28
言葉は何の意味も持たなかった。疑問を抱くこと、言葉によって追求しようとすることほど、愚かしく醜いことはなかった。それを、法子は知った。言葉を使わず、行為のみによって、頭にではなく全身を構成している細胞の一つ一つに、それを伝えてくれたのは、法子の真の家族だった。法子は満ちたりて陶酔し、全く無防備な状態で安心した。
──血のつながる人達。もっとも強い絆《きずな》によってつながれている人達。
全てが終わったとき、法子はそれを知った。彼らに責め苛《さいな》まれた記憶などは、もう遥《はる》か遠くに霞《かす》んでいた。分かるのは、今こそ本当の家族として受け入れられたということだけだった。
「自分がどういう状況に置かれたか、分かるかい」
潮が退いていく倦怠《けんたい》感を心地良く味わっていると、和人が囁《ささや》きかけてきた。絆を深めるための、美の饗宴《きようえん》は既にだいぶ前に終わり、法子は和人と二人の寝室に戻ってから、もう一度彼と交わった。そして二人は抱き合ったまま、綿のように、泥のように眠りの世界へ引きずり込まれつつあった。
「分かってる──よく分かってるわ」
心地良い気だるさに身を任せ、目を閉じたままで法子はうっとりと呟《つぶや》いた。
「私達は家族。本当の家族になったの。そういうことでしょう?」
ようやく瞼《まぶた》を押し開けると、和人の微笑《ほほえ》んだ顔が隣にあった。法子は一つ深呼吸をして、うっとりと微笑み返した。
「もう、大丈夫よ。何があっても私は揺るがない。だって、私には家族がいる、あなたや、皆がいるんだもの。私は私であって、もう以前の私ではない──そういうことよ」
そして、法子は眠りに落ちた。こんなに心地良い、母親の胎内にいるような温かい眠りは、生まれて初めてのことに違いなかった。
やがて、どれくらい眠ったのか、ふいに柔らかいものが法子の唇を塞《ふさ》いだ。まどろみの中で、法子はそれが誰かの唇であることを知った。
「──朝?」
誰にともなく呟く。「もうすぐね」と答えた声は和人だった。法子は目を閉じたまま、うっすらと微笑み、彼に裸の身体を寄せた。
「気分は、どう」
「──いい気持ち。とても」
法子はうっとりと答えた。夢も見ずに眠っていた気がする。いや、何かの夢を見ていたのかも知れないが、それは全て、この志藤の家の家族のことだったと思う。そんな夢さえも、法子は皆と共有している気がしてならなかった。
「知らなかったの──私、自分がどんなに愚かしい家に育ったのかと思ったわ。これこそが、本当の家族なんだとしたら、私の実家の人達は、なんて不幸なのかと思った」
「だけど、これは選ばれた人間同士でなければ分からないことなんだよ。誰にでも分かる、誰にでも出来ることじゃないんだ」
その難しい壁を自分は突破することが出来た。そう思うと、法子はわずかに浮かんだ両親への思いも消し飛び、再び幸福の甘い蜜《みつ》にとけ込んでいく気がした。
「急に皆に取り囲まれた時には、本当にどうなることかと思ったのに」
「君を本当に目覚めさせる為の、大切な儀式だったんだ──誰も、君を苦しめたいなんて思ってやしないよ。でも、ああしなければ、君はこれまで持ってきた、間違った自己を捨て去ることが出来なかった」
「いいのよ」と囁《ささや》いて、法子は再び微笑んだ。辛《つら》い、苦しい時は、もはや過ぎ去った。そして、その後の偉大で感動的な場面ばかりが法子の中には残っている。
「皆が通過しなければならないことなんだものね」
「ああ。そんな思いをしたのは、君だけじゃない。僕らは、これまでにも同じ方法で家族を増やしてきた」
「お義母《かあ》さんや、おばあちゃんも、私みたいに受け入れられてきたんでしょう?」
法子はうっとりと和人を見上げた。和人は柔らかい眼差《まなざ》しで法子を見つめていたが、やがて「いや」と呟いた。
「母さんも、おばあちゃんも、皆、同じ血の流れを持つ人達だ」
法子は、少しの間、その言葉の意味を理解できずにいた。自分だって、皆と同じ血を分けてもらったはずだ。
