6
寝返りを打った拍子に目がさめた。
「暑いわね、さすがに」
深々と息を吐き出し、手探りで隣の布団に眠っている和人の腕を探そうとした。暑くても、触れていたい。「眠れないのか」とでも言ってもらいたかった。半ば夢うつつの状態で、法子は和人の布団に手を伸ばした。ひんやりとしたシーツの感触が手に触れた。
──和人さん?
闇《やみ》の中で、法子はゆっくりと瞬きをした。彼がいない。気が付かなかったが、手洗いにでも起きたのだろうか。もう一度、大きく深呼吸をして寝返りを打つと、法子は、耳だけで、広い家の様子を探ろうとした。手洗いは階下にも二階にもある。その水の流れる音でも聞こえないだろうかと思った。だが、辺りは静寂に包まれている。再びまどろみ始めながら、法子は手洗いの扉の音、水の流れる音が聞こえるのを待った。
──遅い。
ごく弱いエアコンはきかせているはずだが、東京の夜はやはり暑い。少しうたたねしかかると、法子はまた寝苦しさに寝返りを打った。そして、改めて和人の布団に触れた時、ようやくはっきりと目がさめた。ひんやりとしている。手に触れたシーツには、和人の体温は残っていない。
──トイレじゃないの?
布団が冷えるくらいまで戻ってこないということは、随分時間がかかっているということだ。法子は急に不安になって、枕元《まくらもと》の時計を見た。午前二時を回っている。
法子はそっと起き上がり、さらりとした感触の畳を踏んで部屋を出た。寝室よりも確実に二、三度は気温の高い空気がまとわりついてきた。長い廊下は、突き当たりの小窓から外の明かりが入って、青白く照らし出されて見えた。
──こんな夜中に。
階段に向かって少し進むと、健晴の部屋の前を通る。法子は、無意識のうちに素足をしのばせながら、健晴の部屋から規則正しいいびきが聞こえてくるのを確認した。さらに進むと、その隣には綾乃の部屋がある。法子は、その部屋の前で足をとめた。ドアがわずかに開いたままになっている。
「──綾乃ちゃん?」
法子は囁《ささや》くように声を出した。エアコンを入れているのなら、ドアを開けていては冷気が逃げてしまう。
「──起きてるの?」
返答はない。法子は何気なくドアの隙間《すきま》を広げて、中をのぞいてみた。これまでに、二、三回しかのぞいたことのない部屋は洋室で、雨戸のない部屋は、レースのカーテンを通してやはり青白く見えた。法子はその部屋の奥に配置されているベッドを、少しの間ぼんやりと見つめていた。そこには、法子が顔を覗《のぞ》かせている扉からではなく、一条の光が投げかけられていた。
──いない?
日中と変わらずにベッド・カバーをかけたままのベッドは、横になった気配すらなく、整然としていた。その中央に、黄色い光の筋が走っている。
「────」
法子は、その光を目で追った。光は、ベッドが置かれているのとは反対の壁から洩《も》れている。法子は一度廊下に顔を出し、何の物音も聞こえないことを確認した後、そっと綾乃の部屋に入った。手探りで歩いて行くと、壁だとばかり思っていたところが引き戸になっている。光は、その戸の隙間から洩れているのだ。さらに、隙間からは健晴のいびきがより大きく聞こえてくる。
ごう、ごう、といういびきを聞きながら、そっと隙間に顔を近付ける。耳の奥で鼓動の早まるのが聞こえた。
オレンジ色のベビー・ランプに照らされた、子供部屋と変わらないような玩具《おもちや》の散らばった部屋が見えた。その部屋の中央で、健晴が眠っていた。法子は息をのんで、その姿を見た。彼は二組敷かれている布団にまたがる格好で、全裸で大の字になって眠っていた。
──どうして。
法子の中で、また浴室での声が蘇《よみがえ》った。綾乃の含み笑い。媚《こ》びを含んだ、粘りつくような笑い。普段の綾乃からは、想像もつかない、性的な香りを含んだ声だった。
──どういうことなの。
