ヴェローナ裁判へ
ムッソリーニは四三年十一月十四日、ヴェローナでファシスト党大会を開催した。新共和国が当面するさまざまな問題解決の出発点とするためであった。それはまたムッソリーニの新共和国政権が機能していることを内外に示し、党勢拡大にも寄与する一石二鳥の役割を持つものと判断した。
実際この党大会は、イタリア社会共和国初の大会で、新生を祝う熱気が折柄の北イタリアの濃霧をも吹き飛ばす勢いであった。二〇年代からの古い党員、勲章を胸に飾った古参軍人、入党したばかりの青年達が各地方、各機関ごとに色とりどりの旗をかざして参集した。新共和国の国旗——王室紋章の代りに銃を握る鷲があしらわれている赤白緑の三色旗——も飾られ、王室やバドリオ政権への憎しみをあらわに示していた。
会場のアディジェ川畔に立つ十四世紀のヴェッキォ城周辺には、黒シャツ軍団が誇らかに闊歩していた。この大会は新党書記長アレッサンドロ・パヴォリーニが取りしきった。ムッソリーニは大会運営を一切彼にまかせて、メッセージを送ったにとどまった。ローマ時代と違って、党首ムッソリーニはなぜすべてをパヴォリーニにまかしたのか? パヴォリーニが望み、弱気になっていたムッソリーニが譲歩したのか? そこには中世の権謀うずまいた都市さながら、血の臭いも実は感じられる。だが参集した数百の代議員達はただただ空虚な気勢を上げるばかりであった。当日発表の党員数は二十五万一千人とのことであった。
ムッソリーニのメッセージは「再武装したわがファシスト共和国は、再び革命の前進のため戦う」ことを強調、参会者は全員起立して党歌「ジォヴィネッツァ」を大合唱し、かつてのように「ドゥチェ、ドゥチェ」を唱和した。古くからの党員は過去の勢威を取り戻した感激で涙で頬を濡らし続けた。
二日間の大会は、後に「ヴェローナ宣言」と呼ばれる十八項目の社会政策を採択した。「共和国の社会主義化のために戦い、働き、征服する」ことを目指した内容で、そのための制憲議会も近く選出することを明示した。
この大会の最中、近隣都市フェラーラの功績ある党支部幹部が反ナチ・ファシストにより射殺されたとの報が入り、列席者の一部がフェラーラ市に急行し、反ファシストと目される人物を十七人、片っぱしから射殺するという事件があった。このため党大会の閉幕に当っては、反ファシストへの復讐への気運が再び燃え上がっていた。
「復讐のためには何をやるか!」。大会では期せずして、その年七月のローマにおける党最高機関ファシズム大評議会で、ムッソリーニを失脚させた党幹部の裏切りを断罪する声が上がった。新生の党の力を誇示する意味でも、その裁判は不可欠であった。
この大評議会では、党首脳二十八人のうち十九人が、ムッソリーニは「大政奉還」すべきであるとのグランディ決議案に賛成した。これによりムッソリーニ政権が崩壊したのだが、続く九月のイタリア休戦でドイツ軍が首都ローマを含むナポリ以北を占領下に置くと、それら地域では再び黒シャツが息を吹き返した。下院議長グランディは変装してスペインに亡命するなど、グランディ決議案に賛成した者は一斉に行方をくらました。
その一人ムッソリーニの女婿で元外相のチアーノは、妻のエッダと偽造旅券でスペイン逃亡を計っている最中、不運にもドイツ軍に逮捕された。エッダは後にイタリアに戻されるが、チアーノはドイツに連行されて拘禁されたままであった。同様にチアーノのほか五人がドイツ軍に逮捕された。党元老のデ・ボーノ、元農相パレスキ、それにマリネッリ、ゴッタルディ、チアネッティの党首脳である。うちチアネッティは大評議会の翌朝、直接ムッソリーニに賛成取消しを通告していた。
この六人はやがてドイツから送還され、ヴェローナ市内のスカルツィ修道院に共和国管理の下で拘禁され、さらに市内の刑務所に移管されていた。