「君と同じように、僕らの家族になったのはね、綾乃なんだよ」
「綾乃ちゃん?」
和人の裸の胸が大きく上下に動いた。法子は、もはや何を言われても動じない自信があった。家族のことだ。全ては自分と同じ血を持つ人達のことなのだ。
「綾乃は、僕の妹になる前はね、他の家の娘だった。君が橋本の家に生まれて育ったのと同じようにね」
法子は何も言わずに彼を見続けていた。だとすれば、綾乃にとってこんなに幸せなことはない、ということだ。彼女もまた、選ばれた存在であり、この誇り高い家に望まれたということに違いない。
「僕たちは自分達の血のつながりと、その血の濃さを何よりも尊んでる。けれど、あまりにも血が濃いと、それなりの問題も出てくる。そのために、君と綾乃は是非とも必要だった」
「──私と、綾乃ちゃん?」
「僕には君が、健晴には綾乃が」
それは、そうだろう。家族として繁栄を続ける為には、子孫を生むことが何よりも必要だ。
「おふくろ達はね、中でも選ばれた人達なんだ。親父とおふくろの代までが、もっとも純粋な血を持ってる。だからこそ、君には親父の血が必要だったんだ」
何を言われているのか、寝起きの頭にはよく分からなかった。けれど、法子は無条件に頷《うなず》いていた。そんなことは大したことではない。とにかく、今こうして一つの家族でいられるという事実以上に貴重なことなど、何一つとしてあるはずはなかった。
「その話はね、大ばばちゃんから聞くといいよ。きっと、ちゃんと説明してくれる」
和人は、再び法子の身体をまさぐりながら囁《ささや》いた。法子は身をくねらせながら、素直に頷いていた。ヱイに分からないことは世の中にはない。家族の中でもっとも大切にしなければならない人、今こそ歩き、法子を救ってくれた人の言葉ならば、どんなことでも受け入れられると思った。
「長い歴史の中には色々なことがあるものだよ。人として真実に近付き、選ばれた道を歩める人間は実に少ない」
その日の午後、法子は離れに呼ばれてヱイと向かい合った。法子は、ヱイが一度立ち上がり、自分で仏壇の下の引き出しから何かを出すのを黙って見守っていた。ヱイが歩いたのは、まさしく夢ではなかった。
「お聞き。私には、四人の子どもがいた。長男、長女、次男、次女。順番に生まれた子ども達は、長女と次男が小さな頃に死んだ」
法子は、ヱイを見、それからちらりと仏壇を見て、こっくりと頷いた。元々、何と位牌《いはい》の多い家だろうと思っていた。
「その二人は、生まれつき身体が弱かった。天に召されたのは、それは天の思《おぼ》し召しだからね、私は随分泣いて、そして諦《あきら》めた。近所では、この家は呪《のろ》われているという噂《うわさ》が流れた。だから、次女は行儀見習いに出した」
法子は、そして行儀見習いに出された次女が再びこの家に戻ってくるまでの歴史を聞いた。彼女は幼い頃から外に出されて、そして、長男の許嫁《いいなずけ》としてこの家に戻ってきたという話だった。二人の子どもを失った頃には、ヱイたちは小石川《こいしかわ》に住んでいたのに、それから幾度か転居を繰り返していたということだった。
「じゃあ、おばあちゃんは──」
法子は息を呑んでヱイを見つめた。ヱイは、垂れ下がった瞼《まぶた》の下の目をしょぼしょぼと瞬かせ、ゆっくり頷いた。
「私は、その時に自分の愚かさを知った。呪われているのではない、私達の血を純粋に保つ為の、これはこの選ばれた家の運命なのだということを、その時こそ知ったんだよ。そして、ふみ江を松造の嫁として、再び家に入れたんだ」
──そうだったの。だから、おじいちゃんはあんなに安心して、甘えられるのね。妹なの。
法子は感動しながらその話を聞いた。何と素晴らしい血の守り方、その絆《きずな》の強さなのだろう。互いの血こそが、共に相手を求めて、そしてつながりを求めたのだ。
ヱイは、息子と娘が結ばれたことにより、五人の孫を得た。けれど、一人は生まれる前に亡くなり、二人は脳に障害を負っていて、やはり急逝《きゆうせい》した。ヱイの気持ちは、大きく揺れた。果たして自分達は選ばれた人間なのか、それとも世間で噂するとおりの、呪われた血筋なのかと迷った。