彼らは眠る時にも一緒なのだろうか。だが、弟を全裸にして眠らせるというのは、不自然過ぎる。また生臭い想像が膨らんで、法子は慌ててかぶりを振った。そんな汚らわしい想像をする自分にさえ嫌気がさす。
今にも背後から肩を掴《つか》まれそうな気がする。見てはならないものを見てしまったと思った。今、綾乃の姿はそこにはない。法子は、慌てて戸の隙間から後ずさると、急いで綾乃の部屋を出た。
二階のどこにも、和人と綾乃の姿はなかった。法子は、手洗いもベランダも客間も、全てを忍び足で歩いて彼らの姿を探した。
──じゃあ、下にいるの? 何をしてるの、こんな時間に。
良からぬ想像が頭の中で膨らみそうになる。法子はそれを振り払うようにしながら、階段を降りた。ただ、寝付かれない兄妹が酒でも酌《く》み交わしているだけかも知れない。だが、階下も闇《やみ》に包まれ、しんと静まり返って、人のいる気配すらなかった。咄嗟《とつさ》に、義母達を起こそうか、和人がいないと声をかけようかと思った。だが、なぜだかそれはためらわれる。頭には、大の字になって眠っていた健晴の姿が焼きついていた。
法子は自分の鼓動の音を聞きながら、恐怖と不安で足が震えるのを感じた。居間の前の廊下はひんやりとして、一ヵ所だけ、足の裏で小さく板目の鳴る場所があった。泥棒であるはずはないのだ。家にはセキュリティー・サービスが入っている。外部からの侵入者がいた場合には、すぐに警報が鳴ることになっている。
──どこにいるの。何をしてるの。
なぜだか大きな声は出せなかった。出してはならないと、法子の中の信号が告げていた。
日中はガラス戸が連なっているから、素通しの状態になっている廊下も、今は雨戸を閉め切って、余計に暗く、長く感じさせる。法子は、公恵達の部屋に行ってみようかと迷いながら、渡り廊下の方を見た。その時、離れの方がぼんやりと明るいのに気がついた。
──大ばばちゃん? こんな時間に、起きているのかしら。
少しの間、闇にひそんであれこれと考えた挙げ句、法子はそっと渡り廊下を歩き始めた。廊下を進むと、明かりはヱイの寝室に続いている、もう一つの部屋の方から洩《も》れているのだということが分かった。
「──っていうことなんでしょう?」
突然、話し声が耳に飛び込んできた。法子は全身をびくりと震わせ、その場に立ち尽くした。
──お義母さん?
「そりゃあ、そうだ。だから、大丈夫だっていってるんだよ」
低く押し殺した声が答えている。法子は、その声の主が武雄であることを即座に聞き取った。
「まさか、爆発するとはねえ」
「警察は、間違いなく、もう手を引いたのね?」
公恵の呟《つぶや》きに続き、今度はふみ江の声だ。「そうよね」と答えているのは綾乃に違いない。小さな声で「ああ」と答えているのは和人だった。その上、「ああ、うう」という声まで聞こえる。松造の声に違いなかった。つまり、健晴と法子を除いた全員が、離れに集まっているということではないか。
眠気はすでに吹き飛んでいた。法子は、それ以上には部屋に近づかないようにして、代わりに、全身の神経を耳に集中させた。頭の中が目まぐるしく動く。
「とにかく、明日で全部が終わるんだから」
「ああ、お父さん、明日の原稿は覚えたの?」
「大丈夫だってば、心配性だな」
「だって、子どもの頃からでしょ? いざとなると、頭の中が真っ白になっちゃうんだから。ほら、小学校の時──」
目眩《めまい》がしそうだった。何の話をしているのか、すべてを聞き取ることは出来ない。ただ、穏やかな抑えた笑い声が聞こえてくるだけだ。「分かったよ、もう」という義父の声は、まるで拗《す》ねている子どものような響きさえ持っていた。どういうことなのか、まるで分からない。
──警察って何なの。明日のことって、氷屋のこと? うちでは、ただお葬式を出してあげるだけじゃないの?