党大会はこうした折、反逆者達の裁判開廷を決めたのである。ムッソリーニ不在のまま、ムッソリーニのファシスト党は、かつての“プリンス”ムッソリーニの女婿チアーノらを裁くことになってしまった。ここに来てはじめて党大会の背後に陰謀の臭いをかぎとったものもいたが、一度破滅した名のみの統帥にはおかまいなく、事態は動いていた。
「果してムッソリーニは、自分の愛する娘の主人を断罪することができるのかどうか?」の一点に党内外の関心が注がれた。もし党大会をムッソリーニ自ら主宰していれば、彼一流の操縦術と雄弁で別の方向に大会を誘導することはできたはずと見るイタリア現代史研究者は少くない。
しかし戦後明らかにされたことだが、ムッソリーニがヒットラーの親衛隊に救出されてサロ政権を樹立する際、ヒットラーは彼にファシズム大評議会の反逆者は処刑されるべきだとの条件を付け、これをイタリア人自らの手でやるよう主張したと言われる。また当時のドイツ宣伝相ゲッペルスは一九四三年十一月九日付の日記に「統帥はチアーノをあえて殺すとは考えられない」と書いており、ムッソリーニはこのゲッペルスと外相リッペントロップがそのことを注視していることを知っていたのではないかとされている(注1)。
つまりムッソリーニはヒットラーからチアーノ処刑を押し付けられ、ドイツ側はその実行を見守っていたということになる。そしていよいよその時が党大会で決められたという筋書きと見て取れる。実はそこにはドイツ側の大きな策謀が渦を巻いていたのである。それほどまでして処断を強いられたチアーノとはどんな人物だったのか、ムッソリーニ、ヒットラーとの関係について触れておく。
実際この党大会は、イタリア社会共和国初の大会で、新生を祝う熱気が折柄の北イタリアの濃霧をも吹き飛ばす勢いであった。二〇年代からの古い党員、勲章を胸に飾った古参軍人、入党したばかりの青年達が各地方、各機関ごとに色とりどりの旗をかざして参集した。新共和国の国旗——王室紋章の代りに銃を握る鷲があしらわれている赤白緑の三色旗——も飾られ、王室やバドリオ政権への憎しみをあらわに示していた。
会場のアディジェ川畔に立つ十四世紀のヴェッキォ城周辺には、黒シャツ軍団が誇らかに闊歩していた。この大会は新党書記長アレッサンドロ・パヴォリーニが取りしきった。ムッソリーニは大会運営を一切彼にまかせて、メッセージを送ったにとどまった。ローマ時代と違って、党首ムッソリーニはなぜすべてをパヴォリーニにまかしたのか? パヴォリーニが望み、弱気になっていたムッソリーニが譲歩したのか? そこには中世の権謀うずまいた都市さながら、血の臭いも実は感じられる。だが参集した数百の代議員達はただただ空虚な気勢を上げるばかりであった。当日発表の党員数は二十五万一千人とのことであった。
ムッソリーニのメッセージは「再武装したわがファシスト共和国は、再び革命の前進のため戦う」ことを強調、参会者は全員起立して党歌「ジォヴィネッツァ」を大合唱し、かつてのように「ドゥチェ、ドゥチェ」を唱和した。古くからの党員は過去の勢威を取り戻した感激で涙で頬を濡らし続けた。
二日間の大会は、後に「ヴェローナ宣言」と呼ばれる十八項目の社会政策を採択した。「共和国の社会主義化のために戦い、働き、征服する」ことを目指した内容で、そのための制憲議会も近く選出することを明示した。
この大会の最中、近隣都市フェラーラの功績ある党支部幹部が反ナチ・ファシストにより射殺されたとの報が入り、列席者の一部がフェラーラ市に急行し、反ファシストと目される人物を十七人、片っぱしから射殺するという事件があった。このため党大会の閉幕に当っては、反ファシストへの復讐への気運が再び燃え上がっていた。