「松造達は、その二人を大切に育てた。いい孫だったねえ。一度も喧嘩《けんか》したこともなく、悪さをしたこともなく、ね。姉はいつでも弟をいたわって、よく世話をした。弟は姉を頼りに思い、その傍《かたわ》らでは男として、姉を守ろうともした」
その姉弟こそが、公恵と武雄ということだった。松造夫婦も、ヱイも、一時は二人がこの家から独立し、各々の家庭を築くことを勧めたという。だが、家族の絆は断ち難く、彼らは、世界中の誰よりも理解しあっている姉弟で、この家を引き継ぐと決心していたということだった。
「──その時から、すばらしい家族だったから。選ばれた人達だったから」
法子がぽつりと呟《つぶや》くと、ヱイはにこりと笑った。一人の人間には、たどっていけば何十、何百人の血が流れ込んでいるか分からない。生きている人間は気付かなくても、汚れもあれば、闇《やみ》もある。互いの血を濃くしていく中で、その汚れを洗い落としていくことこそが大切なのだというヱイの説明は、本当によく理解できた。
「私達の家はね、そうして純血を守り、選ばれた血になってきたんだよ。私と大じいさんがそうだったようにね」
「──そんなに長い歴史があるんですか」
だからこそ、この家族はどこのどんな人々よりも絆を強めてきたのだった。だが、それが子どもに悪い影響を及ぼすことも否めなくなってきた。健晴が生まれた時に、家族は相談をした。純血を守り、この家族の絆を緩めることなく、良いものは受け入れていかなければならないと。
「それで、綾乃ちゃんと私が」
「綾乃はね、あの子は十二歳の時に来たんだ。自分で望んでね、親の反対を押し切って」
法子は、ヱイがわずかに顔を歪《ゆが》めたのを見た。いつも穏やかで、威厳に満ちたヱイの顔が無数の皺《しわ》の中に埋没した。
「馬鹿な親だよ。私達は、私達と同じように血の絆を望む人達には、分けて上げる気持ちを持っているんだ。ああ、私達は何でも分けるよ。望まれるなら、庭の薬草でも、せっかく探してきたキノコでも、何でも分けて上げている」
ヱイの口調は熱をおび、法子はその厳しい口調に姿勢をただして聞き入った。それは、その通りだ。だからこそ、法子達は暇をみつけては花壇や温室の手入れをしている。全ては親切心からに他ならない。これこそが、真実の人間愛に他ならないのだ。
「あの子の親は、ある日、言ってきたよ。『娘を悪魔の手先として引き込んだだけじゃなく、今度は何も知らない娘さんまで、地獄に落とそうというのか』ってね。何も知らないくせに、汚れた、濁った血の人間は、そんなことしか言えないんだ。綾乃があんな親から生まれたのは、まさしく奇跡としか言いようがないね」
法子は幾度も頷《うなず》いた。そして、そんな親から生まれた綾乃を心の底から哀れに思った。まだ、法子の、山梨の両親の方がましかも知れない。もしも、実家の親がそんな侮辱的なことを言い始めたら、法子は全身を盾にして、この家族を守るだろう。彼らを遠ざけ、二度と余計なことを言わないように──。
「あの──何も知らない娘さんって」
ヱイは、膝《ひざ》の上で両手を組んだまま、黙って顎《あご》をしゃくって見せた。
「私、ですか」
「あの男は言ったねえ。真っ青な顔をして、昔とは別人みたいにねえ、見る影もない姿になって、その先に立ったんだ。『綾乃は、知っていて入ったんだから、仕方がない。いつか、年頃《としごろ》になれば気がつくと思っている。だが、こんな家に嫁いできた娘を哀れだとは思わないのか』ってね。本庄屋はね、自分がキノコを欲しくてたまらなくて、いつでも綾乃を使いに寄越してたんだ。あたしたちが作る薬は、溺《おぼ》れる人間には渡せない薬だ。なのに、あの男は薬に負けて、溺れて、そして、仕事も出来なくなった」
法子は、身体が細かく震えるのをどうすることも出来なかった。そういうことだったのか。今こそ、真実を知ったと思った。
「だから──だから、私がいない時に、あんなことを」