「あの子は──あの子は?」
その時、低い声が聞こえた。その呟《つぶや》くような声は、間違いなくヱイのものだった。部屋を密やかに包んでいた騒《ざわ》めきが消えた。
「知らないね? あの子は知らないね?」
「知らないさ。大丈夫だよ」
宥《なだ》めるように言ったのは和人だ。法子は焦《あせ》り、腹の底から怒りとも恐怖ともつかないものが湧《わ》き起こりそうになるのを抑えるだけで精一杯だった。
──何が大丈夫なの。私は、何を知らされていないの。
「今は? あの子は、どうしてる」
ヱイの声は、心なしか気ぜわしげに聞こえた。いつもゆっくりと、呟くように話すヱイが、こんな夜更《よふ》けに家族を集め、彼らの上に間違いなく君臨していることが法子には改めて恐ろしく、不気味に感じられた。
「よく眠ってるはずだよ」
「あの子は、家の宝だ──あの子を失ってはいけないよ」
じっとしていても汗ばみそうな夜だった。それなのに、法子は背筋がぞくぞくと寒くなるのを感じた。実際、両腕から首筋にかけて、鳥肌がたっている。思い切って、「何の話?」と聞いてみようか。突然、障子を開けたら、彼らはどんな顔をするだろうかと思う。だが、今の法子には、とてもそんな勇気はなかった。
「この家を救うのは、あの子なんだ。あの子は、家の宝だ」
唾《つば》を飲み込む音さえも、耳の中で大きく響く。法子は首筋から冷たい汗が伝うのを拭《ぬぐ》うこともせず、闇の中に佇《たたず》んでいた。身体が奇妙にふわふわしていて、まるで、悪い夢でも見ているような気分になっていく。
「大丈夫だよ。法子は」
「でも、案外鋭いところもありそうよ」
和人の声に続いて聞こえたのは綾乃の声だ。
「明日のことだって、何となく、おかしいと思ってるみたいな感じだったじゃない。まだまだ、安心は出来ないわよ」
「そりゃあ、私達みたいなわけにはいかないでしょう、そう簡単には」
ふみ江が宥めるような口調で呟く。そして、「ねえ、おじいちゃん」と続けると、松造の、ああ、うう、という呻《うめ》きにも似た声がそれに答えた。
「本当の家族になるまでには、時間がかかるわよ」
公恵の声には「ああ、まあな」と武雄が答えている。
「家を──家族を、守るんだよ。あの子は守れる子なんだ。和人、出来るね?」
「大ばばちゃん、心配しないでよ。法子はきっと、立派な家族の一員になるよ」
──何なの、この家は。何なの。
これまでの数ヵ月間の、明るく穏やかな生活が、音を立てて崩れていく気がした。常に上機嫌で仲が良く、誰が聞いても驚く程に法子に対して優しくしてくれる人々。燃え上がるほどの激しさではないにしても、誠実に法子を愛し、共に年齢を重ねようとしてくれている和人。ふみ江の、公恵の笑顔。綾乃の人なつこい可愛らしさ。それらのすべては嘘だったのだろうか。
がくがくと足が震えるのを抑えることも出来ず、法子は息さえ殺して、とにかく物音だけはたてないように、必死で廊下を戻り始めた。念のために、ふみ江の部屋も覗いてみたが、案の定、松造のベッドも空《から》っぽだった。
──何ていう夜なの。どういうことなんだろう。
のろのろと階段を上がると、また健晴のいびきが聞こえてくる。法子は、薄気味の悪さに薄闇の中で顔をしかめながらそのいびきを聞き、やっとの思いで部屋に戻った。微《かす》かに流れているエアコンからの冷気が、法子の冷たい汗を余計に冷やした。頭が混乱している。
──明日。警察。大丈夫。
彼らはそんなことを言い合っていた。
──まさか。
ふいに、とんでもなく恐ろしい想像が頭をもたげてきて、法子は薄い羽毛の肌掛けにしがみついた。寝ぼけているのかも知れない。そうだ、あまりの暑さに、寝ぼけたのだ。
だが、何とか横になって目をつぶっても、さっきの健晴の寝姿が浮かび、ヱイの嗄《しわが》れた声が耳について離れない。法子は、もう一度おずおずと和人の寝床に手を伸ばし、本当に彼がいないことを確かめた。夢ではないと、彼の寝床の冷たさが語っていた。
「暑いわね、さすがに」
深々と息を吐き出し、手探りで隣の布団に眠っている和人の腕を探そうとした。暑くても、触れていたい。「眠れないのか」とでも言ってもらいたかった。半ば夢うつつの状態で、法子は和人の布団に手を伸ばした。ひんやりとしたシーツの感触が手に触れた。
──和人さん?
