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ムッソリーニの処刑26

时间: 2019-11-21    进入日语论坛
核心提示:解放委、処刑の方針決める 四五年三月、前年から続くその年の冬は、二年続きの厳しい寒さが北イタリアを襲っていた。アルプスの
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解放委、処刑の方針決める
 
 四五年三月、前年から続くその年の冬は、二年続きの厳しい寒さが北イタリアを襲っていた。アルプスの山々は雪深く閉ざされ、ガルダ湖は鉛色の重い波にゆらめいていた。
いつも蒼ざめたムッソリーニは、湖畔で相変らず形式だけの政務をとっていた。時々の式典、訓辞、閲兵などである。だが大抵は執務室で新聞を読んだり、手紙を書いたりするだけであった。
その頃すでに、パルティザンは北部の主要都市で小規模編成ながら公然と陽動作戦を繰り返していた。夜九時以降の夜間外出禁止時間に、警備に当るファシスト兵・ドイツ兵襲撃も頻発した。ミラノの映画館では、覆面したパルティザンが舞台に躍り上がり、観客にレジスタンスに参加をするよう訴えた。ヴェネツィアのゴルドーニ劇場でも、同様の事件が起った。ドイツ兵やファシストの警備隊の眼前での出来事である。パルティザンは神出鬼没だった。二月にはとうとうムッソリーニのお膝元サロにまで白昼堂々と出没する有様になっていた。
一方、パルティザン戦闘部隊は、ナチ・ファシスト軍を撃破しつつ、三月二日クレモーナを解放、ポー川南域を支配した。連合軍の進出も時間の問題となった。クレモーナからミラノまでは百キロ足らず。戦争はいよいよナチ・ファシスト軍の本陣にまで迫ってきたことになる。
ムッソリーニはあせりを隠せなかった。イタリア各地の工場で生産される軍需物資をドイツ軍が強制的に徴発するのを怒り、支配下の工業地帯にある主要七十六社を六十億リラを投じて国有化した。ムッソリーニ政府の認可なしにドイツ軍は徴発できなくなるはずであった。フィアット、モンテジソン、モンテカティーニ、スニア・ヴィスコーザなどの大企業が含まれていた。これは二月二十六日のことである。ムッソリーニにすれば、横暴なドイツ軍に日頃の鬱憤を晴らしたつもりであったが、実効があがる見込みはなかった。しかも工場従業員側は、ファシスト政権には協力せず、ムッソリーニの目論見は成らなかった。国有化は彼の自己満足でしかなかったのだ。
 大戦の帰趨も、枢軸側の敗北を決定していた。遠い太平洋戦線ではアメリカ軍が二月十九日硫黄島に上陸、日本本土に一段と接近していたし、欧州戦線では二月十三日、ソ連軍がハンガリーのブタペストを解放、アメリカ・イギリス軍はドイツのケルンを脅かしていた。さらに三月七日には、ソ連軍がベルリンへ六十キロと迫るにいたり、総統ヒットラーは「ベルリン死守」を厳命する。
その七日、ムッソリーニはヒットラーに呼応して、ファシスト軍の将校約四百人を前に「友邦ドイツは決して負けない。わがファシスト軍もポー平野の町から町、家から家を防衛することを誓う。これこそが神聖な義務である」と大号令を下した。
当時、共和国軍は十七歳以上の青少年約九万。このほか約三万がドイツで訓練を受けていた。ドイツ軍は十五万ほどいた。片やレジスタンスの反ナチ・ファシスト、パルティザン部隊は、総数約二十万人を超え、ほぼ互角の勢力を持っていた。しかしパルティザン側は各地で日に日に勢力を増していた。それに反し、ファシスト軍では脱走兵が相つぎ、士気は上がらなかった。
こうした状況から、ムッソリーニが前途に不吉な予感を覚えたのも無理はなかった。
「このままでは絶望だ。何とか生きのびる手はないものか」
その頃、日夜、彼の頭を占めていたことは延命の秘策であった。その前年、自著『一年の歴史』の中で書いた「余はニューヨークのマジソン・スクエアで裁判にさらされるよりも、ロンドン塔でしばり首にされた方がマシだ」と壮語したのと、なんたる後退ぶりであろうか。しかも同じく前年の十二月十六日、わざわざガルニャーノから北部最大の都市ミラノに出向き、リリコ劇場をあふれさせた聴衆を前に「ファシストの理想は破壊されることはない。われわれの勝利への確信は絶対であると銘記せよ」と叱咤したのは、わずか三ヵ月前のことでしかなかった。
この時は、満場の支持者が「ドゥチェ! ドゥチェ!」と割れるような声で応えた。まさにオペラ座で演ぜられるドラマそのものであった。いまとなってみれば、それは喜劇と言うほかはない。それほど、ムッソリーニの心境の変りようは極端であった。
 しかしムッソリーニの胸のうちには、自分の運命の起死回生策が熟しつつあった。