ヱイはにっこりと笑い、それからすっと真顔に戻って法子を見つめた。
「おまえが大切だったからねえ」
法子は、思わずヱイの小さな身体にしがみついた。今の法子ならば、間違いなく家族の行動に協力するだろう。それなのに、法子が目覚めていなかったばかりに、真実を知らなかったばかりに、家族にだけ辛《つら》い思いをさせたのだと思うと申し訳なさで胸が張り裂けそうだった。
「ありがとう──ありがとう、大ばばちゃん。私を守ってくれたんですね」
「法子はいい子だからねえ、この家の宝になる子だから」
ヱイは、ゆっくりと法子の髪を撫《な》でてくれた。法子は、昨日とはまた異なる感動で胸が熱くなっていた。
「大丈夫よ、大ばばちゃん。今度は私がいますから。私がきっと、皆を守りますからね」
小さく痩《や》せ枯れたヱイにしがみつきながら、法子は幾度も呟《つぶや》いた。家族こそが全て、この家にさえいれば、法子は全てに対して無防備でいられる。そんな素晴らしい世界を守り抜かなくて、何を守るものがあるというのか。それにしても、綾乃は何と哀れな娘なのだろう。
法子は離れから戻ると、まず綾乃を探した。昼寝する健晴に添い寝していた綾乃は、法子を見ると嬉《うれ》しそうに「お義姉《ねえ》ちゃん」と言った。この前まで「さん」づけだったのが「ちゃん」になったことで、綾乃は精一杯の表現をしているのに違いなかった。
「知らなかったの、ごめんなさいね」
法子は綾乃に寄り添い、綾乃の髪を撫でた。綾乃の瞳がわずかに揺れる。それさえも、ひどくいじらしく見えて、法子は思わず綾乃を抱きしめてしまった。
「辛かったでしょう? 愚かな人達とはいえ、あなたを産んだ人達なんだものね」
「いいの──お義姉ちゃんなら、分かるでしょう? この家の人達こそ、私の本当の家族なんだもの。私、家族を守りたかったの」
綾乃はそっと呟いた。法子はしっかりと頷き、自分だって、もしも綾乃の立場にたてば同じことをしただろうと言った。綾乃は嬉しそうに笑って、法子にしがみついた。
「大好きよ、お義姉ちゃん」
「私もよ、家族だもの」
法子はあきることなく綾乃の長い髪を撫で続け、彼女に代わって健晴を団扇《うちわ》であおいだ。穏やかな、優しい午後だった。
──血のつながる人達。もっとも強い絆《きずな》によってつながれている人達。
全てが終わったとき、法子はそれを知った。彼らに責め苛《さいな》まれた記憶などは、もう遥《はる》か遠くに霞《かす》んでいた。分かるのは、今こそ本当の家族として受け入れられたということだけだった。
「自分がどういう状況に置かれたか、分かるかい」
潮が退いていく倦怠《けんたい》感を心地良く味わっていると、和人が囁《ささや》きかけてきた。絆を深めるための、美の饗宴《きようえん》は既にだいぶ前に終わり、法子は和人と二人の寝室に戻ってから、もう一度彼と交わった。そして二人は抱き合ったまま、綿のように、泥のように眠りの世界へ引きずり込まれつつあった。
「分かってる──よく分かってるわ」
心地良い気だるさに身を任せ、目を閉じたままで法子はうっとりと呟《つぶや》いた。
「私達は家族。本当の家族になったの。そういうことでしょう?」
ようやく瞼《まぶた》を押し開けると、和人の微笑《ほほえ》んだ顔が隣にあった。法子は一つ深呼吸をして、うっとりと微笑み返した。
「もう、大丈夫よ。何があっても私は揺るがない。だって、私には家族がいる、あなたや、皆がいるんだもの。私は私であって、もう以前の私ではない──そういうことよ」
そして、法子は眠りに落ちた。こんなに心地良い、母親の胎内にいるような温かい眠りは、生まれて初めてのことに違いなかった。
やがて、どれくらい眠ったのか、ふいに柔らかいものが法子の唇を塞《ふさ》いだ。まどろみの中で、法子はそれが誰かの唇であることを知った。
「──朝?」
誰にともなく呟く。「もうすぐね」と答えた声は和人だった。法子は目を閉じたまま、うっすらと微笑み、彼に裸の身体を寄せた。
「気分は、どう」
「──いい気持ち。とても」
