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ムッソリーニの処刑05

时间: 2019-11-21    进入日语论坛
核心提示:「解放のために死のう」 ガルダ湖畔のムッソリーニ新政府は通常、「サロ政権」と呼ばれた。湖畔各地の大きな別荘地帯に各省が分
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「解放のために死のう」
 
 ガルダ湖畔のムッソリーニ新政府は通常、「サロ政権」と呼ばれた。湖畔各地の大きな別荘地帯に各省が分散、その一集落サロに外務省が置かれたためである。ムッソリーニはドイツ軍占領下に入ったローマになんとか政府を移したかった。だがヒットラーはこれを許さなかった。総統からすればムッソリーニ政権はあくまでも形だけのものであり、ローマはイタリア占領ドイツ軍司令官アルベルト・ケッセルリンクの支配下に置くべきと考えたからであった。
ムッソリーニの住居兼執務室としてあてがわれたのは、湖畔のガルニャーノにあるフェルトリネッリ荘である。付近一帯にはナチ親衛隊約三千人が配置され、道路も事実上ドイツ軍が管理し、ムッソリーニの身辺警備と称して、その住居には一人の親衛隊将校が同居していた。これは監視役であることは明らかで、電話も当然ドイツ側の盗聴するところとなっていた。ムッソリーニとヒットラーの盟友関係といっても、内実は当初からこのようなものであった。
ムッソリーニの政治については、国民の多くが必ずしも最初から批判的だったわけではない。むしろ一般国民への人情味ある接触や、その清廉な生活態度から総じて年々、人気を高めていたのである。しかしヒットラーと手を結んだあたりから、そうした人気も底流で微妙な変化をきたし始めた。ひと口に言って、イタリア人とドイツ人はお互いにその性格を軽蔑し合うほど、民族的、歴史的に性が合わない。イタリア人にとっては、彼らは古代の昔からイタリアを侵略し続けた「北の蛮族」であった。ところがこともあろうに、ムッソリーニはそのドイツと枢軸関係を締結した挙句、ヒットラー側に立って第二次大戦に参戦してしまった。それもドイツの緒戦の快進撃に目がくらんでのことであった。こうして多くのイタリア人にとって、第二次大戦は単に「ムッソリーニの戦争」でしかなかったのである。しかも戦局が芳しくないとあれば、反戦気運が高まるばかりだったのは当然であろう。
 ドイツ軍はサレルノ上陸の連合軍迎撃と、予想されるローマ付近への連合軍上陸に備え、バルカン方面軍の一部五個師団をイタリア本土の増強に差し向けた。これによってイタリア本土に進駐したドイツ軍の総数は、合計二十個師団、約二十六万前後になった。首都ローマはじめ重要都市、鉄道など戦略地点の占領体制強化を目論んだのである。
とりわけローマには、ケッセルリンク司令官のイタリア占領軍の本陣を置き、ミラノにはカール・ヴォルフ大将のナチ親衛隊本部を配して、それぞれ中部、北部のイタリア支配を強化した。またナチ親衛隊の秘密警察ゲシュタポ隊長のヘルベルト・カプラーをローマに置き、その配下が各地でファシスト・イタリアの警察組織を使って、反ナチ・ファシスト分子の摘発と弾圧に当る体制をとった。
ドイツ軍に協力するファシスト警察は二つの種類があった。まず各警察署。ファシスト党から任命された筋金入りの党員が署長に就任した。もう一つは前述のOVRAと略称される反ファシストを予防拘禁する秘密政治警察である。国防相が指揮し、「少しでも容疑のある反ファシスト」を尾行し、容赦なく逮捕、拷問を加えては吐かせ、スパイを強要するなど、冷酷無比な存在であった。
加えて党員が志願して創設した「共和国警察特別局」という私設秘密警察もドイツ占領下に生れた。これは警察署、OVRAばかりかドイツのゲシュタポの手足となって働いた。彼らの事務所は別名「拷問の家」とも呼ばれ、殴打や拷問は日常茶飯事で、殺人も珍しくはなかった。