「復讐のためには何をやるか!」。大会では期せずして、その年七月のローマにおける党最高機関ファシズム大評議会で、ムッソリーニを失脚させた党幹部の裏切りを断罪する声が上がった。新生の党の力を誇示する意味でも、その裁判は不可欠であった。
この大評議会では、党首脳二十八人のうち十九人が、ムッソリーニは「大政奉還」すべきであるとのグランディ決議案に賛成した。これによりムッソリーニ政権が崩壊したのだが、続く九月のイタリア休戦でドイツ軍が首都ローマを含むナポリ以北を占領下に置くと、それら地域では再び黒シャツが息を吹き返した。下院議長グランディは変装してスペインに亡命するなど、グランディ決議案に賛成した者は一斉に行方をくらました。
その一人ムッソリーニの女婿で元外相のチアーノは、妻のエッダと偽造旅券でスペイン逃亡を計っている最中、不運にもドイツ軍に逮捕された。エッダは後にイタリアに戻されるが、チアーノはドイツに連行されて拘禁されたままであった。同様にチアーノのほか五人がドイツ軍に逮捕された。党元老のデ・ボーノ、元農相パレスキ、それにマリネッリ、ゴッタルディ、チアネッティの党首脳である。うちチアネッティは大評議会の翌朝、直接ムッソリーニに賛成取消しを通告していた。
この六人はやがてドイツから送還され、ヴェローナ市内のスカルツィ修道院に共和国管理の下で拘禁され、さらに市内の刑務所に移管されていた。
党大会はこうした折、反逆者達の裁判開廷を決めたのである。ムッソリーニ不在のまま、ムッソリーニのファシスト党は、かつての“プリンス”ムッソリーニの女婿チアーノらを裁くことになってしまった。ここに来てはじめて党大会の背後に陰謀の臭いをかぎとったものもいたが、一度破滅した名のみの統帥にはおかまいなく、事態は動いていた。
「果してムッソリーニは、自分の愛する娘の主人を断罪することができるのかどうか?」の一点に党内外の関心が注がれた。もし党大会をムッソリーニ自ら主宰していれば、彼一流の操縦術と雄弁で別の方向に大会を誘導することはできたはずと見るイタリア現代史研究者は少くない。
しかし戦後明らかにされたことだが、ムッソリーニがヒットラーの親衛隊に救出されてサロ政権を樹立する際、ヒットラーは彼にファシズム大評議会の反逆者は処刑されるべきだとの条件を付け、これをイタリア人自らの手でやるよう主張したと言われる。また当時のドイツ宣伝相ゲッペルスは一九四三年十一月九日付の日記に「統帥はチアーノをあえて殺すとは考えられない」と書いており、ムッソリーニはこのゲッペルスと外相リッペントロップがそのことを注視していることを知っていたのではないかとされている(注1)。
つまりムッソリーニはヒットラーからチアーノ処刑を押し付けられ、ドイツ側はその実行を見守っていたということになる。そしていよいよその時が党大会で決められたという筋書きと見て取れる。実はそこにはドイツ側の大きな策謀が渦を巻いていたのである。それほどまでして処断を強いられたチアーノとはどんな人物だったのか、ムッソリーニ、ヒットラーとの関係について触れておく。
ガレアッツォ・チアーノは一九〇三年、軍港都市リヴォルノに生れる。父コスタンツォは同市の海軍兵学校出身で第一次大戦の英雄であった。その父の下で厳格な軍人教育を受けた。一九二一年、この父はムッソリーニのファッショ突撃隊の一員となり、後に国会議員選挙にローマ選挙区から立候補して当選する。それに伴ってガレアッツォはローマ大学法学部に入学し、ジャーナリストか外交官を志望していたが、外交官試験に合格、一九二五年ブラジル在勤を皮切りに外交官の道を踏み出す。その後、中国在勤を経て一九二九年に帰国、在ヴァチカン大使館勤務となった。父はその頃、ムッソリーニ政権の通信相の地位にあった。