法子はうっとりと答えた。夢も見ずに眠っていた気がする。いや、何かの夢を見ていたのかも知れないが、それは全て、この志藤の家の家族のことだったと思う。そんな夢さえも、法子は皆と共有している気がしてならなかった。
「知らなかったの──私、自分がどんなに愚かしい家に育ったのかと思ったわ。これこそが、本当の家族なんだとしたら、私の実家の人達は、なんて不幸なのかと思った」
「だけど、これは選ばれた人間同士でなければ分からないことなんだよ。誰にでも分かる、誰にでも出来ることじゃないんだ」
その難しい壁を自分は突破することが出来た。そう思うと、法子はわずかに浮かんだ両親への思いも消し飛び、再び幸福の甘い蜜《みつ》にとけ込んでいく気がした。
「急に皆に取り囲まれた時には、本当にどうなることかと思ったのに」
「君を本当に目覚めさせる為の、大切な儀式だったんだ──誰も、君を苦しめたいなんて思ってやしないよ。でも、ああしなければ、君はこれまで持ってきた、間違った自己を捨て去ることが出来なかった」
「いいのよ」と囁《ささや》いて、法子は再び微笑んだ。辛《つら》い、苦しい時は、もはや過ぎ去った。そして、その後の偉大で感動的な場面ばかりが法子の中には残っている。
「皆が通過しなければならないことなんだものね」
「ああ。そんな思いをしたのは、君だけじゃない。僕らは、これまでにも同じ方法で家族を増やしてきた」
「お義母《かあ》さんや、おばあちゃんも、私みたいに受け入れられてきたんでしょう?」
法子はうっとりと和人を見上げた。和人は柔らかい眼差《まなざ》しで法子を見つめていたが、やがて「いや」と呟いた。
「母さんも、おばあちゃんも、皆、同じ血の流れを持つ人達だ」
法子は、少しの間、その言葉の意味を理解できずにいた。自分だって、皆と同じ血を分けてもらったはずだ。
「君と同じように、僕らの家族になったのはね、綾乃なんだよ」
「綾乃ちゃん?」
和人の裸の胸が大きく上下に動いた。法子は、もはや何を言われても動じない自信があった。家族のことだ。全ては自分と同じ血を持つ人達のことなのだ。
「綾乃は、僕の妹になる前はね、他の家の娘だった。君が橋本の家に生まれて育ったのと同じようにね」
法子は何も言わずに彼を見続けていた。だとすれば、綾乃にとってこんなに幸せなことはない、ということだ。彼女もまた、選ばれた存在であり、この誇り高い家に望まれたということに違いない。
「僕たちは自分達の血のつながりと、その血の濃さを何よりも尊んでる。けれど、あまりにも血が濃いと、それなりの問題も出てくる。そのために、君と綾乃は是非とも必要だった」
「──私と、綾乃ちゃん?」
「僕には君が、健晴には綾乃が」
それは、そうだろう。家族として繁栄を続ける為には、子孫を生むことが何よりも必要だ。
「おふくろ達はね、中でも選ばれた人達なんだ。親父とおふくろの代までが、もっとも純粋な血を持ってる。だからこそ、君には親父の血が必要だったんだ」
何を言われているのか、寝起きの頭にはよく分からなかった。けれど、法子は無条件に頷《うなず》いていた。そんなことは大したことではない。とにかく、今こうして一つの家族でいられるという事実以上に貴重なことなど、何一つとしてあるはずはなかった。
「その話はね、大ばばちゃんから聞くといいよ。きっと、ちゃんと説明してくれる」
和人は、再び法子の身体をまさぐりながら囁《ささや》いた。法子は身をくねらせながら、素直に頷いていた。ヱイに分からないことは世の中にはない。家族の中でもっとも大切にしなければならない人、今こそ歩き、法子を救ってくれた人の言葉ならば、どんなことでも受け入れられると思った。
「長い歴史の中には色々なことがあるものだよ。人として真実に近付き、選ばれた道を歩める人間は実に少ない」
その日の午後、法子は離れに呼ばれてヱイと向かい合った。法子は、ヱイが一度立ち上がり、自分で仏壇の下の引き出しから何かを出すのを黙って見守っていた。ヱイが歩いたのは、まさしく夢ではなかった。
