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ムッソリーニの処刑50

时间: 2019-11-21    进入日语论坛
核心提示:隠然たる支持者たち ここでムッソリーニという一人の人間について、最近のイタリアがどう評価しているかを述べておく。「ユダヤ
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 隠然たる支持者たち

 ここでムッソリーニという一人の人間について、最近のイタリアがどう評価しているかを述べておく。「ユダヤ人絶滅計画」に示されるように、ヒットラーがその人間性をほぼ全面的に否定されているのに対し、同じ独裁者と言われるムッソリーニは決してヒットラーと同質視されていないことをまず明記したい。それどころかイタリアにはいまなお、ムッソリーニの隠然たる支持者が少くないのである。
いささか旧聞に属するが、休戦と解放の各四十周年にはさまれた八四年九月二十三日号の有力週刊誌「レスプレッソ」は「イタリア人とファシズム」という記事の中で、珍しい調査結果を発表した。ムッソリーニの人気についての一般市民への面接調査の数字である。それによると「ムッソリーニが大好き」が一一パーセント、「好き」二九・一パーセント、「無関心」一九パーセント、「嫌い」五一・二パーセント、「知らない」七パーセントであった(複数回答のため一〇〇パーセントを超えている)。
戦争終結直後は恐らく、「嫌い」が圧倒的で「好き」などという答えはまずなかったであろう。それからすると、この調査結果は歳月の経過とともに、ムッソリーニとその業績に客観的な評価が下されていることを物語ると言えそうである。
実際、イタリアの街々で聞いてみても、言下に「彼はノー」と吐き捨てるように言うものは相変らず多いものの、その一方で「彼はFURBOな男だった」という声をよく耳にしたものである。
このFURBOとは「抜け目ない」「賢い」「利口」などを意味し、悪人視するニュアンスは乏しいのである。ほかにも「人間的な人だった」「取巻きが悪かったのだ」と弁護する返事も多かった。積極的に評価する声もある。それは「彼はイタリア人に国民意識を喚起した偉人だ」との見方である。イタリアが国として統一されたのは十九世紀末で、まだたかだか百三十年前のことに過ぎない。そのうえ、もともと多くの都市国家がこの半島に分立していただけに、国家統一後もローマ人、ミラノ人、ナポリ人、ヴェネツィア人などといった郷土意識が強く、その傾向はいまなおしつこく残っている。
しかしムッソリーニによって「イタリア人」という国民意識に目覚めたことは否定できない事実である。現在のイタリア人が「メイド・イン・イタリー」の製品を世界に誇っているのも、その一つの表われである。
ムッソリーニのかつての部下達は、いまなお統帥と呼び、信仰にも等しい心情を寄せている。ムッソリーニ生誕百年の八三年には、旧部下達が『ムッソリーニはかく語りき』と題する七百ページもの豪華版の本を出版した。その表紙は統帥の肖像を銅板レリーフにするという気の入れようであった。どこで聞いたのか、私がムッソリーニ研究の日本人と知って、旧ファシスト軍の元高官がその本を持って「一冊買って欲しい」と訪ねて来た。かなり高価なこの本はいま私の書棚におさまっているが、この老紳士は別れ際に「統帥は死んでも、こうして私達を養ってくれているんですよ」と言い残した。その口調にムッソリーニへの変らぬ敬愛の念が込められていたのが強く印象に残っている。
この老紳士の話によれば、戦後十年目の五五年、ムッソリーニの「イタリア社会共和国」の将兵らも、イタリア政府から恩給と年金を受けられるようになったという。またラケーレ未亡人も、一九七九年に亡くなるまで元首相未亡人としての年金を受けていたとのことである。反ファシズムの精神は固持しつつも、戦後のイタリアではムッソリーニとその時代への公正な見直しが静かに進んでいることを示している。
そうした具体的な催しが、八四年九月から十一月にかけて二ヵ月間、ローマのコロッセオを舞台に盛大に開かれた。ローマ市主催「大戦間イタリア経済博覧会」がそれである。これは第一次、第二次大戦間にイタリア経済がいかに躍進したかを回顧する展覧会だが、両大戦間といえばムッソリーニ治政下の二十余年間であり、この博覧会はムッソリーニの偉業を称える以外の何ものでもなかった。
私も半日がかりで見て回った。広大なコロッセオにところ狭しと自動車、鉄道、航空機、農業機材、建設機材などが年代順に並べられ、統計図表なども展示されて、さながらこの国の産業発展史を見る思いであった。閉幕後、ローマ市当局が発表したところによると、期間中の参観者は百六十万人に達したという。これら参観者の胸奥には、ムッソリーニ時代のいい面への思いが去来したのではなかろうか。それにも増して興味深いのは、この博覧会を、かつてのパルティザンの闘士ペルティーニ大統領、クラクシ首相(いずれも当時)や共産党のイオッティ下院議長(トリアッティ未亡人)らが参観したことである。このことはあの時代への冷静かつ客観的な見直しが進行していることを、いかんなく物語っているのではなかろうか。
なお、このムッソリーニの流れを汲むネオ・ファシスト政党「イタリア社会運動(MSI)」が四六年、旧ファシスト党員によって創設されている。超国家的社会主義の組合国家を目的とする政党で、王党や極右政党を糾合し、総選挙ではつねに全投票数の六パーセント前後の得票率を確保し、上下両院に議員を送り出している。キリスト教民主党、共産党、社会党に次ぐ第四党の地位を保っているのである。支持層はかつてのファシスト党員だけでなく、青年層にもまたがり、学生の間にも人気がある。地域別に見ると北イタリアよりも南イタリアに支持者が多い。
だからと言って、これをもってファシズム勢力が復活しているなどと言うのは当らない。全体の六パーセントの得票率という数字は、相対的に見れば微々たるものである。むしろこの国に成熟した民主主義国家としての自由な言論が機能していることを示す証拠の一つとして見ることができるというものである。
イタリア外務省のあるローマ市内のフォロ・イタリコ地区の一角に、この地区を建設したムッソリーニの偉業を称えて当時建てられた「DUX MUSSOLINI」と彫られた高さ二十メートルもの純白の大理石オベリスクが立っている。それに隣接して彼の建設したオリンピック競技場もある。
一九六〇年のローマ・オリンピックを前にイタリア議会で、共産党議員から「あのムッソリーニ記念塔はイタリアの恥である。撤去すべきだ」との提案がなされた。その時、アントニオ・セーニ首相(当時)は、「歴史を消すことはできない」と演説し、その提案をしりぞけた。そのオベリスクはいまもなお、屹然として立っている。
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