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ムッソリーニの処刑37

时间: 2019-11-21    进入日语论坛
核心提示:「イタリア国民の名において!」 スイス脱出を計っていたムッソリーニは、ドンゴでパルティザンに捕った。あとを追って来た愛人
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「イタリア国民の名において!」
 
 スイス脱出を計っていたムッソリーニは、ドンゴでパルティザンに捕った。あとを追って来た愛人クラレッタも捕まり、ともに軟禁された。そのムッソリーニを処刑しようと、パルティザンのヴァレリオ大佐がミラノから追跡して来た。連合軍のダダリオ大尉もムッソリーニを追及して懸命であった。一九四五年四月二十八日は、こうしてイタリアの第二次大戦の大団円の日となろうとしていた。二十余年間、イタリアを支配していたファシスト体制もまさにフィナーレに近づきつつあった。
 その四月二十八日午後、ヴァレリオとペドロは逮捕したファシストを一ヵ所に集めることにした。ヴァレリオ大佐はネーリ、ピエトロの案内で、グイドを従えてデ・マリアの家に向った。三時半頃であった。それから一時間半余りの出来事は、イタリアの大戦史上、最後の血の惨劇となる。
これについては戦後、数多くの「実録」と称する記録が出版された。直接当事者のみならず、伝聞を基にしたのも数知れない。しかしようやく真相が語られ始めたのは、六〇年代後半になってからであった。それも断片的なものが散見されるだけで、全貌が描き出されるには七〇年代から八〇年代を待たねばならなかったのである。
直接の当事者が戦後長い間、沈黙を続けたのが最大の理由であった。というのも、当事者が真相を公表することによって、ファシストの残存勢力からの報復を恐れたことがまず第一の理由である。続いて「公正な裁判にもかけずに処刑したことへの非難」と、「クラレッタ・ペタッチまでも処刑したのは行き過ぎ」とのイタリア内外に湧き起った批判などから、当事者はひたすら口をつぐんでいたためである。とりわけイギリス首相チャーチルがその著『第二次世界大戦回顧録』の中で、クラレッタ処刑を強く非難したことから、ヴァレリオらへの国際的な批判が高まっていた。
しかしあれから四半世紀を経て、七〇年代に入るとようやく、当時のパルティザン達が「手記」や「記録」を公表した。イタリア内外に理性的に事実を直視する空気が一般化し、冷静にあの時代を眺める情況が生れたからである。同時に研究者達から事実の公表を求める声も高まったからであった。
当事者による署名入りの最初の手記は、七三年二月八日付共産党機関紙「ウニタ」紙上に、ヴァレリオの同僚グイド(ランプレディ)が同行記を書いた。その年十月に、直接の責任者ヴァレリオ大佐が死去すると、翌七四年四月十日発行の共産党定期刊行誌「GIORNI VIE NUOVE(新しい日々と道)」に、処刑に同行したピエトロ(モレッティ)が、目撃したことを告白した。
続いて七五年には、直接下手人とされるヴァレリオ自身による『IN NOME DEL POPOLO ITALIANO(イタリア国民の名において)』という著書がミラノのTETI出版社から刊行された。つまりこの本はヴァレリオの死後に出版されたわけである。長年にわたり準備し、死後に出版するよう手配したものであった。その中でヴァレリオ大佐ことヴァルテル・アウディシオは、ムッソリーニとクラレッタ処刑の詳細な「真相」なるものを記述し、センセーションを巻き起した。直接当事者による克明な手記だったからである。これによってそれまでの興味本位の伝聞や推理ものは、一挙に具体的な「事実」によって取り換えられることになった。そしてかつ、その段階で同書は一応「決定版」の評価を確立したのである。
以下、同書の中のムッソリーニ、クラレッタの最期の場面を紹介する。
 私(ヴァレリオ)は(二十八日)午後三時十分、ドンゴを車で発つ。グイド、ピエトロ、ネーリと計四人だ。空模様はあやしかったが、雨は落ちていなかった。