この「特別局」はならず者のサディストばかりの小人数編成で、彼らに一度拉致されたら五体満足では戻れないと言われたほどであった。
「拷問こそは、反ファシズムという思考と思想を生む頭脳を抹殺する手段である」というのが彼らの哲学であった。ゲシュタポと協力して、さまざまの拷問手段を開発し、ゲシュタポを喜ばせたのも彼らであった。
被害者が戦後、告発した記録などによると、棍棒で殴打するのではなく、スパイク棒と称するトゲ付きの棍棒で殴打するのが通常で、殴られる者はみるみる血ダルマになった。また許容量を超える水を飲ませ、胃の上に乗りかかって水を吐かせるというのも連日の拷問手段であった。そのほか、ガスバーナーで体を焼くとか、性器に焼いた針金を挿入、あるいは消毒剤を注入することも稀ではなかった。一日一度か二度の食事に汚物を混入するという手も使った。この拷問の様子はロベルト・ロッセリーニ監督の映画「無防備都市」にも活写されているところである。
 思えば反ファシズム勢力が公然と反撃態勢をととのえたのは、四三年七月二十五日のファシズム大評議会でムッソリーニが失脚、逮捕された時からである。
ムッソリーニに代ったバドリオは、連合軍と隠密裏に休戦を取り決める一方、各地の刑務所に収容されている多くの政治犯を釈放した。これによって火のついた反ファシスト運動は、ドイツ軍のイタリア占領とともに、一気に「反ナチ・ファシスト」活動となって燃え広がった。
ローマで結成された国民解放委員会議長のボノミ以下大勢は「この際、パルティザンを編成し、テロ活動からでもレジスタンス闘争を開始すべきである」との大方針を打ち出した。それによってのみ、イタリア全土で民衆の蜂起が可能であり、イタリア人自らの手で国土をナチ・ファシズムから解放できるとの「抵抗の大義」を確立したのである。
ドイツ軍占領下で直接武装行動に出ることは、死をも意味した。各政治家は誰もが「決死の覚悟」を決めた。ボノミは若い同志達に「これから何日、生きて戦えるかは知らない。わしが死んでも君達でこれを続けてくれ」と、その決意のほどを語った。
ブリンディシのバドリオ政権は十月十三日、ドイツに対して宣戦を布告した。連合国側はこれによってイタリアに「CO-BELLIGERENT(共同交戦国)」の地位を与えることになる。
この動きを横目に見て、国民解放委員会は全国代議員会議の開催を計画する。イタリアの反ナチ・ファシズム闘争のリーダーシップは国民解放委員会が握らなければならないとの立場からであった。ナポリの生んだ世界的哲学者ベネデット・クローチェらはチャーチル、ルーズベルト、スターリンの連合国首脳に電報を送って、その開催を連絡し、ついに四四年一月二十八日、南イタリアのバーリで第一回国民解放委員会大会を二日間にわたり開催した。
民主政党七党(キリスト教民主、共和、行動、社会、自由、共産、労働民主)の各県代議員各一名ずつと国民解放委員会中央委員会のメンバーによる九十人の会合であった。バーリは前年末に解放されたばかりである。そこにドイツ占領下からも厳重な警戒網をかいくぐって、出席者がたどりついた。これは大戦中のヨーロッパでも特筆されるべき劇的な会議の一つとなった。
大会では活発な意見が出た。クローチェは「現国王が元首である限り、ファシズムは終らない」と述べ、また亡命先のアメリカから秘かに帰国した後に外相となるカルロ・スフォルツァは「最高に有罪である国王を排除するならば、われわれイタリア人は頭を高くあげて平和会議に臨むことができる」と述べて拍手を浴びた。結局「イタリア解放のためのわれわれの闘いは、国王とバドリオ政権によっては達成できない。われわれ自身の力によってのみ可能である」と決議、戦争終了後に速やかに国民投票を実施し、国王退位の必要性を強調した。
