせいざとなると、涙銭か小遣い銭程度の金しか渡さない、いつものいちのさんのやり方さ」
「それはいちのさんが無類の吝嗇家だったから?」
「それもあるけど、たぶん楽しんで見ていたんだと思うよ。毎度毎度金に釣られてのこのこやってくるもの欲しそうな作田の顔や、涙銭に肩を落として帰る作田の後ろ姿を。なにせ底意地の悪い人だったからね、あの人は」
その日作田は偶然に、いちのが山菜を採りに裏山にはいっていくのを見かけた。しめたとばかりに足音を殺し、あとを尾ける。貧農の小伜と見くびられ、これまでさんざん煮え湯を飲まされてきた。尾けて行けば、いちのが山の宝と言っている山菜の群生地がわかる。それを突き止め、翌年から山菜が生えてこないぐらいに根こそぎにしてやるのだ──。ところが低木の茂みに身を潜めて様子をうかがっていると、思いもしなかった事態が展開した。いちのを追うように山にはいってきた時枝といちのの激しい罵り合い、その果ての事件。
「それでも作田は黙っていた。警察に喋ろうが誰に喋ろうが、自分の得にはならないものね。ただ私には、自分は知っているってことは匂わせてたね。それもあって、私は急いで村を出ることにしたんだよ」
行くあてはなかった。ただ漠然と、東京へ行けば何とかなるのではないかと考えた。東京なら、人込みに身を紛らわせてしまうこともできると思った。
「それで新宿にきたの……」
「新宿しか知らなかったんだよ。当時大久保にはまだ木賃宿みたいな安宿や下宿屋みたいな木造のアパートがたくさんあって……だから私は新宿で働きながら、大久保で暮らすことにしたんだ」
ところが、それから三ヵ月もしないうちに、時枝を追って作田がきた。アパートを訪ねてきた作田の顔を見た時は、現実に目の前が暗くなった。ようやく振り切ったと思った過去が、墓場から甦って追いついてきたような心地。
それからが、作田にたかられる生活の始まりだった。作田はまるでヒモのように、時枝が稼いだ金を巻き上げる。作田に金を渡しながら子供を育て、自分も食べていくためには、より実入りのいい稼業《しようばい》、より実入りのいい稼業を、なりふり構わず選んでいくより仕方がなかった。
「だけどあいつの要求は際限がなかった。何年かこの街で暮らすうち、作田はすっかりここの水に馴染んで、金の作り方も覚えていった。自分も泥水ではさんざんいやな思いをしてきたくせに、あいつは泥水かぶるような商売を、今度は私にやらせるようになったんだ」
マッサージ嬢の派遣、キャッチバー、デートクラブ、闇金融……店の名義はみんな時枝だったし、実質的に運営していたのも時枝だ。しかし上がりのほとんどは、作田の懐《ふところ》にはいっていた。
ここでも香苗の認識には錯誤があった。使われていたのは作田ではなく時枝。いつか春山が、時枝は儲けた金をどうしたのだろう、と首を傾げていたが、荒稼ぎしていたようでいて時枝の懐具合がよかったことなど、これまで一度もなかったということだ。
「十五年間は、あいつに吸い上げられっ放しだった」時枝は言った。「つまり時効が来るまではさ。結果、私の手元に残ったのは、今のあの喫茶店ひとつだけ」
ずっと賃貸マンションに住み続けてきたのも、ひとつにはまとまった金がなかったからだし、いざという時には後先構わず逃げ出さなくてはならなくなるかもしれないという思いがあったからだ。
「知らなかった……」
「そりゃ知らなかっただろうよ。あんたにはこんなこと、一生知らせるつもりはなかったもの」
作田の望みは、故郷の八木沢地区に首藤の家にも負けない大きな家を建てること。土地での発言権を持ち、実権を握ること。ずっと故郷の村で冷飯を喰わされ続け、人から歯牙にもかけられずにきた貧農の三男坊にとっては、それが一等胸のすくことだったのかもしれない。
「大きな家も建てた。今じゃ向こうで商売もやっている。あいつの望みはだいたいかなったという訳よ」時枝は水割りで口を湿らせた。「だけど手にはいらないものもある。ここに来て作田もそのことに気がつき始めたんだろう」
