コドモはなんで寝たがらないんだろう? 起きているほうがおもしろいから、というのもあろうけど、やっぱり寝るのがコワイからのほうがあたっているような気がする。
寝るのは夜で、夜っていうのは暗いのだ。電気を消してしまうと、暗闇は突然、イロイロわけのわかんないおそろしいモノで充満してしまう。
それだけでなく、目をつむって、自分がいまどうしているのかわからなくなってしまうのだ。だから眠るというのは、死んでしまうのと同しことなのである。毎晩眠って毎朝起きるっていうのに、寝ている間のことは、まるっきりわからないというのがコワイのだった。
そんなワケで、なかなか寝ない子に母親は子守唄を歌ってあげる、唄をきいて安心したスキに眠らしてしまおうというワケだ。それでも起きているコドモは、たいてい目をつむっていない。暗いところでパッチリ目をあいている。目をつむるとコワイことになってしまうと思っているのだ。
ボクの母親のタカコさんは、格別器用なほうじゃなく、唄もおとぎ話もうまくはないんだけど、せがまれればオックウがらずに何度でも同じものをやってくれた。
お話は、だいたいコワイ話ばっかりで、鬼婆が夜中に包丁をといでいたり、便所から逃げ出すがどこまでも追いかけてきたりとか、カチカチ山のタヌキがおばあさんをババ汁にして食べてしまって「流しの下《シツタ》の骨《ホンネ》見ろ!」とかうそぶいたりするっていう、いまなら眉をひそめられそうな、教育上好ましくないような残酷シーンの連続なのだったが、そういう話をこわがってさえぎった記憶はまるでない。
それどころか、いま聞いたそのまんまを、もう一度、リクエストしたりしたものだった。
ヘソ曲がりの鬼に「お前もエラそうにしてるが、まさかタンスには化けられまい」とか、「タンスができてもネズミはムリだろ」とか誘導して、ついに豆粒に変身させたところでモチにくるんで食べてしまう、っていう話が好きだった。なにしろタカコさんの話では、伏線なしにイキナリ唐突にモチが登場するので、コドモは話のいきがかりよりも、そのモチのほうに注意が集中してしまうのだ。
ボクはエンドウ豆の入った三角形の�豆餅�というのが、そのころから大好物なのだった。
いまだったら、いったん豆になった鬼が、おなかの中で、もし�ピサの斜塔�に変身したらいったいどうするつもりか? なんて揚げ足をとるようなことを言うかもしれないが、その時はそんなワケだから、生唾《なまつば》をゴクリとのんでいるというばかりだった。
ボクが必ず口をさえぎって、中断させてしまったのは、子守唄のほうで、この子守唄っていうのは、特段おそろしい歌詞になっていたというのではないのだ。しかし、この子守歌を一小節でも歌うと、ボクはタカコさんの口を押さえて歌わせまいとした。
タカコさんはおもしろがって、スキをねらっちゃあ、この唄を歌ってみせるのだが、どうせ口を押さえこまれるから、その先を歌う気はないのである。
歌うなというのに歌ったといって、口をとがらせているコドモにタカコさんは、
※[#歌記号]……ねろてばよォ、ねろてばねないのかこのガキめィ……
っていう、おそろしくイセイのいい子守唄を歌って、コドモの機嫌を直してやるのだった。実際ボクはこの唄をきくと安心して、すぐに寝てしまったのだった。
さて、では、歌うなッ! と言って両手で母親の口を押さえることまでさせた子守唄はどんなのかというと、歌詞はこんなふうだった。
※[#歌記号]笛や太鼓に誘われて
村の祭りに来はしたが……
で、もうその続きはわからない。が、ボクにはその結果が最初のメロディでわかってしまったのである。
その唄の調べは、あまりにもさびしいのだ。せっかく楽しそうなお祭りのおはやしに誘われて、にぎやかなところに行ってみたが……と、心底さびしいメロディで訴えるもんだから、ボクはもう、それだけでさびしくて、悲しくて、つらくなってしまうのだった。
村祭りの場所に行ってみたが、そんなものはやっていなかったのか、あるいは、そこでにぎやかに盛り上がって、|フィーバー《ヽヽヽヽヽ》してる村民を見ても、自分は少しもうきうきしなかったっていう純文学みたいなのか、そんなことはどちらでも、とにかくそういうシンキクサイのが、いやなのだった。
そんなものを、黙って最後まできいていたら自分がその唄の本人になってしまう! とボクは思ったのである。
唄の本人といえば、ボクはコドモのころに|ボーヤ《ヽヽヽ》と呼ばれていたもんだから、
※[#歌記号]ねんね〜ん ころ〜りィよォ おこォろォりィよォ〜
ボーヤはイイコーだ ねんねーしィなァ〜
っていう、ものすごくポピュラーなこの子守唄を、自分専用の子守唄だとしばらく勘違いをしていたのだった。
ところで、笛や太鼓の子守唄だが、このメロディを、あれだけ口封じをしたというのにものすごく鮮明に覚えている。いまちょっと低く歌ってみてオドロイたのだ、いまでも、この唄をきくととってもサビしくなってしまうのだ。そうして、二度三度と歌う気がしない。
以前に小林亜星さんだったろうか、作曲家のかたが、いまのコドモはCMソングやポップスなんかの明るい長調の唄ばかりをきいているが、これはあまりいいことではないかもしれない、というふうに発言されていて、なんだかとても納得をしたことがあった。
ボクはいまでも、このおそろしくさみしい短調の子守唄を、好きなわけじゃなく、現にいまでも歌い出すなり、そそくさとやめてしまうのだったが、しかし、そんな思い出や、そんな気持のあることは、ありがたいことだと、とてもよかったなァ、と思っているのである。
いまでも、おそらく大多数の家では、夜寝る時には電気を消して寝ると思うけれども、ほんとうに真の闇にしてしまう家は少ないのではないか。夜、便所へ行くのがとてもこわいと思ったり、勇気を奮って、天井ウラの暗闇を体験したり、ボークーゴーに探検に入ったりなんていうことは、やっておいて悪いことじゃない、とボクは思っている。
暗闇がこわくて、夜寝るのが死ぬようでこわくて、そんなふうに不安な時に、子守唄を母親が歌ってくれる。こんなことが、きっとまァ、何かの役に立っているのだと思う。ボクは、「これこれの役に立てるために」といって何かするのにあまり賛成でないけれども、「いずれ何かの役に立つかもしれない」、つまり立たないかもしれないようなこと、というのには、大賛成の者である。