この決議は中央委員の一人でキリスト教民主党のジォヴァンニ・グロンキによって起草された。グロンキは後に第三代大統領になる。ちなみに中央委員は十五人で、この中にキリスト教民主党のアルチーデ・デ・ガスペリ(後の首相)、社会党のピエトロ・ネンニ(後の副首相、外相)、ジュゼッペ・サラガート(後の第五代大統領)、サンドロ・ペルティーニ(第七代大統領)らも含まれていた。首相を経て第四代大統領に就任するキリスト教民主党のアントニオ・セーニはこの大会にサルデーニャから代議員として駆けつけていた。戦後のイタリアを背負う錚々たる人物群がこの大会に打ち揃っていたわけである。
大会ではこのあと、各党代表から成る参事会を結成、事実上の行政・軍事を指導する機関とした。中央委員会のメンバーもこれらに加わるが、すでにその頃は各地でドイツ軍、ファシスト軍による一般民衆を含めた反ナチ・ファシスト分子の逮捕、虐殺が繰り返し行われており、参事会の結成により抵抗運動の組織化が急務となっていた。
 反ナチ・ファシスト達の任務は当初、個人ないし小人数によるドイツ兵、ファシスト兵へのテロ、少数の集団によるドイツ軍襲撃と武器弾薬の捕獲、押収、反ナチ・ファシスト分子の保護や隠匿、あるいは連合軍捕虜の収容所脱走支援と保護といったものであった。工場ではサボタージュが行われた。しかし時を経てパルティザン組織は漸次増強し、小規模な襲撃はもちろん中規模の攻撃も敢行し、退路遮断によるドイツ軍殲滅作戦も行えるほどに成長していた。
各地のパルティザン部隊は、それぞれ旗印となる固有名詞を冠した。前述の通り社会党系が「マッテオッティ旅団」、行動党系が「正義と自由(GIUSTIZIA E LIBERTA)旅団=略してGL」、共産党系「グラムシ旅団」などである。共産党はこのほか北イタリアの部隊に「ガリバルディ旅団」と名付けた。このパルティザン闘争を十九世紀末のイタリア国家統一運動(リソルジメント)やスペイン内戦の時の派遣軍になぞらえ、かつての英雄ガリバルディにあやかったのである。ガリバルディが率いた兵士達が義勇兵であったことも、その名称にふさわしいものであった。
同じように共和党系は、リソルジメントの思想家マッツィーニにあやかって「マッツィーニ旅団」を名乗り、キリスト教民主党系は「自治独立(AUTONOMO)旅団」、「緑の炎(FIAMMA VERDE)旅団」、「ディディオ(DI DIO=人名)旅団」などと呼称した。
これら各旅団は、名前こそ旅団ではあるが、当初はそれぞれが小集団に過ぎず、しかも一つ一つの単位がまったく個別にそれぞれの作戦を行っていた。しかし各単位の人数が約百人くらいにふくらみ、それぞれ数字番号をつけた。例えば後にムッソリーニを逮捕処刑することになるコモ周辺の第五十二ガリバルディ旅団といった具合である。
以上のようなパルティザン部隊とは別に、都市ゲリラ専門の「愛国行動隊」組織もローマ、ミラノ、ヴェネツィア、トリノ、フィレンツェなどの大都会で共産党指導のもとに編成された。この行動隊は一単位が三、四人から成り、主として大学生や青年男女であった。
これらパルティザンや行動隊の面々は、お互いに本名は名乗らず、素性も経歴も明かすことをしなかった。ニックネームだけで呼び合うことになっていた。ナチ・ファシストのスパイや仲間の密告などで自分や家族の逮捕を免れるためであった。それほどナチ・ファシストからの切崩し工作は激しく、また捕った仲間が拷問に耐え切れず、仲間を売るケースも稀ではなかったからである。
ニックネームといえば、ペルティーニは、名前をアレッサンドロといったが、自他ともに「サンドロ」と呼び捨てにした。彼はこのパルティザン時代の愛称を大事にし、戦後に大統領に就任してからも常にサンドロを使い、一九九〇年二月に死去した後、郷里サヴォーナの墓碑も遺言でサンドロ・ペルティーニで通している。
 一九四三年秋も深まると、ローマ以北の都市や農村、山岳地帯ではパルティザンとナチ・ファシストとの闘いは日を追って凄絶さを加えていった。いたるところで処刑、抵抗が繰り返され、相互に憎悪が燃え上っていった。
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