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ムッソリーニの処刑23

时间: 2019-11-21    进入日语论坛
核心提示:フィレンツェ解放戦 ローマ解放のあと、戦線は中部に展開していった。中部、北部のパルティザンの活動も活発化していた。その夏
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フィレンツェ解放戦
 
 ローマ解放のあと、戦線は中部に展開していった。中部、北部のパルティザンの活動も活発化していた。その夏、七月には軍港リヴォルノが、八月には“花の都”フィレンツェがそれぞれパルティザンによって解放された。そのあとに連合軍が入って来た。九月にはアドリア海側の要衝リミニもパルティザンの支配下に入った。こうした進展は、ナチ・ファシストとパルティザンの対決が一段と凄絶化していたことを物語る。
その四四年六月、フィレンツェに本拠を置いたドイツ軍総司令官ケッセルリンクは「ドイツ軍に敵対するパルティザンに対しては断固たる処置をとる」旨の布告を発した。特にアペニン山脈地帯ではドイツ軍がパルティザンに襲撃されることが多く、兵員や機甲部隊の少数による行動や移動は危険視されていた。北イタリアのポー川流域、アルプス山麓でもほぼ同様であった。ドイツ軍のパルティザンに対する厳しい処断の布告についてドイツ軍は、「彼らは正規の兵ではなく〈非合法、つまり不正規の戦闘員〉であり、国際法の適用は受けない。パルティザンの捕虜は従って国際法上の捕虜とはみなされず、その取扱いにはどのような処理をしてもよい」という論拠を基にしていた。
このため緊急の場合は銃殺刑、それ以外の場合は絞首刑つまり縛り首にして公衆の前にさらした。ドイツ軍のこのような方針に対して、パルティザンの対応も当然エスカレートしていく。
すでに見てきたように、連合軍側は「イタリアからドイツ軍を放逐するために立ち上がって、イタリア人は連合軍に協力せよ」と、再三にわたり檄を飛ばしてきた。このような呼び掛けは、ラジオでまた空からのビラで頻繁に行われていた。
この情勢の中で、北イタリア国民解放委員会は、前記ケッセルリンクの布告に真向から挑戦する布告を発した。六月二十三日付のその布告は「パルティザンは不正規兵などというものではなく、あくまでも合法的戦闘員である。パルティザンは一九三八年七月のファシスト軍団法を尊重して組織されているからである」としていた。ムッソリーニが二二年に創設したこのファシスト軍団とは、正規兵に準じて国防に従事する義勇軍とされていた。事実上はファシスト党の私兵的存在ではあったものの、四三年夏には正式にイタリア正規軍に編入された“実績”を持っていた。
ちなみにパルティザンやゲリラへの処遇につき、第二次大戦後に国際法は大きく変った。この大戦のパルティザンやゲリラ、またアフリカの独立運動、中南米の独裁政権への革命、ヴェトナム戦争などの各国の体験を経て、戦争捕虜に関するいわゆる「ジュネーヴ条約」は、その追加議定書(七七年)で「攻撃に従事している間または攻撃に先立つ軍事行動に従事している間」「自己を一般住民から区別」していれば、パルティザンやゲリラも人道的に処遇すべき捕虜とするとしている。つまり公然と武器を携行し、一般住民と明らかに違った要員と相手側から見られる者は、正規兵並みに取り扱われることになったのである。
 この四四年夏のパルティザン戦闘では、戦史に残る出来事が二つあった。一つは中部イタリアのモデナ県でのパルティザン部隊とドイツ軍の大規模な戦闘であり、もう一つがフィレンツェ解放戦である。組織的パルティザンの手で解放されたイタリアの大都市は、このフィレンツェが最初であった。
 モデナ県の激闘は「モンテフィオリーノの戦い」として記録されている。モデナ市の南西にあるモンテフィオリーノ集落付近はアペニン山脈中にありながら、セッキア川のたもとにあり、陣地構築上極めて有利な地形にあった。ドイツ軍はこれをゴシック防衛線上の要衝とするため、七月中に大量の兵力と物資を投じて陣地構築を開始した。北上する連合軍を迎撃するための拠点とする考えであった。
その状況を察知したこの方面のパルティザン部隊は、市民の情報を元に続々集結し、ドイツ軍陣地爆破計画を進めた。しかしその動きが漏れて逆にドイツ軍から包囲され、パルティザン部隊はドイツ軍の猛攻を受けた。七月三十一日のことである。ドイツ軍は砲撃に加え、機甲部隊による攻撃でパルティザン全滅をはかった。
これに対しパルティザン部隊は、武器弾薬で劣勢にありながら組織的に陣地戦を展開し、ドイツ軍を悩ました。戦闘は丸四日間続いた。結局ドイツ軍は逆に壊滅的な打撃を蒙って敗退したが,パルティザン側は二百五十人の戦死者と約七十人以上の戦傷者を出した。ドイツ軍側はその数倍の犠牲者を出したと見られている。
この「モンテフィオリーノの戦い」の特徴は、パルティザンが小規模ゲリラ攻撃の繰り返しではなく、野戦において部隊編成規模の戦闘を敢行できるまでに成長していたという事実を立証した点であった。
 一方、八月十一日のフィレンツェ解放戦は、ナチ・ファシスト軍とパルティザンとの完全な市街戦であった。パルティザンを支援する市民も銃をとり、市内のナチ・ファシスト軍を襲撃し、建物を一つずつ奪取するという陣取り合戦であった。
