「殺(や)ったのはピエトロだ!」
サンドリーノという若いパルティザンを覚えておいでだろうか。そう、ムッソリーニらが最後の夜を過した農家で、同じく若いリーノと監視役を務め、処刑後は遺体の見張りをさせられた人物である。そのサンドリーノが処刑から半年後の四五年十月ミラノの共産党系新聞に、「ヴァレリオ大佐が処刑したというのは正確ではない。正しくはピエトロことミケーレ・モレッティで、ヴァレリオは“とどめの一発”を加えただけである」と発言した(注1)。
処刑目撃者の一人サンドリーノのこの言葉は「爆弾発言」にも等しかったが、すでにヴァレリオ大佐の名はパルティザンの間で畏敬の念で語られ、連合国でも「統帥を殺した男」としてまかり通っており、この発言はまったく注目を引かなかった。むしろ「ヴァレリオ大佐とは誰か?」の追跡調査の方に精力が注がれていた。
しかし十年ひと昔でヴァレリオ報道も冷えた五六年に入ると、サンドリーノは再び「ピエトロ処刑説」を訴え始めた。彼の主張はこんどは新説としてイタリアのいくつかの新聞、雑誌にも取り上げられた。
その一九五六年当時、私は毎日新聞記者としてローマにいた。たまたまこのサンドリーノの発言を知り、これを記事として日本に送った。五六年十月十二日付毎日新聞夕刊に「いまは追われる身」「ムッソリーニを殺した“英雄”」「つけねらうネオ・ファシスト」の大きな見出しと共に、ピエトロことモレッティの写真付で次のように掲載されている(原文のまま)。
処刑目撃者の一人サンドリーノのこの言葉は「爆弾発言」にも等しかったが、すでにヴァレリオ大佐の名はパルティザンの間で畏敬の念で語られ、連合国でも「統帥を殺した男」としてまかり通っており、この発言はまったく注目を引かなかった。むしろ「ヴァレリオ大佐とは誰か?」の追跡調査の方に精力が注がれていた。
しかし十年ひと昔でヴァレリオ報道も冷えた五六年に入ると、サンドリーノは再び「ピエトロ処刑説」を訴え始めた。彼の主張はこんどは新説としてイタリアのいくつかの新聞、雑誌にも取り上げられた。
その一九五六年当時、私は毎日新聞記者としてローマにいた。たまたまこのサンドリーノの発言を知り、これを記事として日本に送った。五六年十月十二日付毎日新聞夕刊に「いまは追われる身」「ムッソリーニを殺した“英雄”」「つけねらうネオ・ファシスト」の大きな見出しと共に、ピエトロことモレッティの写真付で次のように掲載されている(原文のまま)。
[ローマ・木村裕主記者発]十一年前、ムッソリーニを殺した一人の男が、いまは“ねらわれる身”となって、イタリアの話題を呼んでいる。
話は最近イタリアの一部ジャーナリズムが「ムッソリーニを殺したのはだれか? 行きすぎではなかったか」と世論を喚起したことに始まる。平和な現在からみればあまりにも過激すぎたというのである。この“声”に押されて、ムッソリーニ処刑に立会った元イタリア・パルチザン兵グリエルモ・カントーニという男が、このほど「真相はこうだ」とある有力誌に当時の実情をぶちまけた。
それによると、ムッソリーニを殺した男はイタリア・パルチザン第五十二部隊の青年将校ミケーレ・モレッティだというのである。カントーニの話は次のようである。
いまから十一年前の四月のこと、イタリア・パルチザン第五十二部隊はある日スイスにほど近いコモ湖畔のドンゴという村でドイツ軍のトラックを捕えた。その中に愛人ペタッチとともにドイツ軍将校の制服に身を包んだムッソリーニを発見した。部隊は直ちに身柄をペタッチとともにドンゴ南方のアッツァーノ村に移し一農家に監禁した。その翌日の午後士官モレッティは二人をジープに乗せ、その農家から三百メートルはなれた別荘ベルモンテのヘイのところまで連行した。
二人は最初眼下に見下すコモ湖をながめていたが、処刑と知って相抱いた。突然ペタッチは「ドゥチェ(ムッソリーニ統帥のこと)だけは殺さないで! わたしを代りに」と絶叫した。その声も終らぬうちにモレッティの自動小銃はゴウ然と火をふいた。二人は折重なって倒れ伏した。
