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ムッソリーニの処刑46

时间: 2019-11-21    进入日语论坛
核心提示:またも「殺(や)ったのはロンゴだ!」 一九八〇年にルイジ・ロンゴが他界すると、こんどは遠慮会釈なくロンゴを名指しの「ロン
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 またも「殺(や)ったのはロンゴだ!」
 
 一九八〇年にルイジ・ロンゴが他界すると、こんどは遠慮会釈なくロンゴを名指しの「ロンゴ処刑説」が堂々躍り出たのである。しかもそれを主張したのが、当のドンゴのパルティザン幹部のビルであった。ウルバーノ・ラッザーロが本名で、当時第五十二ガリバルディ旅団の政治副委員長として、隊長ペドロの直属部下であった。ドイツ軍伍長に変装していたムッソリーニを発見した“功績者”である。
このビルがムッソリーニ処刑から何と三十八年も経った八二年三月、有力週刊誌に「ロンゴが実際は殺(や)った」の手記を発表し、さらに八九年秋には自分の日記を資料とした『IL COMPAGNO BILL-DIARIO DELL'UOMO CHE CATTURO MUSSOLINI(ビル同志——ムッソリーニを捕えた男の日記)』のタイトルの本を出版した。処刑に立会ったパルティザンの生き残り証人として、従来の「ヴァレリオ説」「ピエトロ説」をも真向から否定し去るとともに、同じ「ロンゴ説」でもバンディーニのそれに挑戦する大胆不敵というか新奇ともいえる「ロンゴ説」であった。
ビルのこの本の主張のエッセンスは、八二年の所論に次のようにまとめられているのでそれを紹介する(注1)。
「世間ではヴァレリオ大佐という人物がムッソリーニを処刑したことになっているが、ヴァレリオという人物はドンゴに来てもいないし、ましてや処刑もしていない。処刑したのはルイジ・ロンゴその人だったのだ。
彼は二十八日の午後一時頃、ドンゴにやって来た。ネーリ、ピエトロ、ジャンナのパルティザンらとデ・マリアの家に行った。ムッソリーニとクラレッタをミラノに連行すると言っていた。
ところがデ・マリアの家を出て間もなくロンゴがムッソリーニと口論を始め、ロンゴが銃を発射したため、ムッソリーニは重傷を負い、クラレッタは死亡した。傍にいたリッカルドがムッソリーニに止めの一撃を発射して“処刑”は終った。
一時間後、ロンゴはドンゴ役場に現われた。そこで喜劇——ロンゴはドンゴには来てもいないことにする——の準備が行われた。要するにすべてはヴァレリオ大佐という人物がやったことにして、ロンゴの“手の汚れ”をヴァレリオなる男が一手に引き受けるよう仕組んだのだ。こうして今日まで、処刑はヴァレリオが行ったというソラゾラしい伝説が生れたのだ。だが真実はあくまでロンゴが殺(や)ったということなのである」
 ところがこのビルによる“新説”に対して、その日のうちにビルの上官であったペドロが新聞記者のインタビューに答えて、「まったく酔狂なお話だ」と即座に否定して、次のように述べている(注2)。
「あいつの言うことは支離滅裂なんです。酔っぱらいの戯言ですよ。でもヴァレリオがこれまで発表したことが、すべてオリジナルでもない。もしほかになにかあったとしても、共産党から発表されることはないと思う」
この発言の後半の部分は何を意味しているのか。極めて深長である。
ペドロは八四年一月に死去したが、生前ずっと他の第五十二ガリバルディ旅団の仲間と同様、イタリア共産党員であった。そのペドロから“酔狂者”呼ばわりされたビルだけは、とうの昔に共産党を脱退していた。かつてのガリバルディ旅団の同志関係はなくなっていたわけである。しかもビルの方は「全面転向」して、ムッソリーニ未亡人ラケーレに直接、統帥発見を悔い謝っていたほどであった。
ビルはラケーレに「私は本当に悪いことをしてしまった。ドゥチェをドンゴで発見したのは私だった。私が見付けていなかったら運命は変っていたでしょうに。どうか私を許して下さい」と、平身低頭して謝罪したという話が残っている。