メッツェグラを過ぎ、ボンツァニーゴに向う。その間に、処刑の場所を見当つけておいた。いい場所があった。道はカーブしており、そこの一軒のヴィッラ(別荘)の前だ。門は閉められており、中の庭園には人影も見えない。ここはボンツァニーゴから約一キロ足らずで、ジュリーノ・ディ・メッツェグラという。別荘の名はヴィッラ・ベルモンテ。あたりでライフルの作動を確かめるため、一発射ちながら車を降りた。ピエトロが私とグイドのあとに従った。私はグイドに言った。
「何を考えているのか分るか? 私は『二人を解放しに来た』と言ってやるんだ」
グイドが答えた。
「馬鹿じゃない? ……でもお好きなように」
デ・マリアの家は、山の中腹にあった。若い二人の見張りがムッソリーニらの部屋の入口に立っていた。
最初にピエトロが中に入って、捕虜(ムッソリーニとクラレッタ)となにかしゃべったあと、あいているドアの向うから私に「入れよ」と合図してきた。
ムッソリーニはベッドの脇に立っていた。茶色の外套を着ていた。ペタッチは洋服を着たままベッドに横になっていた。
ムッソリーニは私を見て「何ごとだ」とつぶやくように言った。彼の下唇がわなないていた。
彼が危険というものにまともにさらされたのは、はじめてのことではなかったろうか。統帥である間は、彼とその敵との間にはつねに、護衛の突撃隊、警察官が壁を作っていた。しかしいまは一対一の差しである。目の前にいる彼は、私のライフルを見て恐れおののき、虚栄心も歴史さえも捨ててしまった一人の男でしかなかった。私は言った。
「解放しに来たんです」
私の言葉に、彼の表情が一瞬、変った。
「エッ、本当か?」
こう聞き返してきたが、私は何も言わなかった。ただひと言、付け加えた。
「早く。急いで下さい。時間がない」
彼はテキパキと動いた。それまでの恐怖の気色は消え、昔ながらの傲慢さが顔に出た。
「どこにやられるんだ?」
私はそれには答えずに聞いた。
「武器は持ってますか?」
「ノー、武装などしていない!」
こうしてわれわれも恐怖心を持つ必要はなくなった。
「さあ、行こう!」
突然、元気づいた彼はベッドの上にいる女性のことなど、まるで忘れたかのように、私にこう促した。
「まず、貴方が。そしてこの御婦人も」
私は落着いてこう言った。彼女は自分の持物を集め始めた。
ムッソリーニはようやく、自分で部屋を出ようとした。私があとに続くと、私を振り返りながらはっきりと口にした。
「君に一つの帝国(UN IMPERO=一つの帝国、一支配権などという意)をやろう!」
誰もそんな言葉を信用しないだろう。ところが彼は、約束は必ず守るといった意志を込め、固く決意しているかのように、そう言ったのである。彼のその時の気持には、私がまさしく解放者と映ったのであろう。ローマの首相官邸でと同じように、このボンツァニーゴの農家でも、彼は重要な約束をするつもりで振舞ったようだ。
彼は部屋を出たあと、クラレッタに「早く、早く」と促した。ペタッチはこの時やっと、ムッソリーニと並んだ。
私とグイドが先導した。ピエトロが一番うしろについていた。われわれ一行は車のところまで歩いた。クラレッタはカモシカのやわらかいハイヒールで、小石の坂道が歩きにくそうだった。ムッソリーニは行進中の兵隊の間にいるように、急ぎ足で歩いた。彼がもし救出されるのだと信じていなければ、意気消沈して引き立てられるように歩いたことだろう。いまの彼は先刻とは違って、見違えるような人間になっていた。
坂道をおりる時、あたりは深閑と静まりかえっていた。私は自分の役割が終りに近づいていることに気付いていた。
あの「彼」がここにいる! 数分後には「国民の裁き」が執行される……。
車のところに着いた。ムッソリーニはまったく自由になったと信じているように見えた。小型車に乗る時は、クラレッタに先を譲ろうとした。
私は言った。
「貴方が先に。たくさん着ているから。その帽子はとった方がいい」
彼はファシスト統帥の帽子をぬぐと、禿げた大きな頭を手でなで回した。
ムッソリーニが座席の奥に座り、帽子をかぶった。私は彼には周辺が見えない方がいいと思った。
「帽子を目のそばまで下げて!」
私はそう言って次にクラレッタを乗せた。
「出発だ!」