時に四月二十八日午後四時。なぜ殺さねばならなかったか。それにはワケがある。ドンゴ付近にはドイツ軍が残っており、いつ戦闘を展開してドゥチェを奪い取られるかもわからなかった。一方ミラノからコモに進撃して来た連合軍からは知らせを聞いて身柄引渡しの要求があった。まごまごしていればドイツ軍か連合軍に持って行かれる。ファシスト打倒のために血を流したパルチザンとすれば身柄をみすみす外国人の手には渡せなかったのだ。そこで血気にはやったモレッティがほとんど独断的にやってしまったのだ。数分後連合軍のジープが来たが、その時はドゥチェは冷たくなっていた。
この真相が発表されるや、社会の“冷たい目”はモレッティに向けられたが、その時早くも彼はコモ湖畔の自宅から姿を消してしまっていた。しかし収まらないのはネオ・ファシストの連中で、あくまで彼を追及すべきだと目下血まなことなって彼の行方を捜している。
話は最近イタリアの一部ジャーナリズムが「ムッソリーニを殺したのはだれか? 行きすぎではなかったか」と世論を喚起したことに始まる。平和な現在からみればあまりにも過激すぎたというのである。この“声”に押されて、ムッソリーニ処刑に立会った元イタリア・パルチザン兵グリエルモ・カントーニという男が、このほど「真相はこうだ」とある有力誌に当時の実情をぶちまけた。
それによると、ムッソリーニを殺した男はイタリア・パルチザン第五十二部隊の青年将校ミケーレ・モレッティだというのである。カントーニの話は次のようである。
いまから十一年前の四月のこと、イタリア・パルチザン第五十二部隊はある日スイスにほど近いコモ湖畔のドンゴという村でドイツ軍のトラックを捕えた。その中に愛人ペタッチとともにドイツ軍将校の制服に身を包んだムッソリーニを発見した。部隊は直ちに身柄をペタッチとともにドンゴ南方のアッツァーノ村に移し一農家に監禁した。その翌日の午後士官モレッティは二人をジープに乗せ、その農家から三百メートルはなれた別荘ベルモンテのヘイのところまで連行した。
二人は最初眼下に見下すコモ湖をながめていたが、処刑と知って相抱いた。突然ペタッチは「ドゥチェ(ムッソリーニ統帥のこと)だけは殺さないで! わたしを代りに」と絶叫した。その声も終らぬうちにモレッティの自動小銃はゴウ然と火をふいた。二人は折重なって倒れ伏した。
時に四月二十八日午後四時。なぜ殺さねばならなかったか。それにはワケがある。ドンゴ付近にはドイツ軍が残っており、いつ戦闘を展開してドゥチェを奪い取られるかもわからなかった。一方ミラノからコモに進撃して来た連合軍からは知らせを聞いて身柄引渡しの要求があった。まごまごしていればドイツ軍か連合軍に持って行かれる。ファシスト打倒のために血を流したパルチザンとすれば身柄をみすみす外国人の手には渡せなかったのだ。そこで血気にはやったモレッティがほとんど独断的にやってしまったのだ。数分後連合軍のジープが来たが、その時はドゥチェは冷たくなっていた。
この真相が発表されるや、社会の“冷たい目”はモレッティに向けられたが、その時早くも彼はコモ湖畔の自宅から姿を消してしまっていた。しかし収まらないのはネオ・ファシストの連中で、あくまで彼を追及すべきだと目下血まなことなって彼の行方を捜している。
この記事を書いてから三十五年を経た九一年現在、八十三歳の元ピエトロはコモ湖畔チェルノッビォに近いタヴェルノラという村でいまは平和に暮している。ただその間に、複数の研究者がサンドリーニから直接に詳細を聞き糺し、また傍証や新事実などが明らかにされ、この「ピエトロ説」は今日もなお「有力視」されている。以下、いくつかの新事実や調査結果を挙げてみよう(注2)。
一、サンドリーノことグリエルモ・カントーニが目撃した事実は、ミケーレ・モレッティがムッソリーニとクラレッタの二人に上下左右から連射を浴びせて殺害した。この連続掃射によって二人は実質的に死亡した。ヴァレリオはピストルを腰から抜いて二発射った。検屍の結果はこのことが立証された。
一、一九五四年一月十日、ムッソリーニの最期に関するある調査委員会(注・正式名不明)で、レオーネ・ツィンガレス将軍は「処刑は大急ぎで行われた。アウディシオは機銃の安全装置をはずすのを忘れたため、弾丸が出なかった。このためモレッティが二回、左右からまた下から上へと掃射した。アウディシオはピストルで“とどめの一発”を発射したが、これはまったくの形式的であった」と、最終報告を行った。