このエピソードは八四年秋、アドリア海に臨むラヴェンナのさる松林にかこまれたレストランの主人から私が聞いたものである。かつてこのラヴェンナから、私は六十キロ足らずの内陸にあるムッソリーニの郷里プレダッピオに足を延ばしたことがある。その時のことをこのレストランで話しているうちに、店の主人がこの思いがけぬ後日譚を語ってくれたのだった。それによると——。
「未亡人ラケーレは時折、知人らとこの海岸に面する各地のレストランで食事をすることが多かった。七〇年頃のある日、例によって夫人は友人達とさるレストランで魚料理を楽しんでいた。その近くの男達のテーブルにビルがいた。ボーイから『あれがムッソリーニ夫人だ』と知らされた彼は、にわかに神妙になり、ラケーレの席に近づき、泣きながらひざまずくと、ひたすら謝罪を訴えたという。ビルはこうも言っていたそうだ。
『私はあの当時、何も知らないコミュニストだった。でも今はすべて清算しました。私は間違っていました。どうか許して下さい』
ラケーレは最初はまったく取り合わなかったが、最後にはむせび泣くビルの頭をさすっていた。とても感動的な情景だったという」
 ドンゴ時代のビルはまだ三十歳前であった。統帥発見の功績も所属する共産党からは高く評価されず、ヴァレリオだけがもてはやされてきた。それが不満で、一時ブラジルに渡っていた。自然に共産党を離党したのである。
このレストランでの謝罪の情景を、私が実際に見たわけではない。したがって真偽のほどは分らない。だがもし事実とすれば、ビルが「もうコミュニストを清算した」とラケーレに告白したように、彼は“真実”を洗いざらいぶちまける気持になっていたのではなかろうか。
そうした筋書きを推測してみると、ムッソリーニ処刑に加わっていた当のビルは、長い間、何らかの理由で“真実”を口止めさせられていたと見ることもできる。だからこそいまやそれを振り切って真相を暴露し、ロンゴ説を強く打ち出したということができる。
戦争中の諸事件について、共産党中央が全党員に口止めを命令したことは、イタリアではよく知られたことである。もし戦争中の党に関する事柄について発言の必要が生じた場合は、党中央とか支部などが代弁することになっていると聞いたこともある。さきのペドロ発言で「党は何も言わないだろう」と語ったのは、党に不利なことは黙して語らないということを示しているとみられる。
また、「党から口止めされている」として戦争中の事件につき、黙秘権を行使しているケースは現在も少くない。中部モデナに近いコレッジォの元町長で共産党員のジェルマーノ・ニコリーニ(七十二歳)は、ディアーヴォロの名で知られた元パルティザンであった。激しいパルティザン戦の最中、地区司祭ウンベルト・ペッシーナ神父を殺害した容疑で戦後になって逮捕され、二十二年の懲役刑を言い渡された。すでに十年入獄しているが、彼は一九九〇年夏「党は私に沈黙を強制した」と明言している(注3)。
こうした諸事実から、「ロンゴ説」の支持派は少くない。とりわけ“ネオ・ファシスト”政党イタリア社会運動の党員に多い。
もしこれが事実だとすれば、「ムッソリーニ処刑」の全責任を、ロンゴの代りにヴァレリオが一身に背負い、党首脳の名誉を救った「行賞」としてヴァレリオことヴァルテル・アウディシオが戦後、党から推されて国会議員に選出されたとの大方の推理も成り立つ可能性はある。
ところがそれも、当時の国民解放委員会の行動党代表レオ・ヴァリアーニによって間もなく否定されてしまった(注4)。
ヴァリアーニは「あの四五年四月二十八日から九日にかけて、ロンゴはずっとミラノにいた」と証言したのである。ヴァリアーニはジャーナリスト出身で、解放委員会首脳としてペルティーニと親しく、共産党のロンゴと一線を画していた。第七代大統領となったペルティーニの推挙で上院議員にもなった人物である。それだけにこのヴァリアーニの証言は重いとみなければならない。
こうして前項のバンディーニやビルらの「ロンゴ説」は根底から崩れてしまったのである。
ではいったい、真実は誰なのか? 誰が処刑したのか?
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