まずスイス国境に近いヴァルテッリーナの砦に立て籠り、連合軍の手で捕えられるまで持ちこたえるというものであった。これは黒シャツ党の書記長パヴォリーニとの協議で生れた構想である。パヴォリーニはこの砦に立て籠る最低二万人くらいの精鋭を用意できると統帥に申し出ていた。また連合軍に逮捕された場合も、生命は保障されるとの確信に近い気持もあった。イギリス首相ウィンストン・チャーチルとの関係がムッソリーニの脳裏にあったからである。
約十年前の一九三三年のことだが、チャーチルは次のようにムッソリーニという人物を賞賛していた(注1)。
「ムッソリーニに体現された天才的ローマ人、偉大な生ける政治家は、多くの国に、社会主義の圧力も押し返し得ること、また精神こそ英雄に率いられた国が進むべき道を示すことを教えている。ムッソリーニは、ファシスト組織をもって、進むべき方向を確定した。社会主義に対抗して共同で当る諸国は、彼を先導者とするにやぶさかではない」
 そのチャーチルがその頃もなお、共産主義を憎悪し、大戦後の欧州ひいては世界の経営にソ連の勢力をできるだけ排除しようとしていることを、ムッソリーニは見抜いていた。
彼はこのヴァルテッリーナ砦での最後の抵抗を「名誉ある戦士の戦い」と定義付けていたが、同時に、事前にミラノの大司教イルデフォンゾ・シューステル枢機卿の仲介で、国民解放委員会の首脳と協議し、できることなら、自分の家族や党首脳の生命財産の保障を取りつけておきたいと念願していた。これは誰が見ても虫がよすぎたが、ムッソリーニは真面目であった。周囲の世界がナチ・ファシズムを敵にしているとの認識にまったく欠けていた証拠であった。
ムッソリーニは三月十三日、長男のヴィットリオに枢機卿宛の書簡を持参させた。シューステルとは彼が二九年にミラノ大司教になる前から旧知の間柄だけに、書簡内容は率直なものであった。まずシューステルに国民解放委員会首脳との会談の仲介を依頼したうえで、イタリア社会共和国軍は最後の一兵にいたるまで戦う決意であることを述べ、解放委員会側がファシスト側の指導部に対してはどのような処分を考えているかを知りたいという希望を表明した。
シューステルはこの「奇妙な」提案に困惑した。これでは国民解放委員会首脳との会談が成り立つとは思えなかったからである。「最後の一兵まで戦う」のでは、交渉など覚束ないではないか。ムッソリーニの次の出方を見守るしかなかった。
その三月初め、すでに連合軍最高司令部とローマ政府から北イタリアの合法政府の権限を認められていたミラノの国民解放委員会は、ミラノ全市の蜂起委員会を設置し、サンドロ・ペルティーニ(社会党)、ルイジ・ロンゴ、エミリオ・セレーニ(ともに共産党)、レオ・ヴァリアーニ(行動党)の四首脳が一斉蜂起の準備作業に当っていた。この四人は同時に「戦犯法廷」も設置した。ファシスト首脳を裁くためである。
この「戦犯法廷」は、次のような法令を定めた。
「ファシスト政府の閣僚ならびにファシズムの幹部は、憲法による保障の抑圧、大衆の自由の破壊、ファシスト体制の創設に手を貸し、国家の尊厳を危殆(きたい)に陥れ、かつ裏切った有罪、さらに国家を現在の破局に導いた有罪のため、死刑もしくは少くとも強制労働の罪に処せられるべきである」
 これは直ちに国民解放委員会から承認された。ムッソリーニが自分に「どのような処分」が降りかかるのかを知りたがっているまさにその時、レジスタンス側は明確に、ムッソリーニらファシスト首脳への極刑を決定したのである。これは実は、重大な決定であった。
バドリオ政権が連合軍首脳との間に結んだ休戦協定では、ファシズム首脳の身柄は連合軍側に引き渡すことが規定されており、連合軍は間もなくパルティザン側がムッソリーニを逮捕することもあり得るとみて、その際には正式に身柄引渡しを要求するとの情報もミラノに達していた。したがってミラノの国民解放委員会のこの「戦犯法廷」に基づく処刑決定は、休戦協定そのものに対してはもちろん、連合軍側の期待への挑戦であり、かつ引渡し要求へのあからさまな無視につながるものであった。
国民解放委員会の最高首脳で、かつ蜂起委員会を取りしきるロンゴ、ペルティーニらは、そのことは十分知りつつも敢えて自らの意志でその決定を行ったのであった。その意図は唯一つ、「イタリア国民の名において、自らの手でファシズムを打倒する」の一念でしかなかった。それこそがパルティザンの大義にかなうものとの確信からであった。
一九二二年にムッソリーニがファシスト政権を樹立して以来、いかに多くの反ファシストが弾圧されたことか、そしていま第二次大戦の「ムッソリーニの戦争」で多くの国民が苦しみ、反ナチ・ファシストのパルティザンが幾万もの生命を失っていることを想う時、ファシズムはイタリア人自らの手で屠(ほふ)るのが責務であった。「それこそが人間の名誉であり、尊厳というものだ」と、後に第七代イタリア共和国大統領時代のペルティーニは、私に語ったものである。
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