闇《やみ》の中で、法子はゆっくりと瞬きをした。彼がいない。気が付かなかったが、手洗いにでも起きたのだろうか。もう一度、大きく深呼吸をして寝返りを打つと、法子は、耳だけで、広い家の様子を探ろうとした。手洗いは階下にも二階にもある。その水の流れる音でも聞こえないだろうかと思った。だが、辺りは静寂に包まれている。再びまどろみ始めながら、法子は手洗いの扉の音、水の流れる音が聞こえるのを待った。
──遅い。
ごく弱いエアコンはきかせているはずだが、東京の夜はやはり暑い。少しうたたねしかかると、法子はまた寝苦しさに寝返りを打った。そして、改めて和人の布団に触れた時、ようやくはっきりと目がさめた。ひんやりとしている。手に触れたシーツには、和人の体温は残っていない。
──トイレじゃないの?
布団が冷えるくらいまで戻ってこないということは、随分時間がかかっているということだ。法子は急に不安になって、枕元《まくらもと》の時計を見た。午前二時を回っている。
法子はそっと起き上がり、さらりとした感触の畳を踏んで部屋を出た。寝室よりも確実に二、三度は気温の高い空気がまとわりついてきた。長い廊下は、突き当たりの小窓から外の明かりが入って、青白く照らし出されて見えた。
──こんな夜中に。
階段に向かって少し進むと、健晴の部屋の前を通る。法子は、無意識のうちに素足をしのばせながら、健晴の部屋から規則正しいいびきが聞こえてくるのを確認した。さらに進むと、その隣には綾乃の部屋がある。法子は、その部屋の前で足をとめた。ドアがわずかに開いたままになっている。
「──綾乃ちゃん?」
法子は囁《ささや》くように声を出した。エアコンを入れているのなら、ドアを開けていては冷気が逃げてしまう。
「──起きてるの?」
返答はない。法子は何気なくドアの隙間《すきま》を広げて、中をのぞいてみた。これまでに、二、三回しかのぞいたことのない部屋は洋室で、雨戸のない部屋は、レースのカーテンを通してやはり青白く見えた。法子はその部屋の奥に配置されているベッドを、少しの間ぼんやりと見つめていた。そこには、法子が顔を覗《のぞ》かせている扉からではなく、一条の光が投げかけられていた。
──いない?
日中と変わらずにベッド・カバーをかけたままのベッドは、横になった気配すらなく、整然としていた。その中央に、黄色い光の筋が走っている。
「────」
法子は、その光を目で追った。光は、ベッドが置かれているのとは反対の壁から洩《も》れている。法子は一度廊下に顔を出し、何の物音も聞こえないことを確認した後、そっと綾乃の部屋に入った。手探りで歩いて行くと、壁だとばかり思っていたところが引き戸になっている。光は、その戸の隙間から洩れているのだ。さらに、隙間からは健晴のいびきがより大きく聞こえてくる。
ごう、ごう、といういびきを聞きながら、そっと隙間に顔を近付ける。耳の奥で鼓動の早まるのが聞こえた。
オレンジ色のベビー・ランプに照らされた、子供部屋と変わらないような玩具《おもちや》の散らばった部屋が見えた。その部屋の中央で、健晴が眠っていた。法子は息をのんで、その姿を見た。彼は二組敷かれている布団にまたがる格好で、全裸で大の字になって眠っていた。
──どうして。
法子の中で、また浴室での声が蘇《よみがえ》った。綾乃の含み笑い。媚《こ》びを含んだ、粘りつくような笑い。普段の綾乃からは、想像もつかない、性的な香りを含んだ声だった。
──どういうことなの。
彼らは眠る時にも一緒なのだろうか。だが、弟を全裸にして眠らせるというのは、不自然過ぎる。また生臭い想像が膨らんで、法子は慌ててかぶりを振った。そんな汚らわしい想像をする自分にさえ嫌気がさす。
