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ムッソリーニの処刑24

时间: 2019-11-21    进入日语论坛
核心提示:パルティザン、都市に進出 国民解放委員会の設立、パルティザンの誕生以来、多大の犠牲者を出しながらも、反ナチ・ファシズム勢
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パルティザン、都市に進出
 
 国民解放委員会の設立、パルティザンの誕生以来、多大の犠牲者を出しながらも、反ナチ・ファシズム勢力は着々と増大していた。ドイツ軍の弾圧が強まれば抵抗も増した。パルティザンは市民の共感を得て、魚が水中を泳ぐようにその活動は次第に活発となった。山岳、農村地帯から北部工業都市にも勢力は急速に拡大しつつあった。
そのパルティザンに呼応して、工業地帯の労働者も側面から支援した。ファシスト党が四三年十一月、ヴェローナで党大会を開いて気勢を上げた四日後の十一月十八日、トリノのフィアット工場では労働者がストを敢行した。ナチ支配下で初めてであった。このストはファシスト党大会への労働者からの“回答”という政治ストであった。
そのトリノと、ミラノ、ジェノヴァを結ぶ北イタリア工業三角地帯で、こんどは全労働者が四四年三月一日を期して、ゼネストに入ったのである。ストは三日間続いた。市電の運転手、郵便局員なども同調し、市民生活はマヒ状態に陥った。ドイツ軍はスト都市を戒厳令下に置き、企業側には賃金不払いを命じた。ドイツ軍はまたスト参加者を強制労働のためドイツに送ると脅かした。
フィアット工場の塀には、「ムッソリーニに死を!」というスローガンがペンキで大書された。サロ政権樹立以来、このようなスローガンが公然と人々の目にさらされたのは初めてであった。企業側もまた、スト収拾に当って、ドイツ軍が命じたスト労働者への賃金不払いについては戦争終結後に支払うことを約束するなど、ドイツ軍への抵抗の姿勢を示したのである。
このストの波紋は大きかった。北部工業三角地帯で約六百人の労働者がドイツ軍により検束され、ブッヘンワルト、マルトハウゼンなどのドイツ強制収容所に送られた。このため労働組合などが一挙に反ナチ強硬姿勢に転じ、地下の国民解放委員会に合流して反ナチ・ファシスト運動に加わることになった。パルティザン勢力は広くかつ深く、都市社会の隅々に浸透して行く。ここからやがて北イタリア各都市の反ナチ・ファシスト一斉蜂起が燃え上がることになる。
 この時点で、パルティザン勢力がどのくらいの規模であったかはその性格上、なかなか把握し難く、不明である。ただ四四年六月十五日、ムッソリーニ政府が公表した数字では戦闘能力を持つパルティザン部隊を約八万二千人と推定している。各州ごとの内訳を見ると、ピエモンテ二万五千、リグーリア一万四千、フリウリ・ヴェネツィア・ジュリーア一万六千、エミリア・ロマーニャとトスカーナ一万七千、ロンバルディア五千、ヴェネト五千六百となっている。何を根拠にこの数字を出したのかは分らないが、これは前年同期比二万七千人増としている。
これに対し、ムッソリーニのファシスト軍は九万三千の兵力を持ち、北イタリア占領ドイツ軍戦力は約二十万人であった。
 パルティザン側は約百人単位で山の中や農山村付近に野営し、自活の形をとっていた。共産党系パルティザンは赤いマフラー、それ以外の政党系は青マフラーで区別していた。指揮官は元軍人が多く、政治委員という部隊の管理、教育を担当する者もいた。食糧などの調達にも当り、農民などへの不当な調達は厳格に監視され、違反した者にはタバコの配給を停止したり、隊内委員会の協議で追放または処刑という罰則もあった。
各部隊は毎朝点呼、武器点検を行い、あいさつは「ナチ・ファシストに死を!」または「国民に自由を!」であった。武器はイタリア軍解体の際に準備したもののほか、ドイツ軍を襲撃して奪取したものを使用した。四四年春からはドイツ軍攻撃のたびに、パルティザン側は多数の武器を押収した。四四年六月から戦争終結直前の四五年三月末までの間の奪取兵器は、大砲百九門、重機関銃二百八十六挺、軽機関銃一千百七挺、小銃六千五百五挺、自動拳銃二千四百八十三挺などであり、このほか弾薬八百四十七箱、火薬十万六千キロとなっている。またパルティザンのこの期間中のドイツ軍襲撃は六千四百四十九件、ドイツ軍死者は約一万六千人と推定されている(注1)。
武器弾薬補給は、連合軍からも一時期行われた。無線機器、食糧補給も同時に夜間の空中投下という方法でなされた。連合軍のこうした物質投下は戦争終結までの間、延べ六千四百九十機によって実施された。
しかし連合軍最高司令官サー・ハロルド・アレグザンダーは四四年十一月十三日突然、「冬の気象条件悪化のため武器などの補給が思うにまかせないため、以後、補給は中止する。パルティザン諸君は、危険な戦闘を停止して帰郷されたし」と通告してきた。パルティザン部隊司令部と国民解放委員会は、このイギリス人将軍のあまりの無神経さにあきれ、かつ激怒した。パルティザンは各地で連合軍の前衛としてドイツ軍と戦い、悩ませ、ジリジリと北上しながら解放を果してきたのである。連合軍は後からそれら解放地区に進駐して来るケースが多かった。
それにパルティザンにとって、イタリア全土が解放されるまでは帰るべき郷里などはなかった。戦うかドイツ軍に捕って殺されるか、またドイツの強制収容所に送られるかのいずれかしか道はないことを、この司令官は理解できなかったのである。「戦闘を止めて郷里に帰れとは何事か!」と、パルティザン達が怒ったのも無理もなかった。