当時、ムッソリーニの長女エッダに結婚話が持ち上がった時、ムッソリーニの実弟アルナルド(新聞発行人)がガレアッツォ・チアーノを推挙、一九三〇年一月エッダとガレアッツォの交際が始まり、四月二十四日に挙式という親密ぶりであった。ガレアッツォはエッダが知的で性格も強い点を好んだ。エッダは夫の明朗な、それでいて神経の濃(こま)やかな性格を誉めそやした。この二人の仲にムッソリーニも御満悦であった。
新婚後、チアーノはエッダを伴い中国の上海総領事として赴任する。チアーノ二十六歳、エッダ二十一歳であった。翌年、満州事変が起り続いて上海事変が勃発すると、チアーノは日中両国間の調停に尽力する。上海事変の時、在上海外交団の引揚げという事態が生じたが、エッダは踏み留まると宣言、「さすがはムッソリーニの娘」とその強気を賛えられたことがあった。
一九三三年、チアーノは帰国、新聞宣伝省次官に就任した。三五年対エチオピア戦が勃発すると、空軍大尉として爆撃行に従軍、一躍マスコミの寵児となる。エチオピア占領と同時に宣伝相になり、翌三六年には外務大臣に就任した。三十三歳であった。御曹子チアーノは名実共に、ムッソリーニの後継者と誰からも目されるに到った。美男で「若きプリンス」は特に女性の人気の的となった。
国内だけでなく、外国からもチアーノはちやほやされた。ムッソリーニを手本にして独裁者の道を歩み始めていたヒットラーも、統帥の代理としてチアーノを遇した。チアーノとドイツのリッペントロップはそれぞれムッソリーニ、ヒットラーの意を体してローマ、ベルリン間を足繁く往来し、両国の同盟関係を樹立、強化する。英米仏三国に対する後発の資本主義国のプリンスとして、チアーノはリッペントロップと共に国際政治の舞台にも華々しく登場することになった。
それまでのチアーノは、役所でも人前でも岳父のことを「父」とは言わず、他人が言うように必ず「ドゥチェ(統帥)」という尊称で呼んでいた。義母についても同様、「ドンナ・ラケーレ(ラケーレ貴婦人)」の尊称を使い、自分の立場をわきまえて言葉にも態度にも“謙譲の美徳”を発揮していた。人柄も誠実でユーモア精神に富み、両親にとっては「よき女婿」であった。
だが第二次大戦が進行するにつれ、親しい人との語らいの中でムッソリーニのことに話が及ぶと「あいつ」とか「大頭(おおあたま)」などと呼ぶようになった。この変化はチアーノの岳父に対する「離反」の兆候であった。チアーノはヒットラー・ドイツの横暴さに我慢ならなくなっていた。そのドイツにムッソリーニは追随するばかりだったのである。
にもかかわらずヒットラーはイタリアとの同盟に忠実ではなかった。同盟に伴う義務を履行しないばかりか、イタリアに何の相談もなく、勝手に戦争を拡大していくのが、チアーノには不満でならなかった。すべてイタリアに事後承諾の形をとらせた。岳父に忠告しても、ムッソリーニは「ドイツは新兵器(原子爆弾)を作って必ず勝つ」と信じ込んでいた。ドイツとの同盟が大きな誤算だったとチアーノは悟ったが、ムッソリーニはそれも気付かなかった。チアーノにはそれがまた忿懣やるかたなかったのである。
チアーノは日記に、「彼は駄目だ」とか「彼は何も分ってはいない」などと、ムッソリーニ批判の言葉を書き入れるようになる。「このままではイタリアは破滅する」と、彼の心の中には「戦争離脱」の考えが兆(きざ)してくる。戦後に明らかにされた彼の軌跡をたどると、その過程が一目瞭然である。まず外務省内に同志を探し、同時に軍首脳部と接触して密かに同志を求め、その同志らと「戦争離脱」の方策を探るのである。同志は外務省官房長ブラスコ・ランツァ・ダイエータ侯、参謀総長ヴィットリオ・アンブロージォ、同参謀カステッラーノらである。このカステッラーノがムッソリーニ逮捕を計画断行したのだ。