一、一九五九年十一月、エツィオ・サイニというジャーナリストが調査結果として、「ヴァレリオの告白を詳細に点検すると、モレッティが一緒にいたということを注意深く避けているが、この点は極めておかしい。モレッティはミラノから来たランプレディとヴァレリオらに現地側パルティザンとして終始同行していた」と主張している。
当のモレッティはしかし、七四年四月十日付共産党定期刊行誌「GIORNI-VIE-NUOVE」に次のような手記を発表、処刑者はあくまでもヴァレリオだと明確に主張している。彼の言い分はこうである(注3)。
一、一九五四年一月十日、ムッソリーニの最期に関するある調査委員会(注・正式名不明)で、レオーネ・ツィンガレス将軍は「処刑は大急ぎで行われた。アウディシオは機銃の安全装置をはずすのを忘れたため、弾丸が出なかった。このためモレッティが二回、左右からまた下から上へと掃射した。アウディシオはピストルで“とどめの一発”を発射したが、これはまったくの形式的であった」と、最終報告を行った。
一、一九五九年十一月、エツィオ・サイニというジャーナリストが調査結果として、「ヴァレリオの告白を詳細に点検すると、モレッティが一緒にいたということを注意深く避けているが、この点は極めておかしい。モレッティはミラノから来たランプレディとヴァレリオらに現地側パルティザンとして終始同行していた」と主張している。
当のモレッティはしかし、七四年四月十日付共産党定期刊行誌「GIORNI-VIE-NUOVE」に次のような手記を発表、処刑者はあくまでもヴァレリオだと明確に主張している。彼の言い分はこうである(注3)。
(四月)二十八日午後四時頃、われわれはボンツァニーゴに着き、車から降りた。見知らぬ坂道を歩いて一軒の農家に向った。見張りのリーノ、サンドリーノがいて統帥らを監禁した部屋にわれわれを招き入れた。ムッソリーニが私に「何ごとだ?」と聞いた。私は「すぐ出発です」と答えた。クラレッタはベッドに横になったままだった。
すぐあとからグイドとヴァレリオが入ってきた。ヴァレリオは、すぐここを出るのでついてくるようにと伝えた。クラレッタにもそのように告げたが、彼女はぐずぐずしていた。
私が最初に部屋を出た。続いてグイド、クラレッタ、ムッソリーニ、最後にヴァレリオであった。サンドリーノら見張り二人は、後れて別の道を通って車道にやってきた。
ムッソリーニとクラレッタを車に乗せ、グイドが運転席の横に、ヴァレリオは足かけ台に乗った。私は歩きながら、車の横についていた。ジュリーノ・ディ・メッツェグラのベルモンテ荘の前に着くと、庭に人がいたので向うに行くようにと遠ざけた。
ヴァレリオはムッソリーニ、クラレッタを車からおろし、石塀の前に立たせた。
車はいま来たボンツァニーゴの方のカーブ地点に、私は逆方向のアッツァーノに通ずるカーブに立って、人が近づかないよう見張った。
ムッソリーニとクラレッタは、恐怖心でわなないていた。緊張感があたりを突然、支配した。ヴァレリオが判決文を読み上げた。
「国民の名において……」
機銃を構えて、ムッソリーニに引金を引いた。作動しない。数分前に試射した時には動いたのに……。グイドがそこで、リヴォルバーを差し出した。これまた作動しなかった。
その間、ムッソリーニとクラレッタは、じっと固くなって塀を背に立ちつくしていた。ヴァレリオが私を呼び、私は自分が持っていた武器を手渡した。その時、私に一瞬のためらいが走った。だがもしこの武器がなければ、彼らは生き延びてしまうという恐れも大きかった。
ヴァレリオは私の武器で処刑しようと、ムッソリーニらの方に向き直った。
ムッソリーニの横にいたクラレッタが、ムッソリーニに飛びつくようにしがみついて叫んだ。
「死んではいけないっ!」
ヴァレリオから銃弾がはじけた。
「お前も死にたいのかっ」と、ヴァレリオは次にクラレッタに銃弾をぶち込んだ。
二人は道路にくずれ倒れた。
ヴァレリオは、こんどは私のピストルをとると、ムッソリーニに“とどめの一発”を加えた。
この光景に、われわれは平常心ではいられなかった。しかしイタリアの多くの殉教者のことに想いをいたしていた。いかに多くの仲間が、また女性や子供がファシスト兵やドイツ軍によって虐殺されたことか! と。その指導者がムッソリーニであった。クラレッタはその彼の愛人であり、相談相手でもあった。彼女はパルティザンの女性、母親、それに婚約者などに対して、同じ女性でありながら一片の慈悲をも示したことはなかったではないか!