金では手に入れられないもの、それは歴史だ。首藤の家と作田の家とでは、歴史も格も違う。いかに大きな家を建てようとも、何百年も生き続けていた家とでは勝負にならないし、蔵を建てても入れるものがない。
「結局、自分の本当に欲しいものは首藤の家そのものだったということに気がついたんだよ。道具や家といった形ある歴史、それに血筋という目には見えない歴史」
「悪いことにそこに私が現れて、おまけにいちのさんそっくりの真穂を見せてしまったのね」
今、首藤の家には跡取りがいない。そこに真穂がはいり込む余地があると、恐らく作田は踏んだのだろう。
「あの男が最終的にしたいと思っているのは、血消《ちげ》るということなのかもしれないね」
「血消る?」
「戦国武将のよくしていたことよ。よい家柄にはいり込んで家を乗っ取って、やがては自分がその姓を名乗り、家系図にもはいり込む。そんなふうにして卑しい自分の出自を消してしまうということね」
それが長年踏みつけにされてきた男の夢であり復讐なのかもしれない。理解はできる。だからと言って許すことはできない。自分の欲望のため、長年時枝を喰いものにし続けたこと、今度は真穂を喰いものにしようとしていること。紳士ぶったその顔が余計に憎い。
過去、時枝が香苗に対して強い愛着を抱き得なかったのは、香苗が時枝の子供であると同時にいちのの血を引く子でもあったからだ。殺さずにはいられなかったほど憎い女の血を引いているということもある。それ以上に、この子の祖母を殺したということを、香苗の顔を見るたびにある種の負い目を持って思い出さざるを得ない。だから逆にどこか開き直ったようにしていなくては、香苗を育てながらやっていけなかった。加えて香苗に対して強い愛着を持てば、それは時枝の弱点になる。ちょっとでも弱みを見せれば、すぐに作田はつけ込んでくる。
時枝のふてぶてしさは、この街で生きていくうちに身につけたしたたかさからくるものではなく、ぎりぎりのところにまで追い込まれた人間が肚を括った時に見せるふてぶてしさだった。哀しき傀儡《かいらい》、今、香苗が知った母の実像は、そう呼ぶにふさわしい。実の娘に喰えない女と思われても、言い訳することすら許されなかった時枝──。自然と目の縁が熱くなり、目の前を霞ませるように涙が滲んでくる。今夜は咽喉の渇きに促されて、いったい何杯水割りを飲んだことだろう。けれども少しも酔いはまわってこない。夏の夜は、はや白々と明けていく。
「浅野|内匠頭《たくみのかみ》とおんなじだよ」自らを嗤うような面持ちをして時枝は言った。「殿、ご短慮でしたな、ってやつ。私の我慢が足りなかったばっかりに、あんたにも真穂ちゃんにも、結局ツケを負わせてる」
「そんなこと……」
「初めて真穂ちゃんを見た時は、心臓が潰れるかと思うぐらいに驚いた。真穂ちゃんはいちのさんに生き写し。歳の差があるだろうにと思うかもしれないけど、いちのさんというのは妖怪みたいな人でね、歳がいっても見た目には、童女みたいな無垢さのあった人なのよ。おまけに真穂ちゃんも左利き。いちのさんと同じだった」
「左利き──、いちのさんも」思わず香苗は目を見開いた。
時枝も、のりうつった相手が真穂でなければ、再びいちのと対決していたかもしれない。けれどもそれが自分の孫娘では、罵るいちのを黙らせようと、平手で頬を張ることさえできない。逃げ場のない愛憎の板挟み、とことん時枝を苦しめようとしている。それがいちのの策略だとすれば、やはりいちのというのは恐ろしい。
「ごめんなさい。私、何も知らずに誤解してた」
「馬鹿だね。悪いのはこの私だって言った。すべての原因は、この私が作ったんだから」
