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ムッソリーニの処刑35

时间: 2019-11-21    进入日语论坛
核心提示:ヴァレリオ大佐が追跡 ダダリオ大尉は二十七日夜、部下とカドルナから提供を受けた数人のパルティザンと共に五台の車に分乗し、
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ヴァレリオ大佐が追跡
 
 ダダリオ大尉は二十七日夜、部下とカドルナから提供を受けた数人のパルティザンと共に五台の車に分乗し、コモ方面に向った。ファシスト首脳陣はコモを北上したと推測したからである。五台の車は星条旗を翻していた。
コモ湖畔に展開するパルティザンは、星条旗を見て連合軍が到着したのかと驚いた。ダダリオ隊はナチ・ファシストと間違われて銃撃されることもあった。若いダダリオはそれにもひるまず、二十八日午前二時過ぎには、風光のひときわ美しい別荘地チェルノッビオに入った。
果してそのチェルノッビオのパルティザンから、ファシストの大物を逮捕した旨の情報を得た。それが軍首脳ロドルフォ・グラツィアーニ元帥と知って狂喜した。
グラツィアーニは二十六日にメナッジョでムッソリーニと別れ、単独行動をとってコモに戻る途中、パルティザンに捕まり、拘禁されていたところであった。自家用のアルファ・ロメオで運転手とともに逮捕されていた。私はその運転手がシュムバシという名前の有色人種だと聞いた時、おや、日本人らしい名前ではないかと思った。綴りはSHUMBASHIである。「新橋」に酷似している。しかも有色人種だということでさらに調べたところ、アビシニア(エチオピアの一部)人と分った。グラツィアーニがエチオピア戦争(一九三六年)に勝利をおさめた時以来の専属運転手とのことであった。
ダダリオにとっては、ムッソリーニに次ぐ、“第二の大物”捕虜であった。彼は直ちにこの獲物を自らミラノに護送した。猛スピードで暗闇のミラノ市街を走り、警備中のパルティザンから幾度も発砲された。
ダダリオらは「ホテル・ミラノ」に陣どり、グラツィアーニを監禁した後、ホテルのバルコニーに星条旗を掲げた。グラツィアーニ尋問によって、ムッソリーニに関する重要情報がとれると期待して有頂天になっていた。
しかしこのグラツィアーニにこだわったことは、ダダリオにとって大きな誤算であった。本来の標的であるムッソリーニはチェルノッビオから二十キロのところにいたのである。だがそのことをダダリオは知るよしもなかった。
ダダリオはカドルナ将軍を訪ね、グラツィアーニを「捕獲」したことを告げたが、それにしても、ダダリオがグラツィアーニをミラノに連行したことは、カドルナの深謀に乗せられたのではと思えるフシもある。ムッソリーニから目をそらされたのである。カドルナは当然、グラツィアーニもムッソリーニも逮捕済みであることを承知していた。チェルノッビオのパルティザンに電話し、グラツィアーニはダダリオにまかせるくらいの操作は十分にやってのける知将であった。
 二十八日午前四時過ぎ、ダダリオはカドルナ将軍の事務所で、パルティザン達に「連合軍発行の通行許可証」なるものをタイプにたたいては渡した。許可証の発行人として、自分の名前をペンで署名した。連合軍がミラノ周辺に入ってくるのもそう遠くはなく、かつムッソリーニ追跡のため多くのイタリア・パルティザンの協力を得たいというのが、ダダリオの魂胆であった。
その彼をじっと見守っていたパルティザンのヴァレリオ大佐は、「わしにも一枚欲しい」と要求した。ダダリオは大佐の注文に応じて、特に次のようにタイプを打ち署名した(注1)。
「ミラノ 28/4 '45 ヴァレリオ大佐はパルティザン総司令部付イタリア高級将校である。彼は北イタリアの国民解放委員会の命令により任務遂行中である。コモ及び同地方で、彼とその武装隊は自由通行を認められるものとする。アメリカOSS軍大尉E・ダダリオ」
 ヴァレリオはこのアメリカ軍将校の一枚の証明書が役に立つことがあると確信していた。抜け目ないカンの良さであった。すでにほかにも、一枚の自由通行証を持っていた。それは四月二十五日のミラノ一斉蜂起一時間前に、パルティザン幹部に首脳部から交付された次のような内容のものであった(注2)。
「本書状持参人でミラノ市民・身元番号二七四〇九五は、連絡の任務を持つ本司令部直属の者である。当人の任務遂行のためあらゆる便宜を供与されるよう宜しく。本状持参人は当部のヴァレリオ大佐である。北イタリア国民解放委員会 占領地区イタリア総司令部」
 ヴァレリオとしては、この解放委員会総司令部とアメリカOSS将校の自由通行許可証を持っていれば、大抵のことはやってのけられると考えた。しかも前日の二十七日午前、解放委員会首脳はロンゴ、ペルティーニらの主導で「ムッソリーニの扱いについては、逮捕された場所に最も近い場所で、パルティザンによる裁判にかける」と決め、カドルナも最終的にこれを受け入れたということを聞かされていた(注3)。
ムッソリーニのミラノ脱出という緊急事態のため、解放委員会としてはあらためて対応措置をとったのであった。裁判に続いて処刑という手段も状況によっては不可避という想定も行われたようである。だがこの辺の事情は現在もなお、極めて不透明のままである。明確な取決め文書は残されてもいない。文書作成の形跡はなく、首脳間の単に口頭による合意だったとも言われている。その際、カドルナは統帥を逮捕した後、やはり連合軍に引き渡すべきだと強く主張し続けたという。肝心のところで意見の不一致という複雑な事情があった。