「お聞き。私には、四人の子どもがいた。長男、長女、次男、次女。順番に生まれた子ども達は、長女と次男が小さな頃に死んだ」
法子は、ヱイを見、それからちらりと仏壇を見て、こっくりと頷いた。元々、何と位牌《いはい》の多い家だろうと思っていた。
「その二人は、生まれつき身体が弱かった。天に召されたのは、それは天の思《おぼ》し召しだからね、私は随分泣いて、そして諦《あきら》めた。近所では、この家は呪《のろ》われているという噂《うわさ》が流れた。だから、次女は行儀見習いに出した」
法子は、そして行儀見習いに出された次女が再びこの家に戻ってくるまでの歴史を聞いた。彼女は幼い頃から外に出されて、そして、長男の許嫁《いいなずけ》としてこの家に戻ってきたという話だった。二人の子どもを失った頃には、ヱイたちは小石川《こいしかわ》に住んでいたのに、それから幾度か転居を繰り返していたということだった。
「じゃあ、おばあちゃんは──」
法子は息を呑んでヱイを見つめた。ヱイは、垂れ下がった瞼《まぶた》の下の目をしょぼしょぼと瞬かせ、ゆっくり頷いた。
「私は、その時に自分の愚かさを知った。呪われているのではない、私達の血を純粋に保つ為の、これはこの選ばれた家の運命なのだということを、その時こそ知ったんだよ。そして、ふみ江を松造の嫁として、再び家に入れたんだ」
──そうだったの。だから、おじいちゃんはあんなに安心して、甘えられるのね。妹なの。
法子は感動しながらその話を聞いた。何と素晴らしい血の守り方、その絆《きずな》の強さなのだろう。互いの血こそが、共に相手を求めて、そしてつながりを求めたのだ。
ヱイは、息子と娘が結ばれたことにより、五人の孫を得た。けれど、一人は生まれる前に亡くなり、二人は脳に障害を負っていて、やはり急逝《きゆうせい》した。ヱイの気持ちは、大きく揺れた。果たして自分達は選ばれた人間なのか、それとも世間で噂するとおりの、呪われた血筋なのかと迷った。
「松造達は、その二人を大切に育てた。いい孫だったねえ。一度も喧嘩《けんか》したこともなく、悪さをしたこともなく、ね。姉はいつでも弟をいたわって、よく世話をした。弟は姉を頼りに思い、その傍《かたわ》らでは男として、姉を守ろうともした」
その姉弟こそが、公恵と武雄ということだった。松造夫婦も、ヱイも、一時は二人がこの家から独立し、各々の家庭を築くことを勧めたという。だが、家族の絆は断ち難く、彼らは、世界中の誰よりも理解しあっている姉弟で、この家を引き継ぐと決心していたということだった。
「──その時から、すばらしい家族だったから。選ばれた人達だったから」
法子がぽつりと呟《つぶや》くと、ヱイはにこりと笑った。一人の人間には、たどっていけば何十、何百人の血が流れ込んでいるか分からない。生きている人間は気付かなくても、汚れもあれば、闇《やみ》もある。互いの血を濃くしていく中で、その汚れを洗い落としていくことこそが大切なのだというヱイの説明は、本当によく理解できた。
「私達の家はね、そうして純血を守り、選ばれた血になってきたんだよ。私と大じいさんがそうだったようにね」
「──そんなに長い歴史があるんですか」
だからこそ、この家族はどこのどんな人々よりも絆を強めてきたのだった。だが、それが子どもに悪い影響を及ぼすことも否めなくなってきた。健晴が生まれた時に、家族は相談をした。純血を守り、この家族の絆を緩めることなく、良いものは受け入れていかなければならないと。
「それで、綾乃ちゃんと私が」
「綾乃はね、あの子は十二歳の時に来たんだ。自分で望んでね、親の反対を押し切って」
法子は、ヱイがわずかに顔を歪《ゆが》めたのを見た。いつも穏やかで、威厳に満ちたヱイの顔が無数の皺《しわ》の中に埋没した。
「馬鹿な親だよ。私達は、私達と同じように血の絆を望む人達には、分けて上げる気持ちを持っているんだ。ああ、私達は何でも分けるよ。望まれるなら、庭の薬草でも、せっかく探してきたキノコでも、何でも分けて上げている」