しかも統帥逮捕の直接の理由を作った七月二十五日のファシズム大評議会でチアーノは、ヒットラー・ドイツの横暴ぶりを列挙しつつ、岳父批判の主役を演じて次のように述べたのである。
「わが国は一九三九年以来、ドイツと軍事同盟関係に入っているが、ヒットラーは常にイタリアを欺いて来た。今次大戦でポーランド、ベルギー、フランスなどへの進攻に当っても何ら事前の連絡、協議はなく、すべて事後承諾のみ求めてきた。このままではイタリアは破滅する。ドイツを盲信することは誤りである」
外相として長年、枢軸外交の陣頭に立って来たチアーノのこの造反発言は並いるファシスト首脳陣を驚かせたのであった。ムッソリーニも驚いたに違いないが、その朝帰宅したムッソリーニから話を聞いたラケーレも、「えッ? チアーノまでが……」と絶句したほどであった。
ドイツにとっても、このチアーノ発言は大きな衝撃であった。枢軸外交の理念を根底から覆す以外の何ものでもなかったからである。戦略的に見れば、とてつもない利敵行為である。また心理的にも、枢軸敗北の突破口とも言うべき大きな穴をぽっかりと作り出したことになる。現にこの大評議会によって、枢軸の一翼をになうムッソリーニ政権は崩壊し、後継バドリオ政権によってイタリアは戦線を離脱した。
こうしてドイツにとって、チアーノは文字通り不倶戴天の敵となった。ヒットラーとしてはチアーノには何としてでもその責任をとらせねばならなかった。ドイツはそのチアーノを幸い逮捕していた。自らの手でチアーノを処刑することはいつでもできることであった。だがムッソリーニの責任においてチアーノを処刑させることが、ドイツにとってもイタリアにとっても最善の策とヒットラーは考えていたのである。ヒットラーの怒りはこうして、次項のヴェローナ裁判の開廷となる。
当時、ムッソリーニの長女エッダに結婚話が持ち上がった時、ムッソリーニの実弟アルナルド(新聞発行人)がガレアッツォ・チアーノを推挙、一九三〇年一月エッダとガレアッツォの交際が始まり、四月二十四日に挙式という親密ぶりであった。ガレアッツォはエッダが知的で性格も強い点を好んだ。エッダは夫の明朗な、それでいて神経の濃(こま)やかな性格を誉めそやした。この二人の仲にムッソリーニも御満悦であった。
新婚後、チアーノはエッダを伴い中国の上海総領事として赴任する。チアーノ二十六歳、エッダ二十一歳であった。翌年、満州事変が起り続いて上海事変が勃発すると、チアーノは日中両国間の調停に尽力する。上海事変の時、在上海外交団の引揚げという事態が生じたが、エッダは踏み留まると宣言、「さすがはムッソリーニの娘」とその強気を賛えられたことがあった。
一九三三年、チアーノは帰国、新聞宣伝省次官に就任した。三五年対エチオピア戦が勃発すると、空軍大尉として爆撃行に従軍、一躍マスコミの寵児となる。エチオピア占領と同時に宣伝相になり、翌三六年には外務大臣に就任した。三十三歳であった。御曹子チアーノは名実共に、ムッソリーニの後継者と誰からも目されるに到った。美男で「若きプリンス」は特に女性の人気の的となった。
国内だけでなく、外国からもチアーノはちやほやされた。ムッソリーニを手本にして独裁者の道を歩み始めていたヒットラーも、統帥の代理としてチアーノを遇した。チアーノとドイツのリッペントロップはそれぞれムッソリーニ、ヒットラーの意を体してローマ、ベルリン間を足繁く往来し、両国の同盟関係を樹立、強化する。英米仏三国に対する後発の資本主義国のプリンスとして、チアーノはリッペントロップと共に国際政治の舞台にも華々しく登場することになった。