今にも背後から肩を掴《つか》まれそうな気がする。見てはならないものを見てしまったと思った。今、綾乃の姿はそこにはない。法子は、慌てて戸の隙間から後ずさると、急いで綾乃の部屋を出た。
二階のどこにも、和人と綾乃の姿はなかった。法子は、手洗いもベランダも客間も、全てを忍び足で歩いて彼らの姿を探した。
──じゃあ、下にいるの? 何をしてるの、こんな時間に。
良からぬ想像が頭の中で膨らみそうになる。法子はそれを振り払うようにしながら、階段を降りた。ただ、寝付かれない兄妹が酒でも酌《く》み交わしているだけかも知れない。だが、階下も闇《やみ》に包まれ、しんと静まり返って、人のいる気配すらなかった。咄嗟《とつさ》に、義母達を起こそうか、和人がいないと声をかけようかと思った。だが、なぜだかそれはためらわれる。頭には、大の字になって眠っていた健晴の姿が焼きついていた。
法子は自分の鼓動の音を聞きながら、恐怖と不安で足が震えるのを感じた。居間の前の廊下はひんやりとして、一ヵ所だけ、足の裏で小さく板目の鳴る場所があった。泥棒であるはずはないのだ。家にはセキュリティー・サービスが入っている。外部からの侵入者がいた場合には、すぐに警報が鳴ることになっている。
──どこにいるの。何をしてるの。
なぜだか大きな声は出せなかった。出してはならないと、法子の中の信号が告げていた。
日中はガラス戸が連なっているから、素通しの状態になっている廊下も、今は雨戸を閉め切って、余計に暗く、長く感じさせる。法子は、公恵達の部屋に行ってみようかと迷いながら、渡り廊下の方を見た。その時、離れの方がぼんやりと明るいのに気がついた。
──大ばばちゃん? こんな時間に、起きているのかしら。
少しの間、闇にひそんであれこれと考えた挙げ句、法子はそっと渡り廊下を歩き始めた。廊下を進むと、明かりはヱイの寝室に続いている、もう一つの部屋の方から洩《も》れているのだということが分かった。
「──っていうことなんでしょう?」
突然、話し声が耳に飛び込んできた。法子は全身をびくりと震わせ、その場に立ち尽くした。
──お義母さん?
「そりゃあ、そうだ。だから、大丈夫だっていってるんだよ」
低く押し殺した声が答えている。法子は、その声の主が武雄であることを即座に聞き取った。
「まさか、爆発するとはねえ」
「警察は、間違いなく、もう手を引いたのね?」
公恵の呟《つぶや》きに続き、今度はふみ江の声だ。「そうよね」と答えているのは綾乃に違いない。小さな声で「ああ」と答えているのは和人だった。その上、「ああ、うう」という声まで聞こえる。松造の声に違いなかった。つまり、健晴と法子を除いた全員が、離れに集まっているということではないか。
眠気はすでに吹き飛んでいた。法子は、それ以上には部屋に近づかないようにして、代わりに、全身の神経を耳に集中させた。頭の中が目まぐるしく動く。
「とにかく、明日で全部が終わるんだから」
「ああ、お父さん、明日の原稿は覚えたの?」
「大丈夫だってば、心配性だな」
「だって、子どもの頃からでしょ? いざとなると、頭の中が真っ白になっちゃうんだから。ほら、小学校の時──」
目眩《めまい》がしそうだった。何の話をしているのか、すべてを聞き取ることは出来ない。ただ、穏やかな抑えた笑い声が聞こえてくるだけだ。「分かったよ、もう」という義父の声は、まるで拗《す》ねている子どものような響きさえ持っていた。どういうことなのか、まるで分からない。
──警察って何なの。明日のことって、氷屋のこと? うちでは、ただお葬式を出してあげるだけじゃないの?