前の座席に運転手とグイド。ピエトロはクラレッタのドアの足かけに立ち、私はエンジンの右側の泥よけの上に立って、いつもムッソリーニの方に顔を向けていた。
車はゆっくり、坂を下った。止まる場所は前もって決めておいたあのベルモンテ荘前。近づいたので停車を命じ、窓の外から小声でムッソリーニに言った。
「話はしないように。変な音を聞いたので、ちょっと見てくる」
私はカーブする道路の前後を遠くまで見渡した。誰もこちらに来る様子はない。
私が車のそばに戻ると、ムッソリーニの顔が恐怖でこわばっていた。グイドが私に「彼は『天国、夢の国は終った』と口走っていた」と言う。注意してよく見ると、ムッソリーニはやはり私を疑っているように見えた。
私はピエトロと運転手をそれぞれ五、六十メートル先に監視役として出した。つづいてムッソリーニらを車から降ろし、ベルモンテ荘の塀の前に立つよう命じた。ムッソリーニはウサギのように従った。まさかこれから自分が殺されるとは、思ってもいない表情であった。
ただわれわれ同志の誰もが、これから何が起きるのか、無理に考えないようにしていることは確かだった。
ムッソリーニはもう疲れ果て、不安げにそのあたりを右足を引きずるようにして歩き回っていた。クラレッタが彼に近寄った。二人とも石塀を背にして、こちらを向いた。
その瞬間、私は戦争犯罪人ベニト・ムッソリーニに対する死刑判決を宣告した。
「自由志願軍団総司令部の命令により、イタリア国民の名において処刑する」
 ムッソリーニは最初、これが何であるのかまったく分らなかったようだ。ただ目を見開き、唖然とした面持で、自分に向けられたライフルを見つめていた。クラレッタが彼の肩に腕を投げかけた。
私はクラレッタの目を見ながら言った。
「離れろッ! 君も死にたいのか!」
彼女は「君も」の「も」の意味が分ってか、一瞬、ムッソリーニからちょっと離れた。
彼はひと言も発しない。ただ震えていた。すぐに恐怖で顔は土色に変ってきた。唇はわななき、声にならぬ声で叫んだ。
「エッ、何を、大佐殿。何をするッ、大佐!」
気が動顛しているとしか思えなかった。
ライフルの引金を引いた! だが、弾が出ない。試射をここに来る前にしておいたのに——。何度か引いたが駄目だった。グイドが自分のピストルを寄こした。その引金を引いても作動しない!
ムッソリーニは金縛りにあったように、硬く直立したままだった。口は半ば開いたままだ。両腕はだらんと下げていた。
すぐピエトロに車内にある私の軽機関銃を持ってこさせた。
クラレッタはその間に、ムッソリーニの傍に寄り添い、肘を彼の体につけて無言のまま立ちすくんでいた。
湿気のある空気の中で、重い沈黙が流れた。ムッソリーニが短くあえいでいるのがよく分った。彼の目にはコモ湖の夕景が映ったはずだが、それどころではなかったろう。彼はただ震えていた。いまや恐怖におののく一人の男でしかなかった。
さきほどのライフルが故障していたからといって、彼は必ずしも生きる希望を見出したとは思えない。ここで殺されるものと感じていたはずだ。ただただ動顛して、そのため悲しみをまぬがれていたに過ぎなかったのではないか。愛人が一緒にいるのさえ、気付かぬ様子であった。
私にとっては、彼に対する憎しみの感情はなかった。あるのはただ、何十万、何百万の憐れなだまされた人の仇を討つという気持だけであった。
あらためて軽機関銃を手にして、彼の前に立つと、五発を発射した。戦争犯罪人は塀に背をもたれかけながら膝を折り、頭を胸にのせるように倒れた。茫然とするクラレッタも、次の瞬間、四発の銃弾でムッソリーニの上にくずれるように重なった。
時に二十八日午後四時十分であった。その武器はcal.7,65L.MASmod.lo 1938-F.20830である(注1)。
 ムッソリーニは時に六十歳、クラレッタは三十二歳であった。統帥は自ら作った歴史によって殺され、クラレッタは彼への熱情によって死を共にしたのである。
二人が殺されたベルモンテ荘の石塀に、いまもこの時にえぐられた銃弾の痕が残っている。そしてその下には、黒いペンキで十字架が二つ描かれ、誰が飾るのか、時たま四季の花が置かれている。
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