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ムッソリーニの処刑10

时间: 2019-11-21    进入日语论坛
核心提示:憂愁の日々 ガルダ湖畔での生活は単調で、ムッソリーニは来る日も来る日も浮かぬ顔であった。フェルトリネッリ荘からウルスリー
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憂愁の日々
 
 ガルダ湖畔での生活は単調で、ムッソリーニは来る日も来る日も浮かぬ顔であった。フェルトリネッリ荘からウルスリーネ荘に移って気分転換をはかったが、憂鬱さには変りなかった。四三年秋、ナチ親衛隊から救出され、「余はファシズム最高指導者としての任務を再開する」と、豪語した時の生気はすっかり消えていた。
毎朝八時四十五分に邸内にある執務室に入るが、格別仕事があるわけではなかった。政務は肝心なことはすべて、ナチ親衛隊司令官カール・ヴォルフらが処理、邸内は親衛隊三十人が警備し、オットー・キスナット少佐らが補佐官然と監視を続けていた。サロ政権樹立をラジオで宣言した際、「われわれは永遠にドイツと結びついている」と自分の背後にあるドイツを誇ったのも束の間、共和国首相とは名ばかりで実際は“虚構の政権”でしかなかったことを自覚させられて滅入っていた。
それを裏付けるように、日常の仕事上で彼の責任は何もなかった。ただ存在していればよかったのである。実体は、妻ラケーレ、長男ヴィットリオ夫妻、それに二男の故ブルーノの妻らに囲まれているだけの六十歳になろうとする一人の初老の男に過ぎなかった。したがってかつての栄光の日々を想う毎日となっても不思議ではなかった。
午前中はさして重要でもない書類に署名し、あとは新聞を読んで過した。午後は来客と雑談するが、権威のない一人の男の話など誰も聞き流すだけであった。ファシスト系のジャーナリストがよく訪ねて来た。だが過去の想い出話が多く、「余がいかにイタリアの偉大さを実現しようとしたか、いずれ国民が分ってくれる時が来るだろう」と言っては、会話が終るのであった。
北イタリアはムッソリーニの「イタリア社会共和国」のはずである。しかしドイツ(当時)に接するトレンティーノ・アルト・アディジェ、フリウリ・ヴェネツィア・ジューリアの広大な両州はドイツ領に編入されていた。第一次大戦で失ったこの両州をドイツは自国領土にしていたのである。残りのピエモンテ、ロンバルディア、リグーリア、エミリア・ロマーニャ、それにトスカーナの五州が「イタリア社会共和国」の支配下にあったが、ドイツ軍はそれらを占領地域、進駐地域、戦闘地域として事実上支配していた。ムッソリーニはこうして、まったく領土も持たない名前だけの共和国の文字通り木偶となっていたのである。
そのムッソリーニの「イタリア社会共和国」には、戸籍上十八歳から二十歳までの青年男子は約十一万人いた。これらを徴兵すればある程度の共和国軍を備えることができたはずである。しかしそれらの大半はドイツ本国に徴用工として動員されたり、あるいは訓練と称してドイツ軍に編入され、共和国軍の兵士は半分以下の四万七千人に過ぎなかった。
また経済にしても、すべてドイツ軍政が管理し、生産を統制し流通を規制した。食糧、家畜はおろか工業製品もドイツ軍優先で、実態は組織的略奪と徴発でしかなかった。トリノのフィアット自動車工場ではトラックを日産五十台ほど生産していたが、「うちせめて三台をイタリア側に回していただければ幸いである」と、ムッソリーニはドイツ大使ラーンに懇請したほどであった。またイタリア中央銀行の金(きん)九十五トンも早々とドイツに移送されてしまっていた。
 ムッソリーニの持病である胃病も、その頃はかなり悪化していた。グラン・サッソから救出されたあと、ムッソリーニはヒットラーに侍医を要請し、これはかなえられた。軍医のゲオルグ・ザッカリアである。ムッソリーニはファシズム大評議会以降、イタリア人を信頼しなくなっていたのである。
このザッカリアは毎朝、ムッソリーニを診断し、投薬していた。内科専門医でムッソリーニも信頼を置いていたようである。この侍医が診断結果をヒットラーに報告していたことは言うまでもない。結局、この侍医によっても、ムッソリーニの胃病は治癒することはなかった。翌年四月、ムッソリーニが処刑された後、解剖で「胃癌」が確認された。当時ムッソリーニは、牛乳と野菜だけの食事をし、牛乳は一日二リットル飲んでいたという。
以上のように、ローマでは一人でイタリアを動かし、ヒットラーと共にヨーロッパに君臨し、恐れられていたムッソリーニであったが、いまや一切の権力をドイツ軍に握られた胃病に悩む一介の男でしかなかった。ムッソリーニにはこうして、外からも内からも圧力と悩みがのしかかっていた。
ムッソリーニとしては、自らを奮い起たせ、新生共和国の気勢を上げるためにも、いまこそ何かしなければならなくなった。新共和国憲法もまだできていなかった。そうした仕事を始めるに当って、まずファシスト党大会を開く必要があった。その党大会開催で、ムッソリーニ一家に悲劇が降りかかることなど、彼はその時、まったく予想もしていなかった。一人の人間の運命と歴史の歯車は、無情にそして静かに回っていた。
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