「あの子は──あの子は?」
その時、低い声が聞こえた。その呟《つぶや》くような声は、間違いなくヱイのものだった。部屋を密やかに包んでいた騒《ざわ》めきが消えた。
「知らないね? あの子は知らないね?」
「知らないさ。大丈夫だよ」
宥《なだ》めるように言ったのは和人だ。法子は焦《あせ》り、腹の底から怒りとも恐怖ともつかないものが湧《わ》き起こりそうになるのを抑えるだけで精一杯だった。
──何が大丈夫なの。私は、何を知らされていないの。
「今は? あの子は、どうしてる」
ヱイの声は、心なしか気ぜわしげに聞こえた。いつもゆっくりと、呟くように話すヱイが、こんな夜更《よふ》けに家族を集め、彼らの上に間違いなく君臨していることが法子には改めて恐ろしく、不気味に感じられた。
「よく眠ってるはずだよ」
「あの子は、家の宝だ──あの子を失ってはいけないよ」
じっとしていても汗ばみそうな夜だった。それなのに、法子は背筋がぞくぞくと寒くなるのを感じた。実際、両腕から首筋にかけて、鳥肌がたっている。思い切って、「何の話?」と聞いてみようか。突然、障子を開けたら、彼らはどんな顔をするだろうかと思う。だが、今の法子には、とてもそんな勇気はなかった。
「この家を救うのは、あの子なんだ。あの子は、家の宝だ」
唾《つば》を飲み込む音さえも、耳の中で大きく響く。法子は首筋から冷たい汗が伝うのを拭《ぬぐ》うこともせず、闇の中に佇《たたず》んでいた。身体が奇妙にふわふわしていて、まるで、悪い夢でも見ているような気分になっていく。
「大丈夫だよ。法子は」
「でも、案外鋭いところもありそうよ」
和人の声に続いて聞こえたのは綾乃の声だ。
「明日のことだって、何となく、おかしいと思ってるみたいな感じだったじゃない。まだまだ、安心は出来ないわよ」
「そりゃあ、私達みたいなわけにはいかないでしょう、そう簡単には」
ふみ江が宥めるような口調で呟く。そして、「ねえ、おじいちゃん」と続けると、松造の、ああ、うう、という呻《うめ》きにも似た声がそれに答えた。
「本当の家族になるまでには、時間がかかるわよ」
公恵の声には「ああ、まあな」と武雄が答えている。
「家を──家族を、守るんだよ。あの子は守れる子なんだ。和人、出来るね?」
「大ばばちゃん、心配しないでよ。法子はきっと、立派な家族の一員になるよ」
──何なの、この家は。何なの。
これまでの数ヵ月間の、明るく穏やかな生活が、音を立てて崩れていく気がした。常に上機嫌で仲が良く、誰が聞いても驚く程に法子に対して優しくしてくれる人々。燃え上がるほどの激しさではないにしても、誠実に法子を愛し、共に年齢を重ねようとしてくれている和人。ふみ江の、公恵の笑顔。綾乃の人なつこい可愛らしさ。それらのすべては嘘だったのだろうか。
がくがくと足が震えるのを抑えることも出来ず、法子は息さえ殺して、とにかく物音だけはたてないように、必死で廊下を戻り始めた。念のために、ふみ江の部屋も覗いてみたが、案の定、松造のベッドも空《から》っぽだった。
──何ていう夜なの。どういうことなんだろう。
のろのろと階段を上がると、また健晴のいびきが聞こえてくる。法子は、薄気味の悪さに薄闇の中で顔をしかめながらそのいびきを聞き、やっとの思いで部屋に戻った。微《かす》かに流れているエアコンからの冷気が、法子の冷たい汗を余計に冷やした。頭が混乱している。
──明日。警察。大丈夫。
彼らはそんなことを言い合っていた。
──まさか。
ふいに、とんでもなく恐ろしい想像が頭をもたげてきて、法子は薄い羽毛の肌掛けにしがみついた。寝ぼけているのかも知れない。そうだ、あまりの暑さに、寝ぼけたのだ。
だが、何とか横になって目をつぶっても、さっきの健晴の寝姿が浮かび、ヱイの嗄《しわが》れた声が耳について離れない。法子は、もう一度おずおずと和人の寝床に手を伸ばし、本当に彼がいないことを確かめた。夢ではないと、彼の寝床の冷たさが語っていた。