それまでのチアーノは、役所でも人前でも岳父のことを「父」とは言わず、他人が言うように必ず「ドゥチェ(統帥)」という尊称で呼んでいた。義母についても同様、「ドンナ・ラケーレ(ラケーレ貴婦人)」の尊称を使い、自分の立場をわきまえて言葉にも態度にも“謙譲の美徳”を発揮していた。人柄も誠実でユーモア精神に富み、両親にとっては「よき女婿」であった。
だが第二次大戦が進行するにつれ、親しい人との語らいの中でムッソリーニのことに話が及ぶと「あいつ」とか「大頭(おおあたま)」などと呼ぶようになった。この変化はチアーノの岳父に対する「離反」の兆候であった。チアーノはヒットラー・ドイツの横暴さに我慢ならなくなっていた。そのドイツにムッソリーニは追随するばかりだったのである。
にもかかわらずヒットラーはイタリアとの同盟に忠実ではなかった。同盟に伴う義務を履行しないばかりか、イタリアに何の相談もなく、勝手に戦争を拡大していくのが、チアーノには不満でならなかった。すべてイタリアに事後承諾の形をとらせた。岳父に忠告しても、ムッソリーニは「ドイツは新兵器(原子爆弾)を作って必ず勝つ」と信じ込んでいた。ドイツとの同盟が大きな誤算だったとチアーノは悟ったが、ムッソリーニはそれも気付かなかった。チアーノにはそれがまた忿懣やるかたなかったのである。
チアーノは日記に、「彼は駄目だ」とか「彼は何も分ってはいない」などと、ムッソリーニ批判の言葉を書き入れるようになる。「このままではイタリアは破滅する」と、彼の心の中には「戦争離脱」の考えが兆(きざ)してくる。戦後に明らかにされた彼の軌跡をたどると、その過程が一目瞭然である。まず外務省内に同志を探し、同時に軍首脳部と接触して密かに同志を求め、その同志らと「戦争離脱」の方策を探るのである。同志は外務省官房長ブラスコ・ランツァ・ダイエータ侯、参謀総長ヴィットリオ・アンブロージォ、同参謀カステッラーノらである。このカステッラーノがムッソリーニ逮捕を計画断行したのだ。
しかも統帥逮捕の直接の理由を作った七月二十五日のファシズム大評議会でチアーノは、ヒットラー・ドイツの横暴ぶりを列挙しつつ、岳父批判の主役を演じて次のように述べたのである。
「わが国は一九三九年以来、ドイツと軍事同盟関係に入っているが、ヒットラーは常にイタリアを欺いて来た。今次大戦でポーランド、ベルギー、フランスなどへの進攻に当っても何ら事前の連絡、協議はなく、すべて事後承諾のみ求めてきた。このままではイタリアは破滅する。ドイツを盲信することは誤りである」
外相として長年、枢軸外交の陣頭に立って来たチアーノのこの造反発言は並いるファシスト首脳陣を驚かせたのであった。ムッソリーニも驚いたに違いないが、その朝帰宅したムッソリーニから話を聞いたラケーレも、「えッ? チアーノまでが……」と絶句したほどであった。
ドイツにとっても、このチアーノ発言は大きな衝撃であった。枢軸外交の理念を根底から覆す以外の何ものでもなかったからである。戦略的に見れば、とてつもない利敵行為である。また心理的にも、枢軸敗北の突破口とも言うべき大きな穴をぽっかりと作り出したことになる。現にこの大評議会によって、枢軸の一翼をになうムッソリーニ政権は崩壊し、後継バドリオ政権によってイタリアは戦線を離脱した。
こうしてドイツにとって、チアーノは文字通り不倶戴天の敵となった。ヒットラーとしてはチアーノには何としてでもその責任をとらせねばならなかった。ドイツはそのチアーノを幸い逮捕していた。自らの手でチアーノを処刑することはいつでもできることであった。だがムッソリーニの責任においてチアーノを処刑させることが、ドイツにとってもイタリアにとっても最善の策とヒットラーは考えていたのである。ヒットラーの怒りはこうして、次項のヴェローナ裁判の開廷となる。