どうやらそうした状況をヴァレリオ大佐は熟知していたのか、彼はその二十七日夜、カドルナに「ムッソリーニの処刑は私がまかされている」と伝えた。カドルナはそれを聞いて唖然として口もきけなかった。カドルナは「首脳陣が自分の頭越しに決めたな」と思い込んだようである。その場にいた目撃者の話である。そうした思いからか、カドルナは別に首脳に確認を求めなかった。確認を求めれば、かえって自分の恥さらしになりかねないと思った。「それは軍事作戦担当の君には関係ない」と言われるのがオチと考えたからである。
そのうえ、当時の最大の不透明の点は、ヴァレリオは果して本当に国民解放委員会のトップから、ムッソリーニ処刑を指示されたのかどうかである。これについては文書による記録はない。とすれば口頭でか? 誰からか? これについては指示したと名乗り出た人物もいないし、ヴァレリオも何も言っていない。
今日、この点について多くの研究者がほぼ一致して結論めいたものとして挙げているのが、ヴァレリオ大佐は独断で、かつ率先して「処刑役」になりすましたということである。しかもそれを国民解放委員会首脳が黙認したという点である。これについては、折にふれ問題となったため、さらに後述したい。
 ここでヴァレリオという人物について述べておく。
本名はヴァルテル・アウディシオ(WALTER AUDISIO)。一九〇九年イタリア北部アレッサンドリア市に生れる。父は同市のボルサリーノ帽子工場の職人であった。この工場の事務職員にしたいとの父の期待に応え、ヴァルテルは苦学の末に会計係として採用された。
ムッソリーニがファシズム運動を進めている頃、彼は左翼運動に入り、一九二二年のファシスト独裁確立後は、青年共産党員として地下活動に奔走、政治犯としてポンツァ島に流刑となる。ここで多くの共産党政治家達とも知り合った。五年の刑ののち帰郷して結婚するが、ファシスト体制下では左翼政治家に定職があるはずもなく、臨時の日雇い、手仕事だけという生活を余儀なくされた。一九四〇年には、「破壊分子」の烙印を押されて、郷里での生活も覚束ないというみじめさも味わった。
一九四三年夏、ムッソリーニ失脚の際には、それまでの地下活動から躍り出て、ムッソリーニ解任歓迎集会を開くなど、同地方で反ファシズムの最前線に立った。その直後、幽閉中のムッソリーニがヒットラー親衛隊に救出されてサロ政権を樹立すると、再び地下に潜行、北部での反ナチ・ファシズムの抵抗運動のリーダー格となる。
一九四三年九月に、バドリオ政府と連合国との休戦が成立すると、ローマの国民解放委員会に呼応して北イタリア国民解放委員会の創設に参加し、北イタリア各地でパルティザン政治委員として民政にも取り組んでいた。ヴァレリオの名は、このパルティザン時代の呼び名で、それまでの実績から大佐の階級を得ていた。戦後は共産党から本名で国会議員として下院に三期、上院に二期当選している。一九七三年に六十四歳でローマで死去した。
このように少年時代から左翼運動に身を投じ、ファシズムの弾圧下で辛い闘争に明け暮れたヴァルテル・アウディシオにすれば、ムッソリーニは不倶戴天の敵に等しかったのである。そればかりか、彼の過去の劣等感から来る異常なサディスティックな性格が、自らを「処刑者」に駆り立ててやまなかったことが性格分析から指摘されている。
 ともかくヴァレリオと国民解放委員会首脳との関係は後述するとして、先を急ごう。
ヴァレリオ大佐はその二十八日朝六時半過ぎ、それまでダダリオの動きを見ていたが、さっと腰をあげるとカドルナに「では参ります」と挨拶した。カドルナは激励の言葉もかけなかった。同行したのは同志アルド・ランプレディ、リッカルドことアルフレード・モルディーニとその部下十一人である。
一行はドンゴに直行する途中、午前八時頃コモのパルティザン司令部に立ち寄った。そこで重要な情報を耳にした。一つはスイスのイタリア語放送が午前七時十五分に「ファシスト党統帥ムッソリーニが逮捕された」とのニュースを流したというのである。ただし逮捕された場所はマジョーレ湖のパランツァだと放送していたとのことであった。パランツァはコモ湖の東、マジョーレ湖に面するスイス領である。実際に捕ったドンゴとは八十キロ以上も離れている。とはいえ、外国の報道機関がイタリアより早く統帥逮捕を発表したことは、統帥処刑を狙うヴァレリオにとって油断のならぬことであった。
もう一つは、ドンゴのパルティザン数人がコモを訪れ、共産党の県支部幹部と協議を行っているとの情報であった。「何のための協議か?」。ヴァレリオにとっては、もはや一刻を争う事態であることをこの時に悟った。
ヴァレリオはこのコモからミラノの上官であるルイジ・ロンゴに電話した。内容についてロンゴは後に、次のように語っている(注5)。
「私はあの時、ミラノの司令部にいた。コモからヴァレリオが状況を知らせてきた。それによるとコモの解放委員会は、ムッソリーニを逮捕したことを誇りに思っているどころか、もてあまし、恐れおののいているとのことだった。また彼らはヴァレリオらを何としてでもムッソリーニに会わせたくはない様子だという。ヴァレリオが指示を求めてきた。返事は簡単だった。『お前がやられるか、奴らをやっつけるかだっ』」
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