もちろん市内のファシストはドイツ軍側について銃をとった。その意味では市民同士の戦闘という極限の構図さえ示したのである。この事実はロベルト・ロッセリーニ監督のネオリアリズム映画「戦火のかなた」のフィレンツェの戦闘場面にも活写されている。建物の中に立て籠って応戦するファシスト達を捕えると道路に引きずり出し、有無を言わさず射殺してしまう。すさまじい場面と言うほかない。パルティザンとファシストとが友人同士、知人であったケースも稀ではなかったという。
フィレンツェの戦闘の一部は、塀を一つ隔てて、あるいは一つの建物内での階を奪い合うという肉薄戦、屋内戦でもあった。市内の歴史的建造物も戦闘の舞台となった。アルノ川に架かるヴェッキォ橋とウフィツィ美術館を結ぶ秘密の回廊は、市の外郭から中心部に移動するパルティザンが専ら利用し、戦力を増強してドイツ軍を悩ました。このためドイツ軍は七月三十一日、アルノ川両岸の住民約五万人に対し、十二時間以内の退去を命じた。市内のアルノ川に架かる橋梁を爆破するためであった。結局、ケッセルリンクの命令で八月三日から四日にかけ、十四世紀に造られた由緒あるヴェッキォ橋を除き十幾つの橋はすべて爆破され、アルノ川の中に無残な姿をさらした。
橋を爆破したものの、市内中心部にはすでに約六千人ものパルティザンが潜入しており、白兵戦、狙撃戦に移っていた。ドイツ軍はじりじりと市外北部に撤退を余儀なくされた。十一日夜には遂にドイツ軍はすべて北部丘陵に退却し、フィレンツェはパルティザンと市民の手で解放されたのである。
その日午前中、フィレンツェの新聞社「ラ・ナツィオーネ」社では、フィレンツェ解放の第一号を編集し、輪転機をフル回転させていた。市内のサン・マルコ、サン・ガッロ街ではまだ戦闘が散発していたが、輪転機の響きは銃声を圧していた。
このフィレンツェの戦闘では、トスカーナ地区解放委員会が戦争指導に当り、綿密な作戦計画によってドイツ軍の退却を早めた。特に八月十一日午前六時を期して、市民達に一斉蜂起を呼び掛けた。この方式はその後の大都会でのパルティザン戦のモデルとなった。
当時を知る人達は、あの八月十一日午前六時に市の中心にあるヴェッキォ宮の鐘塔が、市民の総決起を促す合図としてカラン、カラーンといつまでも鳴り響いたのを忘れることはできないと話す。その日、約七万のドイツ軍は市内からいなくなった。それまでの半月間の戦闘で、パルティザンとそれに協力した市民達の間から三千百八十五人の戦死者を出した。そのうちの十一人に対して戦後、金勲章が政府から贈られた。
 パルティザンによる解放戦はさらに続く。九月五日にはフィレンツェの西方ルッカを、六日には北のプラート、十一日にはピストイアと相次いでパルティザンが解放し、いよいよ戦闘は北部ポー川周辺へと移って行く。
こうした動きが示すように、四四年夏以降にはパルティザンの勢力はすでに北イタリア各地にも点と線だけではなく、面として深く浸透していた。そのうえ各自治体が「パルティザン共和国」化する例も珍しくなかった。本項で述べた大激戦地モンテフィオリーノもその一つで、他にもオーストリア国境に近いカルニア地方などがあるが、最大のそれがヴァル・ドッソラ地方(オッソラ渓谷)である。
四四年九月初旬、アルプスの高峰モンテ・ローザの東部に展開するこのヴァル・ドッソラで、パルティザン部隊は駐留ドイツ軍だけでなく、ファシスト共和国が温存する「ムーティ旅団」「モンテ・ローザ旅団」などを撃破し、この地方一帯を制圧した。ピエモンテ州に属し、スイスに隣接する交通の要衝であり、渓谷の名が示すように水力発電所を多くかかえる戦略地帯でもあった。中心都市はドモドッソラ(人口約二万五千人)である。
三十六の市町村があり、地域は広大だが山岳地帯のため村落人口は約八万と少なかった。この地方のパルティザンは住民と一体となり、再びナチ・ファシストが攻撃をかけてくるのに備えた。そのパルティザンは共産党系のガリバルディ旅団、社会党系マッテオッティ旅団、キリスト教民主党系ディディオ旅団で、敵が攻撃を加えてきた時には、住民も一緒になって抵抗戦に入ることになっていた。
総指揮官は元陸軍軍人のエットーレ・スペルティであった。彼はこの地域で自治共和国の設立を考え、パルティザンと住民の中から人望ある人物により、三権分立の政府、議会、裁判所を作った。共和国首相には医者で社会党系のエットーレ・ティバルディが選ばれ、閣僚には戦後に首相となるデ・ガスペリの弟アウグスト、それに応援に駆けつけた共産党の有力者ジャンカルロ・パイエッタもいた。紅一点のジゼッラ・フロレアーニという三十歳代の美人も閣僚になるという当時としては画期的な内閣であった。歴史的に交流が盛んだった隣接のスイスもこのヴァル・ドッソラ“パルティザン共和国”を承認し、相互に“大使”を交換した。
この“共和国”政府は北イタリア解放委員会の一部を構成したほか、食糧生産を計画的に進めて配給制も実施、自給自足の実を上げた。このようにして四六年の政体決定の国民投票でイタリアが共和制を採る基礎を、これら“パルティザン共和国”は育んでいたのである。
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