二人が死んだのは、午後四時過ぎであった。
すぐあとからグイドとヴァレリオが入ってきた。ヴァレリオは、すぐここを出るのでついてくるようにと伝えた。クラレッタにもそのように告げたが、彼女はぐずぐずしていた。
私が最初に部屋を出た。続いてグイド、クラレッタ、ムッソリーニ、最後にヴァレリオであった。サンドリーノら見張り二人は、後れて別の道を通って車道にやってきた。
ムッソリーニとクラレッタを車に乗せ、グイドが運転席の横に、ヴァレリオは足かけ台に乗った。私は歩きながら、車の横についていた。ジュリーノ・ディ・メッツェグラのベルモンテ荘の前に着くと、庭に人がいたので向うに行くようにと遠ざけた。
ヴァレリオはムッソリーニ、クラレッタを車からおろし、石塀の前に立たせた。
車はいま来たボンツァニーゴの方のカーブ地点に、私は逆方向のアッツァーノに通ずるカーブに立って、人が近づかないよう見張った。
ムッソリーニとクラレッタは、恐怖心でわなないていた。緊張感があたりを突然、支配した。ヴァレリオが判決文を読み上げた。
「国民の名において……」
機銃を構えて、ムッソリーニに引金を引いた。作動しない。数分前に試射した時には動いたのに……。グイドがそこで、リヴォルバーを差し出した。これまた作動しなかった。
その間、ムッソリーニとクラレッタは、じっと固くなって塀を背に立ちつくしていた。ヴァレリオが私を呼び、私は自分が持っていた武器を手渡した。その時、私に一瞬のためらいが走った。だがもしこの武器がなければ、彼らは生き延びてしまうという恐れも大きかった。
ヴァレリオは私の武器で処刑しようと、ムッソリーニらの方に向き直った。
ムッソリーニの横にいたクラレッタが、ムッソリーニに飛びつくようにしがみついて叫んだ。
「死んではいけないっ!」
ヴァレリオから銃弾がはじけた。
「お前も死にたいのかっ」と、ヴァレリオは次にクラレッタに銃弾をぶち込んだ。
二人は道路にくずれ倒れた。
ヴァレリオは、こんどは私のピストルをとると、ムッソリーニに“とどめの一発”を加えた。
この光景に、われわれは平常心ではいられなかった。しかしイタリアの多くの殉教者のことに想いをいたしていた。いかに多くの仲間が、また女性や子供がファシスト兵やドイツ軍によって虐殺されたことか! と。その指導者がムッソリーニであった。クラレッタはその彼の愛人であり、相談相手でもあった。彼女はパルティザンの女性、母親、それに婚約者などに対して、同じ女性でありながら一片の慈悲をも示したことはなかったではないか!
二人が死んだのは、午後四時過ぎであった。
ピエトロことモレッティがこれを発表したのは、ヴァレリオが死んでからちょうど半年後のことであった。サンドリーニが「ピエトロ説」を唱えてからざっと三十年も経ていた。
その翌年、彼は学会に招かれ「私はあくまでヴァレリオを手伝った」と強調し、また最近では九一年四月二十五日付ラ・スタンパ紙に「私は武器をヴァレリオに貸しただけ」と繰り返している。
その翌年、彼は学会に招かれ「私はあくまでヴァレリオを手伝った」と強調し、また最近では九一年四月二十五日付ラ・スタンパ紙に「私は武器をヴァレリオに貸しただけ」と繰り返している。