ヱイの口調は熱をおび、法子はその厳しい口調に姿勢をただして聞き入った。それは、その通りだ。だからこそ、法子達は暇をみつけては花壇や温室の手入れをしている。全ては親切心からに他ならない。これこそが、真実の人間愛に他ならないのだ。
「あの子の親は、ある日、言ってきたよ。『娘を悪魔の手先として引き込んだだけじゃなく、今度は何も知らない娘さんまで、地獄に落とそうというのか』ってね。何も知らないくせに、汚れた、濁った血の人間は、そんなことしか言えないんだ。綾乃があんな親から生まれたのは、まさしく奇跡としか言いようがないね」
法子は幾度も頷《うなず》いた。そして、そんな親から生まれた綾乃を心の底から哀れに思った。まだ、法子の、山梨の両親の方がましかも知れない。もしも、実家の親がそんな侮辱的なことを言い始めたら、法子は全身を盾にして、この家族を守るだろう。彼らを遠ざけ、二度と余計なことを言わないように──。
「あの──何も知らない娘さんって」
ヱイは、膝《ひざ》の上で両手を組んだまま、黙って顎《あご》をしゃくって見せた。
「私、ですか」
「あの男は言ったねえ。真っ青な顔をして、昔とは別人みたいにねえ、見る影もない姿になって、その先に立ったんだ。『綾乃は、知っていて入ったんだから、仕方がない。いつか、年頃《としごろ》になれば気がつくと思っている。だが、こんな家に嫁いできた娘を哀れだとは思わないのか』ってね。本庄屋はね、自分がキノコを欲しくてたまらなくて、いつでも綾乃を使いに寄越してたんだ。あたしたちが作る薬は、溺《おぼ》れる人間には渡せない薬だ。なのに、あの男は薬に負けて、溺れて、そして、仕事も出来なくなった」
法子は、身体が細かく震えるのをどうすることも出来なかった。そういうことだったのか。今こそ、真実を知ったと思った。
「だから──だから、私がいない時に、あんなことを」
ヱイはにっこりと笑い、それからすっと真顔に戻って法子を見つめた。
「おまえが大切だったからねえ」
法子は、思わずヱイの小さな身体にしがみついた。今の法子ならば、間違いなく家族の行動に協力するだろう。それなのに、法子が目覚めていなかったばかりに、真実を知らなかったばかりに、家族にだけ辛《つら》い思いをさせたのだと思うと申し訳なさで胸が張り裂けそうだった。
「ありがとう──ありがとう、大ばばちゃん。私を守ってくれたんですね」
「法子はいい子だからねえ、この家の宝になる子だから」
ヱイは、ゆっくりと法子の髪を撫《な》でてくれた。法子は、昨日とはまた異なる感動で胸が熱くなっていた。
「大丈夫よ、大ばばちゃん。今度は私がいますから。私がきっと、皆を守りますからね」
小さく痩《や》せ枯れたヱイにしがみつきながら、法子は幾度も呟《つぶや》いた。家族こそが全て、この家にさえいれば、法子は全てに対して無防備でいられる。そんな素晴らしい世界を守り抜かなくて、何を守るものがあるというのか。それにしても、綾乃は何と哀れな娘なのだろう。
法子は離れから戻ると、まず綾乃を探した。昼寝する健晴に添い寝していた綾乃は、法子を見ると嬉《うれ》しそうに「お義姉《ねえ》ちゃん」と言った。この前まで「さん」づけだったのが「ちゃん」になったことで、綾乃は精一杯の表現をしているのに違いなかった。
「知らなかったの、ごめんなさいね」
法子は綾乃に寄り添い、綾乃の髪を撫でた。綾乃の瞳がわずかに揺れる。それさえも、ひどくいじらしく見えて、法子は思わず綾乃を抱きしめてしまった。
「辛かったでしょう? 愚かな人達とはいえ、あなたを産んだ人達なんだものね」
「いいの──お義姉ちゃんなら、分かるでしょう? この家の人達こそ、私の本当の家族なんだもの。私、家族を守りたかったの」
綾乃はそっと呟いた。法子はしっかりと頷き、自分だって、もしも綾乃の立場にたてば同じことをしただろうと言った。綾乃は嬉しそうに笑って、法子にしがみついた。
「大好きよ、お義姉ちゃん」
「私もよ、家族だもの」
法子はあきることなく綾乃の長い髪を撫で続け、彼女に代わって健晴を団扇《うちわ》であおいだ。穏やかな、優しい午後だった。