三十年余りもたった二人きりの母娘として過ごしながら、ここにきてはじめてわかり合えた。感動に似た思いが香苗の胸にひろがる。しかし、抱え込んでしまっている問題があまりに大きすぎた。時枝と香苗は一緒に暮らせる。二人だけなら、これから先はうまくやっていけるだろう。けれども時枝と真穂は一緒に暮らせない。いちのが真穂に宿っている以上は仇同士、ともに過ごせばさらなる不幸が二人を見舞う。だとすれば、香苗は真穂を伴《ともな》って、時枝の許から去ってゆくより仕方がない。ようやくにして母の胸の痛み、苦しみがわかり、心通じ合ったというのに。
「真穂からいちのさんを追い出す方法はないのかしら……」香苗は言った。
「たぶん無理だろうね。あの人は、生きていた時から人並みはずれて執念深かった」
作田が真穂なら首藤の家に押し込めると思った理由のひとつには、当時村の人間誰しもが、いちのに対して抱いていた畏怖に近い心情というものがあった。村には陰で首藤の家のことを、「物持ち筋」と呼ぶ者もいた。物持ち筋、家に狐だの蛇だのの霊が憑いた家。物持ち筋は不思議と栄える。また、物持ち筋の人間は、家に憑いている霊を使役できるから、下手に歯向かったりすれば反対に、訳のわからない業病や災難をもたらされたりと、ひどいしっぺ返しを受けることになる。いちのは、その象徴のような女だった。見た目には、いちのはなかなか歳をとらない。何故かいちのに命令されると身が竦んだようになって、誰も面と向かって文句が言えなくなる。いちのがただの女ならば、いかに相手が豪農の娘であれ、誰一人として逆らえなかったということはないだろう。病的な虚言癖があり、底意地が悪いというだけでなく、人はいちのの性分の底に、動物の霊、憑き物を見ていた。そのいちのの生まれ変わりのような真穂を連れていけば、当然往時を知る人は震え上がる。いちのの再来、化け物の甦り。真穂の後見人のような立場に納まれば、作田に対してもケチがつけられなくなる。作田の目には、真穂が恰好の傀儡と映ったに相違ない。よもや本当にいちのがその身にのりうつっているとも思わずに。
時枝の口からいちのの話を聞くうちに、香苗は次第に自分の血が、ぬくもりを失い冷えていくような心地がした。真穂の虚言癖、左利き、O町の小学校であった小動物に対する虐待……認めたくはない。でも、確かに似ている。動物霊がとり憑いていると恐れられていたいちのが真穂の中にいると思うと、母親でありながら香苗は、怖気をふるわずにはいられなかった。
「それじゃ真穂は、一生いちのさんを抱え続けて生きていくことになるの?」ひとりでに低くか細くなる声で香苗は言った。
「いや」いくぶん目を伏せ気味にしながら、時枝は首を横に振った。「あの人の出てきた目的は私にある。私が死ねば、たぶんあの人も消えるだろう。真穂ちゃんのことを考えるなら、私は早くあの世へいったほうがいいんだ」
「おかあさん、そんなことを言わないで」
「本当ならばあの人に殺されてやるのが一番なのかもしれない。だけど、そういう訳にはいかない。あの人が私を殺すということは、真穂ちゃんが私を殺すということだ。真穂ちゃんにそんな恐ろしい罪を背負わせたくはないよ。そんな罪を背負うのは、私だけで充分だ」
「いずれにしても私たち、これから一緒には暮らせないということね」
「そういうことになるんだろうね。このまま一緒に暮らしていたら、いつかきっと何かが起きる」
自分でも予想もしていなかったことだったが、香苗の口から不意に嗚咽《おえつ》が漏れた。一度声を上げて泣き出してしまうと、発作のように身の内側からしゃくり上げてきて、涙と震えが止まらない。
時枝がぽんぽん、と香苗の背中を叩き、はは、と笑った。「知らなかった、あんた、泣き上戸だったんだ」
「おかあさんたら……」
完全に日がのぼり、あたりが明るくなってしまってから、二人はそれぞれに自分の寝床についた。真穂は深い眠りの中にある。眠っている時だけが平和──、香苗は真穂がまだ赤ん坊だった頃に思ったことを、久し振りに思い出していた。