連合軍からの補給が途絶えることは、その量が必ずしも多くはなかったとはいえ、これから厳冬の山岳地帯で戦闘を継続し、部隊を維持していくには手痛い打撃になることは明白だった。前年の冬はパルティザンの規模も小さかったが、いまや十万人近くにふくれ上がっている。寒気と飢えの中で、この冬をどう乗り切るか? 国民解放委員会とパルティザン司令部は、難局に直面した形であった。
しかしパルティザン実戦部隊は、断固戦闘続行を決めた。部隊維持と戦闘続行のためには、ドイツ軍への攻撃を倍加して武器弾薬を奪取するチャンスを増やすとともに、都市近郊での戦闘に入ることによって、市民と接触し、食糧その他の供給で市民の協力を仰ぐしか道はなかった。こうした戦術転換は当然、犠牲者を増やすことにつながるがやむを得なかった。
ボローニャ、リミニ、クレモーナ、さらにヴェネツィア、ミラノ、ジェノヴァ、トリノなどの都市周辺部に、こうしてパルティザンがゲリラとして出没するようになった。四四年十二月から四五年一月にかけてである。時には赤いマフラーや青いマフラーの男達が公然と各市内を歩き始めた。ムッソリーニのいるガルダ湖付近にも接近してドイツ軍警備隊と小競り合いを演ずるまでになった。
それまで「点」の存在であったパルティザンは、いまや「面」としての存在に変ってきた。パルティザンの「都市化」によって、工場労働者や一般市民の多くもパルティザンとの一体感を抱く基盤が育ったのである。軍官民が一致協力した十九世紀末のイタリア国家統一運動(リソルジメント)とまさに同じ状態となった。
このイタリアのパルティザン運動で、女性の活躍が大いに威力を発揮した。「点」の存在であった時も、一部隊の中に女性も少なからずまじっていたが、都市化して「面」の存在になると、その数は急激に増えた。これら女性はパルティザンと労働者の間、都市と地方の間、パルティザンと地下運動者の間などの連絡や情報伝達に、はかり知れぬ貢献をした。後述するように、戦闘での戦死者やドイツ軍に捕って処刑された女性パルティザンの数は決して少くはなかったのである。
 四五年四月末のイタリアのナチ・ファシストからの解放が実現した当時、パルティザン実戦部隊の総数は三十万人近かったと言われるが、その内訳は全体の四〇パーセントが共産党系、二五パーセントが行動党系の「正義と自由」派、あと残りの三五パーセントがキリスト教民主党、自由党、社会党系であった(注2)。
ここでさらに、イタリア・パルティザンの戦死傷者に触れておく。一九四六年にイタリア外務省が「ドイツに対する解放戦争へのイタリアの貢献」と題する文書で発表した数字は、本書の第一章で述べたが、その後の調査では実数はさらに増えている。
クロノロジスト(年代記記録者)のロベルト・バッタリアが一九五五年に発表したところでは、パルティザン戦死者とドイツの報復による市民の死者約四万六千人、国内でのパルティザン重軽傷者約二万一千人、外国でのイタリア・パルティザン(フランス、ユーゴなど)や反ナチ・ファシストの死者約三万人、ドイツで訓練中のイタリア兵六十一万五千人のうち死亡したとみられる未帰還者三万三千人、ドイツ強制収容所などで死亡したイタリア人政治犯など約八千人。
また一九七七年刊『LA CAUSA DELLA RESISTENZA ITALIANA(イタリア抵抗の大義)』(ANDREA PORCRI著 ISEDI出版)によると、パルティザンの死者は国内で三万八百八十九人、国外で一万三千八百三十一人、計四万四千七百二十人。負傷者は国内一万八千一人、国外三千百六十七人、計二万一千百六十八人。ドイツ軍による報復で殺害された一般市民九千九百八十八人とされている。
第二次大戦でのイタリア将兵の戦死者(戦病死を含む)が約二十四万二千人であることからみると、このパルティザン戦死者の数は重い意味を持つと言わねばなるまい。前述の女性パルティザンは、最終的には三万五千人が銃をとって戦ったと言われ、ドイツ軍に処刑された者を含めて戦死者は約六百人に上っている。パルティザンがいかに凄絶な戦いをナチ・ファシストに対して行ったかがうかがわれる数字である。
 四五年冬は北イタリアは大雨と豪雪で連合軍は動けず、パルティザンだけが都市、農村、山岳地帯でナチ・ファシスト軍と血みどろの戦闘を繰り返していた。
ケッセルリンクは「テロ対策」として、都市内では隊列を組んで行進することを禁止、戦闘態勢のまま武器は安全装置をはずし、即時応戦できるように命令していた。それでも依然ドイツ兵への襲撃は止まず、射殺されたり、捕って絞首されたりするものも出た。川の中に放り込まれて溺死したり、凍死したりするものもいた。ミラノやトリノではドイツ軍指揮官が「イタリア人は皆、敵だと思え、決して気を許すな!」と部下に訓示する事態にまでなっていた。
ケッセルリンクは戦後の一九四七年春、ヴェネツィアでの軍事法廷で、「ドイツ軍によるイタリア・パルティザンに対する残虐行為もあったかも知れないが、パルティザン側も少なからず残虐であった。焼き殺されたり、耳や鼻、それに性器をそぎ取られたりしたドイツ兵も多かった」と言明している。ドイツ軍もパルティザンも極限状態で戦闘していたのである。
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