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ムッソリーニの処刑49

时间: 2019-11-21    进入日语论坛
核心提示:「ムッソリーニ生誕百年祭」 八三年七月二十九日、ムッソリーニの郷里プレダッピオ村で「ムッソリーニ生誕百年祭」が盛大に行わ
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「ムッソリーニ生誕百年祭」
 八三年七月二十九日、ムッソリーニの郷里プレダッピオ村で「ムッソリーニ生誕百年祭」が盛大に行われた。内外から集った人達は二千人とも三千人とも言われた。日本式に言う施主は長男ヴィットリオ、そして長女で元外相チアーノ未亡人のエッダ、三男で音楽家のロマーノら三人を中心に親戚縁者、さらにネオ・ファシスト党=イタリア社会運動書記長ジォルジォ・アルミランテら、外国人は主としてフランス、スペインなどから集った。これらの人達の一部はファシストらしく黒シャツを着込み、サロ共和国の国旗、ムッソリーニの写真を持ち、大きな人垣を作った。
イタリア社会運動スポークスマンは「別に演説会を計画したわけではない。ただ偉大な指導者へ心からの祈りを捧げたいだけである」と述べたが、参会者は思い思いにムッソリーニを称える演説を行った。そのたびに、右手を高く挙げてファシスト式敬礼を繰り返し、「ドゥチェ、ドゥチェ」の声がこだました。党歌の「ジォヴィネッツァ(青春)」を軽快なマーチ調で大合唱し、時にはファシスト賛歌「イル・カント・デッリ・アルディーティ(突撃隊の歌)」などが緑濃い糸杉の林に響き渡り、統帥健在の頃を参会者に想起させた。エッダは「半世紀前の一九三三年、父はローマのトッローニア荘で五十歳の誕生を祝っていた。『あと五十年後には……などと数えない方がいい』と語っていたのを想い出す」と述べた。
プレダッピオ村の村長は共産党員であった。警察はこの集会にイタリア各地からの反ファシストが妨害をしたら——と懸念したが、幸いそうしたことは起らなかった。
しかし翌年四月二十八日、つまりムッソリーニ処刑三十九周年の日、コモ湖畔のあのベルモンテ荘前でファシストと反ファシストによる目に見えぬ確執が起り、イタリアから消えぬ傷の深さをあらためて全国民に思い知らせた。その二十八日、元サロ共和国戦闘団コモ支部長マリオ・ニコリーニ(七十二歳)が中心となり、ベルモンテ荘の石塀にムッソリーニを偲ぶ記念碑除幕式を予定していた。碑は八十センチ平方で重さ約百キロ。ブロンズの十字架とともに「一九四五年四月二十八日、ベニト・ムッソリーニここで倒る」と彫られ、その脇に小さな十字架とともに「C.P.」と刻まれてあった。これはクラレッタ・ペタッチを指す。この式典には約二百人が参加し、盛大に行われるはずであった。記念碑は前夜のうちに石塀に彫り込められていた。
ところが式典の朝、参会者達がベルモンテ荘前の式場を訪れると、記念碑は跡かたもなく消えてなくなっていたのである。つるはしの一撃で、その記念碑は取りはがされ、どこかに持ち去られていた。集った人達は石塀に残された傷跡を眺めて、いつまでも立ち去らなかった。
この事件は、ファシズムについてイタリア人の胸奥でまだ“決着”がついていないことを一人ひとりにあらためて思い知らせた。同時にムッソリーニは歴史のかなたに立ち去ってはおらず、現代のこの瞬間にもまだ「生きている」ことを印象づけたのである。
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